つまみとグラスを用意するように言いつけると、親分は水木を縁側へと誘った。月がよく見える場所だ。日中の暑さがまだ少し残っているが、それでも随分と涼しく感じる。虫の声がかすかに響いて、夜風に吹かれて消えていく。
蚊取り線香に火をつけると、細い煙がたなびいた。
親分は子泣き爺のくれた酒を見て、「あやつ、こんないい酒を隠しておったとは」と感心していた。
「秘蔵の酒だと言ってました」
「これは一般には出回らんものじゃ。料亭や予約した個人に売って終わりの、幻の名酒と呼ばれておる」
へえ、と水木は感心した。
「失礼します」
部屋の外で声がした。ねずみ男がつまみの乗った盆を持って入ってくる。彼の姿を見るのは久しぶりだった。
「久しぶりだな」
「へへ、お噂は聞いてますよ。姉さん、坊ちゃんを体張って助けるたあ、大したもんですねぇ」
ねずみ男は盆を水木に渡しながら、そう言った。
「もうお体の方はよろしいんで?」
「ああ、だいぶ良くなったよ」
「ま、そうでなきゃ酒なんて呑めませんよね」
ねずみ男はこの屋敷に来て唯一の、まともな話し相手だった。それでつい気やすく言葉を交わしてしまう。金にがめついだけかもしれないが、水木は彼のそういう人間らしい率直さが嫌いではない。
縁側にいた男が、痺れを切らしたように声をかけた。
「ねずみの、早う行け。お主には仕事をまかせておるじゃろう」
「ゲゲッ! じ、じゃあごゆっくり!」
彼は慌てて部屋を出て行った。
盆を持って縁側に戻ると、親分はさっそく江戸切子の美しいグラスに、酒を注いでくれた。やや黄みがかった酒は、グラスに注がれたとたんに芳醇な香りを放った。
「お主の快気祝いじゃ、遠慮せず呑んでくれ」
親分はそう言ってグラスを持ち上げた。水木もそれに倣って乾杯する。口に含むと、華やかな香りが鼻に抜けた。酒の甘みが舌を包んだが、後味は水のようにすっきりしている。
「うまい」
ぐっと盃に注がれた分を飲み干してしまうと、親分がまた注いでくれた。
「いい飲みっぷりじゃ。とても20歳の娘とは思えんな。もっと前から飲んでおったじゃろう」
「はは、バレましたか。17、8の頃からおじいさまへの献上品をくすねて……」
高校生になった頃から、時貞は水木のことをどこかじっとりと湿った目で見るようになっていた。それが嫌で、髪を切り、口調も男っぽくして、極力関わらないようにしていたのだ。だが、それでも鬱憤はたまる。欲望のこもった眼差しや寂しさを忘れたくて、こっそりと酒を飲むようになったのだ。
「飲むと、少しだけ嫌なことを忘れられますから」
親分は穏やかな顔でそれを聞いてくれた。水木は黙って、また酒を飲んだ。透き通った冷たい酒が喉を通り過ぎると、胃の底がかあっと熱くなっていく。飲みやすいが、度数は高いらしい。
「……わしは、妻に付き合っておるうちに飲むようになった。妻はたいそうな酒豪でな。自分はざるではなく、枠だと言うておった」
「そりゃすごい」
「一緒に飲んでもいつもわしが潰されてなあ」
たくあんをかじりながら、親分はぽつりぽつりと語った。
「結婚しようと言い出したのは妻からじゃった。わしは入り婿でな。妻は先代の一人娘で、そんなお嬢さんをもらうわけにはいかんと一度は断ったんじゃ。じゃが、妻はしつこかった。それで、『飲み比べで勝ったら結婚してくれ』と言われたんじゃ。まあ、わしも酒には自信があったから頷いたが……妻は顔色一つ変えずにわしを潰しおった。それまでは酒豪だなんて一言も言っておらんかったのに」
昔を懐かしむ親分の顔を見ていると、水木もつい顔をほころばせてしまった。彼は本当に、妻のことを愛していたのだろう。
「すまん。妻の話など、お主の前ですべきではなかったな」
親分は照れくさそうに言った。
「……いいえ。もっと聞きたいです。親分がよかったら、ですけど」
その愛する妻を殺した龍賀の人間に、そんな話はしたくないかもしれない。だが、親分は穏やかな顔をして「かまわんよ」と言ってくれた。
「そのかわり、わしを『親分』と呼ぶのはやめてくれんか。仮にも夫じゃぞ。堅苦しい言葉遣いもいらん」
「えっ」
