のたり
2023-08-08 23:31:22
3323文字
Public hrsz
 

夏のお嬢様と専属執事さん


ベッドの上に広げた荷物を前に小さくため息をついた。
もうすぐ夏の休暇。帰省する人数も多く、この屋敷の使用人はほぼいなくなる。私も明日には避暑地の別荘へと向かう。秘密の隠れ家のような別荘はお気に入りの場所で、行くのは毎年楽しみにしていたのに、今年は少し気持ちが沈む。
お気に入りの帽子、お父さまから貰ったワンピース。今年も妹は一緒に行かないし、水着はどうしようかしら。
不意に部屋に響いたノックの音に振り返る。
「お嬢様」
扉の向こうから聞こえたのは、遥ちゃんの声。
「どうぞ」
そう返事をしたら、いつものように扉が開いて遥ちゃんが姿を見せた。そして部屋の様子を見て少し目を丸くした。
「まだ荷造り終わってなかったんですか?」
「ええ。さっき始めたばかりなの」
「手伝いますよ」
「あ、でも……
「なんです?」
「遥ちゃんも自分の分の荷造りがあるんじゃないの?」
なんだ、と言いたげに遥ちゃんは笑った。
「もう済ませました。お嬢様も早く済ませて、お茶にしましょう」
いつもなら胸が弾むお誘いなのに、今日はちくりと痛んだ。
……お嬢様?」
顔に出てしまったのか返事を返せなかったことが原因なのか、遥ちゃんが少し心配そうに私の顔を覗き込む。
「どうかされました? 何か気掛かりなことでも?」
「いえ、なんでも……
笑顔で取り繕おうとしたけれどうまくいきそうになくて、諦めて口を閉じた。それからもう一度ゆっくり口を開いた。
……明日から少し寂しくなると思っていたの」
明日からしばらく会えないのに、楽しそうな遥ちゃんに胸が痛む。休暇を楽しみにするのはあたりまえなのだから、遥ちゃんが悪いわけじゃ全然ないのに。けれど、寂しいと思っているのは私だけなのかしら。
「ああ、こちらと別荘では使用人の人数が全然違いますからね。ご希望でしたら同行者を増やすよう手配しますが」
「いいの、大丈夫」
「そうですか?」
「ええ」
同行者が何人いても変わらない。その中に遥ちゃんはいないのだから。
……お嬢様」
遥ちゃんは少し困ったように眉を下げて、穏やかに笑った。
「お嬢様は寂しいかもしれませんけど、私は楽しみですよ」
「そうよね、ここにきて初めての休暇だものね」
「はい。お嬢様と過ごす初めての夏休みですから」
……え?」
きょとんとした私に、遥ちゃんもきょとんとした。
……遥ちゃんも私と一緒に行くの?」
「勿論。雫お嬢様の専属執事ですから」
そう言って遥ちゃんは目を細めた。
「お嬢様に寂しい思いをさせないよう、頑張りますね」
てっきり遥ちゃんも帰省すると思っていたのに。遥ちゃんがいてくれるなら、寂しくなんて……
「メイド長に色々話を聞きました。別荘の方が淹れてくれる紅茶はお嬢様のお気に入りだとか、お嬢様がすぐひとりで出掛けて迷子になってしまうとか」
「あ、あれはお散歩していただけよ? ……たしかに何度か道がわからなくなったけれど……
かあっと顔を赤くした私に、くすくすと遥ちゃんは笑う。
「じゃあ散歩には私も連れて行ってくださいね」
……ええ」
「ちゃんと水筒も持っていきますから」
「ええ」
「タオルと着替えと……、あ、あとなにか軽食も……
真剣に考えはじめた遥ちゃんについ、ふふっと笑みが漏れた。
「な、なんで笑うんですか」
「だって遥ちゃん、お散歩ってもっと気楽でいいのよ?」
……そうですか?」
「ええ」
遥ちゃんとふたりでお散歩するのを少し想像してみる。きっと楽しいに違いない。
「海が近いのは聞いた?」
「ええ、とても砂浜が綺麗だと」
「ええ。シーグラスや貝殻も時々落ちているの」
「探しましょうか」
「一緒にね」
「はい」
「遥ちゃんは水着持ってる?」
「いえ」
「じゃあ買いに行きましょう?」
「えっ、これからですか?」
「ダメかしら」
「ダメではないですが……、お嬢様、まだ荷造り終わっていませんよね?」
「あ」
こんなことならちゃんと済ませておけばよかったと少し後悔した。そんな私に遥ちゃんは笑う。
「他の者に買ってきて貰うよう、お願いしておきますね」
「ええ。お揃いのがいいわ」
……お揃いですか……?」
「ええ、だめ?」
……いえ、わかりました」
少し困ったような顔をしながらも遥ちゃんは頷いた。
別荘ではきっとほとんどの時間をふたりで過ごすことになる。幼い頃の私と妹がそうだったように。
みんなの前では背筋を伸ばして表情を引き締めていることの多い遥ちゃんだけれど、2人きりの時にふと見せてくれるようになった年相応の顔が私は大好きだった。
遥ちゃんはたくさん笑顔を見せてくれるかしら。笑顔だけじゃなく、驚いたような顔もリラックスした顔も、無防備な寝顔だって。
さっき痛んだ私の胸は、まるで魔法みたいに弾んでいた。

