誰かに呼ばれる声がした。オレの目蓋はそれだけで持ち上がってやるほど安くはないので無視をかます。ソプラノを歌うならこんな声なんだろうなと思うひとの音だ。重ね続けられる「起きて」の意味は理解しているけど、やっぱり起きてやらない。すると、突如頭に負荷がかかった。
「いた、イタタタ! 痛い!」
「アンタが起きないからでしょ!」
ぐしゃぐしゃにされた髪を手櫛でとかしながら、オレはようやく重たい目蓋をのろのろ押し上げると、眼前に居たのは思い描いていた通りの人物だ。
「もっと良い起こし方あっただろ、なのか」
「丹恒が席とってくれてるの!早く行かなきゃ」
「えぇーどこいくのぉー」
「ファミレス行きたいって言ったのはアンタじゃん……」
教室で目覚めたオレは迎えに来たなのかに連れられるまま自転車を漕ぐハメになる。チャリって2ケツ良いんだっけ、と最もらしい事をなのかにぶーすか言ってみたら、ウチのせいじゃないもん、とあしらわれてしまった。
「アンタが寝てなければウチが迎えに来ることも無かったし、共犯になることもなかったんだからね!」
「あ、ちゃんと罰則あるのは分かってんのね」
「ヘルメット借りてくる時間はない! はい漕いで! それともウチが漕ぐ?」
女の子の背中でのんびり風を浴びるだけなんて、カフカなら許してくれるかもしれないけど、オレはちょっといただけないなぁと思うし、まあカフカもなんだかんだ「あら、」とか意味ありげに笑いそう。思ったことをそのまま声に乗せると、なのかは不思議そうに首を傾げた。
「そのイマジナリーフレンズ的なカフカさんって誰?」
「おいおい馬鹿言うな、カフカはカフカじゃん」
「もー、いつものホラ?」
「ホラじゃなくて、え? ハンターの存在ってそんなすぐ忘れるもん?」
「ハンターに追われてる設定ってことね、オッケー、じゃあアンタが漕いでね!」
ハンターに追われているのではなくて追っているというか、そういえば、そもそもどうしてオレは学校に居て、制服を着ているんだろう。目に見える風景は知っている気がするのに、オレはこんな街も国も知らない。どこか仮想空間で見たんだろうか。
悩みたかったのに、なのかはそんな暇を与えてくれなかった。渋々ペダルを漕いで、思ったよりも急な下り坂を下っていく。オレは学校に通っていて、いや、通ってなんかなくて、オレ達は列車で次を目指していたはずで、向かう先は丹恒の下でもなくて、あべこべなものが多すぎてこんがらがってきた。
「なのかー」
「なーにー」
「ここにいたらさー忘れたものも思い出せなくない?」
「えぇ、なんの話?」
「オレのセリフなんだけど!」
自分の目的も忘れてんじゃねぇか。ブレーキが何故か効かない自転車を持ち前のセンスでどうにかバランスを保ちつつ、とにかくどこにあるのかも知らないファミレスを目指す。何度掴んでもブレーキはかからない。でも、衝突もしない。オレが覚えていることをなのかは覚えていない。なんだろう、この違和感。
「ねえ××」
後ろに乗っているはずなのに、なのかの声は真横の耳元から聞こえた。どんな体勢になってもありえない方向から、誰か認識できない名前を呼んで。
「それ、オレの名前?」
「××」
アルトなんか通り越してテナーになった音を拾った途端、身体が宙に浮く。
「覚えている」
混ざった声は、知っていた。あの、刃こぼれを知らない刃みたいなひと。今はもうカフカが居ないと生きてけないひと。
多分、あのひとは、独りで生きられないひとだ。
そんな人に覚えられてるオレは、どうして何も覚えてないんだろう。
「穹」
意識を取り戻したのは、丹恒の肩の上だった。フガ、と鼻がダサく鳴って、預けていた頭がやんわりと押される。
「肩を貸すのはこの際良いとして、涎はやめてほしい」
「……え、じゃあこれからも丹恒の肩を枕にしていいんだ……」
「そうは言っていない」
本を読んでいたらしい丹恒からようやく頭を退けてやって、意外と凝り固まっていない体をのんびり伸ばす。ついでに辺りを見回すと、全て見知った景色だった。ここは星穹列車の車内だ。少し遠くに姫子となのか、パムが居る。
いくら辺りを探しても古びた校舎はなかったし、自転車もない。なぜか馴染まない制服を着てもいなければ、ファミレスでオレ達を待っているはずの丹恒が居る。
「ちなみにさ、席取ってたりした?」