思わぬ言葉に水木は目を見開いた。確かに、妻である水木が他人行儀に『親分』と呼ぶのもおかしな話である。
「じゃあ、何と呼べばいいですか」
「さあな。妻と一緒に名前もなくしたからのう。お主が適当につけてくれ」
「適当って……」
水木は困り果てた。さすがに『旦那様』なんて呼ぶのは恥ずかしい。だが、名前もつけずに『おい』とか『あんた』と呼ぶわけにもいかない。うんうん唸りながら、悩んでいると、ふとさっきのねずみ男の悲鳴を思い出した。こんな名前をつけたら怒られるかとも考えたが、今の男からは穏やかだ。もしかしたら笑って流してくれるかもしれない。
「じゃあ、『ゲゲ郎』っていうのは……駄目か……?」
男は目を丸くした。そして次の瞬間、おかしそうに吹き出した。
「よいよい。ゲゲ郎、愉快な響きじゃ」
「そ、そうか?」
水木はほっとした。どうやら気に入ってくれたらしい。
月明りがやわらかく、庭木の上に光をそそいでいる。女にしては落ち着いた低い水木の声と、親分改めゲゲ郎の、男にしては少し高い声が、ぽつり、ぽつりと静かに交わされた。
酒瓶が空になるまで、二人は一緒に縁側に座って、言葉を交わし続けた。
それからは、時々二人で酒盛りをするようになった。大抵はゲゲ郎が「いい酒が手に入った」と声をかけて、夜中に水木の部屋を訪れる。ちょっとしたつまみを用意して、ぽつぽつと話をする。
ゲゲ郎は酒が進むと決まって、妻のことを話すのだった。
「奥さん、きれいな人だな」
見せてもらった写真には、ショートカットの快活そうな美女が写っていた。ゲゲ郎は目を細め、写真を愛しそうに撫でた。
「ああ、きれいな女だった。それ以上に、愛にあふれておったよ。世の中に馴染めぬ者に声をかけて、居場所を作ってやっていた。わしが今、生きておるのも妻のおかげじゃ」
ゲゲ郎は懐かしそうに、妻のことを語った。彼女は優しく、美しく、そして芯の強い女性だったそうだ。そのためか、彼女に言い寄る者は少なくなかったという。しかし、彼女はゲゲ郎のことを選んだそうだ。
「わしはなあ……きっと、幻滅されるのが怖かったんじゃ。本当は妻のことを欲しくてしかたがなかったが、つり合いが取れんと諦めたふりをしておった。妻は、それをわかっておったんじゃろうなあ……」
いつの間にか、ゲゲ郎の目からは涙が溢れていた。水木はあっけにとられてそれを見ていた。あの、冷たくて血など通っていないように見えた男が、ぽろぽろと涙をこぼしているのだから。驚いて凝視していると、ゲゲ郎は涙を拭いもせずに項垂れて言った。
「わしは本当は泣き上戸なんじゃ」
「そ、そうなのか」
「妻にも『泣き虫ね』とよく揶揄われたものじゃ」
水木は黙って、膝にかけていたハンカチをゲゲ郎に渡した。彼はそれを受けとると、涙をぬぐって深くため息をついた。
「ありがとう」
「いや……」
水木はなんとなく気まずくて、目をそらした。しばらく沈黙が続き、ゲゲ郎が口を開いた。
「岩子のことを、こうして誰かと話ができる日が来るとは思わんかったよ」
そう言って、ゲゲ郎はまた写真に目を落とした。
「妻が死んで、……寂しくて、恋しくて、なぜわしを残して死んだのかと、臓腑が焼けるように苦しくて」
「……うん」
「じゃが、わしは鬼太郎をはじめとした、ここにおる者たちの『親』じゃ。だから誰にも言えんかった。お主にもつらく当たった。でも、本当は誰かに聞いてほしかったのかもしれんのう」
そう言って、ゲゲ郎は寂しそうに笑った。その笑顔を見て、水木の胸はずきりと痛んだ。彼はきっと、妻を殺されて本当につらい思いをしただろう。それなのに、その気持ちを誰にも打ち明けられずにいたのだ。
「……俺でよければ、いつでも聞くよ」
水木の言葉に、彼は驚いたように目を見開いた。彼はしばらく、じっと水木を見つめていた。それから、「そうか」と静かに目を伏せて微笑んだ。まるで今夜の月のように、静かで穏やかな微笑みだった。
「水木」
「ん?」
「ありがとう」
彼はそう言って、また写真に目を落とした。その横顔があまりにも美しくて、水木はつい見とれてしまった。
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