史加
2025-02-11 14:00:09
7389文字
Public 原神(鍾タル)
 

消えない灯火の色だけをこの日知る

鍾タル/未練を残し合うふたりの話


※ナタ魔神任務のネタバレを含みます





「鍾離先生から、もしもタルタリヤに会ったら渡して欲しいって頼まれたの」
 旅人から差し出された一通の手紙を前に、タルタリヤは一瞬だけ硬直した。
 鍾離。懐かしいとまではいわないけれど、久しく耳にしていない名前だ。
 ナタでの冒険がひと段落つき、次の目的地へ向かう準備のため情報収集をしていた旅人と、一旦スネージナヤへ帰国したものの雑務を命じられてナタを訪れたタルタリヤが鉢合わせたのは数刻前のことだ。手合わせを強請ったがすげなく断られたので、せめてとモラをチラつかせて彼女の仲間を買収し、一緒に食事をした。とはいえ互いに用事があるし、今は手を組んで動く理由もない。だから友人としてのひとときを過ごすだけに留めて別れを告げようとしたのに、そこで意外な名前が出たものだからタルタリヤだって驚きはする。
「鍾離先生からだって? まさかとは思うけど、俺が璃月にいる間に立て替えてあげた支払いの領収書がまだ残っていたのか? 全部処理したと思ったんだけど」
「おまえ、そんなに鍾離の支払いを替わってやってたのかよ!」
 手紙を受け取りながら呟くと、パイモンが素っ頓狂な声を上げた。旅人は胡乱な目でタルタリヤを見つめている。悪くない反応だ。
 封筒は厚みがあり、指先にはやや硬い感触が伝わっている。ただの便箋ではなくもう少し厚手の紙、たとえばメッセージカードや写真といったものが入っているのだろう。これを先に鍾離から受け取り、今まで大事にかばんの中にしまいこんでいた旅人も、中身が領収書の束だとは思っていないはずだ。向けられる視線に含まれている呆れは、今しがたタルタリヤが叩いた軽口に対するものに違いない。
 璃月やフォンテーヌで会ったときよりもさらに腕を上げたであろう彼女と一戦を交えられなかったのは非常に残念だが、察しが良くなってくれたのはありがたいことだ。タルタリヤは封筒を懐にしまい、へらりと笑ってみせる。
「まあ、中身はともかくとして受け取っておくよ。手間をかけさせたね」
「別にこれくらいどうってことないぞ。鍾離にきちんと返事を書いてやれよ」
「もちろん。君たちの手を煩わせることもないから安心してくれ」
 執行官として各国に派遣されるタルタリヤとは異なり、鍾離は常に璃月にいる。返信を送るのに旅人たちを伝書鳩代わりにする必要はないだろう。
 ナタでの用をさっさと済ませて、鍾離への返事をどうするか考えなければ。そう思い、踵を返して旅人たちと別れようとしたところで、タルタリヤ、と旅人に呼び止められる。
「きっと待ってると思うから、早めにね」
 本当に鋭くなったものだ。元々聡い少女だと思っていたが、国々で積み重ねてきた経験がよりいっそう彼女を磨いたのだろう。
……わかってるよ。それじゃあまた」
 ひらりと手を振ってタルタリヤは歩き出す。
 後ろ髪を引かれるようなことはない。彼女たちとはきっと近い未来に故郷で再会するだろうから、今は急がなければならなかった。
 なにせナタから璃月までははるか遠く、悩ましいほどに距離があるのだから。





 タルタリヤに任せられたナタでの雑務は、まったく難しいものではない。目的地へ向かうための正確なルートが判明していないという点だけ気がかりだったが、偶然旅人と出会えたことで彼女から情報を得ることが出来た。何か特別なものを用意する必要も、タルタリヤの望むような戦闘もない任務だったので、行き方さえ分かれば簡単なものだ。むしろ情報収集に手こずらなかったおかげで予定より数日早く終えることが出来た。
 今回の任務は完全な単独行動であるため、部下の監視の目はない。完遂次第速やかにスネージナヤに戻るように、と今回の件をタルタリヤに任せてきた「雄鶏」は言っていたが、多少の遅れならいくらでも誤魔化しがきく。
 タルタリヤはナタから璃月へ向かうための最短経路を調べた。スメールまでは馬車などを使って陸路を進み、オルモス港から船に乗るのが早いようだ。ルートを頭に叩き込み、早速ナタからスメールへと向かう旅団に民間人の振りをして混ぜてもらって、タルタリヤは行動を開始した。
