ぱちん、と爆ぜる音に促されるようにして、ぐらりと影が傾ぐ。暖炉に残った炎の残滓と焚き火の共演は、もう一度大きな音を立てて、影の主を優しく起こしていた。
もぞりと、炎に照らされた影がゆらめく。やがてそれは、ゆっくりと上体を起こした人の形をとっていく。
机に突っ伏して寝ていた青年は、眠気の残る瞼を擦り、
「……ああ、寝てたのか」
欠伸を一つ噛み殺して、両手で顔を覆い、瞼を焼く暖炉の灯りにしばし目を慣らす。
ゆっくりと面をあげ、朽葉色の髪についた寝癖を片手で直しつつ、青年――ノエは、談話室の壁にかけてある時計に目をやった。
時刻はまだ、深夜に近い時間を指している。
宿への帰参が遅くなったノエは、宿の主人が引き上げた厨房に火をいれるわけにもいかず、保存食を齧って夕飯がわりとしていた。その途中で、疲労のあまり眠ってしまったのだろう。
微かに軋みを上げる体をうんと伸ばし、軽く肩を揉む。二、三度それを繰り返してから、ノエは机上に置きっぱなしになっていた夕食を載せていた皿を手に持って、共用の洗い場へと向かった。
(ちょっと無理をしすぎたかな……。だけど、今、町の中の警備を緩めてでも外の巡回に人を割いてくれなんて、ピヌヌさんたちに頼むわけにもいかない)
シュガーグレイヴを砂糖菓子のように包む雪の静けさと白さとは裏腹に、人々の不満はとどまることを知らず、少しずつ膨れ上がっていた。
音もなく膨れる風船のような不満の波は、目に見えない形で寄せては返し、ノエたちのような旅人が泊まる宿にまで押し寄せている。
商人たちは、余計な騒動に巻き込まれまいと荷物を片付けるか、これを好機と思って不安に浮き立つ人々に品物を売りつけるかの二極に分かれた。
町の警備を受け持つ神殿騎士団の者たちも、このような情勢では外ではなく内側の警備に力を入れなければならないと、考えを改めたらしい。
しかし、人手不足が解消してない状況で、正規兵を城壁内の巡回に回してしまっては、外周部の巡回はその分手薄になる。ここにきて、ピヌヌの方針転換は功を奏し、彼女は城壁周辺の簡単な巡回には、積極的に傭兵の力を借りるようになった。商人が町に滞在している間、手隙になった護衛たいは、小遣い稼ぎならばと外壁の巡回を請け負ってくれたそうだ。
しかし、この対応策は予算不足という別の問題を浮き彫りにすることになり、根本的な解決には到底程遠い。資金繰りと人手不足の二重苦にあえぐピヌヌやイレーナの様子を見ていたノエは、見るに見かねて指示された範囲よりも随分と広い地域の巡回をここ数日続けていた。言いかえれば、残業をして契約にない仕事を密かにこなしていた、というわけだ。
「ルーシャンさんは、契約の金額の分以上働くのは、他の傭兵のためにも辞めておけって言っていたけれど……」
彼の言うことはもっともなのだろう。実際、別のルートを巡回していたルーシャンたちは、ノエたちよりも早くに切り上げて町に戻っていた。
ノエだけが帰還が遅れたのは、報告のために向かった詰め所で、報告先の兵士が出かけており、誰に報告すればいいか分からず、たらい回しにされてしまったからだ。
外部の人間を導入しても、それらを管理する指揮系統や事務の手続きが全て最適化されているわけではない。結局、見かねたピヌヌが直に報告を聞いてくれたが、疲労の色が濃い彼女の顔を見ていると、手間をとらせてしまうのがなんだか申し訳なくなってしまった。
「せめて、町の中が落ち着けば……とは思うんだが」
皿洗いを終えて、乾いた布でそれらを拭き、共用の皿置き場に返しておく。置かれた皿の位置は昨日見た時からさほど変わっておらず、この宿でも宿泊客の数の減少を示している。
治安の悪化は、旅人の減少や流通にも影響を及ぼす。近頃は、神殿騎士団に喧嘩を売るようなものや、不穏な空気にあてられて物盗りも増えているらしい。果たして、ここまで悪化した環境は、貴族が陳情を聞いたくらいで改善されるのだろうか。
ノエが気づいていない所で、取り返しのつかない形で日常にヒビが入っているような嫌な予感。