「一体どんな夢を見ていたんだ。――いや、言わなくていい」
「つれない……本当につれない男なのに優しいから困っちゃう……」
涎はオレの口からこぼれることなく収まったようだ。ありがと、と肩を叩いてねぎらっていると、いつのまにかなのかがやってきていた。
「やっと起きたね、寝坊助さん!」
「え、オレそんなに寝てた?」
「ウチがこっちに来た時には寝てたよ。十分前くらい?」
丹恒が異を唱えないところを見るに、事実らしい。
「なのかってさ、丹恒をファミレスで待たせてた?」
「……え、なに……ウチがなんだって? ファミレスって?」
「オレの名前は?」
「穹でしょ? まだ夢心地?」
呆れた顔でも、今日は丹恒よりはまだ取り合ってくれるらしい。オレの隣に腰を下ろしたなのかは、オレの名前をもう一度当たり前のように呼んだ。
「ウチが知ってるのは穹だよ。夢の中では知らないけどっ」
「アハハ。――あのさあ、これはオレにしては真面目な話なんだけど」
突拍子もない問をしたうえで更に何を言うのだろうかと怪訝そうななのかに、オレは寝起きのわりには重たくない目蓋を一度だけ擦って、それからもうひとつ問う。
「なのかは過去の記憶を取り戻したいわけじゃん。今の記憶と引き換えに失った記憶を取り戻せるんだとしたら、それでも過去が欲しい?」
あまりにも唐突だったからか、間のオレを無視してなのかと丹恒が目を合わせる。頭でも打ったんじゃない? と心配されたけど、丹恒の肩は少なくとも防具が無ければ低反発枕みたいなもんだ。
「なんか見たの?」
「んー、夢の中のなのかは、何も忘れてなかったから」
忘れたことさえ忘れて、忘れていない人になっていた。覚えていることなんて、なんにもないふうに。別になんにも執着してない、ただの人だった。
「ウチが皆を忘れちゃうってことだよね。撮ってる写真とかも消えちゃうの?」
「そう。オレや丹恒や皆を忘れる代わりに、なのかは今探している自分の記憶を取り戻すの。そしたら写真に写ってるもんも意味ないじゃん?分かんないんだから。本当の自分を思い出したら、もう三月なのかでは居られないってこと」
「ええ……丹恒は飲月の記憶があるから、ウチも同期? 継承? するんだと思ってた。……それに、分からなくても写真があるならそれは手掛かりじゃん。今よりよっぽどマシかも!」
丹恒は何も言わない。ただ、読んでいるはずの本はさっきから1ページも進んでいなかった。
「んー、とりあえず、まずはどっちも残しておける方法があるか探してみるかなぁ……? アンタはどうするの?」
「オレ? オレかー、そうだなあ」
覚えてくれている人が何処かに居るなら、オレは自分を忘れたって構わないけど。
あまりにもするりと言葉がまろび出て、自分でも驚いた。まるで、いつかの自分が既に結論を出しているかのように。
どこかで存在していたらしいオレを「覚えている」という人間が居れば、それはオレが居た証だ。詐称されていても、そこに在るという人間が居たのなら仮定だとしても存在出来るから。器が同じだけで中身が違ったとしても、同じ器に入れるならそれは同一と言っても良いんじゃないか? なんて、オレは思ったりする。それは丹恒の生き様の否定にも近いから、飲み込むけど。
「覚えている」
ああそうか、なんでアイツがあんなことをわざわざ口にしたかって、それくらい些細なオレの存在証明だったのかも。
いつか、アイツはアイツが覚えているオレを教えてくれるかな。
そう思うとほんの少しだけ興味が沸いて、それでもって忘れられないことの方が忘れているよりもよっぽど可哀想な気がした。丹恒の悩みの種だって忘却出来ないから起こっているわけで、得てして記憶と知識って足枷なんだなあと思ったり、なんだり。
「アンタ、もう少し寝てきたら?」
心底心配そうな顔をしているなのかと、想像よりも難しい顔をしている丹恒はやっぱり制服を着ていない。ファミレス、行ってみても良かったな。オレだけは覚えていられたはずなのに。
本当に今が現実か定義出来ないって、オレはとっくのとうに理解している。ただ、オレがここを現実だと決めているだけだ。
オレを覚えていると言ったアイツの目指す現実は、一体どこだったんだろう?
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