
〈ひとときの、〉moment de bonheur fugace
〈今終わった。これから帰る〉
だいたい予想通りの時間だった。
職場からは約二十分。寄り道をしなければの話だが、そういう時はそう言ってくるから真っ直ぐ帰ってくるつもりだろう。
準備は万端。グラスは霜がつかない程度に冷やした後で出しておく。下ごしらえも完璧で、あとは手際よく盛りつけるだけだ。
マンションの駐車場からエントランスを抜けエレベーターに乗る。玄関に着くまでさらに五分。ドアが開く。
「ただいま」
「おう、おかえり」
トレンチコートに薄らと冷気を纏い、両手に紙袋を下げた長谷部がリビングに入ってきた。
寒かったろ、と号がキッチンから声をかけると、襟元できっちり巻かれたマフラーを緩めながらわずかに上気した顔を向けた。
「ああ、今日は冷えたな。お前バイクは? 駐車場に見当たらなかったが」
「あー、荷物多かったから店に置いてきた。それより夕飯、後回しでもいいか?」
変則的だが、一年のうち今日だけは特別だ。
漂う匂いからわざわざ訊ねなくともわかっていたのだろう、したり顔にふっと微笑みを浮かべて長谷部は言った。
「どうせそのつもりだったんだろう」
着替えてくる、と寝室に向かう。
「あったかくして来いよ」
廊下に顔を出して声を上げると、ああ、とすかさずドア越しに返ってきた。
いつも通りのやり取りであるにもかかわらず頬が緩む。あいつが着替えているその隙にと、ダイニングテーブルにセッティングをはじめた。味も見た目も秒刻みで変わる。最高の状態で提供するのは基本中の基本中だ。
戻ってきた長谷部は言いつけ通りに厚手のニットを着て、恭しく椅子を引く号を茶化すこともなく座った。年々茶番がかってきているきらいはあるが、この日だけはそれに付き合ってくれているつもりらしい。
「今年はまた凝ってるな」
「〈Parfait glacé〉パルフェ・グラセ、まぁいわゆる
……」
「パフェだな」
「とっておきの、な」
片目を瞑ってみせる号の前で、長谷部はサーブされたグラスをじっと見つめた。なにが入っているのか見分けようとでもしているのか、小首を傾げて目を凝らす。
中身は洋梨のジュレと吟醸酒のムース、ジェラートはカシスとビターチョコレート。そこにメレンゲとクリームを乗せて、飴がけしたガレットを添える。さらに砕いたピスタチオと栗のグラッセを散らし、ホワイトカカオリキュールのソースを少しだけ垂らす。
「なにやらうまそうだということしかわからん」
「それでいいんだよ。こういう寒い時期に喰うのもおつだろ? ハッピーバレンタイン」
ペアリングはほどよく冷えた純米吟醸のスパークリング。微炭酸で口あたりも爽やかだ。
いただきます、と柄の長いスプーンを手に取りながら、長谷部は向かい側に座った号をふと見上げた。
「俺の分だけか、お前は?」
「俺はこれがあればいいんでね」
「飲兵衛のパティシエなんて、聞こえが悪いんじゃないのか」
言ってろ、と同じ酒を注ぐ。ふたつのグラスがやわらかく触れあって澄んだ音をたてた。
「とりあえず、おつかれさん」
「ああ、お前のほうこそ。今年も忙しかっただろう?」
「つっても仕込みや告知は年が明ける前からやってるし、直前はそうでもねえけどな」
店の営業時間もいつも通りで、諸々の確認を済ませれば、後はスタッフに任せて早く帰ってこれるくらいだ。
年に一度、この日だけは目の前にいる男のためだけに作ると決めている。もう二十年来の習慣だ。
「うまい」
「そりゃよかった。ま、当然だけどな」
メレンゲとナッツを咀嚼する軽やかな音をさせながら、長谷部はスプーンを持つ手を一瞬止めた。
「うまいだけじゃなくて
……もっとこう、気の利いたことが言えればいいんだが」
「いいんだよ、食べかた見てればわかるし。毎年言ってるけどよ」
ありきたりな美麗字句を並べたてられるより、むしろずっと雄弁だ。なにより一緒に暮らす恋人が、こうして自分の作ったものを変わらず食べてくれている。それを目の前で眺めることができるのも、号にとっては最高の賞賛に値する。
何年か前まではじろじろ見るなだの、喰った気がしないだのといちいち言われていたが、諦めたのか慣れたのか、今ではなにも言わなくなった。
