のたり
2024-10-28 08:11:38
3870文字
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今日は


朝、目が覚めたとき、雫はもういなかった。
いつものようにランニングをしようと思っていたからまだ早い時間なのに、雫がいたはずの隣はからっぽになっていて、リビングの方から小さな物音がしていた。
もう起きてるんだ、雫が起きてるなら今日はランニングはやめようかな、なんて思いながらベッドから出てリビングに向かう。リビングのソファーでくつろいでいる雫の姿を見て、少しほっとした。
「おはよう、雫」
「おはよう、遥ちゃん」
「早いんだね」
「遥ちゃんもね。これからランニング?」
「うん、そのつもりだったんだけど……
「遥ちゃんがランニングしてるあいだに朝ごはん作っておくわ」
雫はふわりと笑ってそう言った。
……じゃあ、お言葉に甘えてそうしようかな」
今日はいつもより短いコースにしよう。「いってきます」と声をかけて、家を出た。
帰ってきたら、おみそ汁のいい匂いがしていた。
「おかえりなさい。シャワー浴びるでしょう?」
「うん」
早く浴びてしまおうと思ってバスルームに向かうと、もうバスタオルと着替えが脱衣所にきちんと置かれていた。
なんだか至れり尽せりだな、と思いながらシャワーを浴びてバスルームを出たら今度は「こっちにきて」とソファーの方へ手招きされた。
「ここに座って」
雫がしたいことはわかった。だって雫の手にしてるのはドライヤーだ。自分でできるよ、と言おうかと思ったけれど、雫の笑顔に素直に従うことにしてソファーに座った。
「熱かったら言ってね」
「うん」
雫の手が頭に触れて、それからドライヤーの熱風がかかる。ドライヤーと頭の距離のせいなのか、いつもより気持ちよくて思わず目を閉じた。
丁寧に乾かされて、その後に少し冷たい風。最後に手櫛でセット。
「はい、できたわ」
「ありがとう、雫。気持ちよかった」
「そう? よかった。じゃあ朝ごはんにしましょうか」
「うん」
料理を運ぶくらいはしようと思っていたのに、座っていて、と促された。私の前に並べられていく朝食。お茶くらい、とも思ったのに、それさえセットされ、テーブルの上にセットされたポットからお湯を入れるだけになっていた。
……
雫が世話焼きなのは知っているけれど、今日は少し度が越している気がする。このままだと自分で食べさせてもらえないかも。……って、まさかね。ーーそう思ったのに、雫は私に箸を用意してくれなかった。私の箸は雫の手元にあって、料理の入った食器も気持ち全部雫側に寄っている気もする。
「遥ちゃん、なにから食べる?」
これは私に食べさせる気満々だ。
「雫、大丈夫だよ、自分で食べるから」
箸を渡してもらおうと手を差し出す。
「そう?」
「うん」
雫は少し首を傾げて何かを考えて、それから箸を渡してくれた。
「いつでも言ってね」
「うん、でも大丈夫だから」
いただきます、ともう一度言ってから、おみそ汁に手を出した。
朝食は洋食のことが多かったけれど、雫の作ってくれるおみそ汁はすごく好きだ。
ふ、と自然に息をつく。そんな私を雫はずっと見守っていて、それからふわりと笑った。
……どうしたの? 雫。今日、なんだか私のこと甘やかそうとしてない?」
「そうかしら」
「そうだよ」
雫はふふっと笑った。
「遥ちゃん」
「なに?」
「せっかくだし、今日はたくさん甘えて?」
なにがせっかくなのかもよくわからないんだけど。
……うん……
けれど、私もなぜか素直に頷いていた。
朝食を終えて、食器を洗う雫の背中にもたれるようにそっと頭をつけた。食器は私が洗うよ、と言ったのに、雫は私に食器をシンクに運ばせてくれただけだった。ひとりでリビングにいるのが寂しくなって、雫の傍に行った。邪魔かなと思ったけれど、後ろから緩く雫を抱きしめた。雫は洗い物の手を一度止めて、ぽんと軽く頭をつけてくれた。
「もう少しだから待っていてね」
……うん」
雫の動きを邪魔しないように、それだけを気をつけて、ずっと雫の背中に頬を当てていた。雫の背中は華奢で、肩幅は私の方が広いかもしれない。でもその温かさも柔らかな髪から香る匂いも、私を安心させてくれる。
……なんだろう。今日、変だな、私。でも、あまり何も考えたくない。
「終わったわ、遥ちゃん」
いやだな。もう少しだけでもこのままこうしていたい。頭を軽く擦りつけたら、雫は頭を撫でてくれた。
「遥ちゃん。このままでも構わないけれど、一緒にソファーに行かない?」
……うん」
一応頷きはしたけれど。
……ソファーよりベッドがいい」
そう呟いた私に、雫は「ええ」と笑ってくれた。