***

……休暇、ですか」
どうするのかと問われた私に与えられた選択肢はふたつ。帰省するか、雫お嬢様に付いて避暑地へ向かうか。そんなもの、迷う余地はなかった。
初めて会った日にこの人の傍にいると決めた。いつかお嬢様が大人になって、このお屋敷から出て行く時まで。傍にいられなくなる日がくるなら、せめてその日まで。
ーーそんなふうに思うようになったのはいつからだったろう。
ドレスを着こなし完璧な振る舞いで羨望の眼差しや感嘆のため息で迎えられるお嬢様の姿は、専属執事として誇らしくもあったけれど、私は辛いものを食べて涙目になってしまったり、調度品のレイアウトが変わっただけでお屋敷の中でも迷子になってしまうような彼女が好きだった。人のちょっとした体調の悪さに気付いて、「暑いのかしら」と食べきれないほどのアイスをたくさん持ってきてしまうような少しズレた優しさも好きだった。
傍にいたい。離れる未来が決まっているのならば、せめてそれまで。
用意して貰ったブルーベリーと水筒が入ったバスケットを持って外へ出た。玄関先の木陰に立つ姿を見つけて、バスケットの中身が偏らないよう気をつけながら駆け寄る。
「遥ちゃん」
「すみません、お待たせしてしまって」
「大丈夫よ。それより荷物、私も持つわ」
「それこそ大丈夫ですよ。私が力持ちなのはお嬢様ももうご存じでしょう?」
「たしかにそうね」
ふふっとお嬢様は笑う。
「ねぇ、遥ちゃん」
「なんですか?」
「お願いがあるのだけれど」
「ええ。なんでしょう」
「ここにいる間は『雫』って呼んでほしいの」
「えっ」
思いもよらなかったお願いに大きめの声が出てしまった。
「一応休暇中だから、ここでは無礼講なのよ? 敬語もいらないくらいなのに」
「でも……
たしかにお屋敷と比べてこちらの管理人や使用人はお嬢様に対してフランクで「雫さん」と名前で呼ぶ人もいるけれど、さすがに呼び捨てにしたりはしない。
「遥ちゃんは嫌?」
……
前屈みで顔を覗き込まれて息が詰まった。狡いな、と思う。きっと私が断れないのを知っている。あきらめてため息をつく。
……わかりました」
ぱあっとお嬢様の表情が明るくなった。それから分かりやすくわくわくと私のアクションを待つ。今から? と思わなくもないけれど、こうなってしまったお嬢様が簡単に引くとは思えなかった。
ーー雫。心の中では呼んだことのある名前を、思い切って口にする。
「雫」
夏空に響いた私の声に、お嬢様は嬉しそうにふわりと笑った。
「なぁに? 遥ちゃん」
「呼んだだけです」
「えぇ……
そんな残念そうな顔をされるのは少し心外だったけれど、そんな顔も可愛くて、つい頬が緩んだ。
……まぁいいわ。遥ちゃんがちゃんと雫って呼んでくれたし」
ため息をひとつついてから、お嬢様はふわりと微笑んだ。そして私に向かって手を差し出した。
「行きましょう、遥ちゃん」
まるでダンスのお誘いのように差し出された手に一瞬戸惑ったけれど、その手の上に自分の手を重ねた。柔らかく握りしめられた手をそっと握り返す。
ーーこの手をずっと離したくない。
浮かんでしまった欲を頭の中でかき消す。ずっと、なんて望んではいけないことだから。