とはいえ、そのような崩壊があるからこそ、改善されるものもあるのかもしれない。それこそ、旅人である自分が考えても仕方ないだろうと、ノエはかぶりを振る。
食器を片付けている間に、妙に目が冴えてしまった。これは寝床に入ってもすぐには眠れないだろう。暇を潰すついでに、武器の手入れでもしていようか。
取り止めもなく思索を進めている間に、何気なく二階に続く天井を見上げ――そこで、彼は視線を止める。
「……オデット」
つぶやいた名前は、ノエにとって大きな意味を持つ少女のものだ。
風邪で寝込んでからそろそろ六日になる。ここ数日は任務の忙しさもあって、彼女とは顔を合わせられていなかった。
近頃は熱も引き、ゲルダとお喋りする時間も増えたと、看病を受け持っていたヤルマルは話していた。だから、どこかで時間を作って彼女と会って安心させたいと思う気持ちはある。
それでも、今のノエは踏ん切りがつかずに二の足を踏んでしまっている。その理由もまた、ノエにはわかっていた。
思い出すのは、三日ほど前のことだ。
宿に戻り、心地よい疲労感に浸っていたときにヤルマルに呼び出され、あることを伝えられた。それは、オデットが今まではっきりと思い出せなかった過去の全容だった。
オデットの身の上に起きた事件を知ってい、正直なところ、すぐに答えを出せなかった。
結果、忙しさを理由にノエはオデットから距離を置いている。
(オデットと一緒にいた時間も、もう随分になる。もう出会ったばかりの頃の僕らじゃない。だから、僕がオデットから距離を置いているのは、オデットのため……じゃない)
オデットのためとしてしまうのは、あまりに自分に対して都合のいい言い訳だとノエは己を叱咤する。
オデットの過去を知った上で、彼女と向き合う。今までとは異なる正体不明の領域に足を踏み込むことを恐れて二の足を踏んでいるのは、自分の方だ。
踏み出せば、きっと何かが変わる。それは悪いことばかりじゃないだろうと、薄々予想もできている。これまでの関係が全て覆るような、劇的な変化が齎されるほど、オデットと自分の絆は浅くないと信じてもいる。
分かっているはずなのに、それでも躊躇が生まれてしまうのはなぜか。
(オデットの本意じゃないと分かっていても、僕は……僕の顔を見て、オデットが怯える姿を見たくないんだ)
出会ったばかりの頃は、顔を合わせるたびに怯えられていたのに。今では、自分を前にして恐怖を浮かべる彼女を想像しただけで、胸の奥が苦しくなる。
随分とオデットに弱くなったものだと、ふと自嘲混じりの苦笑が漏れる。
ともあれ、もう遅い時間だ。火の始末をして、部屋に戻ろう。そう思って、暖炉の元に向かったときだ。
「兄さん……? こんな時間なのに、まだ起きていたんですか?」
ちょうど今まさに考えていた少女の声が、ノエの背後からかけられた。
*
目が覚めたのは、階下で物音がしたような気がしたからだ。
オデットは、ここ数日間ほとんど寝室に釘付けになって、ひたすら睡眠を求められていた。そ風邪で体が休息を求めているときは、それでも構わなかった。むしろ、体を横にして休んでいればいいという状況は、オデットとしても歓迎できる環境だった。
ヤルマルとゲルダに話をしたおかげもあって、悪夢に苛まれることも殆どなくなり、オデットは心置きなく睡眠に時間を費やした。
だが、体が回復してくれば、睡眠もそこまで過剰に必要ではなくなる。オデットとしては、外出はせずとも室内を散策して気を紛らわしたいところであったのだが、そこに待ったをかけたのが女性陣の二人だった。
「わたしは平気ですって何度も言っていますのに、サルヒさんもヤルマルさんも強情なんですから」
看病を受け持っていたサルヒとヤルマルは、断固として、オデットの散策を許可してくれなかった。そのせいで、彼女は布団の中でごろごろする日々を余儀なくされたのだった。
朝や昼間は、横になっていれば程よくまどろむこともできるが、健康を取り戻しつつある若々しい肉体というのは、二十四時間眠り続けるようにはできていないらしい。おかげで、夜中に何度か目が覚めてしまうこともしばしばとなっていた。
