まそとお

おでん。

 十四円だけ計算の合わなかった地獄の締め作業を終え、真朱は待っていてくれた兎織に皺くちゃな顔で「お待たせしました……」とよろよろ歩み寄る。
「んふふ、お疲れ様。先輩、大変だったねえ」
「ええ……月村さんも正社員になりませんか……
 五年も働けば正社員になってもいいだろう、と真朱は切々と訴えるのだが、兎織は色良い返事をくれない。確かに正社員の苦労を目撃したばかりではじゃあ自分もとはならないだろう。
「ちぇー」と口で言いつつも、真朱は以前より余裕のある己を感じている。
 真朱にはなにかあれば兎織がどこかへ行ってしまうのではないかと感じていた日々がある。ふと姿を消してそのまま戻ってこないのではないかと心配して、不安になったことが幾度もある。せめてアルバイトという身軽な立場ではなくなれば変わるのではないかと、それとなく話を振ったこともあった。いまのように躱されてしまったけれど。
 いまは断られてもそんな不安はない。
……兎織さん、帰りましょっか」
「うん。あ、真朱さん、ちゃんと釦閉めたほうがいいよ。今日寒いっぽいし」
「おっと」
 兎織に指摘され、ぼうっとしていた真朱は袖を通しただけのコートの釦を留める。兎織もしっかりダウンジャケットのジッパーを上げていて、帰る準備万端だ。
 裏口からRooMを出れば途端に冷い冬の空気が頬を撫でて、兎織と同時にぶるりと首を竦めた。頭上では澄んだ空気のなかで輝く星々が瞬いていたが、それを見上げる余裕などちっともない。
「まだ春は遠いですねえ……
「立春は過ぎたのにねえ……
 梅は咲いたか桜はまだか。
 ふたりで寒いさむいと言いながら歩く帰り道、真朱はふとコンビニの明かりを見つけて兎織の腕を引いた。
「おでん食べません?」
「え、いいじゃん。大根食べたい」
「私ははんぺん食べたいですね」
 いそいそとコンビニへ向かい、特に意味もなく店内を一周。時期柄か紅茶フレーバーの菓子や季節限定のチョコレートが目立つが甘いものを好まない兎織は素通りするし、真朱もこれと言って惹かれるものはなかった。大人しく予定通りレジへ向かっておでんを注文する。大根はんぺん餅巾着に竹輪。店員は愛想がなかったが気にしない。
 コンビニが暖かかった分、再度外へ出るとますますその寒さが身に沁みた。これではおでんもすぐに冷めてしまうだろうが、深夜も過ぎた時間にコンビニ前へ屯するのはいかがなものかと話し合い、真朱は兎織とともに溢さないようにおでんを持ちながら近くの公園へ向かった。
「こういうの懐かしいですねえ」
「真朱さん、遊んだりした?」
「いえ、あまり機会がなくて……
 目についたのはうさぎとパンダの二つ並んだスプリング遊具。こどもたちに愛されているのであろう遊具は背中の塗装が随分と剥げてしまっている。
 ベンチに座っても良かったのだが、真朱は童心が疼いてついパンダに跨ってしまった。兎織もうさぎのほうへ腰掛けて「案外安定してるね」とくすくす笑う。
「じゃ、いただきまーす」
 兎織が器用に割り箸を咥えて割るのに倣い、真朱も「いただきます」と言ってからおでんに箸をつける。
 もうもうと上がる白い湯気に視界が烟るなか、兎織とともに真朱はあちあちと言いながらおでんを頬張った。先ほどまで寒いと言い合っていたのに、いまは逆のことを言っているのがおかしかった。
「あー、真朱さんのおでん食べたい」
 芥子をつけた大根をがぶりと食べた兎織が呟くのに、真朱は軽く首を傾げる。
「ええ? いまおでん食べてるのにですか?」
「うちの味じゃないじゃん? 真朱さん、鍋料理得意だし」
「ふふ、そうですか? じゃあ、寒い間に拵えましょうかね」
 うちの味と兎織が言ってくれたのが嬉しくて、真朱は頬を緩めながら張り切る。
 以前は鍋料理を作ると馬鹿のように大量に作ってしまっていた真朱だが、自宅に「月村」の表札がかかる頃になると自然と二人分の量を丁度作れるようになった。今度作るおでんも上手く作れるだろう。
「そういえば冷蔵庫の中身ほとんどなくなってますね……買い物に行かなくちゃ」
「真朱さん、今日起きれそう?」
……夕方に行きましょっか!」
「ふふふ、まあ今日遅かったしね。ゆっくり寝よっか」
 兎織が猫のように目を細める。
 ずず、と汁まで飲み切って、ほっとしたように吐き出した息。名残惜しく撫でたパンダの頭。空になった容器をゴミ箱へ捨てれば、その手は自然と兎織の手と繋がれる。
 ぶらりとこどものように揺らした腕。とん、とどちらともなく寄せ合った頭。関係に恋人という明確な名前がつく前から交わしていたやり取りだが、気持ちは以前よりも甘やかだ。
「兎織さーん」
「なあにー?」
「好きですよぅ」
「っふふ、なに突然」
「俺も好きだけど」と続ける兎織と繋ぎ合った手にゆるりと力を込める。
「なんだかね、伝えたくなって」
「そっか……
「これからも一緒にいましょうね」
「うん、おじいちゃんになってもね」
 兎織の言葉とともに溢れる白い吐息を真朱は眺め、共白髪で過ごす先のことを思う。おじいちゃんになって他愛ない冗談を交わしたり、のんびり寄り添いながら日向で微睡んで。
「あー、寒い! 真朱さん、早く帰ろ」
「ええ」
 兎織と並び、真朱はたったかと家路を歩く。その足取りは軽やかに高らかに。
 我が家でも未来でも、どこへ行くときも隣には兎織がいる。以前ならば曖昧で見えなかったかもしれない先のことが、ずっと先のことが、いまならばこんなにも鮮明に思い描けることが幸せであった。
 この幸せを兎織も感じてくれているだろうか?
「ねえ、兎織さん。いま幸せですか?」
 きょとんと丸くなった兎織の目が、またゆるりと細められる。真朱の大好きな顔、表情。
 口を開いた兎織。一瞬さえ待ち遠しくなりながら、真朱は耳を澄ませた。
「俺はね──」