千代里
2025-02-14 12:57:45
9553文字
Public リーブラ短編
 

リーブラメンバーでヴァレンティオンの話


 ヴァレンティオン。その祭りの名前は、イシュガルドのとある女性伯爵に由来する。
 純愛を貫いた彼女の人生はイシュガルドに留まらず、各地で語り継がれるようになり、やがてエオルゼアでは広く知られる祭りの名前へと昇華した。
 祭りの時期になると、古の女性伯爵が手にしていたハート形の盾を模した飾りが吊るされ、愛を伝え合う祝祭として、星芒祭に負けず劣らず華やかな催しが行われている。
 その賑やかさは、イシュガルドの隣国でもあるグリダニアでも変わらない。
 のびのびと伸びた木々の翠が美しいこの街は、普段は静謐な空気の漂う穏やかな顔を見せているが、この時期だけでは鮮やかなベリーの如き赤いハートが翻っている。
 何気なく路地を歩いていても、あちらこちらで贈り物を渡し合う微笑ましい姿が目に入るのは、森に囲まれた都市であろうと変わりない。
 そして今日も、また。
「あっ」
 思わず、といった調子で声を漏らしたハーフエレゼンの少女――オデットの視線の先には、一組のエレゼン族の男女が佇んでいた。
 正確には、男性の方が真っ赤な薔薇の花束を抱え、膝を折って女性へと恭しく差し出している。まるで恋愛歌劇のドラマチックな一幕のようだ。
「あんな風に花束を貰えたら、どんなに素敵でしょうね」
 思わず、といった様子でオデットは感嘆の声を漏らす。
 すると、傍らにいた面々も彼女が目にしたものに気がつき、思い思いの反応を見せた。
「今年は、随分と赤い薔薇を見かけますね。ヤルマルさんの話では、ヴァレンティオンの贈り物は調理師ギルドが売り出しているチョコレートが主流のはずではありませんでしたか」
「なんでも、今年は園芸師ギルドが大々的に真っ赤な薔薇の花束を売り出しているらしいよ。物珍しさが、チョコレートを上回ったんじゃないかな」
 オデットの傍にいたノエの質問に答えたのは、同じく買い出しのついでに偶然出会ったヤルマルだった。
「皆さんが気にいるのも分かるように思います。だって、真っ赤な薔薇は、とても華やかで素敵ですもの」
 オデットがほう、と吐息を漏らす。彼女の言うように、普段は自然に馴染む色合いの品々が多いグリダニアにおいて、目の覚めるような赤の薔薇は大層華やかに映る。
 ノエも追従して頷こうとした、その時。
「おいノエ、出番だぞ」
 ぐいぐいと、ノエの脇を肘でつつくものがいた。
 ヤルマルと同じく、たまたま商店街で出会した知り合いことルーシャンだ。彼の傍には、今日も従者のサルヒが影のように控えている。
「出番?」
「せっかくだから、若人からオデットに花束の一つや二つ送ったらどうなんだってことだよ」
 にやにや笑いを浮かべているルーシャンに、ようやくノエは自分が揶揄われているのだと自覚した。
 話題の人物のオデットについ視線を送ると、たまたまノエを見上げていた少女とぱちりと合う。彼女の紫紺の瞳に微かな期待が混じっているのを察して、
「オデットがしてほしいというなら……その、喜んで、やりますが」
 言いながらも、ノエの反応にはわずかな照れが見えた。ちょうど歌劇の一幕のような仰々しい渡し方をしている二人組を目にして、自分が彼のように渡す姿を想像してしまったからだ。
「なんだぁ、花束渡すくらいで照れてるのか? 若いねえ」
 一方、多少芝居がかった振る舞いくらいでは動じない男ことルーシャンは、勢いよくノエの背中を叩く。
「そうは言いますが……そもそも、そこに若さは関係あるんですか?」
「多少は関係あるだろ。何事も人生経験ってやつだ。なあ、ヤルマル?」
「そうだね。綺麗なレディに花束を渡してながら、美しい言葉を贈る。何も照れるところなんてないじゃないか」
