みすみ
2025-02-14 02:05:33
3088文字
Public
 

ふたりでならどこへ行っても

こたつとみかんと🥞🚥いちしご

「いつかあんたとふたりで世界を旅して回りたい」
「ふたりで?」
 埋れ木家で真吾が息子とふたりで留守番をしている時のことだ。「あんたとふたりで」と真吾を真っ直ぐに見つめる一郎の目は、真剣な色を帯びていた。




 人間界はまだまだ寒い日が続いているようだった。きれいに磨かれた窓から見える空は青く澄んでいる。よく晴れた気持ちのいい日だったが、外では強い風が吹いていた。
 デートだと浮かれめかしこんだメフィスト二世とエツ子はふたりで買い物へ出かけ、三世は観たい映画がちょうどオデオン座で上映しているのだと出かけていくのを、真吾は一郎と見送った。
 見送ってから、壁かけ時計の長い針は二周している。
 出かける準備をしながら「今朝は久しぶりに雪が降ったのよ」とエツ子が話していた。「ほら、こたつをしまわずに出しておいてよかっただろ」とメフィスト二世が得意げな顔をする横で、埋れ木家の居間のこたつに一郎は初めのうち目を丸くしていた。
 一郎はいままでこたつというものを、実際に目にしたことがなかったのだ。見えない学校にはそもそもこたつがなく、千年王国研究所は置く場所がなかった。
 埋れ木家に足を踏み入れると、いまだに一郎は借りてきた猫のようにおとなしくなる。しかしメフィストたちが出かけ親子ふたりきりになり少し肩の力が抜けたかと思えば、真吾に促されて恐る恐るこたつに入った借りてきた猫は、その快適さにすぐさま気がつくと持ってきた本を読むことに集中してこたつから動かなくなってしまった。どうやらこたつは早速一郎に気に入られたようだ。
 そんな息子の微笑ましい姿を横目に真吾がお茶をふたり分用意してこたつに入り、見えない学校から持ってきた手紙を仕分けているうちに、いつのまにか本を読み終わり手持ち無沙汰になった様子の一郎がテーブルの上に散らばっていた手紙のうちの一通に手を伸ばした。
 真吾のもとに届く手紙は十二使徒からのものが多く、その中に何通か昔から交流のある悪魔や妖精からのものもある。
 様々な言語に、様々な様式。封筒の中には便箋だけではなく、風景が切りとられた端の折れた写真や、美しい黄色の落ち葉、小さな鳥の緑色の羽根、珍しい植物の種が入っていることもあった。ほとんどの時間を見えない学校でひとりで過ごす真吾が、感じることが少なくなってしまった季節の風を含んだ香りが、送り主の気配が、いつも便箋にかすかに残っている。
「これはなんで読むんだ?」
 時折、読めない言葉があると、一郎は首をかしげて素直に真吾に意味を尋ねてきた。その姿は、まだ彼が幼かった頃に見えない学校で真吾に質問を投げかけては本を読むことを繰り返していた日々を思い出させた。見えない学校の本棚の前にしゃがみこみ本を読む丸まった背中。ページをめくる小さな手。長い前髪の間から見える真剣な瞳。
 ひと通り手紙に目を通し終わった真吾はそれぞれへの返信について考えを巡らし、ぽつぽつと一郎の質問に答え、テーブルの隅に追いやられていたカゴに山盛りになったみかんを手にとった。一郎の横顔を眺め黙々とみかんを食べていると、真吾の視線に引き寄せられた一郎が顔を上げる。
 一郎は、どうやら同封されていた一枚の写真に夢中になっているようだった。そして、緊張した様子で口にしたのだ。「いつかあんたとふたりで世界を旅して回りたい」と。徐々に真吾から視線を逸らしながら。
 普段マイペースなかわいい息子は、ごく稀にこうして真吾の前でなにかを恐れてためらう姿を見せる。
