悲しんでいる暇などなかった。
この非常事態をどうするか。それが最優先で考えなければならないことだった。
悲しんでいる暇などなかった。
取り乱している時間はない。
俺が代わりに指示を出さねばならない。
そしてこの人を一刻も早く逃がしてやらねばならなかったから。
悲しんでいる暇などなかった。
急いでこの人がお気に入りだった大きなコートを着せた。いつも離さなかったロザリオをきつく握らせ腕に巻き付けた。
重し代わりにもなるだろうからと他の奴らがあれもこれもと持ってきた。
それらを鎖でこの人の足に縛り付けた。
怒号や砲撃の音が止まない中必死にこの人が出かけるための支度をした。
この人はちゃんと洒落た格好をしないと出かけてくれないから。
着る服がない!と船を降りてくれないから。
だから自分が考えられる精一杯を施した。
時間が無い。
さよならだのなんだのなんて時間もない。
だから、
だからもう、
この手を離さなければならない。
虚ろになった青い瞳がもうこの人がいないことを嫌でも突きつけてくる。
最期の姿を目に焼きつける時間もなかった。
だからこの虚ろな目をしっかりと覚えていることにした。
大きくて重い体を何人かでなんとか持ち上げさよならも言わずに海へと投げた。
逃げろ。
逃げればいいんだ。
逃げ切っちまえよ海の果まで。
そしたら勝ち逃げだ。
この海なら誰も追いつけやしない。
あんたが愛したこの海なら。
あんたを愛するこの海なら。
この後俺たちがどうなろうとも、最期の時に死にたくないと、助けてくれと、死への恐怖であんたを恨んでしまったとしても。
後悔と恐怖と恨みが俺たちの心臓を焼き尽くしたとしても、そんなことあんたは知らなくていい。
あんたが1人逃げ切ったのなら、それでいい。
水の音。
眠っていたのか?
起き上がるとそこは真っ白な空間で、浅く、温い海水があるだけだった。
体が重い。水を吸った服が重い。
いや、重すぎる。
ふと自分の格好に目をやるとなにやらちぐはぐな格好をしていた。ひとつひとつの服やアクセサリーに覚えはあるのだがこんな組み合わせできたことは無い。
....ああ。
なるほど。
....身支度をしてくれたのか。
静かな空間に水が滴る音だけが響く。
...全て、任せてしまった。
あまりに、、、あまりにあっけなかった。
ひどく震えた息が口から零れた。
何も。それだけ。
それだけしか。
それだけしかできなくて。
ただただ震えた息を深く吐き出すだけ。
濡れた大きなコートからは古びたにおいがした。
肩にかけられたストールも少しずつ色を濃くしながら水を吸い上げている。
ああまったく、出かけられない。
これじゃあどこにも行けないじゃないか。
水の音。
嘘みたいに静かなどこか。
誰もいない。
水の音。
小さな声。
「?」
俯いたまま私はその声がなにか聞こうとした。
小さな声。
遠くから。
呼んでいる。
確かに、
そう、あれは確かに、
「「「「あんたを呼ぶ確かな声だ。」」」」
「!」
はっと顔を上げる。
視線の先にうっすらと青い光がある。遠くて、弱くて、今にも消えそうなそんな光。
「あ、」
掠れた声が思わず零れた。
応えてと声がする。
お願い応えてと。
よろめきながらなんとか立ち上がる。
水がざあっと体から落ちていく。
1歩、また1歩とその光へと歩みを進めた。
「ああ。私だ。私を、呼んだかい?」
「....私は、バーソロミュー・ロバーツ。海に生きて、海で死んだ。」
「....大勢の船員を率いるキャプテンだった。」
青い光はじっと話を聞くかのようにそこにある。
「あっという間の人生だった。....あまりにも。」
「...だけれど確かに私の人生だった。私は、」
いつものロザリオをぎゅっと握る。
唇をぎゅっと噛み、離し、それからにっと笑ってみせる。
たしかに目を開き、まっすぐにこの先の海路を見つめた。
...いやあ、失礼。少し寝ぼけていたようだ。
やり直しをさせてほしい。こほん、
「私は、バーソロミュー・ロバーツ。優秀な船員たちを率いて海を旅し、略奪のかぎりを尽くし、海に生きて海で死んだ。とっても優秀なキャプテンさ。」
応じるとも。
新たな船出には優秀な船乗りが必要だろうからね。
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