叶わないのは知っている

雑(→)←高 雑の自覚の話
捏造で山さんの子どもが出ます

『叶わないのは知っている』

「取らないで」
「どうして」
「取らないでほしいんだよ、どうしても」
 苦笑を浮かべると、少女は鼻筋にシワを寄せた。
「雑渡様ばかりずるい」
「ごめんね、ずるくて」

 ──女の子が鍛錬場にいるのは珍しい。雑渡は打ち合いの続く鍛錬の掛け声が聞こえるのをすり抜けて、縁側で地面につかない足を交互にはためかせている横顔を見た。細い両足は本当に、ただのひらひらとした布が舞うように見えたのだ。昼間に座敷童子でも出たかと興味が湧いたが、少し凛々しめの眉を見つけ、山本の子だとわかった。面影がある。
 頬づえをついて鍛錬を眺めていた。端の端まで見渡せるほど飽きることなく見ている。雑渡は近づいて、わ、と軽くおどかした。少女は肩を震わせて弾けるようにこちらを見たが、すぐに雑渡だとわかると無邪気な笑顔を向けてくれた。
「雑渡様はもうお休みなの?」
「そうだよ、私はあんまり長時間体を動かせないから」
 少女は長い髪をまとめることもなく、楽な出立ちでそこにいた。まっすぐに切り揃えられた髪の艶は輝くようで、母の丁寧な櫛が通っている様子が浮かぶ。
「お兄さんたちは?」
「あそこ」
 少女が指を差す先に、十代を一つか二つほど過ぎた少年が一人、その脇をそれよりも幼い少年がもう一人、山本から教えをもらっていた。父を超えるため、今は父の教えが必要な時期だ。大きくなったなぁ、と雑渡は目を細める。
「私も、もう少しで髪を結ったり、着物をちゃんと着なきゃいけなくなるの」
 少女はそう吐き出した。嫌なのだろう。彼女はもともと男勝りだ。稽古や鍛錬の場で何度も男子と同じく木刀を持とうとしていた。くのいちになる道もあるが、まずタソガレドキに生まれれば市井へ連れ出す。社交を味わってもらい、なるべく──なるべくなら外の世界へ羽ばたけるように仕向けるのだ。それは雑渡がひそかに手を加えた改憲である。くのいちに生まれた女性たちの意見のうちの一つでもあった。それを取り入れた形だ。
「嫌なんだ」
「嫌です。もっと遊んでいたいのに」
「着物を選んだり、遊びに出かけたりする楽しさも増えるよ」
「雑渡様、どうしてそれが楽しいって知ってるの?」
「女性に付き合って外へ出たことがあるから。これ以上は言えないねぇ」
 数年まえの、いつかの忍務の話だ。身分の高い女性の護衛のために赴いた地で、恋人同士を演じろと言われたのだ。口先だけの言葉を軽々と舌に乗せ、彼女は最後紅潮した頬で再会を夢見るような口ぶりをしていた。が、あれ以来会っていない。雑渡はその人の顔さえ、徹底して忘れた。
 少女はそんな事情を知らないで、複雑な顔をする。
「女たらしなのね」
「ふふ、元は一応、かっこよかったからね」
 そうなの? そうだよ。と言葉を送り合い、しばらく二人は黙った。彼女の視線がふたたび鍛錬場へ向いたからだ。
「尊奈門様より、かっこよかった?」
「どうかなぁ、君は尊奈門が好み?」
「うん……
 その頷きは、肯定なのか曖昧な言い逃れなのかわからない。好みじゃない、とはっきり言えないときの戸惑いにも感じられる。
「五条や反屋は?」
 あと椎良も。と雑渡はつけ加えて畳み掛ける。皆、それぞれの隊の自慢の男たちだ。少女はそのどちらにも首を縦に振らない。
……父君かな」
「お父様はもちろんかっこいい」
「陣内も鼻が高いね」
「そう言わないと、あとで言いつけるでしょ」
……そんなことはしないよ」