 話を向けられたヤルマルは、これまたもっともらしい顔つきで何度も頷いてみせる。
 彼女もルーシャンと同じく、普段から芝居がかった話し方をすることもある人物だ。
 その振る舞いと性別を問わない対応を目にして、出会ってからしばらくの間、ヤルマルの性別を取り間違えていたことは、ノエの苦い思い出の一つになっている。
「ヤルマルさんは、誰かに花束を渡したことがあるんですか?」
「もちろん、あるとも。貰ったことも渡したこともあるよ」
「それなら、オランローから貰ってきたら?」
 すっとよく切れるナイフのように切り込んできたのは、今まで沈黙に徹していたサルヒだ。言葉数こそ多くないものの、彼女の澄んだ声は、賑々しいお喋りの中でもよく響く。
 さらりと出された『彼』の名前は、ヤルマルにとっては、依然として慣れない、言い難い面映さを感じさせるものだった。
「え、と……いや……ごめん、それはちょっと準備が必要、かな……
「まだ慣れてないの? 百戦錬磨のヤルマルなのに。これまで何年も二人きりで暮らしてるのに」
「百戦錬磨とまでは言ってないけど?! というかその言い方、なんだか物凄く誤解を招きそうな言い方じゃないかな!?」
 実際のところ、ヤルマルはここにはいないアウラ族の青年ことオランローと、共に五年の月日を過ごしている。出会ったばかりの頃は、保護者と被保護者の関係だった二人も、今では頼れる相棒として肩を並べている――という事情を知らなければ、サルヒの言葉は確かに大いに誤解を招きかねない内容だった。
「ヤルマルさんは、オランローさんからお花を貰うのは嫌なんですか?」
「嫌じゃないけどね。いいかい、オデット。こういうのは、雰囲気が大事なんだよ。オランローの場合は真顔かつ無言でずいっと渡してきそうだから、ボクとしてはどう反応していいか分からなくなっちゃうのさ」
……確かに、言われてみればそうかもしれませんね」
 言葉を選びつつ、オデットは神妙な顔つきで頷く。
 アウラ族であるオランローは、他の種族にはないがっしりとした骨格をしているせいか、そこにいるだけで存在感がある。
 鋭く釣り上がった目尻や、いかめしい面差しのせいで、何をしていなくてもむっすりと不機嫌そうに黙りこくっているように見えてしまうのだ。
 他のアウラ族を知らないので比較しようがないが、彼が花束を持って無言で迫ってきたら、いくら知った仲でも、どうしたのかと驚きはするだろう。
「見た目と雰囲気も肝要が、そういうのは何より気持ちが大事だろ? 花束の一つや二つ、渡されたくらいで動揺するなら、ヤルマルもまだまだってことだ」
「そういうルーシャンはどうなのさ」
 ひよっこのような扱いを受けたのが不服だったのか、唇を尖らせてヤルマルはルーシャンに話を振る。
「そりゃもちろん、花束の一つや二つ、俺も渡した経験はあるぞ。氷魔法を応用すれば、氷の薔薇を作ってやることだってできる」
「魔法でそんな細工ができるんですか?」
 純粋な驚きに、ノエは何度か瞳を瞬かせる。ルーシャンが得意げに指先を振ると、まるで今から手品をしますよと言わんばかりに、薄い霜が風に吹かれて後を追った。
「昔、ちょっとばかし試してみたら、上手くいったんだよ。若人も、魔法が使えるなら挑戦してみたらどうだ?」
「魔法で細工物を作るなんて、考えたこともありませんでしたよ。時間がある時にやり方を教えてもらえませんか」
「あの、わたしもそのお話、興味があります」
 ノエだけでなく、オデットもルーシャンの話題に耳を傾けている。
 星の力を借りた魔法を操るオデットは、その魔法陣の美しさを留めておきたいと幾度となく思っていた。これはひょっとしたら、と期待が少女の胸に膨らむ。
「おう、そのうちに教えてやるよ。ともあれ、贈り物には創意工夫と気持ちが大事だってことだ。オランローに関しちゃ、その辺は……どうなんだろうな?」