 道中大きなトラブルもなく、砂漠を渡り、雨林を抜けてオルモス港へ辿り着く。一番早い璃月行きの船のチケットを購入して、休む間もなく乗り込む。陸路を進む間は気を引き締めていなければならなかったので、鍾離からの手紙は懐にしまわれたままだ。航路もそれなりに長いので、その時間を使って中身を確かめることにした。
「やっぱりメッセージカードだ。あとは……手紙?」
 入っていたのは厚みのある青い台紙を使ったメッセージカード一枚と、便箋一枚だ。先に便箋を開いてみると、これは祝灯状と呼ばれるものであることと、来年でも再来年でもいいから海灯祭に来ないかという誘い文句が流麗な字で綴られている。
 祝灯状と呼ばれるカードは、おそらく鍾離が手ずから作ったのだろう。星螺や琉璃百合をモチーフとしてあしらい、シンプルで上品さを感じさせる仕上がりになっている。少しだけ貼られているシールが曲がっていたりするのは愛嬌といったところか。箸を器用に扱うくせにほんの少しだけ不器用なところのある男だったと思い出して、胸の奥がむずむずとした。
……海灯祭か」
 タルタリヤは一時期璃月に長く留まっていたから、年に一度、佳節を祝い盛大に開かれる祭りの話も耳にしたことがある。立場上大手を振って祭りに参加する訳にはいかなかったし、催事といえば多額のモラも動くので、単純に仕事が忙しくなってきちんと祭りに参加したことはない。せいぜい夜遅くに仕事を終えて仮宿へ戻るときに、霄灯や提灯で華やかに彩られた街並みを見たくらいだ。これといった思い出はひとつもなかった。
 いつか機会があれば、とは思うが、叶えられるのはまだ先の話だ。祝灯状と添え文を封筒に戻して懐にしまい、残りの退屈な移動時間を休息にあてがうことにした。
 珍しいことに大地も海もタルタリヤの味方をしてくれたおかげで、船も順調に進み、定刻に璃月へと着港する。他の旅行客に紛れて船を降りると、夕暮れ時を迎えてかすかに冷えた空気が頬を撫でた。ナタもスメールも熱気が濃くて暑かったから、璃月の春風はすっきりとしていて心地よい。
 当然、海灯祭は終わっており、璃月港はタルタリヤのよく知る姿をしていた。辺りは地元民と旅行客の両方で賑わい、至るところから生き生きとした人々の声が聞こえてくる。港からチ虎岩へ歩いていくと、万民堂を筆頭に並ぶ数々の料理屋から焼いた魚の匂いや甘辛いタレを焦がした匂いが漂ってきて、道中最低限しか食べていなかったこともあってか胃袋が切なさを訴えた。あとで適当に軽食を買おうと思いながら、タルタリヤはまだ記憶に新しい道を歩いていく。
 勢いで璃月まで来たはいいものの、鍾離がどこで何をしているかまでは当然分からない。ひとまず往生堂を訪ね、そこでめぼしい情報を得られなければ街を一周するしかないだろう。それでも見つからなければ宿で一泊したあと、北国銀行に立ち寄って鍾離への言付けを頼み、スネージナヤへ戻るつもりだ。
 日が沈み、提灯の光に照らされ始めた璃月の街並みは変わらず華やかで活気がある。ナタからここに至るまでの道のりは静寂に包まれていることが多かったから、耳朶を打つ喧騒は少しだけ落ち着かない。行き交う人の群れの中に鍾離の姿がないか探しながら歩き、緋雲の丘から玉京台へと続く道に差し掛かったとき、ふと視界の端を何かが掠める。
「あれは……霄灯?」
 天衡山へと伸びる道の先で、時期外れの光がひとつ、茜から濃紺へと色の深まる空を揺蕩い、風に乗って海へ向かっていくのが見えた。海灯祭を終えたこの時期にたったひとつだけ放たれたあの灯火に呼ばれている気がして、タルタリヤは光を放った人間のいる場所へと歩を進める。
 足場の悪い道を登り、街の喧騒から離れていく。やがて上り坂が途絶え、なだらかな山の中腹部にたどり着くと、そこには人影がひとつ佇んでいた。すっかり遠く離れて豆粒にも満たない大きさになった光を追うように、そのひとは海を眺めていた。
 タルタリヤは一歩踏み出す。さく、と足元でやわらかな草葉が青年の重みを受ける音がした。男は微動だにしないが、ほんのわずかに纏う空気を緩ませる。
「こんなところで、祭の余り物の処分かい」
 尋ねると、男はゆるりと首を横に振った。
「いや。祭の最中だと無数の霄灯の光に掻き消されてしまうだろうと思ってな。来年でも、再来年でも構わない。ただいつかこの光が見えたら羽を休めに来てくれぬものかと思って、放ったんだ。思いのほか早く来てくれたな、公子殿」
 海を見つめていた金色のひとみが、タルタリヤを捉えてやわらかく細められる。
「そいつはどうも。あいにくのんびりしている暇もないんだけど……久しぶりだね、鍾離先生」