 山本の不憫を嘆きながら、さてそれでは、と雑渡は鍛錬場を見回した。晴れた午後の日差しが突き刺さり、雑渡にはまぶしく思え、うまく奥まで見渡せなかった。
 ──しかし若い彼女にはよくわかるようで、ふと井戸の方を見る彼女の目が、少し輝きを増した。水を使う音が流れ、背筋をなぞる水が滴り落ちた。
「取らないで」
 咄嗟に口から出た。なぜ出たのかはわからない。考えもなしに発言するのは、もはや青年期に捨ててきたと思っていたのに。雑渡は山本の子の瞳を見た。きれいな栗色をしている。青空をよく映しそうだ。かと思えば光と明るさが星屑のように瞳を構成していて、無垢とはときどき世界のようだなと雑渡は感慨深くなる。
 虚構など知らない彼女は、その言葉に意見する。
「どうして」
 それはもっともな質問だし、雑渡は答えるべきだろう。しかし彼だけは。他の忍びのことでなら、冗談混じりに「お嫁に行きたい?」と言えるのに。彼は。
 ──十三歳でそばにきた。まずは対話から始めた。慣れない年齢差のある会話にそれでもめげずに毎日語った。少年の手のあたたかさを知らぬまま、自分の火傷のせいでせっかく埋まりかけていた溝がまた少し広がった。看病の合間に久しぶりに話した声にわずかな変声の掠れを感じ、大人になっていく片鱗を少しでも知ることができたその日は、互いにぎこちなくけれど鍛錬を続けたマメだらけの手と痩せ細った手を初めて繋いだ。
「取らないでほしいんだよ、どうしても」
 今度は理性的に諭せただろうか。少女を見ても、まだうまく表情は掴めない。
 あのとき繋いだ手の感触は今ではもうすっかり違ったものになっているだろう、しかし自分はまだ知らない。知らないうちに他の手を取って所帯を持つかもしれない。雑渡は、それが幸せならと見送れるつもりでいた。そんなのは余裕でできるとたかを括って、結果は今、惚れた腫れたもわからない少女に対して、こちらこそ子どものように奪われる恐怖を覚えている。
「雑渡様ばかりずるい」
 ずるい、ずるい。頭に言葉がこだまする。またもっともな意見を返される。さすが陣内の子だよ。と雑渡は苦笑する。私はずるい、なるほど当然の話だ。
 雑渡には百名の部下がいる。それぞれに手塩にかけたし鍛えた内容一つ一つに理由がある。自信を持って世に送り出せる最高の人財たち。雑渡の個人的な理由だけで手放せないなどと本来は言えない。別の城へ向かう、誰かと添い遂げる、軍を抜けて平和な市井へ戻る。全て、命が選択するに値するじゅうぶんな理由だ。部下たちが決してそう言わないだけで、雑渡は言われれば承諾する気でいた。
「ごめんね、ずるくて」
 しかし──そこだけは。心臓に癒着した、この深く昏く、誰にも見せられない醜いところだけは、ずるく、酷く、しつこく、後ろを向くたびに必ず共にある存在が決して離れないと思っていたい。
 少女は鼻筋のシワを伸ばせないまま、「私だって、高坂様が好きなのに」と言った。拗ねてしまった口調にどう話を合わせたら良いだろう。雑渡はすっかり参って、とにかく気分を良くしてもらおうと傾聴に徹することにした。
「どんなところが?」
 と聞くと、彼女が頬を染めた。これは「顔」かな、と雑渡は予測する。高坂の凛とした佇まい、険しい顔の引き締り方、首筋にかけてのなだらかさなど、女性が惚れるのに枚挙にいとまがない。
 山本の子は唇を尖らせながら、上目遣いにこちらを見た。
「ずるいのを許してくれる、やさしいところ」
 と恋する震えを交えてそっとつぶやいた。