のたり
2022-10-09 12:30:43
3089文字
Public hrsz
 

主従関係

今はまだ主従関係

手の甲へのキスは忠誠の印。
唇は近付けるだけで触れさせないのが正式な作法。だから彼女の指の感触を、私の唇はまだ知らない。

***

初めて彼女を見たのは15の時。
わりとカジュアルなパーティーの中で、彼女は一際目を引いた。「彼女が君の仕える相手だ」と、耳打ちされて体が震えたのを覚えている。
彼女の名前は日野森雫。
正式に仕えることになってから、初めての顔合わせの時、「『雫』と呼んでくれていいわ。同じ歳なんだし」と言って笑った雫は、3ヶ月もしないうちに誕生日を迎えた。「ひとつ歳下だったのね」と言われて、正直今更?と思った。「呼び方を変えましょうか」と一応言ってみたけれど、雫は予想どおり「雫のままでいいわ」と笑った。

「遥ちゃん」
私を呼ぶ声に顔を上げて、雫のいるバルコニーを見上げる。
「遥ちゃん、お茶にしない?」
「仕事中なので」
「あら、私とお茶をすることも仕事のうちでしょう?」
そんな会話も含めて、私達の3時のお茶会は日課になっていった。
雫はよく笑う。時にはふわりと、時には無邪気に。パーティーで見せていた大人びた笑顔はよそ行き用だとわかるのに、そう時間はかからなかった。

***

ガタンという音が雫の部屋から聞こえたのは、深夜の見回り中だった。
……雫?」
そんなに大きくはなかったけれど何事もないような音でもなくて、体に緊張が走る。反射的に雫の部屋へ向かって駆け出した。
部屋の扉をノックをしようとした時、もう一度音がして、手を止めた。不審者でも侵入したのか。いや、でも窓ガラスが割れるような音はしなかった。ノックをするべきか、そのまま開けるべきか迷って、扉に近付き耳を澄ます。
……
足音はしない。人の気配はするけれど声もしない。不審者はいなさそうだと判断して、扉をノックした。
「はい」
いつもと変わらない雫の声が返ってきてとりあえずほっとする。それと同時にまだ起きていたことが気に掛かった。
「どうかされましたか?」
「ごめんなさい、椅子を倒してしまって」
椅子? ベッド脇のスツールのことだろうか。
「入っても?」
「ええ」
「失礼します」
扉をゆっくり開ける。
……遥ちゃん」
私の顔を見て、雫は表情を緩めた。ベッドに腰掛けていた雫の足元にはスツールが転がっていた。ベッドを降りようとした時に足を引っ掛けてしまったんだろう。たいしたことがなくてよかったと胸を撫で下ろした。
「ごめんなさい、水が飲みたくなったの」
「入れますよ」
グラスに水を汲んで、雫に差し出す。
「少し顔色が悪いみたいですけど、大丈夫ですか?」
「大丈夫。少し怖い夢を見ただけだから」
「怖い夢?」
「ええ。……ごめんなさい、大丈夫。本当に、ただの夢だから」
雫は微笑んで見せたけれど、シーツを掴んだ手が少し震えていた。雫の手に自分の手を重ねて、ゆっくり解く。不安そうに瞳を揺らした雫が安心できるように、少し強めに手を握った。
「ちゃんと眠るまでここにいますから、ゆっくり休んでください」
いつものように微笑んで、ありがとうと言ってくれるのを期待したのに、雫は眉を顰めたまま、私の手を引いた。
「もっと、近くに来て」
雫の力に逆らわずに体を前に倒す。
「もっと」
……雫?」
「今夜は一緒に眠って」
「え……
「遥ちゃん、嫌?」
おおっぴらでないにせよ、そういう話は聞いたことがある。夜伽も仕事のうちだと。けれど雫に限って、という気持ちはあった。それと同時に、雫となら、とも。
……いえ」
「よかった」
雫は無邪気にさえ思える笑顔を見せて、私の手を離すと、ベッドの奥へと移動して、ぽんぽんと空いた場所を軽く叩いた。
少し思っていたのとは違うな、と思いながら、上着を脱いでから隣に横になった。雫は私の肩にシーツを被せながら、ふふっと嬉しそうに笑った。
「久しぶりね、遥ちゃんが雫って呼んでくれたの」
……そうでしたか?」
そう言ってみたものの、自覚はあった。私達の主従関係を思うと「雫」とは呼びづらくて、かといって「日野森様」や「雫様」と呼ぶのは雫が嫌がった。だから私は殆ど雫の名前を口にしていない。
「でもいいわ。今夜は一緒に眠ってくれるから」
雫が私の肩を抱き寄せて後頭部を撫でる。まるで私の方が寝かしつけられているみたいだ。きめ細やかな肌は吸い付くようで、特別に取り寄せた高級シーツよりずっと肌触りがよかった。
……遥ちゃんがどこかに行ってしまったの」
「怖い夢の話ですか?」
「ええ」
「どこにも行きませんよ」
「ええ」
ダンスの練習相手をしたときのように、腰に手を回して抱き寄せる。
……もう安心しましたか?」
「ええ、大丈夫。おやすみなさい、遥ちゃん」
「おやすみなさい、……雫」
雫の言う「一緒に眠る」は言葉通りの意味で、程なくして静かな寝息が聞こえ始めた。
いっそのこと命じてくれればよかったのに。言葉でなくともその足を少しでも絡めてくれれば。腰に回した私の手をほんの少しでも下へ押してくれてもいい。そうすれば、雫に気付かれたくない心臓の音も上がる体温も、行為のせいにできたのに。
雫を起こさないようベッドから抜け出して、グラスをテーブルに戻してからそっと部屋を出た。