おかげで存分に眺められるというわけだ。真正面から見るその姿は、酒の肴として味わうにも最高だった。
食べかたが綺麗なのは昔からだ。姿勢よく、迷いなくスプーンを口に運ぶ。口の端をきゅっと結んで咀嚼して、ゆっくりと嚥下する。その時の喉の動きすら愛おしかった。
手もとのグラスに集中しているのか、長谷部の目線はわずかにうつむいている。生え揃った睫毛がゆるやかなカーブを描いていた。それがふと上向いて、号を見つめた。
思わぬ不意打ちをくらった気になった。舐めるような視線を向けていたのを誤魔化すようにして、号はテーブルの側に置かれた紙袋を指して言った。
「で、今年もまたずいぶんもらってきたな」
「ああ、お返しもできないからと断っているんだが」
紙袋の中にはバレンタイン用に包装されたチョコレートがぎっしり詰め込まれていた。毎度のことだ。
「生徒たちには禁止にしてる手前もあるというのに
……かといって置いてくるわけにもいかないしな」
「またあれか? 生徒の忘れ物が多くなるってやつ」
「そう、それを保護者が学校まで届けに来るんだが、その時ついでと言って渡されるんだ」
「そりゃお前、絶対ついでじゃないだろ。わざとだろ」
「そうなんだろうな」
そう言って長谷部は溜め息を吐いた。
「立場上困ると固辞しても、半ば無理やり押しつけられる。職員室で見ていると俺だけじゃないようだし、楽しみにしている先生方も中にはいるが」
保護者相手ではあからさまに無碍にもできない。一見如才のない微笑みを浮かべて断っているのが目に浮かぶようだった。
その外面と生来の仕事熱心さから保護者、というか生徒の母親の間で絶大な人気を誇っているらしい。体育祭での職員リレーではぶっちぎりで、黄色い声まで飛んだとか。
「どうしてお前がそんなことまで」
「蜻蛉から聞いた」
「ああ、そういえばお前と同級生だと言ってたな。赴任してきたのは去年だったか」
「長谷部先生のクラスだけはお母さん方がこぞってPTA役員をやりたがるし、電話の呼び出しも多いってさ」
「電話はともかく、その面ではまあ助かってはいるけどな。役員なんて、なかなか決まらないのが普通だから」
「電話ってなにを言ってくるんだ、クレームか? 多いんだろ、モンペとか」
「いや、他愛のないことのほうが多いな。家では野菜を食べようとしないんですけど給食ではどうですか、とか、うちの子に置き傘をちゃんと置いてくるよう伝えてください、とか」
「暇か」
「たぶんな」
それも仕事の一環だ。事も無げにそう言って、長谷部は紙袋を目線で指した。
「とにかくこんなにあっても困るから、なんとかしてくれ」
「って言ってもなぁ
……やっぱ手作りっぽいのが多いな。
……お、これうちの店のじゃねえか。限定で出したやつ。あー、これも」
「そうなのか? ならそれは食べる」
「言っちゃなんだが、お前が今、喰ってるやつのほうが断然美味いぞ」
「それはそれ、これはこれだ」
グラスの酒を干してから、長谷部はふたたびスプーンを動かした。号は紙袋から手を離し、空になったグラスに新たに注いでやる。ついでに自分の分も注ぎ足した。
実はそこまで甘いものを好まない。長谷部の嗜好はよく知っている。号が作るものには手を出すものの、普段は滅多に口にしなかった。パティシエ冥利に尽きるといえば聞こえはいいが、単にこの男の好みを把握して、加減できているだけだ。なんといっても年季が違う。
今でもよく覚えている。人生で最初に作った菓子は、バレンタインのチョコレートだった。
作るといっても既製品のハート型の板チョコにデコレーション用のペンで絵や文字を書くだけのものだ。
五歳だった。児童館での催し物で、近所の子どもたちが並んでてんやわんやする中で、号は覚えたてのひらがなで〈くにしげ〉と書いた。隣に住んでいる、年上の幼なじみの名前だ。指導員にもほめられて、うまくできたと得意になった。
児童館からの帰り、隣の家に寄って手渡した。ありがとう、と長谷部ははにかみながらも受け取ってくれた。
