冬の海

雑→←高だった二人の話
⚠︎死ネタ ⚠︎高に妻がいる
誰も悪くなく、誰のせいでもない、という、「水」と「哀」がテーマの話

『冬の海』

 雪が自分の狭い視界を埋め尽くすように降っている。一つの目でそれらの落ちていく様を見ていた。ひらひらと、というより水気を含んでぼたぼたと落ちていく。
 真っ白い大地の上に赤い海が広がる。真ん中に男が眠るように横に倒れ、腹を押さえて動かない。何千もの雪がぼたぼたと、椿のように彼の体に積もる。
 雑渡はその横に立って、名前を呼んだ。
 いつか、彼の名をこう呼ぼうと決めたとき、半紙を数枚ほど無駄にした。墨だって、その字を書くためにきちんとった。筆を紙に下ろし、名をつづるために吸われていき、その黒い線がただ一撫で紙をなぞったとき、雑渡の心は決まった。この名にしよう。誰も呼ばない名前を送る。「どうだい」と見せた半紙の薄い紙越しに、彼がほほえんだのを見て、満悦を覚えた。
 お前に心を砕いた日々は、そのように小さなことから始まっていたのに。
 雑渡は、彼の妻に会わなくてはならない。

 火鉢の横で、雑渡は目を覚ました。少しだけ背筋を伸ばして筋をほぐすと、立ち上がって外を見る。朝が来た。
 昨日、自分の忍び装束は「せめてしっかり寝てください」と無理やり剥がされて諸泉に洗濯に回された。着ているのは眠るときに着られるような一枚の薄い小袖でしかなかったから、肌寒さを感じる。風呂へ入ったかどうかさえ、記憶の中でおぼろげであった。
 朝が来た。来てしまった。雑渡は行かねばならない。足取りは重い。けぶるような香りの立つ朝だった。なんの香りだろうと鼻腔から余計に吸い込むと、これは眠り粉だった。おそらく諸泉が焚いたのだろう。無理やり雑渡を寝かせるために、押都あたりが入れ知恵したのだろうか。あとで謝りにくる諸泉の姿が目に浮かぶ。けれどそのくらいしなければ、自分は眠らなかったのだろう。雑渡は自分が意外にも、自身を制御できていないものだなとわらった。
 部屋の隅に置かれた鏡を見ると、火傷の痕をひどく残した男の顔が映っていた。紛れもなく自分のはずなのに、非情な他人に思えた。頬が涙で濡れもせず、乾いた皮膚は青ざめすらしない。いくらか目は充血していたが、それくらいだ。いかに人でなしか、鬼かがわかる。
 朝が来てしまった。雑渡は廊下へ歩を進める。庭が見えて、いつか高坂へつぶやいた言葉を思い出す。

 ──私が生まれた季節の雪の染み込んだ土が、年月を一回り循環し、その養分を与えた木から落ちる紅葉が地面を敷き詰めるころ、お前が生まれた、と歌いたかったんだよ。

 高坂の邸宅はタソガレドキの奥地にある。忍びたちの住む長屋よりはずいぶん離れたところへ造られた。控えめな造りの家屋は二人が住むにはちょうど良い大きさで、子どもがいるには少し手狭かもしれなかった。増築には手を貸すよ、と言ったのは、つい最近ではなかっただろうか。
 中にいるであろう人を呼び、出てくるのを待つ間、雑渡は空を仰いだ。青空は彼方まで続いている。タソガレドキの城を見渡す広い空だ。巨木が立ち並んでいて、隠れみのにするのにはちょうどいい忍びの里でもある。だから本来ここらは青葉が生い茂るはずだ。今は雪の影響で、真っ白い大地がどこまでも伸びやかに存在している。
「お待たせしてしまい、申し訳ありません」
 静かな女の声が響いた。雑渡は彼女に向き直ると、距離を取ったまま手に持っていたものを差し出した。急いでその場を離れなければならなかったせいで、むくろから切り出した骨は、指先数本分しか取れなかった。
 途端、女は短く慟哭どうこくし、それを受け取りながら冷たい地面に膝をつき、崩れた。柳の木が倒れていくようだった。雑渡は彼女の肩を支えない。支えることができない。守れなかった自分が支える権利はない。ないが、その涙と嗚咽を聞く役目は、雑渡のものだ。誰にも譲れはしない。他のどの部下の末路を伝えるときより、この報告は雑渡のためだけにあった。
「高坂は、立派だった」
 呼び慣れない名で正しいことを言う。彼女も自分を納得させるように、何度も何度も頷いている。
「どんな最期でありましたか」
 気丈な女は結末を欲しがった。全てを伝えることは時として悪だが、彼女の意思は揺るぎない。雑渡は話した。
 ──高坂は雑渡と山本と共に敵に追われた。かなりの多勢であった。雑渡を逃すため、応戦していた。放たれた矢を払うため、腕を伸ばした高坂が腹を負傷した。毒があった。そんな毒は効かない体であるはずだが、多数受ければさすがに忍びでも苦しかった。高坂が木の上から落ちかけるのを山本が支え、雑渡はまえで踊り出ようとした。しかし高坂が声を張り、おとりを買って出た。山本の支えを振り払い、戦陣の真ん中へ飛びすさり、三人は殺した。しかし、その刀は血と肉の脂で鈍り、腹の傷が大きく裂けて広がり、高坂は四人目を切ることができず地にした。悪鬼あっきのとどめを刺そうと相手方の四人目になりかけた男が高坂へ近づいたが、雑渡が瞬時に首をねた。高坂は雑渡をたしかめると、安堵したように息を吐いた。
「あの方の体をお守りくださり、ありがとうございます」
 妻は深く頭を下げる。雑渡は、彼女に憎しみを叩かれることはなかった。しかし、本心はわからない。涙は雪をただの透明な水に戻す。その溜まっていく小さな海を見ながら、雑渡は彼女に、
「命まで守れずすまなかった」
 と謝罪する。

