トイレの鏡の前で自分の目を見る。あの子は、彼は、手元にあったラズベリータルトを食べながら、「キラキラしていて、綺麗だったから」と言っていた。
そのとき、年甲斐もなくなんだかとても照れてしまって、定之の目さえ見られなかった。〝うまれもってきたもの〟を褒められたことがなかったからかもしれない。目の色、肌の色。年齢によって違いは出てくるものの髪の毛とはちがってほぼ変わらない。
生まれてから変わらないものを「きれい」と喩えられたら、普通は、照れるだろう。そうに違いない、と、思い込むようにした。
培ってきた努力や知識というものはいくらでも融通がきくのだから、口八丁手八丁、どうとでも欺ける。必要なら完璧な嘘、だって。いや――嘘に、完璧も何もないか、と独りごちる。
鏡から視線を外し、白衣のポケットに両手を突っ込みながら天照の長い廊下を歩いた。天照の廊下はいつも清潔だ。清掃業務の割腹のいい女性をたまに見かけているので、ありがたいことだと思う。菊司は掃除を含む家事が昔から苦手だから、仕事できれいに掃除できる人は尊敬に値する。真っ白な床はともすれば窓辺から見える木々の影さえも落とすだろう。
葉っぱがゆらりと揺れて、風が吹いたことを知らせた。
その動きに誘われるように視線をまた廊下の先に向ける。あの喫茶店での、ラズベリータルトを思い出す。きれいな赤だった。透明な甘い蜜を纏ったようにツヤツヤとしていて、まるでよくできた宝石のようだった。それにたとえられると、やはり今でも照れてしまう。
彼にとってはそう見えるのだろう。菊司の目を、「綺麗」だと。
異様に重たい自分の研究室のノブを押す。ギイ、と軋む音が聞こえて顎をあげる。五つの液晶モニターがぼんやりと光っていた。ふと、すこし小柄な人影が視界の隅に見えた。
「……定之くん。来てたんだ」
アーチ型の窓の向こうをじっと見つめている。この窓は菊司が生まれる前からここにあったものだと考えている。ガラスも古く、気紛れに拭いてみても白っぽい汚れや経年劣化による歪みはきれいにはならなかった。
彼のとなりに立ち、視線をなぞる。
するとここから見える庭にちいさな黒いかたまりがあった。それはのそりと動くと、大きく伸びをした。
「ああ、猫。このへんに住み着いてるのかな」
「うん」
彼は一度頷くが、視線は黒いかたまりに向けられている。
苦笑して、菊司はオフィスチェアに座った。キイと澄んだ音をさせながらモニターに目を向けた。同じ場所にいるのに、正反対の方角を見ていることに気付いて、ふふ、と思わず笑ってしまった。
メンテのために預かった豊和や、刃毀れした妖刀の修復作業のデータをマウスでスクロールさせる。何百枚もの画像データを見ていると、ふいに口角が上がった。
刃毀れの入り方、いたみ方は千差万別だ。どれもこれも妖刀――神を遣う人間がおり、その人間がどんな風に妖刀を扱っているのか、刃毀れやわずかな汚れを見れば性格もだいたいは分かる。
定之が扱った豊和を見たことがある。淡々と斬ることだけを目的とした扱い方だと思った。刀遣いとしては百点満点の。――菊司が指摘できるような隙はどこにも、ない。
デスクに肘をついて無意識に口もとへ人差し指をあて、定之が使った豊和の画像データを見つめる。豊和は要所要所オートメーション化しているとはいえ、菊司が打ったものもこの中にある。
「きれいに使ってるなぁ。ほんと」
「菊司サン」
「うおっ」
足音をたてずに菊司の横に立ち、モニターを覗き込んだ姿にさすがに驚いた。
ほんとうに猫みたいな子だ。
「これ、俺の」
「そう。きみの豊和」
どうにか気を取り直して、ずれた眼鏡を押し上げながらモニターに指をそわせる。指紋がつくのですぐに離したけれど。
「どうか、した?」
「いや、きれいに使ってくれてるなあって思ってね」
「それは……メンテナンス、こまめにしてもらってる、から」
うん、と頷く。
それも確かにある。あるけれど、それ以上に必要最低限の接触で片付けているから。刃毀れの範囲と位置を見れば分かる。
「大事にしてくれてるんだね。俺が打った豊和」
「……分かる?」
「分かるよ」
あの喫茶店でね、と呟く。彼も思い当たったのか、相槌を打った。
「俺が持って生まれたもののなかに、きれいなものなんてないって思ってたんだけど、きみは〝綺麗〟って言ってくれたでしょ」
金の無心をいまだにしている生みの両親を思い出す。たしかに顔のかたちやつくりは似ていると思った。けれど、そこにうつくしいと思えるものはどこにもなかった。年齢のせいではない。薄汚れた洋服のせいでもない。からだの底から滲み出る、悪寒のする、吐き気を催すような身勝手さを、菊司は見抜いた。
産んでよかったかと最後に聞いたとき、彼らは「はい」も「いいえ」も言わなかった。黄ばんだ歯を見せてこびを売るように笑っていた。それが全てだった。
ただ単純に、こころが貧しい人たちだと思った。
「俺ねえ、外見はあんまり気にしていないんだけど、綺麗、って言われて嬉しくないわけがなかったんだよね」
ようやく、オフィスチェアのとなりに立っている定之を見上げる。
「ありがとうね」
そしてちょっぴり、笑ってみせた。
「あのとき照れちゃって言えなかったけど、嬉しかったんだ」
――本当だよ。
彼はこくんとふたたび頷いた。きっとあのときだって、彼はわかっていたと思う。それでも、言葉にしておきたかった。
「次に行く場所、ちょっと考えてあるんだ」
オレンジや蜜柑を使ったケーキがおいしいところがいいから、と笑ってみせると彼はほんのかすか、目を見開いた。
「俺が好きなとこの、ひとつだから」
ケーキを出す店のことなのか、定之自身のことなのか。そうやって狡くはぐらかすようでは、自分もまだ成熟していないらしい。
「楽しみにしててね。定之くん」
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