先にベッドに入って横になった私に丁寧にブランケットを掛けた後、まるで海外映画の両親がするみたいに雫は額にキスをした。雫が私と向かい合う形で横になる。
「雫、向こう向いて」
「向こう?」
「うん」
雫が寝返りを打って私に背中を向けた。
「こう?」
「うん」
雫を後ろから抱きしめて、身体をぴったりと重ねるようにして頸に顔を埋めた。
ーーやっぱり、雫にくっついていると安心する。穏やかで静かで、心地良い。
「なにか他にリクエストはある? 遥ちゃん」
お腹に回した腕をそっと撫でながら、雫はそう言った。
リクエスト? ……なんだろう。雫にしてほしいこと。
……あ、なにか話してほしいな」
「え?」
「雫の声を聞いていたい」
「そうねぇ……。あ、歌でもいいのかしら」
「うん」
「じゃあ歌うわね」
雫が選んだのは、聞き覚えのある合唱曲だった。たしか、去年隣のクラスが歌っていた。もしかして雫も1年の時に歌っていたのかな。
目を閉じて、雫の声に耳を澄ます。柔らかくて透明感のある歌声。私の腕の上で指でとんとんとリズム刻む、その振動も心地良かった。
雫はまるで、どこまでも透き通った海みたいだ。
……
……ああ、そうか。不意に昨日見た夢を思い出して、腑に落ちた。
真っ青なペンライトが波のようにさざめく、海みたいな景色。
あの中にいるのは、明日への希望を求めるファンのみんなだ。みんなに希望を届けて、希望を受け取ってくれたファンのみんなの声で私はまた走り出せる。それがひとつ途切れたとき、私の足は動かなくなった。
まだ歓声は聞こえる。私を呼ぶファンの声。
走らなきゃ。希望を届けなきゃ。それができない私に、なんの価値があるの?
大好きだったはずの青い光が、黒く沈んだ夜のような海に変わっていって、背筋が冷たくなる。
ーー遥ちゃん。
うねるような歓声の中、隙間を縫うみたいに柔らかな声が聞こえた。
私はその声を知ってる。
強張る身体から少し力が抜ける。振り返ってしまったら、私はもう走れないんじゃないか。そんな不安が一瞬胸をよぎったけれど、もう一度名前を呼んでほしくてたまらない。
「.雫……
ふっと視界が広がった。薄暗い部屋。見慣れた天井。
ーー夢、か。夢だ。
状況を理解してため息をつき、私はまた目を閉じた。
まだ時々ステージに立てなくなった時のことを夢に見る。
きっと私はうなされていて、雫はそれを知っていたんだろう。だから今日は、こんなふうに。
心配しなくても大丈夫だよって、そう言っても雫はいつも言うんだ。「遥ちゃんが大丈夫なのは知っているけれど、甘えてほしいの」って。
もっと身体を寄せて、ぎゅっと抱きしめて、雫の足に自分の足を絡める。雫の歌が一瞬途切れたけれど、ふふっと小さな含み笑いの後、また聞こえ始めた。


目が眩むようなペンライトの海。海鳴りのような歓声。
ーーあぁ、これはまた夢だ。
もう私はそこへは戻れない。戻らない。丸まってしまいそうになる背中を伸ばして、振り返る。振り返った先には、草原が広がっていた。顔を上げる。足が軽い。もっと、今までよりもっと高く飛べそうな気がした。
次に目が覚めたとき、雫は同じように私の腕の中にいた。雫の手は私の腕に添えられた雫の手から力が抜けていた。もしかして、雫も眠っちゃってるのかも。雫の頭に擦り寄ったら、「ん」と小さな声がした。
「起きたの? 遥ちゃん」
「うん」
「もう少しこうしている? それとも何か食べる?」
「起きる」
雫のお腹に回していた腕を解いて、ベッドに肘をついて身体を少し起こした。
「雫」
振り返るようにこっちを向いた雫の頬にちゅっとキスをした。そのまま何度も気が向くままキスを落とした。
「ん」
雫がくすぐったそうに目を細める。その瞼にもキスをした。
「なぁに? 遥ちゃん。どうしたの?」
「雫に甘えてるだけだよ」
「そうなの?」
くすくす笑いながら、雫は仰向けになって、私の首筋に手を当てた。親指で頬を撫でる。
「いっぱい甘やかしちゃうから、いっぱい甘えてほしいわ」
雫のブルーグレーの瞳の中に私が映る。
……雫」
「なぁに?」
「好きって言って」
雫は何かを読み取ろうとしているかのように私の目をまっすぐに見て、そっと私の頬を撫でた。
……好きよ、遥ちゃん」
そしてふわりと笑う。
「私は、どんな遥ちゃんだって大好きよ」
……うん。ありがとう、雫」
胸が痛いくらい締め付けられて、涙が出そうになった。それを知られたくなくて、雫の肩に顔を埋めた。そんなことしても、雫にはわっちゃってるんだろうけど。
「私もどんな雫も好きだよ」
私より雫はずっと強い人だけれど、それでも雫がつらい時には支えられるような人になりたい。
ーーあぁ、でも今日は。
「いっぱい甘えさせてね、雫」