千代里
2025-02-13 08:20:24
9171文字
Public リーブラ14話
 

リーブラの針は問う・14話・その41


「ねーねー、ノエせんせー。これ、わたしが書いたやつなんだけど、ちゃんとあってる?」
「おい、待ってよ! 僕が先にせんせーに計算を見てもらってるんだから、横入りしないでよ」
「あんただって、この前ミラベルさんがお菓子買ってくれた時、横入りしようとしたじゃない!」
「それは今関係ないだろー!」
「二人とも、喧嘩はやめてください。ルビア、綴りの確認はケビンのあとにします。ネイサン、本は丁寧に扱ってくださいね。教典はそんなに数がないそうですから。サリー、お昼寝の時間はもう終わりましたよ」
 子供たちの面倒を見るのは、竜の相手をするより大変かもしれない――。どこか遠い目になりながら、ノエはケビンという名前の少年から差し出された羊皮紙を眺めていた。拙い文字で綴られた計算の答えが間違っていないか、慎重に吟味するためだ。
 もっとも、その間もノエの意識の半分は別のことに使われていた。たとえば、背中にのしかかっている三歳くらいのヒューラン族の子供を宥めて下りるように促すことや、部屋の端で何やら良からぬことを企んでいそうな年長の子供達の監視などに、だ。
 オデットと共に孤児院に赴いたノエが目にしたのは、旅の疲れも癒せずに疲弊した様子のミラベルだった。それもそのはず、わんぱくな子供たちの相手を一人でこなしているのだから、無理もない。見るに見かねて手を貸すと申し出たところ、ミラベルはノエに勉学の時間に欠かせない先生役が任せられた。
「兄さん、大人気ですね」
「大人気なのかなあ……
 様子を見にきたオデットは、ノエに登ろうとする集まる子供たちを目を細めて見つめる。
 遊び場の遊具扱いされているノエとしては、自分は侮られているのではないかと不安になってしまうのだが、これも子供たちなりの親愛の証なのだろうか。
「見慣れない先生が増えて、子供たちも良い気分転換になっているのでしょう。こら、お前ら。ノエ先生をいじめるんじゃないぞ」
「「「はーい!!」」」
 唱和する子供達の応答に、目下『いじめられ中』のノエは苦笑いを浮かべるしかなかった。
 孤児院の子供たちは、日がな一日、遊びや手伝いに時間を費やしているわけではない。
 イシュガルド正教の教典に触れ、敬虔な信徒としての信仰心を育てつつ、未来のために読み書き計算を学んでいく。それが、この孤児院の方針であり、ミラベルが訪れる前も有志の大人たちが先生を交代で務めていたそうだ。
 子供に勉強を教えてほしいと言われて、ノエは自分がオデットに文字を教えているときのことを思い出していた。だが、実際はそんな生やさしいものではなく、現在進行形で戯れてくる年少の子供たちを席に着かせるのにも一苦労している。
「ケビン、計算の誤りについて記しておきました。同じ計算は、メグができていましたので、彼女に教えてもらうといいでしょう。ルビア、綴りの確認は今しますから、紙を僕の背中に貼り付けようとするのはやめなさい」
「ノエ、大変だね。ところで、ノエの教えてくれた文字、これであってる?」
「ゲルダさんは、ルビアさんの後にお願いします……
 子供たちは、実に自由にノエへと己の要望をぶつけてくる。
 課題の書き取りや計算の結果をみてほしいと頼むもの、勝手に落書きを始めるもの、昼寝の延長とばかりに居眠りを始めるもの。真面目に課題を済ませるものもいるが、彼らは真新しい先生を面白がって部屋に残り、あれこれとノエに話しかけてきていた。手伝いとして一緒にやってきたはずのゲルダは、なぜか子供たちに混ざってノエに質問をする側にまわっていた。
「ねえ、ノエ。そろそろ、ミラベルが言っていたお話の時間じゃない?」
「イシュガルド正教の説話を読む時間ですね。ゲルダさん、子供たちを席につかせてもらえますか」
 読み聞かせの時間は、子供たちにとって、自分が頭を悩ませずに問題を解かずとも、話を聞いているだけでいい時間と捉えられているらしい。ゲルダが促し始めると、雛チョコボのように好き勝手動き回っていた子供たちも各々席についたり、地べたに腰を下ろしてくれた。
 子供たちが漸く腰を落ち着けたのを確認して、ノエはミラベルから借りた教典の読み聞かせを始める。ひとまずの落ち着きが部屋に訪れたのを見届けてから、ミラベルは談話室から外へと出た。その後を、孤児院の別の手伝いを頼まれたオデットが、後を追った。
