ゆい
2025-02-14 20:38:17
3685文字
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【宗みか】月も食わない

鳴動ストを読んで書きました。
月とアイラブーの話です。


 春と言っても深夜になれば空気はひんやりと冷えていた。のっぺらぼうな灰色の壁と大小様々なゴミ袋の間を抜けて大通りを探すおれ達にも、夜は等しく降り注ぐ。鳥目にも星が美しく見える代わりに月明かりまで凛と澄み、息を大きく吸い込む度に肺まで青白く凍えるような夜だった。上着も厚着も忘れて衝動的に飛び出してきたせいで、晒したおでこや鼻先が今更になって痛い。地べたに膝を抱えた名残をまだお尻や足首に感じながら、指だけ差し出して少し前を行く広い背中についていく。立ち上がるように促され、冷えた身体でまごついている内に溜め息と共に利き手を引かれて、それからずっとお師さんはおれを連れて無言で進む。てっきり手くらい繋いでくれると思ったのにわざわざ指ばかり選ばれた理由を、おれも何となく聞きそびれていた。長袖のおれでも情けなく震えているのだから、季節を先取って半袖のお師さんはきっともっと寒いだろう。親指以外を花束みたいにまとめて掴んでくれた手を温めたくてバレない程度に指先へ力を込めながら、余計なお世話を心の内だけで思う。「君は自分のことだけ心配していたまえ」と数分前に怒られたばかりだから、今は頑張って口を噤んでいるけれど。母数の多い期待や日々積み重なる不甲斐無さに潰されて袋小路へ逃げ込んだおれは、今夜も懲りずに汗だくのお師さんから見つけてもらった。楽曲作成の追い込みがあるのだから身体を冷やして風邪を引いたり、長距離移動の疲れが明日に響かなければ良いのだけれど。貸す布も熱も無いのに、結局おれは夜風を切って進む肩や足音に合わせて見え隠れする旋毛の心配ばかりしている。
 あんまり杞憂ばかり続けても身が保たないから勝手に進む脚に任せて、無責任に夜空でも仰いでみる。少し歪に欠けた月が煌々と誰も居ない空にぽっかりと浮かぶ。辺りの星々の輝きを暴力的な美しさで塗り潰し、真っ黒な舞台に冴えた光は一つだけ。それは、誰も追い付けない頂に気高く君臨する夜の王様。重い帳が降ろして独り佇む姿を見上げる度に、おれはおれが選んだたったひとりの神様を思う。どれだけ汚され貶められても、傷や涙を背中に隠しながら完全無欠と笑うひと。そのぼろぼろの背中をたとえ運命じゃなくてもこんなおれに託してくれたから、おれはおれのまま貴方の夜にも星にもなれる。お師さんが輝くための一夜のステージにも、明滅を餞に消える引き立て役にだって喜んで徹してみせるのに。当のお師さんはそんなおれは好きじゃなくて、共に高みへ行こうと言う。そうなれたら良いなって、おれも勿論強く思っている。人間として生き直したおれにはもう人並みに欲も感情もあるから、夢や希望だって腐るくらいに持っているけれど。いつかのおれが喉から手が出る程に欲しかった永遠だって、たまにはこっそり取り出して綺麗だったねと懐かしがりたいのだ。
 お互い疲れた足音がとっくに人気の絶えた路地裏を不揃いに跳ね、どこにも響かず闇に溶ける。自分事だけど、鳥目のくせによくこんなどん詰まりまで逃げてきたなと口には出さずに感心する。それをしっかり探し出してくれたお師さんは多分もっと凄い。当たり前だけど何千回でも新鮮に惚れ直せば、ふといつか読んだ教科書の見出しを思い出す。

月が綺麗ですね、って、わかる?」
「有名な逸話だね。有名過ぎて会話の掴みには退屈だけど」

 間髪入れずに返された答えがあまりにお師さんらしくて笑ってしまう。不躾に呼吸を乱すおれにもお師さんは何も言わないし一瞥だって与えてくれない。その代わり、結ぶでも繋ぐでも無いままおれを引き摺る手に一度ぎゅっと力が篭もる。

「おれなぁ、はじめてこの話聞いた時、どこが良いんか全然分からんかったんよ。いまお月さんの話なんてしとらんかったやん、って」
「まぁ、今も昔も君は色々なものが欠けているからね」
「たとえば?」
「情緒とか」

