私の思いなど、彼にとっては迷惑だろうと画面の中でドクターがぽつりと言葉を落とす。これ以上彼の心労になるようなことも煩わしく思うことも必要ないと呟いてウルピアヌスに告げる思いが込められた楽譜は誰に顧みられることなくそのまま丸められてごみ箱へ消えていく。
「必要なことが思い出せたらいいな」
きっとそれがウルピアヌスが一番喜ぶとレポートの執筆に戻る姿を見てあまりにも。拙くも真摯に愛と恋が綴られたそれに思わず手を伸ばして、それを拾い上げることができた時間はとうに失われたのだと知る。―――ああ、なぜ今になってこんなものを見せるのだ。既にいなくなった者に対して愛を自覚したところで今更どうしろというのだろう。
誰かをもうずっとここで待っている。水底で誰に歌うべき歌かも忘れてしまったのにただそれだけを口ずさんで。
ただ愛しいと恋しいの感情のままにつくったという事実だけ覚えていて、けれども肝心の捧げる人の名前も姿もおぼろげだった。不器用だけれど優しい人だったような気がする。海の匂いのする人で歌を歌うのが上手だと聞いていたから、それならばと歌を作ったのだったか。
もしも歌ってもらえたら幸せだろうなと考えて、けれども歌は伝える事もなくごみ箱に捨ててしまったはずだ。きっとこんな拙い歌よりもあのひとには叶えたい願いがあって、それに必要なものをかわりにあげたから。
「うまく使ってくれたかな」
確かに自身にとっては大事なもので、けれどもあの人にとってはどうだったかはわからないから大事にしてくれとは願わなかった。ただ使った先で笑ってくれたらなと。難しい顔をしていることが多かったような気がするから、少しでも荷を下ろして欲しかったのかもしれない。あるいはただ単純に好きな人に笑って欲しかっただけだったのだろうか。
わからないままにもう一度と水底から遠い水面に向けて視線をやった時だった。水底に向かってまっすぐに落ちる何かを見た。冷たく暗い海水を無数の泡を立てて切り裂いていくものに目を瞬かせて、あれはなんだと見つめる。
「錨…?」
人の身長ほどに大きな錨が水底に向かって落ちてくる。よくよく見てみれば錨の先に銀色の尾が引いていて、近づいてくるほどにそれが錨を握る人の長い髪だと気づく。それはまるで空をかける彗星のようで。
「―――きれい」
迷うことなく水底を目指し、鈍い振動とともに錨が海底に突き立てられる。ぶわりと舞った海雪の中から低い声が響く。
「探したぞ、ドクター」
ドクターと呼ばれるのは誰の事だろうと目を瞬かせれば、海雪の向こう側から現れた銀色の髪と赤い目を持った美しい人はたいそう眉間に皺を寄せた。
「自身の名前も思い出せないか。お前が俺に差し出したものを思えば当然か。ならば全てをお前に返そう。―――故に思い出してもらうぞ、ドクター」
手に持った円筒状の入れ物から何かを取り出したかと思うと、その人は瞬く間に距離を詰めて頭にそれを押し付けた。何がと思う間もなく、膨大な情報の奔流が脳裏に瞬いた。ドクター、ロドス、鉱石病、海、エーギル、シーボーン。無数に単語がよぎる度に自我と意識が明瞭になっていく。―――ああ、確かに私はドクターで。ならばそれを持って水底まで追いかけてきた君は。
「―――ウルピアヌス?」
「ようやく思い出したか、ドクター」
赤い目を持った美しい人―――ウルピアヌスは深いため息をついてドクターの前に佇む。どうしてとなぜを聞くよりも手が体を引き寄せる方が早かった。
「俺も言葉が足りないとはいわれるがな、お前ほどではない。確かに差し出されたものはこの上なく有用だった。お前の記憶と知識に救われたのは事実だっただろう」
だがなと赤い瞳から確かに涙が流れて海中に溶けるのをドクターは見る。
「なぜそれを差し出さなかった。いつからお前はここでそれを歌っていた。そうまでするなら捨てるべきではなかったと、お前はわかっていたはずだ」
笑って欲しいどころか、しらしらと痛切に泣かれてしまってドクターは慌ててウルピアヌスの背に手を回した。そろそろと背を撫でれば離さないとでもいうようにかき抱かれるのが、戸惑いつつも確かに嬉しくて。―――この思いは報われるのだろうか。
「私は君に告げてもいいの」
「言え。告げるべき言葉など一つだろう」
見つめた瞳はいつかとは違って穏やかに凪いでいて。ああ、終わったのだとドクターは思った。この人の憂いも悲しみも。それ故にこれ以上の負担はいらないと切り捨てた思いだったけれど、もうそれは必要ないのだと。
「―――ウルピアヌス、君を愛している」
だからずっと傍にいて、と続くはずの言葉はあまやかな口づけにさらわれてしまう。
「後でお前の歌を楽譜に起こす。歌はそれまで待っていろ」
今はお前が傍にいるのを感じさせろと呼吸を食みにかかる人をドクターも抱きしめ返す。きっととても素敵な歌声だろうけれど今はと。―――深く遠い水底でようやく結ばれたのだから。
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