今日も、夜中の覚醒によりすっかり目が覚めてしまったオデットは、寝直すための眠気を誘おうと、こっそりと部屋の外へと足を踏み出していた。少しぐらい部屋の外を歩き回りたいという、年長者たちへの小さな意趣返しも兼ねた外出である。
「下に、誰かいるのでしょうか」
部屋から持ち出したクリスタルの照明を片手に、慎重に階段を降りる。
もし宿の主人が起きていたなら、何か温かいものでも作ってもらおう。そう思って、談話室に足を踏み入れたオデットは、
「兄さん……? こんな時間なのに、まだ起きていたんですか?」
暖炉の前に立つ、見慣れた影。それは、オデットが数日ぶりに対面した青年――ノエだった。
いつもなら、すぐさま彼の元に駆け寄り、無理をしていないかとあれこれお節介を焼いていただろう。
だが、オデットは談話室に足を一歩踏み入れたまま、固まっていた。
(兄さんは、もう……ヤルマルさんに、教えてもらったのでしょうか)
ノエに話はしておいた、と彼女伝いに聞いてはいる。だから、きっとノエはオデットが蓋をしてきた過去について、その概要を知っているはずだ。
それゆえに、ノエはオデットの姿を見ても、いつものように応えてくれないのだろう。
こんな時間に起きて、何があったんだい、と声をかけたりとか。
病み上がりなんだから、無茶をしたら駄目だよ、とか。
そういうありふれた労いの言葉一つかけることすら、今の彼は躊躇している。暖炉の炎の揺らめきすら隠せていない、困惑とも動揺とも形容し難い彼の横顔に焼き付いている。
ノエが薄く口を開き、何か言いかける。
――オデット。
彼は、そう言おうとしたのだろう。
だが、その言葉すら、ノエは唇を開いた先に喉の奥に押し込んだ。
(……兄さんは、わたしを待っているんだ)
遅まきながら、オデットはノエがなぜ黙ってこちらを見つめているのか、その理由に気がついた。
偶然、ばったりと出会しただけだというのに、すぐさま彼はオデットにその場の主導権を明け渡したのだ。
オデットが過去を思い出し、ノエのもとから逃げ去ることを選んでも、彼はきっと追いかけようとはしないだろう。その逆もまた然りだ。
(……全部、わたしが選んでいいって、兄さんはそう言ってくれている)
オデットにとって、それはとても楽な状況だった。
ノエと向き合う勇気がないからと背中を向けても、彼は自分を責めないだろう。
あるいは、ノエだけは特別だと、彼の元に駆け寄って抱きついても、ノエは優しく受け止めてくれるだろう。
それが分かっているのは、なんて楽で。
なんて――痛ましいことなのか。
(だってそこには……兄さんがいない)
オデットが何を選んでもいいと無言で主張する彼の心の中に、ノエ自身の気持ちは含まれていない。そんな風に自分の感情を当たり前のように蔑ろにする選択は、到底オデットに受け入れられるものではなかった。
「兄さん」
気がつけば、オデットの喉から彼への呼びかけが飛び出していた。
口にするのが当たり前となった、ノエへの呼称。瞬間、彼が身じろぎ、壁に映し出された影が合わせて揺れる。
「……わたし、兄さんと初めて会ったとき、兄さんが怖いって思った理由がわかりました」
自分でも、この件について口にするのは勇気がいることだった。
ゆえに、ヤルマルの時のように詳らかに自分の感じたことを口にはしない。
いつか全てを説明する時がくるとしても、今この時は、その部分だけはノエの優しさに甘えさせてもらう。
でも――甘えるのはそこまでだ。
「わたしは、それでも、兄さんと一緒にいたいんです。昔にあったことは嫌なことで、辛いことで、わたしにとって……とても苦しいことです。今も、思い出すと体中冷たくなって、暗いところにじっと縮こまっていたくなる」
ぎゅっと拳に力を込める。クリスタルの照明を握る手が、持ち手に食い込み、少しだけ痛んだ。
けれども、その痛みが今はオデットを前へと突き動かしてくれた。