 揶揄混じりの笑みと共に、ルーシャンはまたぞろヤルマルに話題を振る。負けじと、彼女も好戦的に眦を釣り上げて、
「ボクのことを言うくらいなら、君こそどうなんだい。サルヒに何か贈ったりしたのかな。それとも、これから真っ赤な薔薇を買いに行くところかい?」
 この挑発的な一言に対して、途端にルーシャンはあさっての方向に視線を逸らす。しかし、その先にいたサルヒとうっかり目線が合い、これまた彼の方から視線をずらした。
「いや、それは……まあ、別にいいだろ。サルヒだって、急に花束なんざ貰っても置き場に困るだろうし――
「よくないです!」
 食い気味に突っ込んできたのは、オデットだ。前のめりになった彼女は、らんらんと瞳を輝かせてルーシャンを見上げている。
「サルヒさんだって、ルーシャンさんからお花を渡してほしいと思います!」
「いやいや、それこそ本人次第ってもんだろ。……で、そうなのか?」
「それについては、旦那様にお任せします」
 恐る恐るといった様子でサルヒの横顔を伺うルーシャンに、サルヒは表情一つ変えず答える。こうなると、どっちが従者かわかったものではない。
 ルーシャンはふうと息を吐きつつ、何やら襟元を緩め、
「本人はこう言ってるぞ。それにサルヒに花束を贈るにしても、サルヒは真っ赤な薔薇って感じじゃないだろ」
「では、ルーシャンさんならサルヒさんに何を贈るのですか?」
 ノエの質問に、ルーシャンは「そうだなあ」と顎に手をやり、
「サルヒに贈るなら、派手な赤色より、青とか白の涼しげな色のものがいいな。大輪の花より、小さな花がたくさん合わさったものの方が、サルヒには似合う」
 ルーシャンに言われて、ノエもサルヒが花束を持って佇む姿を想像する。
 確かに、鉄紺色の髪に色白の肌を持つアウラ族の彼女には、燃えるように赤い薔薇よりも、月夜にそっと咲く野の花のような慎ましいものの方が似合うだろう。
 彼女が以前ドレスを作った時も、そのような涼しげ且つ落ち着きのある色合いの生地を選んでいた覚えがある。
「それに、花のような飾るものより、サルヒは実用的なものの方が好きだ。毛織物で作った小物入れか、革でできたナイフの鞘でも贈った方がよほど喜ぶぞ……って、何だよ若人。そんなにやけヅラで」
「いえ、流石よく分かっているなと思っただけです」
 にこにこと笑いかけるノエに、ルーシャンは苦虫を何匹か噛み潰したような顔になる。贈り物の話から逃げようとして、結局自ら墓穴を掘ったと悟ってしまったからだ。
「あのなあ、年寄りをそんなにいじめるもんじゃないぞ。そこまで言うなら、お前もこの後、嬢ちゃんに音楽堂のど真ん中で花束を渡してこいよ」
「えっ、嫌ですよ」
 即答するノエ。腰に吊るした剣と同じくらいの切れ味の返答は、いつも礼儀正しい彼にしては珍しくきっぱりとしたものだ。ノエはじっと自分を見上げているオデットを見やり、
「オデットは、渡されるなら人目のつかない場所の方が好きでしょうから。もし花束を渡すなら、宿で渡します」
「は、はい。わたしも、その方が……嬉しい、です」
 微笑ましい若者たちのやり取りを、どこか眩しげな目つきで見つめるルーシャン。まるで、そこだけ昼の日差しが三割り増しで降り注いでいるかのようだ。
「なあ、ノエ。お前、出会った頃に比べると、だいぶん可愛げが無くなってきてないか……?」
「そうやって、若いものを揶揄っていられる時期も過ぎたってことだよ。さしずめボクたちは、若者の輝きを見上げながら日向ぼっこするお年寄りってところさ」
「ヤルマルは、オランローがいるから、まだ日向ぼっこには遠いと思う」
 横からさくっと入ってきたサルヒの一言。ヤルマルは、えへんえへんとわざとらしく咳払いをして、場の空気を誤魔化した。