 彼女に、言えないことがある。
 高坂が負傷したとき、雑渡は喉から彼の名を叫びそうになった。雑渡があげた、ただ一つの名をちぎれるほどに呼びたかった。
 後がない高坂の元へ駆けつけ、四人目の刺客が今にも刀を振り下ろそうとしたとき、雑渡はその男の全身を、なます切りにしてやりたいほど憎んだ。ただ一刀のもと、首を刎ねるだけなどという生ぬるい処罰では足りないと本能が腕の力を込めさせ、理性がその腕を真横に一度だけ薙ぎ払わせて己の滑稽こっけいを見せびらかさずに済んだ。
 高坂が息絶えるとき、その口を唇で塞ぎたかった。魂が空へ還ってしまうのを、どうしても防ぎたかった。高坂が妻をめとる前夜、ただ一度だけ高坂と口付けた未練がここへ来て顔を出した。互いの想いはあのとき、糸を切るようにったつもりだったのに。雑渡は目に光を失った高坂のまぶたを、そっと手で閉じてやることしかできなかった。
 そのときにやっと、「陣左」と名付けた名前を呼んだが、もう決して、返事がかえってくることはなかった。この名を付けたとき、半紙の薄い膜越しに見えたはずの笑顔は、今この手を離すと死に顔しか晒してくれない。その事実──その真実が今の雑渡の内側をくまなく駆け巡っている。
 彼女がこぼした涙は、高坂が流した血は、海となる。雑渡の心にとくとくと注がれ、決して枯れることのない心の海になる。それは涙腺の焼き切れた自分が携えることのできる唯一である。

 雑渡が顔を上げずにいると、高坂の妻がゆっくり立ち上がり、涙を拭いた。そして、
「これを」
 と今度は雑渡に紙を差し出した。
 それもまた、半紙である。墨でなにかが書かれている。雑渡は中身に心当たりはあったが、まさかそれなのか、と疑った。
「夫がずっと、後生大事に取っておりました」
 どうかお持ちください。と妻は言い、雑渡の顔を見たあともう二度と目を合わせることはなかった。そのまま家へ引っ込んで、雑渡を置き去りにした。
 雑渡は紙を開く。文字列をたしかめ、指先でなぞる。そのうち左手がぐしゃりと紙の端をつぶしてしまった。
 ──妻を取るのはどうかと勧めたのは自分だ。承諾し、縁談を進めたのは高坂だ。本当は想い合っていた互いを、離さねばならないと決めた。その感情は弱みになり、忍びの支障であるからだ。
 半紙には、歌が書かれている。実に下手くそだ。雑渡が習いたての歌を、いちばんに送ったのだから。当時まだ高坂は十七歳で、雑渡は火傷の損傷からようやく体を起こしたばかりで、歌を習うほど暇であったころだ。高坂がそばでその紙を見つめ、意味を聞いてくるほど、歌だけではとてもわかりづらく作ってしまった。雑渡が照れ隠しのように意図を講釈する間中、高坂はほほえんでいた。ずっと、ほほえんでくれていた。人生の、もっともうつくしいときだった。

 ──私が生まれた季節の雪の染み込んだ土が、年月を一回り循環し、その養分を与えた木から落ちる紅葉が地面を敷き詰めるころ、お前が生まれた、と歌いたかったんだよ。

 妻へ渡した骨の代わりに、高坂の未練を懐へしまい込む。雑渡の心の海が、また少し水位を上げる。








 なみだは にんげんのつくることのできる 一番 小さな海です(寺山修司)