「でも、そのせいで、兄さんと一緒にいたいって気持ちまで、ぐちゃぐちゃにされたくない」
震えていた足が、言葉を一つ放つごとにしっかりとしていくような気がする。深呼吸を挟み、オデットはようやく部屋の中へと踏み込んだ。
ノエは彫像にでもなったかのように、微動だにせずにオデットを見つめていた。
だが、不意に、その視線が逸れる。まるで、見つめることすらオデットを傷つけるのではと、恐れているかのようだ。
しかし、その気遣いの姿が、逆にオデットの心に火をつけた。
「わたし、兄さんと一緒にいたいって気持ちを変えるつもりはありません。兄さんと、これからも、この先も、ずっと一緒に歩いていたい。ノエという人の隣に、わたしの居場所があってほしい」
ずんずんとノエの前まで歩み寄り、オデットは照明を脇に置いて、両手で彼の手を取る。
少し骨ばった、男の人の手だ。剣を握り続けて、出会った頃よりも分厚く、固く感じるようになった指先。ヤルマルやサルヒのそれとは違う手触りに、自分が忌避感を覚えるのではないかとも怯えた。
実際、過去の記憶の残滓がオデットの指を一度震えさせた。けれどもオデットはかぶりを振り、目の前にいる人物を見据える。
(ここにいるのは、兄さんです。わたしの、一番大好きな人です)
己に強く言い聞かせ、自身の指先に意識を集中してノエの手を包み込む。少しずつ、指先の震えがおさまり、常と同じようにノエの手の中にオデットの小さな手が収まる。
彼女の震えが収まるのを待っていたかのように、
「――オデット」
ようやく、ノエの声がオデットへと届いた。
「ヤルマルさんから話は聞いている。……だけど、僕は、君と同じ経験をした人間ではないし、僕はオデット自身にはなれない。だから、君の不安の全てを理解できたとは言えない」
ようやく、ノエの視線がオデットと合った。
青銀色の双眸は、今まで見てきたものとは違う形の不安を抱えているのだろう。微かに揺れるそれを、オデットは正面から見つめ返し、彼の言葉を待つ。
「僕はヤルマルさんのように、たくさんの経験をしてきたわけじゃない。出会ってきた人の数も少ないだろう。言い訳のようになって申し訳ないのだけれど、君にどのような配慮をするのが一番か、僕一人で決められる自信がないんだ。……だから、どうか僕に教えてほしい」
膝を折り、オデットへと目線を合わせるノエ。そうすると、彼の顔が今まで以上にはっきりと近くに見える。
「オデットが、僕にどうしてほしいのか。僕が、これからどうオデットと過ごせばいいか」
彼の言葉を聞いて、オデットは先ほどノエが見せた振る舞いの理由を確信した。やはり、ノエはオデットに全てを委ねるために、一挙一動すら自分に許すまいとしていたのだ。
視線を向けることも、声をかけることも、そこに自分自身がいることすら本当はオデットに選ばせたかったのだろう。
「僕は、君を傷つけたくない。いや、この言い方は少し卑怯だな」
まるで聖人君子のような物言いをしていたノエが、初めて苦笑いを浮かべる。そこには清廉潔白な聖人ではあり得ない、彼らしさのようなものがあった。
「僕はただ、君を傷つけるような僕になりたくないんだ」
「わたし、以前は何度も兄さんを怖がっていましたよ」
「その時は……君が僕を怖がったとしても、今ほど傷ついていなかったんだ。何か理由があるのだろうって自分を納得させられたし、それでおしまいだった。でも、今は理由を知っても……僕は君に怯えられると、ひどく堪えてしまうらしい」
勝手でごめん、と視線を落とすノエ。そんな姿を見れば見るほど、オデットにはノエに託された願いの重さと、同時に自分の中に生まれた望みの形をはっきりと掴み取れた。
「わたしは、今までと同じように兄さんの隣にいたい。わたしが何を思い出しても、わたしの兄さんへの気持ちは変えたくない」
それがまず、オデットという人が望むこと。
そして。
「それに、兄さんがわたしに何をしてほしいのかも、知りたいんです」
「僕が君にしてほしいことを……? でも、それは」