「さ、さて。せっかくのヴァレンティオンの季節なんだ。ここらで、ぱーっとパーティでも開こうじゃないか。ボクの家は、花束も料理もいつだって歓迎してるよ!」
 話題を変えるためにも、両手を大きく広げて、腐れ縁となった面々に歓迎の気持ちを示すヤルマル。
 近頃は何かとドタバタしていて、彼女の家に集まって何かをする機会に恵まれなかった。都市全体を巻き込んだ祭りを機に、宴を開きたいという提案はいかにもヤルマルらしいものだ。
「星芒祭のときは、僕が演奏を頼まれていて、皆さんの宴には参加できませんでしたからね。今度は僕も何か用意しておきます」
「それなら、君にはヴァレンティオン名物のチョコレートをお願いしよう。今なら、商店街でも売ってると思うよ」
「それなら、わたしはサルヒさんと一緒に、またボーズを作りたいです!」
 オデットも手を挙げて、自分なりに参加の意思をつよく示す。
「それなら、旦那様とノエは、お花と他の料理の買い出しをお願い。集まる時間は夕方でいい?」
「そうだね。なんならそのまま泊まっていってもいいよ。まだまだ空き部屋はあるからね!」
 そこまで話をして、何気なくヤルマルは空を見上げる。森の向こうに隠れ始めた日差しは、そろそろ夕刻を告げていた。
「さて、ボクは居住区に帰るよ。この分じゃ、オランローが家で待ちくたびれてそうだ」
「それなら、ついでに花束でも持って帰ってやったらどうだ。ヤルマルが贈る分には、受け取り方に悩む必要はないだろ?」
「オランローなら、きっと喜ぶと思いますよ」
 ルーシャンの何やら面白がっていそうな物言いと、ノエの本心からと分かる提案。どちらにも賛同の意を込めて、ヤルマルはにっと笑ってみせる。
「確かに、そいつは名案だ。じゃあ、ボクは一足お先に花束を贈るとしようかな。ノエとルーシャンも、せっかくだからお隣の彼女に贈ってはどうだい?」
 最後に一言残して、ヤルマルはひらりと手を振って商店街へと消えていった。
 
 ***
 
……っ、風邪でもひいたか?」
 思わず飛び出そうになったくしゃみを堪えて、代わりにオランローはとびきりのしかめ面をしてみせる。
 気がつけば、日はすでに傾き、山の向こうに消えつつある。釣竿を垂らしている間に、こんなに時間が経っていたらしい。
 今日の釣果は、小ぶりの魚が二尾。二人分の夕食には十分だが、家に住み始めた頃のような釣果は、近頃はさっぱりだ。魚の方でも、ここに釣り人がいると理解して、警戒をしているのだろう。
(釣り場を変えればまた結果も変わるのだろうが……そこまで急がずともいいだろう)
 釣竿をしまいつつ、さして残念そうな顔を見せずにオランローは川の流れを見つめる。
 オランローと同居人のヤルマルが住まう家に、半ば食い込むようにして流れている川。ここで釣りをするのは、食材を得るためでもあったが、オランローにはもう一つの理由もあった。
 釣り竿を垂らし、獲物が食いつくまでのゆったりとした時間の流れ。それこそが、オランローが望むものだ。
 風を感じ、水の音が角を響かせる感覚に身を委ね、世間の喧騒から遠のくひととき。梢が揺れ、葉ずれの音が全身を包む穏やかなひとときもまた、オランローが釣りに求める成果の一つである。その意味では、今日は十分に成果があったと言うべきだろう。
 瞑想の時とも言えるほどの静けさを満喫し、オランローは魚の入ったバケツを手に、立ち上がる。愛用の釣り竿をもう片方の手に掴み、買ったばかりのルアーが入った袋を背負って、家に続く手製の階段に足をかけたときだった。
「お疲れ様、オランロー」
「ヤルマル、戻っていたのか。少し遅かった……な?」
 語尾が不自然に持ち上がってしまったのは、持ち上げた顔の先が、真っ赤に染まっていたからだ。
 正確には、それは芳香を漂わせる大輪の薔薇の花束だった。まるで、目の前に銃口を突きつけるかのように、眼前に薔薇の花束が突き出されていたのである。