 *
「ノエさんたちが手伝いを申し出てくれて、とても助かりました。今のうちに、掃除を済ませてしまいましょう」
 部屋の外に出てすぐ、ミラベルはオデットへと振り返る。
「わたしは、何をすれば良いでしょうか?」
「それでは、炊事場の片付けをお願いします。暖炉の煤や灰の汚れを掻き出して、割れた皿や欠けた食器があれば一つにまとめておいてほしいんです。先日、食器の寄付があったので、交換できそうなものは交換しておこうと思っていたのですが、手付かずになっていたもので」
「わかりました。それで、あの、お兄ちゃんはどこを……
 そこまで言いかけて、オデットは思わず口を噤む。
 ミラベルは、建前の上ではオデットの関係者ではないという体裁を装っていた。なし崩し的に「お兄ちゃん」と呼ぶのは認めてくれてもいるだようが、そのまま呼び続けていいかの答えはまだ貰っていない。
 なんと呼ぶかとオデットが逡巡していると、ミラベルは細く息を吐き、
「兄と呼んでもらってもかまいませんよ。あなたがそう呼びたいと思うことまで、私は否定できません」
……ありがとうございます、お兄ちゃん。あの、わたし……実は、話しておきたいことがあって、今日はここに来たんです」
 見ての通り、多忙な彼の時間を奪う罪悪感はあったが、このまま話せずじまいで立ち去ってしまっては、本末転倒だ。
 覚悟を決め直し、オデットはミラベルを見つめる。ミラベルもまた、何か大事な話をしようとしている気配を汲み取り、手を止めて少女の言葉を待っていた。
「わたし、お兄ちゃんが忘れた方がいいと思っていたことを……ほとんど全部、思い出しました」
 震える少女の声が言葉を紡ぎ終わる前に、ミラベルの眼が大きく見開かれる。色の薄い彼の唇が一度開きかけ――しかしそれは言葉を発せずに、どこか苦しげな形に歪んだ。
……そう、ですか」
「でも、わたし、その……心が滅茶苦茶になってしまったわけじゃありません。苦しくなかった、辛くなかったといえば嘘になってしまいますけれど、それでも――わたしの全部が、あの記憶のせいで壊れてしまうわけではないから」
 とん、と一歩前に踏み出る。司祭服を着たミラベルとの視線は、幼いころにオデットが目にしたときよりもずっと近くにあった。それだけ自分が大きくなったのだと、オデットは今更になって気がつく。
(いつも、わたしはお兄ちゃんを見上げてばかりで……お兄ちゃんが本当はどんな顔をしていたのか、見えていなかったのかもしれない)
 オデットの告白を聞いて、まるで自分の方が辛い思い出を掘り起こされたように顔を歪めている青年の顔を、オデットはより近くなった視点から見据える。
 幼い頃は、ミラベルのことがとても頼もしく見えていた。まるで、童話の中に登場する救世主のようにも思えた。
 だから、どうして肝心なときに側にいないのだろうと恨んだ。彼のせいで自分は人を殺すような結果になったのだと、全ての責任を押し付けた。
「お兄ちゃん。わたし、こんなに大きくなりました」
 けれども、今になって気がつく。ミラベルは万能な聖人でもなければ、どんな敵も倒せる勇者でもない。
「だから、もうお兄ちゃんに守られるだけのわたしじゃないんです」
 彼は、子供たちを、弱い立場の人を助けようと、必死に足掻き続けていた若者の一人に過ぎなかった。
「わたし、お兄ちゃんと前に別れたときは……とてもひどい別れ方しかできませんでした。だから、今度はちゃんと笑って、見送ってほしいって……思っていたんです」
 あの時はごめんなさい、とオデットは頭を下げる。
 これもまた、今日ミラベルに話しておきたいことの一つだった。
 雪崩に巻き込まれた彼を助けずに、逃げ去った自分の所業。限界まで精神が追い詰められたが故に、自分を本当に助けようとしてくれる人まで信じることができなかった。理由はあれど、あれもまたオデットにとっては過ちの一つだ。
 しかし、ミラベルはオデットの謝罪にゆっくりと首を横に振る。
……あれは、あなたが極限まで追い込まれていたことを完全に理解できていなかった、私の落ち度でもあります」
 その答えは、ミラベルがオデットの記憶の中にいる人であると認めることでもあった。
 彼はついに、自分はオデットとは無関係であるかのようなふりを止めたのだ。
