のたり
2025-02-15 14:56:50
1627文字
Public hrsz
 

うそつき

終わっていないけど続くかどうかわからない、桐谷さんが記憶喪失になってる話

家に帰れば、部屋はほどよく暖まっていて、優しくて静かな空気に満ちていた。
「ーーおかえり、雫」
遥ちゃんは静かに微笑む。その笑顔にほっとして私も微笑み返す。
「ただいま、遥ちゃん」
着替えて遥ちゃんが淹れてくれたコーヒーを一緒に飲む。
こんな生活が始まったのは、1ヶ月ほど前のこと。


遥ちゃんと初めて会った時、私はまだデビューしたばかりだった。Cheerful*Daysのセンターとして初めて立つステージを前に、不安でいっぱいだった私に遥ちゃんが声をかけてくれて、不安で泣き出してしまった私を慰めてくれた。
ーー誰よりも努力してるんだなって、すぐにわかったよ。
日野森さんもできるよ。きっと大丈夫だよ。
あの日、遥ちゃんがくれた言葉はいつも私の胸にあった。
遥ちゃんはASRUNとして、私はCheerful*Daysとして、忙しい日々を送っていた。時折共演することがあって挨拶くらいはしたけれど、個人的に話せるような機会はなくて、そんなある日、ソロでの仕事の帰りにテレビ局の廊下で遥ちゃんの姿を見かけた。ひとけもあまりないその場所で、遥ちゃんもひとりみたいだった。
私に気付いたのか、遥ちゃんがこちらを向いた。ぱちっと目が合ったから、思わず遥ちゃんに駆け寄った。
「遥ちゃん……!」
……えっと……
遥ちゃんの表情は取り繕ってはいたけれど、明らかに動揺の色が見えた。まるで、知らない人にいきなり話しかけられたみたいな。
……
ーー忘れてしまったのかしら。そうよね、一度話しただけの相手なんて、遥ちゃんにとってはその他大勢にしか過ぎなくて、すぐ忘れてしまうようなことだったのかも。「遥でいいよ」なんて言われて、親しくなったようなつもりでいて。
胸がツキンと痛む。けれどそれは仕方ないことだし、と思いながら、笑顔を作ってみせる。Cheerful*Daysの日野森雫です、って自己紹介して、覚えていないかもしれないけれどあの時はありがとうございました、って、伝えよう。
……ごめん、あの……
先に口を開いた遥ちゃんの様子にふと違和感を感じた。いつもと違う、なんて言えるほど遥ちゃんのことを知っているわけじゃないけれど。
……あなた、私のこと、知ってるのかな……?」
「え……?」
私のことを忘れているとか、そんな単純なことじゃないのはすぐにわかった。一瞬固まった私に、遥ちゃんは少し慌てたように苦笑いした。
「あ、ごめん、私、変なこと言ってるよね。ハルカ、って、私のことだよね」
「え、ええ……
遥ちゃんは苦笑いの表情のまま、小さくため息をついた。
……ごめん、思い出せないんだ。自分が誰で、ここがどこなのかも」
まさか、とも思ったけれど、遥ちゃんが冗談を言っているようにも見えなかった。
どうすればいいのかしら。遥ちゃんのお家に連絡するにも電話番号も住所も知らない。遥ちゃんのスマホに連絡先が入っているんじゃないかと思ったけれど、今は手ぶらで着の身着のままに見える。もしスマホをポケットに入れているなら遥ちゃん自身がもう試しているだろう。
「あ、事務所に連絡してみたらどうかしら」
……事務所?」
不思議そうに遥ちゃんは考え込む。自分がアイドルだっていうことすらわかっていないみたいだ。
……遥ちゃん、とりあえず私の家にこない?」
……え?」
「もう遅いし、どうするかは明日改めて考えましょう?」
「でも、こんな時間にお邪魔したら迷惑じゃ……
「いいの、気にしないで甘えて。ーーだって、私、遥ちゃんの恋人だもの」
私が咄嗟に付いた嘘に、遥ちゃんは驚いたように目を開いた。
嘘、と言われてしまうかしら、だって嘘だもの。そう思ったけれど、遥ちゃんは少し照れくさそうに「そうなんだ」と微笑んだ。
「じゃあ、甘えさせてもらおうかな。えっと……
「雫、よ」
「ーーうん。ありがとう、雫」
そんな私の嘘を遥ちゃんは今でも信じている。