 探し人を見つけたタルタリヤもまたかすかな笑みを浮かべて、鍾離の隣に並んだ。
「そちらの状況は風の噂で耳にしている。だからこそしばらくは璃月に来る暇もないだろうと思っていたが」
「まったくその通りさ。ただ、相棒から手紙を受け取ってね。その返事だけはしてやらないといけないと思って来たんだよ」
 懐にしまっていた封筒を取り出してひらひらと振ってみせると、鍾離のひとみがほんの少しだけ丸く開かれる。普段は何でも知っているし見透かせるとでも言いたげな顔をしている男が虚をつかれた時に見せるその表情を、タルタリヤは気に入っていた。
 我ながら殊勝なことをしている自覚はある。璃月に滞在していた頃、タルタリヤが仕事以外で会う相手といえばもっぱら旅人か鍾離だった。特に鍾離との交流は顕著で、神の心を巡る一件があった後もなんだかんだと食事を共にしたり、彼の気に入りの演劇を一緒に観に行ったりした。自宅に招いてもらって秘蔵の酒を飲ませてもらい、そのまま共に朝を迎えてしまったこともある。鍾離は案外慣れているのかもしれないけれど、タルタリヤにとってははじめての朝帰りの経験だった。あのとき見た朝日のまぶしさを忘れた日はないし、きっと二度と忘れることもない。
 璃月を離れてからも、タルタリヤは機会があれば鍾離と会い、刹那の時間を共にした。ふたりの間で積み重ねられていくものに明確な名を与える必要性は感じていない。ただせっかくの一度きりの人生だ。気が向いたら鍾離に会い、一緒に食事をして、ついでに朝日を拝んでやってもいいかなと思うくらいの情を、タルタリヤは瑞々しいままに抱えている。熟れすぎることも、鮮度を失うこともなく、腐らせないように、ずっと。
 鍾離が同じものを抱えていなくたって、別にかまわなかった。けれど今回ばかりはそうも言っていられなくなって、タルタリヤは今、彼の隣にいる。
「返事など、お前が家族にそうしているように、手の空いている時に書いてくれればよかっただろう。手紙にも急がない旨を記したはずだが」
「そうだね。先生は俺と違ってずっと璃月にいるから、部下に任せるでも、信頼のおける配送会社に任せるでもして、暇なときに届けてもらえばよかったのかもしれない。だけど」
 気遣わしげな視線の奥に複雑な色を押し込めている鍾離の頬に、タルタリヤは触れる。冷えた夜の空気じゃなくて、自分の手で撫でてやりたかったから。
「先生がはじめて俺に未練を残そうとしているんだ。だったら会いに行ってやらないと甲斐性がないなと思ったんだよ」
 今度こそ、はっきりと鍾離が息を呑む音が聞こえた。無自覚だったのかもしれないし、自覚はしていたけれど言い当てられるとは思っていなかったのかもしれない。ただ目の前で金のひとみから普段の怜悧さがすっかり失われていくのを、タルタリヤはむずがゆい気持ちで見つめていた。
 鍾離という男は、言うまでもなく強いひとだ。六千年を生きた最古の魔神。璃月という盤石の国を築いた偉大なる父とも呼ぶべき存在。神の心を手放し凡人になっても、その身に培われた経験や記憶は褪せることを知らないのだから、彼の強靭さが揺らぐこともない。
 だけど、そんなひとがタルタリヤを前にしたときにだけ見せる小さな変化を、取りこぼすことはしたくなかった。それは彼が神として背負い続けてきた荷を下ろし、かつてその荷を負っていた場所に新たなものを抱えようとしている証だからだ。
「祝灯状、嬉しかったよ。だけど俺はそれなり璃月に長くいたのに、海灯祭のことはあまり詳しくなくてね……同じように祝灯状を作って返してあげたいけど、それすらままならないんだ」
 やれやれと肩をすくめて見せると、鍾離はひとみの中に諦観を浮かべる。
「それは、立場上仕方のないことだろう」
 そうだ。立場上仕方のないことだ。互いにそんなものは言葉にするでもなく、よく理解し合っている。それでも鍾離は今年、タルタリヤに祝灯状を贈ってくれた。来年でも再来年でもいいから海灯祭を共に過ごしてみたいのだと、ささやかな願いを寄せてくれた。
 かつては神で、願われる側だった存在が、ただひとりの青年にありふれた願いを、綴ったのだ。
「ああ、そうだ。だから、来年か、再来年か、あるいはそれよりも先になるかもしれないけど。いつか必ず海灯祭の時期に先生に会いに来るから、教えてくれ。祝灯状の作り方も、海灯祭ではどんなことをするのかも。俺も先生のやりたいことに付き合うからさ」