「だって、兄さんが全部わたしにお任せってことにしたら、兄さんはきっとこれまでわたしに見せてくれた気持ちを全部隠してしまうでしょう? わたしは、自分にとって都合のいいお人形が欲しいんじゃありません」
先ほどもそうだった。
部屋に入った瞬間に声をかけるかどうかすら、躊躇っていたように。ごく自然に当たり前としていたことが、一つ一つの物差しが挟まり、当たり前ではなくなってしまう。
それは、オデットの望む『二人』の関係ではない。
「ですから、わたしは兄さんがわたしとどんな風に一緒にいたいかも、知りたいんです」
少しだけ力を込めて、ノエの手を握る。
簡単にすり抜けて行かないように。
彼が優しさを理由に、オデットの前から消えてしまわないように。
「……僕も、オデットと同じだ」
待つ時間は、さほど必要なかった。
「今までと同じように、僕は君の隣で共に過ごしたい」
その今まで通りが、この先どれほど難しいものだったとしても。
望むことすら諦めるつもりはないのだと、彼は宣言してくれた。
「僕は、君に今まで通りを願ってもいいだろうか」
「……前の兄さんなら、もう少し遠慮なく言ってくれましたよ」
ぎゅう、と彼の手を握る。そうしないと、無意識のうちにどんどんできてしまった境界線が、知らず知らずのうちに重なって、ノエの姿をすっかり隠してしまう。そんな嫌な未来が想像できてしまった。
「僕は今までもこれからも、君の隣にいたい。君の笑顔を見ていることが、僕は一番好きなんだ」
前にも言ったけれどね、と照れたように笑うノエ。
思いがけない言葉に、かつてなら胸が高鳴り、顔を赤くしていたかもしれない。
だけど今この時は、変わらない願いを口にしてくれるノエへの気持ちだけで、胸がいっぱいになっていた。
「……わたしも、同じですよ」
すぅ、と一つ深呼吸を挟んで、彼の頬に手を伸ばす。少し冷えた指先が、暖炉のそばにいて温まったノエの肌に触れる。まるで一つ一つ、ノエの輪郭を確かめるような仕草を、ノエは微動だにせずに受け入れてくれた。
僅かも体を動かさずに、余計な音も漏らさずに。目の前の少女が、自分が大事にしたいと思う人の形を改めて確かめ終えるまで。
「……ノエ」
髪に触れ、指先で朽葉色のそれを梳る。生きている人の鼓動が、オデットの肌越しに伝わる。
「ありがとう。わたしを、待っていてくれて」
――この人は、大丈夫。
わたしは、この先もずっと、この人の隣にいたい。
この人の生きる鼓動を、守っていきたい。
先の見えない未来に不安ではなく希望を載せて、オデットはようやく口元を綻ばせ、笑顔を浮かべてみせた。
***
「――ヤルマル」
呼びかけられ、廊下に立っていたヤルマルは声の主へと振り返る。そこには、部屋から出てきたサルヒが、後ろ手で扉を閉めつつ、階下へと視線を送っているところだった。
「下にいるのはノエとオデット?」
「そうだよ。一時はどうなるかと思ったけれど、丸くおさまったようでよかった」
ヤルマルは兎に似た耳を軽く動かし、小さく長く息を吐き出した。つられるようにして、サルヒも目を細めて小さく頷く。
オデットの告白はヤルマルしか聞いていなかったものの、彼女の態度を見れば何かあったことは一目瞭然だ。ましてや同室のサルヒが、それに気づかないわけがなかった。
具体的に何があったかを、教えてもらったわけではない。だとしても、男性陣をそれとなく遠ざけているヤルマルの態度や、ノエに会いに行こうとしないオデットの様子を見ていれば、何があったかは想像がつく。
かつて、オデットが男性に対して恐怖心を抱いていた様子を覚えていたサルヒには、彼女の変化が何によって齎されたのか、大体の想像はついていた。
「ノエは、優しい人だから。オデットを傷つけることはないと思っていた」
「優しさにも色々あるんだよ。優しいからこそ遠ざかろうって考える人も、世の中にはいるだろうさ」
「相手の顔を見ない優しさは、優しさとは言わない。あなたなら、よく知っていると思うけれど」
