RINGO
2025-02-11 23:17:56
3850文字
Public 境界の灯
 

境界の灯6

エリオットくんは一人で被害者の会を作れるの巻

 ここに引っ越して2日目の朝が来た。
 薄暗い部屋の中、エリオットは少し重たい体を起こして、カーテンを開く。
 差し込む朝日が眠気を覚ますには、まだ少し足りない。

 ゆっくりと服を着替え、備え付けの洗面台に向かう。蛇口をひねれば冷たい水が流れ出し、彼はそれを手に掬って顔を洗った。水滴を拭きとりながら鏡に目を向けると、寝癖があちこち跳ねているのが目に入る。昨日買ったばかりのブラシを手に取って髪を整えると、満足したように鏡に映る自分を見つめた。

「エリオット。」

 自分の名前を呼ぶ声がふと、耳に届いた。
 音源が分からず、エリオットは左右を見渡したが、部屋には自分以外誰もいない。宿泊客も今日は自分以外いなかった筈だから隣の部屋にも他に人間はいないだろう。
 蛇口から落ちる水滴の音だけが微かに聞こえた。
 気のせいだと確認するように、エリオットは口を開く。
「誰……?」
 部屋に少しだけ響いた自分の声に返事がない。彼は安心したように胸に溜まっていた息を吐いたのもつかの間、左手が突然、意思を持ったかのように動き出した。
 驚く間もなくその手がエリオットの顎をグイっと、無理矢理顔を正面の鏡へ向けさせた。
 
……ここだよ、エリオット。」

 鏡に映る自分の顔。だが、それはいつもの自分ではなかった。目は笑っているが、意地悪そうに細められ、口元には冷笑が浮かんでいる。自分がそんな表情をするはずがない。だが確かにそれは自分自身の顔だった。
 パニックに陥りながらも身体を動かそうとするが、顎を掴む左手の力が緩む気配はなく、それどころか、口元が自分の意思に反して勝手に動き始めた。
「へぇ……体全体とは言わずとも、寝ぼけているお前なら……
 顎に手を添え顔を固定されたまま、視線が逸らされ、調子を確かめる様に空いている右肩を大きく回しているのを確認している。
――これくらいなら、動かせるみたいだな。」
 その声は確かにエリオットの声だった。だが他人事のように発せられる言葉やそこに滲む冷たさや皮肉めいた響きは自分のものではない。
(どうして‥‥どうして僕の身体が動かせなくなっているんだ?!)
 恐怖でゆがんでいるだろう表情は、中にいる“何か”が表立っているのか、彼の感情とは裏腹にその表情は含み笑いをしていた。
……まぁ良い」
 視線を鏡に戻され、自分の顔をした何かが目線を合わせてくる。
「エリオット。俺は――……
 目の前で繰り広げられる現実離れした光景に、エリオットの胸には、どっと恐怖が押し寄せる。
(早く、早くどうにかしなくちゃどうにか……
 必死に頭を回転させるエリオットには“何か”が話す言葉など全く耳に入ってこなかった。

 一気に目が覚めたエリオットは、恐怖と混乱を抱えながらも自分の意思で右足の指が動くことを確認ができると、瞬時に体制を倒して足先で床を蹴る。
 ベッド横に立てかけてある自身の剣に向かって走り出した。
「おい!何考えてんだ?!」
 “何か”の不意をつけたのか、顎を押さえつけていた左手は外れ、体が自由に動けるようになった。
(自分の体を操られるくらいなら……!!)
 滑り込むように剣の元へ辿り着くと、勢いよく柄を掴み、そのまま鞘を投げ捨てる様に抜き剣を構え、刃先を自身の首に沿わせるように向けた。
 「……!」
 どちらが発したのか、息を呑む音が聞こえた。
 部屋に時間が止まったような静寂が広がる。
 この自分の体を動かす“何か”の正体は分からないが、これを許せば他人に危害が及ぶ。守るために培ってきた自身の肉体を奪う事に使わせるなど言語道断だ。
 意を決して、腕に力を籠めると刃先が首の間際でガタガタと震え、それ以上動かせなくなった。
「馬鹿、やめろ!!」
 慌てた声が喉から飛び出した。だがそれは、エリオットの意思ではない。
……彼女が来る前に、早くしなければ!)
 彼は歯を食いしばりながら、息を深く吸い込み、口から吐き出す。
……お前が何かは知らないが、兵士で、武器を所持している自分の体を操られるなら、死んだ方が周りに迷惑を掛けないだろう!!」
 エリオットは決然と答えると、その声に反して自分の喉から言葉が勢いよく発せられる。
「ふざけんなよ?!だから、俺が今説明しようと……
 最後まで聞く必要がないとエリオットは、微かに反発する力が緩んだ腕に力を込めて刃先をわずかに首に触れさせると、冷たい感触と共に熱が生まれた。
 だが、次の瞬間緊迫した空気を反するような音が室内に響く。