 その恐れに、真吾はあえて触れないようにしていた。ずいぶんと悩んだが、触れないという選択をした。一郎が自分自身にひとりで向き合う自由を尊重したかった。そして、なにより真吾もどこかで恐れていた。自身が介入することで、一郎から本来彼が得るべきはずだったなにかを奪ってしまわないかということを。
 ――この子の憂いの正体は一体なんなのだろう?
 心の中で何度繰り返したかわからない疑問を浮かべていることを悟られないように声の調子に注意して、真吾は「ふたりで?」と問いかけた。
 どのような写真を見ていたのだろうと一郎の手もとを覗きこむ。写真には、いまにも吸いこまれてしまいそうなほど深い森に囲まれた湖が写っていた。水面に映る樹々の緑色がきれいだ。
 真吾の問いかけにひと呼吸置いてぎこちなくうなずいた一郎に、真吾は「いいね」と自然と口もとをゆるめていた。
「一郎は? 君はどこに行きたい?」
「あんたが行ったことがある場所すべて」
 あまりの幸福に息を呑んだ。じりじりと忍び寄っていた恐れは遠ざかり、途端に、時計の秒針が進む音が、強風で絶えず窓が揺れる音が、自身の心臓の音が、やけに大きく聞こえる。チクタク、ガタガタ、トクトク。普段は意識の外側にあるものが、一気に押し寄せてくる。
 真吾の息子は、昔から父親を驚かせ喜ばせる天才なのだった。
「僕は、行ったことがないところにも行きたいな」
「あんたも行ったことがない場所? あるのか?」
「もちろん」
 この子を人間界に送り出してよかったと心の底から思う。一郎が真吾以外の人間や悪魔に出会って生まれたたくさん感情が、真吾にとって未来を照らす希望になっていた。なってしまった。
「僕はまずあんたが行きたい場所に行きたい」
「じゃあ考えておくね」
 真吾の返事に安心したらしい一郎は、ようやく緊張を解いた。手にしていた写真を置き、今度はぱかりと口を大きく開ける。こういう時の息子の扱い方をよく心得ている真吾は、むいたばかりのみかんをその口に放りこんでやった。
「美味しい?」
「ん」
 しばらくして帰宅した三世は、お土産に買ってきたという駅前にできたばかりの洋菓子店のシュークリームを冷蔵庫にしまいながら、雛鳥のように口を開けて父親にみかんを運んでもらう一郎の姿に呆れた顔を隠さなかった。一郎はいちばんの友人である三世の反応に気がついていながら、素知らぬふりをしてみかんを食べ続けている。
 真吾は、一郎と三世の率直な反応に思わず笑みがこぼれてしまった。
「真吾伯父さん、ココアを入れますけど飲みますか?」
「ありがとう。もらおうかな」
 最後のひと房を一郎の口に運び、真吾はさりげなく立ち上がる。一郎のために、今日はホットチョコレートを作ってやろうと埋れ木家の台所の主であるメフィスト二世に協力してもらい、ひそかに準備していたのだ。
 一郎は、黙って離れていく真吾に不満そうにしている。
 いつからか、ふたりきりの時は離れる際に身体のどこかを撫でるか唇をつけることが当たり前になっていたからだろう。真吾が冗談でしたことを一郎がいたく気に入り、かわいく強請られているうちに困ったことに習慣になってしまった。
 一郎の強い視線はいまもそれを求めていると真吾にはすぐにわかったが、さすがに埋れ木家で、しかも昔からよく知っている甥っ子もいる時にするわけにはいかない。
 背中に突き刺さる視線に苦笑して、初めて作るホットチョコレートでごまかされてくれますようにと祈る。
 いつか一郎とふたりで世界を旅して回る時、いちばん最初に訪れる場所はどこがいいか考えながら、真吾は冷蔵庫を開けた。
 写真に写っていた深い森に囲まれた湖はどうだろうか。彼と並んで土を踏む感触を、すぐそばで葉が擦れる音を、視界の端で鳥の羽ばたく姿をゆっくりと思い描く。きっとどんな天気でも、どんな風が吹いていても、彼とふたりでならどこへ行ってもうれしい。