***

限りなく黒に近いダークブラウンとアンティークグリーンのドレスは雫の白い肌にも透き通るような髪にもよく映える。
レースのグローブ、ガータータイツ。幾重にも重なった膝上丈のスカート。
「どうかしら」
「いいんじゃないですか」
トルソーが一番似合うんじゃないかと思えるドレスを難なく着こなしてしまうのは、流石と言える。
「あら、あまり遥ちゃんの好みじゃなかったかしら」
「そんなことは……
私の好みかどうかなんて関係ない。この姿は今日のパーティーのゲスト達に見せる為のもの。この姿に魅せられない者なんて1人だっていないだろうに。
「とても、よく似合ってますよ」
そう呟いて、笑ってみせた。
「遥ちゃんもよく似合ってるわ」
そう言って雫は、私のシャツの襟とネクタイに触れた。肩に金の装飾がついたネイビーのジャケット。今夜パーティーのエスコートを任された私の衣装だ。
「とても素敵だわ」
その言葉にたいした意味がなくても嬉しくなる。私は私が思っていたより随分と単純だ。
重なっていた視線が、雫の手の動きに合わせてゆっくりと外れていった。襟から、首元へ。そしてイヤーカフスを指がなぞった。雫が私のために用意したクローバーのイヤーカフス。
……遥ちゃん、今日も一緒に眠ってくれる?」
「ええ、いいですよ」
そう答えながらもどうなるかはわからなかった。雫が本気なのかどうかもわからない。今日のパーティーの主役は雫で、幾人ものフィアンセ候補があわよくば夜を共にすることを狙っていることを、本当はわかっているはず。
「私が眠ってしまっても、よ?」
「雫が望むなら」
雫は寂しげに微笑む。そんな顔をしないで、雫。私を選ぶことができないなら。
手を伸ばして、雫の手を下から添えるように掴む。幾人がこの手を取ってキスを贈るのだろう。幾人が腰に手を回し踊るのだろう。胸が締め付けられる苦しさを無視しきれない。グローブの上からなら許されるだろうか。その指に唇を触れさせても。
……
雫が私を見つめているのがわかる。微かにパープルの色を含んだブルーの目はどんな宝石より私を魅了する。
息がかかるほどの僅かな距離。もし、許されるなら触れたい。指先だけじゃなく、雫のすべてに。