 コンコン。

 ドアの向こうから控えめなノック音。
……エリオット?起きてる?朝ごはんできてるよ?」
 フィオナの柔らかい声が静かに響く。

 その瞬間、エリオットの口が勝手に開き、肩を上げ、大きく息を吸った。

「フィオナ!!助けてくれ!コイツ、話を聞かない!!」
 喉が震え、大声が廊下にまで響く。その声は明らかにエリオット自身の物だったが、別の人物が叫んでいるようだった。
 緊迫した声にフィオナは慌てた声で「開けるよ?!」と言い、持っていたスペアキーを差し込み、急いでドアを開けた。
 目の前に広がったのは――エリオットが自分の剣を首元に当てて、険しい顔をしている光景だった。彼女は、息が詰まり、足が一瞬すくんだ。
「っ!何してるの?!」
 叫びながら駆け寄ろうとするフィオナに、エリオットは苦々しい表情で制止の声を上げた。
……フィオナ!!近寄らないで!僕の身体に……何かがいるんだ!!」
 その言葉に続けて、エリオット自身の口から全く異なる調子の声が響く。
「この馬鹿、全っ然話を聞きやしねぇ!フィオナ、お前からも言ってやってくれ!」
 
 矢継ぎ早に叫ぶその光景は、まるでエリオットが一人で真反対の会話を繰り広げているかのようだった。
 
 フィオナは一瞬だけ戸惑ったが、すぐに気持ちを落ち着ける様に深呼吸するとエリオットに向き直る。
 ゆっくりと彼に歩み寄り剣を持つ彼の震える手の上にそっと自分の手を重ねた。
「フィオナッ!」
 エリオットは軽く首を振りながら、泣き出しそうな顔で恐怖と混乱の声を響かせた。だがフィオナは動じず、その手に軽く力を籠めると、まっすぐに彼を見据えた。
……剣を下ろして、エリオット。」
 その声は普段の柔らかさではなく、鋭さを持った響きだった。
 エリオットの目が揺れる。もし、力を緩めた瞬間、制御の聞かない身体が彼女に危害を加えたら……恐ろしくて下ろすことなどできそうもない。
 
 しかし、フィオナは握っているエリオットの手をそっと優しく撫でた。冷え切っていた指先が温まり、繰り返される穏やかな動きに次第に硬直していた肩が少しずつ下がる。
「大丈夫……大丈夫だよ、エリオット。」
 彼女の安心させるような口調に、エリオットは一度だけ深く息を吸い込むと、納得がいかないように口を少し曲げながらも、ゆっくりと剣を下ろした。
ありがとう」
 その言葉を聞くと、彼はようやく張りつめていた空気を吐き出し、力の抜けた肩を下ろした。その目はまっすぐにフィオナを見つめている。まるで「説明してほしい」と促すような視線だった。

 フィオナはその目を受け止め、ほんの少し視線をさまよわせた後、ゆっくりと口を開く。
……あなたの中にいるのは、モフモフっていう私の家族なの……と言っても、私も昨日知ったんだけれど……
……モフモフ?」
 聞きなれない名前に、エリオットが不思議そうに眉をひそめて聞き返す。

「ええっと、3年前にここで保護した狼の子供なんだ。本当はもっと早く紹介したかったんだけど、その時にはいなくなってて……。」
 フィオナの言葉を途中まで聞いて、エリオットは自分の中でなんとか状況を整理しようとする。
「その子が僕とどういう……
 エリオットが言葉を探していると、突如として自分の口が勝手に動き出した。
「だから、紹介したいときにはお前の中に入ってたんだよ」
 突然勝手に話し出した自分の口に、エリオットは驚愕の表情を浮かべ、咄嗟に右手で自分の口を塞いだ。
 顔を赤らめながらフィオナに目を向けたが、彼女は咄嗟の事で驚いた様子で固まっていた。エリオットは狼狽えながら首を振って言葉を絞り出す。
……い、今の、僕じゃない!」
 一瞬、部屋がしん……と静まり返る。
……それがモフモフだよ、エリオット」
 フィオナが少し困ったような笑みを浮かべながらエリオットに伝えた。
 その言葉を聞いても、エリオットの顔にはまだ困惑が色濃く残っている。

……モフモフも、エリオットがああいう事をするってことは、伝え方が悪かったんじゃないかな」
 そのフィオナの言葉に、エリオットの身体がピクリと動いた。
 そして彼の口を覆っていた右手が強引に引き剥がされる。
「そんなわけないだろ!コイツが話を聞かないだけで!!」
 エリオットの口から飛び出した反論は、明らかに彼自身のものではなかった。
……フィオナ?本当に大丈夫、なんだよね?」
 突然、体の自由を奪われた恐怖にエリオットが眉を寄せながらフィオナを見つめる。
 その瞳には恐怖と戸惑いの色を浮かべ、泣きそうな表情をしている。
「大丈夫……だと思う。」フィオナは微笑もうとしたが、思う様に力が入らなかった。