ヤルマルは苦笑いをこぼしつつ、図星を刺されたと胸を抑えるようなジェスチャーをしてみせる。
オランローから向けられた好意を受け止められず、そばにいない方がいいと一方的に彼を置いて行ったときのことを、ヤルマルは苦笑と共に思い返していた。
「オランローもね、オデットに何かあったことは察してくれているみたいだ。詳しい状況は分からなくてもね」
ただ見守っているだけでなく、彼は直接ヤルマルに対して「オデットに何かあったのか」と尋ねてきた。だが、ヤルマルはオデットとの約束を守り、彼女の告白に関しては沈黙を貫いた。
もっとも、その態度を見てオランローも自分が安易に触れてはならない何かがあったとは察してくれたらしい。ヤルマルも完全に隠蔽するつもりではなかったので、彼の気づきは彼女にとっても都合が良かった。
「ルーシャンの方はどうだい。彼もオデットのこと、心配しているんじゃないかな」
「気にしてはいたけれど、静観するつもりのようだった。旦那様も、オデットが態度を決めるまでは待つみたい」
ルーシャンもまた、自分から動くつもりはなく、オデットが助けを求めてきた時に彼女の望む形で手を差し伸べるつもりでいるようだった。
それとなくサルヒがオデットについて話題に出しても、彼は何も知らぬかのような素振りで「早く治るといいな」などと嘯いていた。この五日間ほど、全く顔を見せていないことにすら触れないのは、彼なりにオデットの変化を勘付いているからこそだろう。
「自分が顔を見せるより、ノエに会う方が先だと旦那様は言っていたから。オデットの身に起きた何かに最初に向き合うべきは、ノエだと思っていたみたい」
「そうしてくれたのは助かるよ」
ヤルマルは目を細めて、階下から漏れ聞こえる声音に耳を傾ける。話し声の内容こそわからないものの、邂逅した直後の緊迫感はもうなさそうだ。
「体調が落ち着いたら、孤児院に行ってミラベルと話をしたいってオデットは言っていたんだ。今回の件も、きっと話しておきたいんだろうね」
「それなら、ノエも連れて行って。彼は、そろそろ休ませないと倒れてしまう」
サルヒが呆れたように呟くのを聞いて、ヤルマルは今朝のノエの顔を思い出す。本人は無意識なのだろうが、あれは『そこそこに疲れが溜まってきている』時の顔だ。
「了解。じゃあ、代わりにボクが巡回任務を引き受けようか。騎士団の人手不足の煽りを、ボクらがまともに受ける必要はないんだけどねえ」
「それが分かっていても、引き受けてしまうのがノエだから」
ヤルマルに手で促され、彼女らは廊下から部屋へと戻る。遅れて、階段の下から話し声が聞こえてきたので、そろそろ二人も部屋に上がってくる頃合いだろう。
部屋に戻ってきたオデットに立ち聞きを気づかれまいと、ヤルマルは早々に寝台の中へと戻って行った。
***
その日の朝、ノエは久しぶりにゆっくりと起床して談話室に姿を見せた。
寝坊をしたわけではない。いつも通り朝早く起きて、騎士の依頼のために活動を開始しようとしたノエを、仲間たちが寝台に押し込み返したのだ。
「あんたは、昨日も一昨日も一日中外を駆け回っていただろう。少しぐらいは体を休めることに時間を使え」
「私と旦那様で、ノエの分も仕事はしておく。ピヌヌも、できる限り協力してくれればそれでいいと言っていた」
「オデットの体調も随分と良くなかったからね。今日は孤児院に顔を出したいと言っていたし、君は保護者としてちゃんと彼女の面倒を見るんだよ」
などなどと、それぞれから労いの言葉をもらったノエは、有無を言わさずに休暇の予定を入れられたのだった。
「おはよう、オデット。日が昇ってから朝食をとるのは、随分と久しぶりな気がするよ」
「兄さんの分は、ちゃんと取っておきましたからね。今日はわたしもお手伝いしたんですよ」
談話室の片端にある椅子に腰を下ろすと、いそいそとオデットが姿を見せる。もうすっかり良くなったというのは本当のようで、エプロン姿の彼女は意気揚々とノエの元に朝食を運んできた。