「あなたを怯えさせることしかできなかった私の不手際が招いた事故なのですから、あなたから謝罪を貰う必要はありません」
 オデットは頭をあげたが、それは彼の拒絶を受け入れたからではなかった。
「そのことについて、一つ気になっていたのですが……お兄ちゃんは、本当に、わたしに……その」
「例の司祭を殺すための毒を渡したのか、ということですか?」
 おずおずと切り出すオデットに、ミラベルは彼女が口にしかけた疑問をあっさりと取り出してみせる。
 オデットが思い出した過去の全容の中でも、その点はやや気掛かりな内容として心に引っかかっていた。
 自分を虐げていた人に生きていてほしいと思うほど、オデットはお人好しではない。だが、ミラベルが他者を殺す毒を率先して幼い子供に渡すのかという疑問は、それとはまた別の問題だ。
 果たして、彼は肩をすくめてみせる。
「信じてもらえるかわかりませんが、あなたに人を殺せるほどの強力な毒を渡したつもりはありませんでした。ただ、人によっては、特定の物質に対して肉体が過剰な反応を起こす事例はあります。おそらく、あの男の体の拒絶反応が、私の想像以上に強かったのでしょう」
 まずは理論としての説明を口にしてから、ミラベルは続ける。
「とはいえ、あなたの心に要らぬ負担を与えてしまったのも事実です。だからこそ、あなたが私に謝罪するのではなく、本来なら私があなたに謝罪しなければいけない立場です」
「でも、偶然の……事故、なら」
 事故と呼んでいいか分からないが、あえてオデットはその言葉を選んだ。
「お兄ちゃんに、責任はない……と思います」
……いえ、どうでしょうね。……当時の私が、少なからずあの男に殺意を抱いていた。それもまた本当のことです」
 さらりと、ミラベルは自身の中にあった黒い感情を明らかにした。
「ただ、私は上手く彼をあの場から消す方法を知らなかった。それどころか、自身の保身とあなたの窮状を秤にかけて中途半端な方法を選んでしまった」
「それは、わたしよりも、お兄ちゃんにとってやらなくちゃいけないことがあったから、でしょう」
 形はどうあれ、幼い自分を助けてくれたミラベルが自分自身を悪く言うのは見ていられず、ついオデットは口を挟む。
 だが、ミラベルはオデットの弁護を聞いても、頷いてはくれなかった。
「それすらも、結局は全部どうでもいいことにしてしまってもよかったはずです。だって、あんたはあんなにも……苦しんでいたんだ。そんな子供を前にして、他のことと秤にかけるなど――本当なら、俺があんたをもっと早く、助けていれば」
 耐えかねたように、丁寧な口調が剥がれかけていたミラベルの口が止まる。オデットがぶんぶんと首を横に振っていたからだ。
 彼の発言を否定をしながらも、オデットは思う。
……お兄ちゃんのこと、今のわたしだからこそ、少しわかる気がします)
 オデットのためならば全てを擲ってしまえばよかったのに、と過去の自分を詰るミラベル。その振る舞いは、オデットにとってもう一人の兄を彷彿させるものだった。
 ノエは相手を殺そうとは考えないだろう。その点はミラベルとノエは明確に異なる。
 だが、助けられなかった事実を消えない傷として抱え続けているところは、とてもよく似ている。
「きっと、お兄ちゃんは何度同じ場面に突きつけられても、お兄ちゃんの為すべきことを……もっと沢山の人を守る選択をしようとするはずです」
……ですが、それは助けを求めた一人の子供の手を振り解くことです」
「確かに、振り解かれた側の子供にとっては、すごく辛いことです。苦しくて、苦しすぎて、恨みたくなることでもあります」
 自分の中で芽生えた不信を正当化するようで申し訳なくもあるが、幼い頃の自分の境遇を振り返ると、自分だけでもいいから、もっと早く強引にでも保護してくれたなら――そう思う部分はある。
 だが、少しばかり大人になったオデットには、あの時とは違う形で見える部分もあるのだ。
「それでも、お兄ちゃんが頑張ったおかげで助かった人がいて……わたし一人よりも、もっと沢山の子供や大人の人が解放されたなら、お兄ちゃんの選択にはちゃんと意味があることだったんだって、今のわたしはそう思うんです」
 ノエを筆頭に、多くの人の背中を見てきたからだろうか。
 たった一人であろうと、誰かを助けるということがどれほど難しいかを、オデットは当時よりも実感として知っている。
 手を差し伸べても拒絶される場合もあれば、差し伸べたときには手遅れだったときもある。