感覚的にいって、その年頃の三歳差は大人の一回りくらい違う。小学生だったとはいえ長谷部がその時浮かべた微笑みは、幼い号の目にはとても大人びて、そしてキラキラして見えた。
チョコの飾りつけに散りばめた、カラフルなスプレーや銀色に光る丸い粒なんかよりも、ずっと。
その笑顔とともに、バレンタインにはチョコレートを贈るという概念が五歳児の頭にインプットされた。おまけに翌月には今度は長谷部のほうからクッキーを持ってやってきた。ホワイトデーというらしい。
お返しをもらえたのも単純に嬉しかった。けれどなによりもあの時の笑顔がまた見たい。
自分だけに向けられた、あの笑顔。
毎年贈る理由となるにはそれで充分だった。
「しかも、なんでか手作りじゃなきゃって思い込んでたんだよな。怖えよな、幼児期の体験って」
「それが高じて今があるんだからいいじゃないか。俺もこうして美味いものを食べられる」
そう言う長谷部は最初のうちこそ手作りだったが、早々に市販品に切り替えた。いわく、作るといってもほぼ母親任せだったし自分には向いていない、買ったほうが美味いし時間の面でも効率的だった、らしい。
号はといえば、もちろん子どもが作ったものなんて喰えたものじゃなかっただろうと今では思う。
けれど長谷部は毎年喜んで受け取ってくれたし、自分でも意外だったが、割りに性に合っていたのだろう。菓子作りという繊細な作業に充実と達成感を覚え、そのために必要となる道具を揃えていくのも愉しみのひとつとなっていた。
中には手入れを重ね、今でも愛用しているものもある。
毎年チョコというのも芸がないので他の焼菓子にも手を出した。年に一度だけでは腕が鈍ると思い、練習と試作がてらバレンタインの時期以外にも作り続けた。
「ただ、さすがに明日が高校受験だって日にも持ってきた時は、こいつ色々とヤバいんじゃないかと思ったけどな」
「そのヤバい奴に付き合ってくれてたお前も大概だぞ」
すると長谷部はさも当然という口ぶりで言った。
「仕方ないだろう、可愛かったんだから」
「お、おう
……?」
「何度でも繰り返し言うし死ぬまで言い続けるが、幼稚園のころのお前は本当にめちゃくちゃ可愛かった。よくも誘拐されずに生きてこれたと神に感謝したいくらいだ」
号は自分の側にあるボトルを横目で確認した。酔ってねえよな、まだ二杯目だぞ。
長谷部は続ける。
「まぁたしかに、ここまで続くとは思っていなかったがな。しかも毎年欠かさず
……」
「欠けてた時もあっただろ」
号の言葉に長谷部は顔を上げ、それから少しだけ目を細めた。
「
……そうだったな」
正確には二年半。バレンタインデーに限っていえば三度。空白の期間ができたのは、号が日本を離れていたためだ。
この道に進むと決めて、高校卒業してまもなく渡仏した。その間に長谷部は大学で教職を取り、教師として働きはじめていた。
長谷部が社会人生活二年目になろうとする頃、号は帰国した。国内のパティシエールでさらに三年修行して、同時に経営も学んだ。運とタイミングが良かったこともあり、協力者を得て独立できた。
店の評判も上々だ。生み出すレパートリーは繊細で美しく、夜空を彩る星のようだと評された。号本人は190を超える大柄で髭まで生やしているのだが、そのギャップでさえも受けたらしい。メディアへの露出も増えた。
すっかり違う世界の住人みたいだな。ある年のバレンタイン、久しぶりに会った長谷部が言った。
帰国してからチョコレートを作って渡す習慣は再開していたものの、顔を合わせるのはその時くらい、つまり年に一度だけという状態だった。
瀟洒な箱に詰めたテリーヌショコラを受け取りながら、ふと長谷部が言った。
「なんでだろうな、今でも時々思い出すんだが。お前が最初にくれたチョコ、あれがこの世で一番といっていいほどうまかった」
その慈しむような優しい口ぶりは、今の自分ではなく、昔の幼い号に向けられたものだった。
思い出は美しい糖衣のように甘くコーティングされる。そうあるべきものだとも思う。
ただ、最高級の素材や技術をどれだけ尽くしてもそれに敵わないというならば、号のこれまでの人生は一体何だったのかということになる。