 一緒に祭りを楽しもう、なんて、賭け事でひと山当てて大金持ちになりたいとか、縁もゆかりもない著名人と結婚したいだとか、世界を征服したいだとか、そんな大それた野望と比べたらあんまりにもささやかなものだろう。故郷の弟妹だって、氷炉祭の時期になると一緒に祭りを見に行きたいから帰ってきてほしいと、かわいらしいおねだりの手紙を送ってくる。それくらい他愛のないもので、けれどとびきり大切なものだ。
 そういった他愛のないものの大切さをタルタリヤは知っているし、タルタリヤはそういう男だと鍾離は知っている。知っていて――今まで一度たりとも手紙など寄越してこなかったくせに、わざわざタルタリヤと遭遇する可能性の一番高い旅人に頼んでまで、届けようとした。
 もしかするとタルタリヤの知らないところで、鍾離にも何かがあったのかもしれない。ただこうしてタルタリヤの未練になりたがる鍾離のことをかわいそうだと思うし、嬉しいとも思う。
「そんな顔をするなら、約束しよう。俺は必ず約束を守る男だからね」
 雄弁な口がすっかり役立たずになっている鍾離に、タルタリヤは笑って小指を差し出した。
 今の鍾離は神としての荷を下ろしたばかりだから、まだまだたくさんのものを背負える余裕があるだろう。そこにひとつくらい同じものを抱えておいてもらいたいと、タルタリヤもここにきて願ってしまった。
 安心という言い訳の下で、瑞々しい果実が押し付けられようとしている。それを鍾離は理解しているのだろう。そしてきっと、望んでいたのだろう。
……そんなに俺は妙な顔をしていたか?」
 ようやく動いた彼の口が、最終確認を疑問の形で呈する。今までのしおらしさが全部演技で、またこの男の手のひらの上だったとしても、タルタリヤは構わないというのに。
「寂しいって顔に書いてあるよ。俺にしか読めないだろうけど」
 得意げな顔をつくって答えると、はたと鍾離は目を見開いた。数度瞬きを繰り返し、まなじりを緩めて、嬉しそうに微笑んだ。
……そうか。なら、約束してくれ。代わりに俺もお前に約束しよう。いつまでも、果たされる日を待っていると」
 いつまでも、なんて、ぐずぐずに熟れきった果実を押し付け返すように、鍾離は小指を絡めてくる。指切りげんまん。嘘をついたら岩食いの刑だ。下手な魔物の一撃よりも重く苦しいに違いない。
 してやられたなぁとタルタリヤは思ったが、悪い気はしなかった。いつかこの場所で鍾離と一緒に、霄灯と祭りの飾りに彩られて華やかさを増した璃月港を眺め、今度はふたりで空に光を放つ。そんな未来を望むほのかな熱情をずっと捨てないでいたのは、タルタリヤのほうが先のはずだから。





 少しだけ時間があったから、鍾離と食事を共にし、ほんのすこしの名残惜しさを胸に別れを告げた。次はいつ会えるかなんてわからない。計画は動き出しているし、もしもこの世界で起こっている様々なことが物語のひとつに過ぎないとしたら、きっともう佳境を迎えている。少なくとも約束を果たせるのはエンドロールの後だろう。
 ――執行官の中でも最たる実力者である第一位の男が、ナタで眠りについた。彼の部下の報告によると、ナタの特殊な地脈の状況、アビスを相手にした戦争、死の執政、様々な事情が関わった末のことだという。
 世界の仕組みというのは残酷だ。単純な武力だけでは征服出来ないものがあることをタルタリヤは知識として知っていたけれど、花を手向けるべくかの王座を訪れ、そこに座する男を前にしたとき、それを現実として思い知らされた気がした。ましてタルタリヤは特別な出自など持たぬただの人間だ。弱気になることはないが、兵器としていっそう己を磨き、生き延びるための策はいくつあってもいい。
 ただの人間だからこそ、ときにどんな武装や秀でた能力よりも精神に留め置くものの重さが生存への道を切り開くことがある。未練。執着。よすがとなるそれらは命綱となってこの世に人を留める未知の力を秘めているのだ。
 絡めた小指の感触はまだ新しい。押し付けられた果実の甘さを忘れたくないと思うし、甲斐性のない男だったと失望されることのないよう守らなければと思う。
「安心してくれ。必ず守ってみせるさ」
 恭しく小指に口付けて、タルタリヤは今日見た霄灯の光を胸に刻んだ。
 もしも暗闇に飲まれても、足元をすくわれても、報いを受けるときが来ても。
 帰るべき故郷のほかにもうひとつ、向かわなければならない場所があるのだと導いてくれるであろう、あの灯を。