 自分の中に芽生えたどうしようもない復讐心を優先したが為に独断行動に走り、何も得られずに仲間に連行されていった帝国軍の部隊長を知っている。
 たった数人の罪もない町人が異端者に拉致されたとき、世間の風潮や自身の地位が枷となって動けなかった領主を知っている。
 まして、社会的には弱い立場だった若輩の司祭たちが、社会的立場の強い司祭の陰謀を暴くために、どれほどの苦難があったか。
 そこには、オデットの助けを拒まなければ得られないものもあったはずだ。
「だから、わたしの答えは、やっぱり『ごめんなさい』なんです。それと……あの頃のわたしを助けようとしてくれて、そばにいてくれて……ありがとうございました」
 もう一度、今度はお礼の意味を込めて深く頭を下げる。
 沈黙の末に顔をゆっくり上げた先には、多くの感情を飲み込もうとして飲み込みきれず、心の痛みに耐えていると分かる表情のミラベルが見つめ返していた。
 かつて二人の間に生まれた亀裂を少しでも埋めようと、オデットは敢えて口元を綻ばせ、微笑を浮かべる。
「ねえ、お兄ちゃん。わたしは、これからも兄さんの……ノエの隣にもいたいと思っています」
 かつて、オデットのために全てを擲つことができなかったと罪悪感を抱えているだろう兄に、少女は笑顔を送る。
「安心してください。わたしは、今――ちゃんと、幸せです」
 自分のこれまでを見守ってくれた人に、これからの道を示してみせるために。
 あなたが嘆かずとも、もういいのだと教えるために。
 頷いてくれると願っていた。
 だというのに、ミラベルはまだ躊躇いにも似た感情でオデットを見つめている。
「それでも、まだお兄ちゃんは……認めてくれませんか」
…………
 たとえミラベルから許しを得られなくとも、好きに生きればいいと思えばそれまでの話だ。
 けれども、できるなら、オデットはミラベルに認めてほしかった。
 オデットがオデットなりに選んだ人生を、穏やかに見守っていてほしかった。
 だというのに、ミラベルの瞳からは不安が拭われていない。
「もう、わたしたちを虐めていた人たちはいません。悪事を働いていた人たちはみんな、お兄ちゃんのおかげで偉い人たちに裁かれた。……そうですよね」
 一体、何をそんなにミラベルは忌避しているのだろうか。
 オデットに記憶を思い出させないために、距離を置こうとしているのだとしたら、既にその意味は無くなっているというのに。
 ならば、かつてオデットを虐げていた大人のことだろうかと、オデットはおずおずと尋ねる。
 果たして、ミラベルは渋い表情を崩さずに、
「たしかに、奴らは教会の上層部によって悪事を裁かれた。だけど、別に奴らが死ぬわけじゃない。生涯、牢に入れられるわけでもない。何年か謹慎を命じられるか、今ある地位を取り上げられて左遷されるといった程度だ。……あいつらに傷つけられた人の心は、命は、一生元には戻らないのに」
 呟くように漏れた言葉は、丁寧な言葉が崩れた掃き捨てるようなものだった。まるで、かつての黒い感情がそこにもまだ残っているかのような。
 しかし、オデットにわざわざ聞かせる話ではないと、ミラベル自身もすぐに気がついのだろう。彼は数度首を横に振り、
「いえ、あなたに言っても仕方ありませんね。確かに、彼らは好き放題に振る舞うための地位は失いました。それもまた事実です。彼らがあなたの障害になることは、ゼロとは言いませんが、可能性としてはかなり低いでしょう」
「だったら、それならどうして、お兄ちゃんはそんなにも苦しそうな顔をしているのですか」
 竜が蔓延るイシュガルドに滞在することは、それほどまでにミラベルにとって認め難いことなのだろうか。
 グリダニアに戻ろうが、他の土地で暮らそうが、何かの弾みで命を落とすことはある。それは、以前ノエもミラベルとの口論の際に口にしていたことだ。
……わたしだって、できるなら兄さんには、安全な所にいてほしいと思ってしまいます。それと同じことなのでしょうか)
 ノエが負傷したとき、竜のせいで彼の命があっさり摘み取られる未来を想像して、オデットは体の芯が抜かれたような不安に襲われた。
 今のミラベルも同様の心境なのだろうか。
 彼にとって、オデットという少女はいつまで経っても、安全な場所で信頼できる人に守られて幸せに暮らしていてほしいと願う存在にしか、なり得ないのだろうか――