……何をしているんだ、あんたは」
「ほら、今はヴァレンティオンの季節だろう? だったら、親愛なる仲間に花束を贈るのは何も不自然じゃないってことさ」
 ほら、と差し出された花束を受け取るため、オランローは釣具を地面に置き、空いた片手で花束を迎え入れる。魚の入ったバケツと大輪の薔薇は、あまりにちぐはぐな組み合わせであったが、オランローは特に気負わずに自然に花束を抱えていた。
「あんた、ノエたちに会ったのか?」
「買い出しのついでに、偶然ね。何でわかったんだい?」
「あいつらが唆しそうなことだと思ったからな」
「おっと、確かにアイデアは彼らから貰ったけど、ボクは自分がやりたいから君にこうして花束を贈っているんだよ。そこは履き違えてもらっちゃ困るな」
 ふんすと腰に手を当てて、どんな理由からか得意げに胸を逸らすヤルマル。だが、あまりにオランローが鉄面皮なので、その自慢げな横顔もいくらか曇り始める。
……もしかして、薔薇の花、嫌いだった?」
「いや。あまり馴染みがない花ではあるのは確かだが、少し面食らっただけだ」
「君って動揺してるとき、そういう顔になったっけ。もう少しわかりやすかったはずなんだけどな」
「悪いが、あんたがオレを驚かせようと分かっているときに、わざわざ驚いた顔をしてやるほど丁寧には対応できない」
 つまるところ、オランローはヤルマルの花束にサプライズの意味が込められているとは了承した上で、わかりやすく驚いてみせるのは自分のプライドに反すると言っているのだった。
 話をしつつ、ヤルマルはオランローが手に地面に置いた釣具を抱え上げる。
「ちぇー。もっと素直に驚いてくれてもよかったんだよ?」
「少しぐらい見栄を張らせてくれ。一番大事な相手に狼狽える姿を見せたいとは思えない人間なんだ、オレは」
 さらりととんでもない発言をぶつけられて、ヤルマルの足取りが一瞬ふらつく。動揺を隠そうと努力するオランローとは裏腹に、ヤルマルはこの手の発言には未だに慣れずにいた。
……こほん。さっき、オランローは薔薇が馴染みのない花だって言ってたけれど、それなら君の馴染みのある花って何なんだい?」
「オレはあまり花の名前には詳しくないんだが……そうだな。たとえば」
 オランローの目が遠くにある故郷を思い、すっと細まる。
 黒い角と鱗を持つアウラ族ではあるが、彼の出自は同族のサルヒと異なり、アウラ族が多く住まう草原ではない。
 オランローが故郷として思い浮かべる地――それは遠く離れた東方の小国。今は帝国の占領下にあるが、目にする植物までが帝国のものに変わったわけではない。
「小さい頃から、オレは釣りをして糧を得ていた。岩の上に腰を下ろして、今みたいに釣り糸を垂らして……魚がかかるまでは暇だったから、よく空を見上げていたんだ」
 釣りは時間と忍耐の戦いだ。とはいえ、ただ座って釣り糸を眺めていられるほど、当時のオランローは辛抱強くもなかった。
 だから、視線を上に向けていた。
 流れる雲。透き通った青い空。さっと差し込む、滴るような青々とした翠。そして、その中には翠とは異なる色もあった。
「薄い、桃色の花が咲いていた。あれは、まだ肌寒さの残る春の頃だった」
「それって……木に咲く花ってことかい」
「ああ。季節が移り変われば、違う花が違う木に咲く。葉がつき始める前から、大輪の白い花を咲かせる木もあった。初夏になれば、さまざまな色の花が木々を彩っていた」
 詩的な表現など、一つもない。朴訥で、ただ事実だけを並べただけの言葉。
 それでも、彼の声を聞けば、目の前の青年がどんな景色を目にしていたかが瞼の裏に花開くようだった。