厨房の奥に見える宿の主人に軽く頭を下げて、ノエは差し出された朝食に口をつける。
イシュガルドに来てからはお馴染みとなった、独特の小麦の風味と甘味が混ざったパン。豆を煮込んで味付けしたものに、薄切りの肉を軽く炙ったもの。新鮮な野菜は寒冷化したクルザスではなかなか望めず、添えられた酢漬けが辛うじて用意できたもののようだ。
皿に出された朝食をゆっくり食べる時間の贅沢さを味わいつつ、ノエはフォークとナイフを動かす。向かいに腰を下ろしたオデットには、昨晩の不安は見られない。彼女の中では、ひとまずの整理がついたのだろう。まだ空元気の部分もあるだろうが、今はその空元気には気づかないふりをしておく。
「兄さんは毎晩遅くまで騎士団の仕事を手伝っているようですが、やっぱり町の人の陳情が原因なのですか。わたしも、窓から広場に人が集まっている姿は何度か見ました」
「残念ながら、そうだと言わざるを得ないね。僕たちが来たときよりも、この町は不安定な情勢になってしまったらしい」
町に到着した直後も閉塞的な空気は感じていたが、あくまでそれらは内側に向けた鬱屈としたものだった。そのような内に向けた重苦しい感情があったとしても、少なくとも実害はなかった分、まだ目に見える被害はなかった。
だが、今のように誰もが刺々しい不安を抱え、散発的にそれらを爆発させるようになってくると、また話は変わってくる。
「騎士団の人たちが、傭兵を雇う体制を整えてなかったこととか、人手が足りていないことが、悪い形で彼らに影響を与えてしまっている」
「……あの方たちにも事情があったのだとは思いますが、そのような選択をしたのは騎士団の方々です。兄さんが、その代わりにたくさん働くというのは、筋が通らないように思います」
イレーナやピヌヌといった、騎士団の中でも具体的に思い浮かべられる顔があるからこそ、オデットも騎士団を一方的に悪と決めつけるような物言いはしたくない。
とはいえ、ノエを筆頭とした他の面々に負担がかけられるのも、オデットとしては見過ごせなかった。
「ピヌヌさんも、いつまでも僕たちの善意に頼り切りという状況は避けたいと思っているようだよ。僕も、流石にずっと彼女たちの手伝いをしているわけにはいかない」
オデットの件もある。彼女は大まかな記憶を思い出せたようだが、施設を抜け出した後、オデットを保護していた占星台の女性については、まだ不明瞭なままだ。保護者を探すというのなら、その保護者にも顔を合わせておきたいとノエは考えていた。
(それに、ミラベルさんはオデットが記憶喪失になった直前の出来事について、何か知っているようだったし……)
その件についても、確認はしておくべきだろうと、ノエは頭の中でやらねばならないことを組み上げていく。
シュガーグレイヴの不安定な情勢は気になるところではあるが、ノエの個人的な考えもあって、この町にはまだ滞在する理由が残っていた。
「そういえば、今日は孤児院に行きたいと話していたそうだね」
「はい。町に戻ったときは、わたしは熱を出していて、ちゃんとお兄ちゃんと……ミラベルさんと話ができませんでした。ですから、きちんと話をしておきたいんです」
ミラベルの名を出す時に、わずかに言い淀んだのは、ノエの前でもう一人の兄についてどう話すかを躊躇ったからだろう。
ノエとて、流石にここにきてまでミラベルを敵対視するような考え方はしていない。大丈夫だよという意味を込めて、目尻を柔らかく細める。
「僕も、ミラベルさんとはもう一度ゆっくり話をしたいと思っていたところなんだ」
「それなら兄さんもぜひ一緒に行きましょう。あ、でも、わたしたちが急に押しかけて、邪魔にはならないでしょうか」
「それなら、ミラベルのお手伝いってことにしたら?」
横から顔を見せて、ちょこんとオデットの隣に腰掛けたのはゲルダだ。彼女は厨房で料理をする代わり、皿洗いの手伝いをしてきたところだったらしい。冷えた手を、事もなげに机に置き、