 ミラベルは押し黙ったまま、オデットから視線を逸らす。
 何か言わなければならないことを、彼は抱えている。けれども、口にすることすら憚られる。そんな風に読み取れる表情の変化だった。
 オデットの記憶のことでもなければ、彼女をかつて虐げていたものとも関係ない。イシュガルドの厳しい大地に留まり続けることの懸念とも、また違う。
 永遠に続くかと思しき沈黙を破ったのは――カタン、と何かを倒したような軽い音だった。
「あの子は……
 吸い寄せられるようにそちらに視線を向けて、オデットは目を丸くする。まだ五つか六つかという年頃のエレゼン族の少女が、階段の途中に立って、階下の廊下で立ち話をしているこちらを見つめていた。
 階段から降りてきた時に、体がふらついてしまって隅に置かれていた掃除用具を蹴飛ばしてしまったのが、先ほどの音の原因だったようだ。
「ベス。まだ風邪が治ってないんだから、外に出てはいけないって言っただろ」
「でも、ミラ。アンディが、帰ってくるかもしれないから……帰ってきたなら、最初にね、知りたいの」
 ベスの言葉に、オデットは小さく息を飲み、表情を変えないように最大限の努力をしなければならなかった。
 孤児院から姿を消してしまい、ミラベルが捜索に向かった少年――アンディは、まだ見つかっていないままだ。帰ってくるものと思って待っていた子供にとって、少年を連れずに戻ってきたミラベルの姿は、どれほどの落胆を与えたことだろうか。
「だからって、布団から出てきちゃ駄目だろ。アンディも、ベスがそんな風に寒い廊下で待っていても喜ばないぞ」
「でも……ベッドの中にいても、つまんない。お熱も下がったから、もう大丈夫だもの」
「お兄ちゃ……ミラベルさん。それなら、ベスさんにはわたしの話し相手になってもらえないでしょうか」
 オデットには、ベスの気持ちがよくわかった。
 事情は違えど、オデットも昨日までは布団の中に押し込められていた身だ。病状が重い時ならいざ知らず、体が回復してくると心は余計な思考にばかり時間を費やしてしまう。
 ノエたちが無事に任務を終えて帰ってくるかと気に病み、布団の中で意味のない寝返りを何度も打ったオデットにとって、布団から抜け出してきたベスの姿は数日前の我が身そのものだ。
「ねえ、ベスちゃん。わたし、この後、ミラベルさんのお手伝いで厨房のお掃除をするんです。でも、一人でお掃除をするのはちょっと退屈だなって思っていたから、できればベスちゃんから何かお話をしてもらえますか」
 いつもノエにそうしてもらっているように、オデットは膝を折り、小麦色の髪の少女へと笑いかけてみせる。
「わたし、この街に来たのはつい最近なんです。だから、この街のこと、あまりよく知らないんです。ベスちゃんのお話を聞きながらだと、退屈なお掃除もきっと楽しくなると思うんですが……お願い、できますか?」
 ベスはじっとオデットを見上げている。玉のように丸い瞳には、人見知りする子供らしい不安と、退屈を紛らわせる期待がないまぜになっている。
(きっと、わたしも兄さんにこんな目を向けていたんでしょうね)
 在りし日とノエとのやりとりに思いを馳せ、目を細めるオデット。その微笑みに手を惹かれるようにして、ベスはおずおずと頷いた。
「あの……わたし、何話せば良い、の?」
「ミラベルさん。ベスさんには、お話とか聞かせることはあるんですか」
「寝る前に色々と読み聞かせはしていますよ。ベス、何度も俺に読んでくれってせがんでたお話があっただろ。あれをオデットさんに話したらどうだ? いつも誰かに聞かせたがってたじゃないか」
「う、うん」
 まだ辿々しさはあるものの、自分のやりたいことと繋がったからか、頷く彼女に先ほどまでの気負いは感じられなかった。
 オデットはベスと共に厨房に向かい、早速汚れの確認を始める。ベスは慣れた様子で厨房の端に置かれていた椅子に腰掛けて、どこから話すか悩み始めたようだ。あれこれと指折り数えて、うんうん唸っている姿は実に愛らしい。
「よし、まずはお兄ちゃんに任せてもらったところを片付けないと」
 その間に、ミラベルは二階の清掃と溜まっていた書類の整理をする手筈になっている。
 ミラベルはああ言っていたが、少しでも彼に恩返しをしたい気持ちに変わりはない。
 腕まくりをして、小さな箒を構えたオデットは、早速暖炉の中の煤やら灰やらを掻き出し始めたのだった。