racmon
2025-02-15 12:37:17
3050文字
Public
 

僕が一番欲しいもの

ささろのちょっとしたバレンタインです

 月水金は我慢の日。俯いて、早足で、唾を飲み込む。甘い香りの誘惑に、僕は今日も打ち勝つ。
 お家の近くの大きなマンションの前に、ときどき軽トラが停まっていた。車体には『焼きたてメロンパン』の文字が書かれている。その移動パン屋の魅力は、いろんな種類があること。いちご味やココア味、紅茶味なんかもあるらしい。僕が観測できたのはそれくらいで、メニューが見える距離に近づいたことは一度もない。みんながメロンパン屋のおじさんに注文するときの声が聞こえてきたのがその三種類だった。
 僕より小さい子も年上の人も、大勢がそこへ集まって、甘くてあたたかくてふわふわのまんまるにかじりつく。でも僕が本当に知っているのは、ただ『まんまる』ということだけで、あれが実際に甘くてあたたかくてふわふわかどうかは分からない。希望的観測というやつだ。
 
 今日ははじめて塾へ行く。入塾体験をしてから、これから通うかどうかを決めるらしい。お休みの日に学校までの道を歩くのはなんだか変な気分だった。でも途中でいつもとは反対の角を曲がらないといけない。ぼんやりしていたら間違えてしまいそうだ。まっすぐ前を見て歩いていると、あのメロンパン屋さんが見えた。学校がある日にしかいないと思っていた。
 ポケットの中には、念の為にと渡された小銭がある。でも僕は今から塾へ行って勉強しないといけないし、なにより買い食いなんて絶対にできなかった。
 下校の時と違って、みんなはお母さんたちと一緒に買いに来ている。僕はお昼ご飯用に持たされたおにぎりが入った袋を抱えて走った。

 しばらく経ってから、入塾の手続きはお母さんと二人で行った。僕の意思とは関係なく、大人たちの間で話が進んでいくのをぼんやり聞いていた。帰り道のお母さんはいつもより少し機嫌が良くて、久しぶりに手を繋いで歩いた。
「ねぇ」
 顔を上げると、にこりと微笑んだお母さんが訊ねた。
「今日はバレンタインね。あそこのプリンがいいかしら?」
 僕のお気に入りの、瓶に入ったプリンのことを言っているのだと思った。特別なご褒美のときに買ってもらえる、とっても貴重なプリンだった。
「メロンパンが、いいです」
 自分でも驚いた。ちょうどメロンパンの車が停まっている横を歩いていたせいだ。おねだりをするなんて、そんなこと聞き入れてくれるわけもないのに。
「あらそう。メロンパンね」
 わかったわ、そう答えた声色に僕の心臓はドキンと跳ねた。本当に分かってくれたと感じたからだ。
 それから夕飯の時間まで、僕は勉強をしながらもずっとメロンパンのことを考えていた。ただメロンパンとしか言わなかったから、お母さんがあの移動車のメロンパンを買ってきているわけがない。けどもしかしたら、そこの側を通ったから、ひょっとして──なんて考えたりしてなんかない!

 夕飯のあとに貰ったのは、どこか知らないお店のチョコチップメロンパンだった。茶色い紙袋に入ってもいないし、あたたかくもない。
 僕はお礼を言って、できる限りの笑顔で喜んで見せた。勉強したいから部屋で食べると言って、受け取った。
 僕は恥ずかしくて悲しくて涙が出た。
 恥ずかしいのは本当は期待してしまっていたから。悲しいのはチョコチップが入っているものを選んだ、お母さんの精一杯の優しさが。
 僕はベッドに入ってからもずっと泣いていた。こんなことなら、プリンと言われた時にただ頷いておけばよかった。そうすればこんな思いをせず、今頃お母さんと一緒にプリンを食べる夢なんかを、見ていたかもしれないのに。