 逡巡も遠慮も無くあっけらかんと返された言葉に今度はおれが膨れる番だった。昔のお人形ぶっていたおれなら兎も角、今の人間らしくなったおれにだったら情緒くらいたっぷりあるし。むしろ、せっかくのふたりぼっちなのに攫うばかりで指さえ絡めないお師さんの方が情緒に無頓着じゃないの。
 勢いに任せて浮かべた文句を全てぶちまけてやろうと意気込んだ瞬間、前を行く足音がいきなり消える。いきなり過ぎて車よろしく急には止まれないおれはあえなく眼前の背中に鼻先をぶつけて、吐く筈だった難癖が言葉未満の音に化ける。こんな時でも指は固く捕まったままだから、仕切り直そうにも体幹が微妙に狂って上手く距離を保てない。道でも間違えたのかとまだ気色ばんだ痕の残る唇を開きかけるけれど、それより先に目線の高さにある肩が小さく震えていることに気付く。やっぱり寒かったのだと一瞬で全身の血の気が足元まで引く。でも、堪え切れず漏れる吐息や息継ぎを噛み殺したような気配にも同時に気付いて、不規則なその揺れの意味に何とかよろけずに済んだ。段々と鮮明となる、あからさまな笑い声が靴音も消えた夜の底にくつくつと満ちていく。そこまで気安く笑われると振り上げた拳の下ろしどころが分からない。結局、継ぐべき二の句を手放した唇ははくはくと夜を食むばかりで、吹き出す度に深く握り込まれる指が少しだけ痛い。散々考え倦ねた挙句、さっきは鼻先で訪れた背中に今度はおでこで触れてみる。尚も続く笑い声に合わせて、いい加減慣れたお師さんの匂いと体温が伏せた睫毛を掠めていく。

自分で言って自分でツボっとるやん」
「失礼‥、君に情緒があった時を思い出そうとしたけれど、結局失敗してしまった」
「失礼に無礼重ねてくるの何!?」

 やっと少し笑いを飲み込んだ上での傍若無人ぶりに、こちらの語尾も派手に上擦ってしまう。随分と単刀直入な本音の連続で盲目なおれの堪忍袋の緒もそろそろ切れそうだ。負け犬の遠吠えめいた反響が鎮まるより早く、息継ぎみたいにおでこを離し右手も素早く引き抜いてぐるりとお師さんの正面に回る。おれだって赤点ギリギリでも人間だし、ここで恐らく企みで満ちている顔を思い切り睨み付けるくらいは許される筈だ。そうと決めれば眉間に特大の皺を寄せてやろうと意気込むけれど、その前にうっかりお師さんの顔を真正面から見てしまう。意地悪く勝ち誇っているとばかり思った頬はうっすら笑みを残すばかりで、穏やかに白々と輝いている。月より気高くこちらを見下ろす眼差しにあらゆる選択肢が消えて、おれは為す術も無く射抜かれた。一見優しさを煮詰めたような紫の瞳はよく見るといくつもの情動が横切って、熾火に似た光が奥の方で蟠っている。その目と出会うのはいつも夜だ。湿ったシーツの上だったり、はだけたシャツの裏だったり、場所と距離はまちまちだけど決まってふたりきりの時。太陽の下では決して見せない色彩のお師さんに出会う度、おれは容易く息を呑む。それは今回だって同様で、その笑みの意味と使われ方を嫌というまで身体が知っているから、死ぬまでときめきっぱなしのおれに翻すべき反旗なんて無いのだ。
 怒り以外の意味に頬を染めて咄嗟に下唇を噛むおれへお師さんは一層笑みを深めて、拳になり損ねた指をまた拾う。反射的に揺れた肩は怯えか期待か自分でも判断はつかない。今度は迷わず五本の指を繋いでくれた手は仄かに温かく、見た目に反して細かい傷や分厚いタコが沢山隠されている。互いの指紋がふやける程しつこく触れ合うようになって初めて知った努力や情熱がおれは好きだ。――嘘。お師さんだったら、きっとなんでも。

「好きだよ、影片。あの月が満ちても欠けても、いつまでも変わらず愛している」
お師さんにしてはやけに直球やね」
「いくら華美で婉曲な言葉を並べても伝わらなければ意味が無いだろう」
「それくらいの情緒はあるんやけど」

 惚れた弱みを握られてもやっぱりむくれたおれにお師さんが祝福のように笑う。好きだと言われてむざむざ浮かた目蓋や耳先や首裏が火傷したみたいに熱い。
きっと一気に汗ばんだ掌を見抜いて綺麗な三日月になった瞳を見て、夜に星になりたいと血迷ったおれが未練がましく背筋の辺りで顔を覗かせる。その願いは間違ってないし、決して叶わないことをおれは死ぬまで惜しむだろう。だけど、あんな寂しい舞台に本当はもう二度と貴方を一人で立たせたくない。夜空の一番高い場所で燃える背中合わせのちぐはくな光を、いつか地上の全ての者が一つの命だと見間違えるまで、おれはお師さんとあらゆる夜を統べてみせる。
 臍を曲げ続けるのにもそろそろ疲れて、やっと繋がった指達をおれも等しく握り返す。そのままよろめくふりをしながら真横に移動しても、お師さんは咎めも驚きもせずにもう真っ直ぐに前だけ見ている。遠い憧れを一心不乱に追い掛けた過去の全てを追い風にして、今のおれは誰にも譲れない人の隣に立つ。示し合わせることも無く、ワルツの一歩目みたいに二人踏み出した影をひとりぼっちの月だけが見ていた。