溶けかけ。
2025-02-14 22:28:51
1925文字
Public ほぼ日刊
 

いつかのきみへ

「フォカロルスのために」とバレンタイン。


「うぅ……また上手く出来なかった……
 艶々にグラサージュされた「フォカロルスのために」を一欠片口に運んだフリーナは1本だけ伸びた髪をへにょんとさせて落ち込んだ。そのまま髪と同じように本人も机に突っ伏した。
「おかしいなぁ……レシピ通りに作っているはずなんだけど……
 もう一度、欠片を口に入れる。滑らかなクリームの層の中に混ざるボソボソとした舌触り。
「クレームオブール……バターの温度が低すぎた……もう少し常温に出す時間を長くしよう……
 手元のノートに日付とともに書き付ける。ノートは水やチョコレート、卵やバターなどで既にへろへろになっていた。
……もう、諦めようかな…………
 カレンダーを見つめながらフリーナが呟く。今月の十四日には赤いペンでハートマークが描かれていた。そして、黒い文字でヌヴィレット、とも。
「〜〜こんなもの、僕は認めないからな!」
 ケーキを平らげ、自らの頬を叩いて気合を入れる。いざとなったら、というときの逃げ道は既に作られていた。

「はい、僕からのプレゼント」
 フリーナは何食わぬ顔でヌヴィレットにマグカップを差し出して隣に座る。結局、「フォカロルスのために」を習得するには時間が足りず、余ったショコアトゥルを消費するために頻繁にお世話になっていたショコアトゥル水に落ち着いたのだった。
「ああ、すまない」
 ヌヴィレットはマグカップを両手で受け取ると口をつけた。
「ど、どう……?」
 真剣な表情でフリーナがヌヴィレットに問いかける。彼はこくりと頷くと「美味だ」と口の端を緩めた。
「良かったぁ……。人に振る舞うのは初めてだから心配していたんだ」
 フリーナは安堵の息を吐き出すとヌヴィレットと同じようにマグカップに口をつける。うん、今日も美味しい。
 機嫌が良さそうなフリーナの隣でヌヴィレットは顎に手を当てて考え込むように俯いた。
「フリーナ殿。少し聞きたいことがあるのだが……
「うん? なんだい?」
 茶色い髭をつけたフリーナがヌヴィレットの方を向いた。
 浮かれている様子の彼女に水を差して良いものかと迷いながらも口を開く。
「君は……その……
 ヌヴィレットは眩しい笑顔から目を逸らす。
 せっかく良くなった機嫌をまた損ねてしまうのではないかと考えると後ろめたい気持ちになってしまう。
「『フォカロルスのために』を作っていたのではないかね?」
 ヌヴィレットの言葉にフリーナは僅かに停止する。
 彼女が動きを止める刹那、ピシッという空間に罅が入る音を聞いた気がした。
「フリーナ殿……?」
 ヌヴィレットの指がフリーナに触れるか触れないか、というところで彼女の方が一足早く動きだす。
「〜〜〜〜っ!」
 声にならない悲鳴を上げたフリーナは後ろへ大きく飛び上がるとソファの肘掛けの後ろに隠れた。その顔は物陰からでもはっきりと分かるほど真っ赤に染まっている。
「な、なな、なななな」
「何故、か?」
 フリーナが取れそうなほど勢い良く首を上下させる。ヌヴィレットは彼女の頚椎を本気で心配した。それほどまでに勢いがあったのだ。
「すまない。君を困らせるつもりはなかったのだ」
 ヌヴィレットとしては、本当に偶然だったのだ。一口飲んだとき、ショコアトゥル水の向こう側にレシピ本を広げ、慣れない調理器具と格闘するフリーナの姿を見てしまったのは。

「落ち着いたか?」
「う、うん……。その……僕が誘ったにも拘わらず、取り乱してしまってすまなかった」
 同じソファで向かい合うようにして膝を折って座るフリーナはしんなりと項垂れるとヌヴィレットに頭を下げた。
「いや、私も君のプライベートなことに言及したのだ。浅慮だった。すまない」
 耳が痛くなるほどの沈黙が部屋の中に満ちる。遠くから子どもたちが笑いあう賑やかな声が聞こえてくるほどだ。
「ちょっと待っててくれ」
 フリーナは口を真一文字に結び立ち上がるとキッチンの方へと消えていく。暫くして、部屋の中にコーヒーの香りが立ち込めた。
「おまたせ」
 フリーナがヌヴィレットの前にコーヒーと最後に見た映像と同じ、少し傾いて不格好な「フォカロルスのために」が置かれる。
「これは……
「これが僕に出来る精一杯! ……貰ってくれる?」
 胸を張り、すぐにしぼんだフリーナはおずおずとヌヴィレットに尋ねた。自信がないのがありありと分かる程度に彼は知らずに頬を緩める。
「あぁ、美味だ」
 フリーナの顔が瞬く間に喜色を帯びた。










 見えているだろうか? フォカロルス。
  
 彼女は君の理想通り、人として今日も生きている。