 それからそのパンはどうしたのだったか。翌朝に食べた気もするが、近所の友達にあげた気もする。
「オカンにもろたのに俺食べてええの? ほなせめて半分こな!」
 いや、これはなんか、違うような──。

 枕が濡れた不快感で目が覚めた。頬がびしょ濡れになっているわりには、夢の内容をなにも覚えていなくて、ただなんとも言えない感情だけが残っている。
 寝室の襖を開けると、ちょうど朝食のトーストを食べ終わった簓がいた。
「おはようサン!」
「おはようやあるかい。自分ちみたいな朝飯の食い方しよって」
 ちゃきちゃきと食器を片付けた簓は、次に冷蔵庫を開けた。ロクな物は入っていないのに、まだ漁る気かとため息が出る。
「ハッピーモーニングバレンタイン!」
 テーブルに置かれた柔らかいプリンは、もう何度と擦られたボケだった。これに関しては期待もしていないし、ツッコミ甲斐もない。
「ボクは固いのしか受け取りません」
「エッ! ほな盧笙からのバレンタインってこと?!」
 簓は俺に突き返されたプリンを自分で食べ出した。まったく何がしたいんだか、笑ってしまう。
「あ、呆れ笑いですかぁ? ちゃーんと用意してるに決まってるがなぁ」
 フリやんフリ、と簓はいそいそとリュックを探り出した。
「ほい、これお前が欲しがってたやつ」
 がさりと取り出されたのは茶色い紙袋。いつかの記憶と繋がって、ドキリと心臓が鳴る。何故かははっきりとしないが、取り繕う構えをしてしまう。俺はおそるおそる、その中を覗き込んだ。
「アッ?! お前これどこで見っけてん!」
 自分でもわかるほどに、弾ける笑顔に歓喜の声を上げていた。手の中にはずっと欲しかった、海外の海洋生物ドキュメンタリーDVDBOXがあった。廃盤になっているため明らかに中古だが、今はレンタルさえされていなくてもどかしい思いをしていたのだった。
「めっちゃ嬉しい! ほんまに欲しかったやつ!」
「嘘の欲しいもんなんかある?」
 誇らしげな簓はどこか照れ臭そうに言った。早速デッキに挿入し、リモコンを握った。
「えぇ……
 テレビ画面には『このディスクは再生できません』の文字。肩を落とす俺と、顔面蒼白の簓が暗い液晶に映った。
 よく見るとそれはUK盤で、デッキとリージョンコードが合っていなかった。
「ロケの合間に見かけて慌てて買ったからちゃんと見てへんかった……ごめん、俺が処分──」
「もらえるもんはもろとくわ。ありがとうな」
 俺は簓の気持ちが嬉しかった。俺のことをよく見て、考えて、喜ばせようとしてくれたことがなにより一番だった。さっきまで靄がかかっていた心が、すぅと晴れていく。夢で泣いた理由なんて、もう思い出す必要もなかった。

 そのあと調べてみたところ、ノートパソコンでは再生することができた。観るには観れるが、もちろん日本語字幕などあるわけもなく、かろうじて英字幕だけは表示できたので、わかる単語を拾いながらゆっくり楽しむことにした。穏やかな海の映像を見ながら、しみじみと感じたことを口にする。
「欲しいもんは欲しいて、ちゃんと言うてみるもんやな」
「せやろ? いつか叶うもんや」
「簓にもなんかやらなな。何が欲しいねん、言うてみ?」
「盧笙からキスして欲しい!」
 自分から言い出した手前、無下にするわけにもいかず、額にちょんと触れさせた。
「オイッ! 俺ンこと赤ん坊かなんかやおもてる節あるやろ!」
「お前、自分で言うてて恥ずかしないんか……
 バブゥと鼻息荒い簓に、もう一度訊ねる。
「欲しいもんはちゃんと言うんやろ?」
 簓に教えて貰ったことを、今度は俺が簓に返す。甘い卵の風味がした。
 期待するのもされるのも、簓となら。この安心感は、俺を甘くてあたたかくてふわふわとした心地にさせた。