「秋は、葉の色が変わる。鮮やかな目の覚めるような朱色や、少し乾いた緋色に染まった葉を、何枚か拾って帰ったこともあった。冬だけは花はなかったが、雪が降れば、辺り一面が真っ白に染まった。それに、雪の隙間から小さく咲く黄色い花が見える頃には、直に春が訪れると知ったんだ」
 それが、オランローにとって馴染み深い花々だった。
 地面に咲く野の花でもなければ、切花として飾られたものでもない。彼は空を見上げ、空を彩る花を瞼に焼き付けてきた。
「それなら今度、君がよく釣りをしている所に、花が咲く木を植えてみようか」
 何気ない話題が終わりを迎えかけた頃、ヤルマルはごく自然な様子で、一つの提案をしてみせる。
「そうしたら、君は釣りをしているとき、懐かしい気分になれるだろう?」
 気負った様子もなく、球遊びのようにぽんと投げかけられた提案。その一方で、ヤルマルの提案には郷愁の思いをどこかに残す青年への思いやりが込められているのだと、オランローは気がついていた。
 断ってもいい。受け入れてもいい。どっちの選択肢も選びやすいような物言いは、彼女なりの優しさであると、オランローはもう知っている。
「そうだな。今度、園芸師ギルドに行ってみるか」
「ラベンダーベッドの気候に合う木を探さないとね。できれば、花が咲くやつで」
「それに、木がある方が川に影が入り込んで、魚が食いつきやすくなる」
 敢えて郷愁の話は伏せて、オランローは彼女の提案に乗る。
 望郷の思いを伏せたのは、過去を懐かしむ姿をあまり大っぴらにしたくないという、オランローなりの意地だった。
……まったく、あんたという人は)
 だが、口ではそう言いながらも、胸の内にふつふつと湧き上がる気持ちは簡単には鎮まらない。何気なく視線を落とせば、自分が片手に持った薔薇の花束が目に入る。
 それがもたらす甘い香りに背中を押されるようにして、オランローはヤルマルへと距離を詰める。きょとんとした彼女の様子も気にせずに、彼は身を乗り出して――その角を、ヤルマルのヴィエラ族特有の長い耳に優しく擦り付けた。
「え、ちょっと、オランロー!?」
 驚きの声を上げると同時に、彼女の耳に緊張が走る。身体中に力が入っていると伝わる変化に、流石に気の毒になって、オランローはゆっくりと身を引いた。
 ふわりと角を撫でた柔らかな毛感触は、随分と久しぶりのものだった。近頃、この仕草の意味――アウラ族にとって角を擦りあうのは、特別な親愛の証だ――を知ったヤルマルは、オランローの角に触れるのを遠慮するようになっている。
 実際、理由も知らずに触られていたときは、色んな意味で心臓に悪かったので、それはそれで助かってはいた。だが、少々物足りないと感じる自分もいたのだと、いまさらになってオランローは己の心中を振り返る。
「そ、そういうのは、せめて人目がないところで、一声かけてからやってくれないかな!?」
「どうせ誰も見ていない。それに、一声かけたら、あんたは逃げるだろう」
「逃げないよ! ……多分」
「今、墓穴を掘ったと思っただろう」
「うぐぅ」
 ぐうの音も出ないとはこのことか、とオランローは愉快げに唇を釣り上げる。
 その笑みに免じて許してやろうと思ったのか、ヤルマルは火照りかけた頬を手団扇で冷ましながら、
「さて、そろそろ家に入ろう。明日はパーティだから忙しくなるよ」
「おい、そっちは初耳だぞ。来るのは誰だ」
「ノエたちだよ。だから、六人分の料理を用意しないとね」
……まったく、あんたはそういうことを勝手に決めるんだからな。誰が料理を作ると思っているんだ」
 そう言いながらも、突如齎された知らせに、オランローの瞳に料理人としての意欲が燃え上がりつつあった。彼のやる気の点火を目にしつつ、ヤルマルは家の扉を開く。
 きっと明日は、この小さな家は笑顔と喜びの声で満たされるのだろう。そう遠くないうちに訪れる幸福の未来を想像して、ヤルマルの唇の端もまた、ゆっくりと持ち上がるのだった。