「私、昨日薬をもらいにヒューイの家に行ったんだけど、途中で孤児院の前も通ったんだ。ミラベルに会えるかなーって思ったけど、なんだか中も外もバタバタしていて、忙しそうだったよ」
「あの孤児院は、有志の方が時折手伝いにくるぐらいで、ほとんど一人で切り盛りしているようなものだと、ミラベルさんも言っていたから、こんな状況だと、本当に一人きりで全ての子供たちの世話をしているのかもしれない」
話しながら、ふとノエは教会にいたハンフリー司祭の顔を思い出していた。
先日初めて出会ったその後も、司祭は町の人に何度か詰め寄られており、その度にノエは仲裁を買って出ていた。
町人にとって、不満をぶつける対象である貴族がいない以上、その標的は貴族と繋がりを持つ教会と神殿騎士団に向けられる。
騎士団の者たちは武器を持っているので、面と向かって罵るには抵抗がある。必然的に、ハンフリー司祭は人々の鬱屈した感情をぶつける槍玉にあがりやすくなっていた。
(いっそ孤児院に滞在していた方が、ミラベルさんも人手不足が解消するし、ハンフリー司祭も一時的に避難ができて丁度いいと思うんだが……)
それとなくミラベルに勧めてみようかと、ノエは思案する。
その間にも朝食は順調に皿から姿を消し、全て食べ終えたノエは食後の祈りを軽く済ませると、席を立った。
「ノエ。私がお皿、洗ってくるよ」
「ゲルダさん、手が冷えているんでしょう。先ほども皿洗いを手伝っていたようですし、自分の分は僕がやりますよ」
「気にしなくていいよ。私、冷たいっていうのがよく分からないみたいだから。ほら、貸して」
言うと、ゲルダは皿をノエの手から受け取り、軽い足取りで厨房へと向かう。その手は、ノエの予想通り、氷のようにすっかり冷え切っていた。
軽い足取りで厨房に向かうゲルダの後ろ姿を、ノエは何とはなしに視線で追いかける。
(初めてゲルダさんに会ったときは、どう接すればいいか分からないって思うところもあったけれど、彼女も随分と変わったものだ)
異端者を裁こうとした異端審問官に、竜の血を飲ませたと、あっけらかんとした調子で語った少女。自分と大事な人の身を守るためなら、たとえ相手を破滅に追い込んでも構わないと言い切った彼女に、ノエは返す言葉を持ち合わせていなかった。
ゲルダは、事故により記憶を失ったと聞いている。幼い子供のように人格が真っ白になった彼女を育てたのが、彼女が母親と慕う竜だった。
異端者によって、人としての道を違えたときもあった。それでも、今はオデットとの交流もあってか、友人のために冷たい川に飛び込むほどに献身的な行動も見せている。
(きっと、彼女も元は優しい心根の持ち主だったんだろう。……だというのに、あの竜は何を考えているんだろうか)
数日前に邂逅した、ゲルダの母と思しき竜。結局、ゲルダには竜と出会ったことは伝えていない。
彼女の残した言葉は、ノエにも読み解けない不可解なものだった。それを思い出し、黙りこくっていると、
「兄さん?」
「……いや、ちょっと考え事を。ミラベルさんの所に行くんだよね。ゲルダさんも一緒ってことでいいかな」
「はい。ゲルダも、一緒に出かける日を楽しみにしてたって言ってましたから」
オデットは胸に手を当て、嬉しさで弾む気持ちを宥めるように唇をやわやわと弛ませなる。
「ずっとわたしの看病をしていて、ゲルダも退屈だったと思うんです。だから、お兄ちゃんとのお話も勿論大事ですけれど、わたしも……その、友達と、出かけるのが楽しみなんです」
「せっかく今はこの町に滞在しているんだ。少しぐらいのんびりした時間を過ごしても、誰も咎めたりしないよ」
町は、今まさにひりついた空気に包まれているが、だからといってオデットが友人と町歩きを楽しむのを我慢しなければいけない理由にならない。
ノエの言葉に、オデットはパッと顔を輝かせて「はいっ」と頷く。
厨房にいるゲルダの様子を見に行ったオデットの背中を見送り、ノエは出立のための支度を始めた。
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