子どもの頃とは違う、はっきりとした意識が芽生えた。今の自分を見てほしい。住む世界が、なんて御託はどうでもいい。利己的な欲は美しくも繊細でもないけれど。
本気で口説いた。
口説きたおして、長谷部が折れた。実はずっと同じ気持ちだったと打ち明けられて、なんでもっと早く言わねえんだよと詰りもした。
そうして一緒に暮らしはじめて、現在に至る。
「──ああ、そうだ」
長谷部がもうひとつの紙袋を差し出した。書店の名前が書いてある。
「お前が欲しがっていた写真集、買っておいた」
「ありがとな、店に置きたかったんだよ」
いつからかホワイトデーのお返しと称して長谷部から号に贈り物をするようになっていた。
三月は行事や年度末でお互い忙しくなる。ならば同日に済ませてしまおうという、長谷部らしい提案だった。
菓子はいらんだろう、他に欲しいものを言ってくれ、と事前にサーチされる。号も遠慮なく、その時に気になっているものを伝える。
本音を言えば、何もいらねえから一生そばにいてくれ、なんだけど。さすがに重いし、住む世界が、とかなんとか、また言い出すかもしれないし。
──ただ、
「なんだ」
「んー、」
顔に出ていたのだろうか。号の視線を受けて投げつけられた問いかけに、思わず口の中で唸る。
「やっぱりさぁ、お前の舌を満足させられるのは俺だけだろ?」
「舌か、」
そう言うと、長谷部は唐突に自分の舌を出してみせた。手を伸ばしてその先端を指でなぞる。
そう、一番よく知っている。味の好みも形も、熱をからめた時の感触も。
悪戯っ気を出したのか、長谷部はさらに舌を伸ばして号の人差し指をしゃぶった。たまに、前触れもなくこういうことをするから困る。なんかもう、ふつうにエロいし。
「保護者が見たら卒倒するんじゃないか?」
「それを言うなら売れっ子パティシエのゴウヒノモトだって同じだろう」
吸いつくようなくちびるから指を離してにやりと笑う。そんな遊びを繰り返したところで言わせたい言葉があるのは変わらない。
「
……なぁ、」
号はあらためて長谷部を見つめた。
「今でも最初のあれが一番だと思うか?」
ひたすら単純に、明快に。ただ、思い出の上書きに過ぎないとしても。
「──そうだな」
長谷部が口を開く。
「お前の、」
──お前の世界に俺は必要ないと思う。
口説くのに必死だった頃、長谷部は何度かそう言った。
必要ないやつにチョコを作るか? 違う、これからのことを言ってるんだ。
過去の言葉が頭の隅で渦を巻くように過ぎていく。
そんな号の目の前で、長谷部が言った。
「お前の見ているものがこれを通して見れるような気がする。だから今のほうがいい」
長谷部の言った通りなのかもしれない。たしかにお互い一緒にいなくても生きていけるのだろう。けれど、それでも一緒にいることを選んだ。だから。
「これからも見せてくれるんだろう?」
目に映るものは違っても。どんな世界かお互いに見えないまま、背中合わせで同じ場所に立っている。
きっとそんな感じで、これからも。
そんな何気ないひとときの連続を、永遠と呼ぶみたいに刻んでいけたら。
「つうかそれ、ちゃんと最後まで食ってくれよ」
「もちろん」
ほとんどグラスの底に近づいていた。半透明のジュレに囲まれた白いムース。順を辿れば濃厚なジェラートの後で口の中もさっぱりするという寸法だ。
銀色のスプーンがそれをすくう。かちりと金属が当たるかすかな音がした。長谷部の手が止まる。
「まったく
……」
ムースの中から現れたプラチナのリングをスプーンに載せた。
「や、一度はやってみたいっていうかさ、男の夢だろ、やっぱり」
驚かせるつもりだったのが、どちらかといえば呆れ顔だ。思わず言い訳がましい口調になった号に、長谷部は容赦なく続けた。
「俺が気づかないまま飲みこんでたら、どうするつもりだったんだ」
「飲みこむのはさすがにねえだろ。けど、その時はまた作るさ」
なんなら目立つように鮮やかな色つきの糖衣がけにでもして、隠し味には岩塩かほろ苦いリキュールを使って。
何度でも。そう言いかけながらふと見ると、長谷部が口許を押さえている。目の端はごくわずかに、紅かった。
「
……写真集一冊だけじゃ足りなくなってしまったな」
「いや足りてるって」
「号、」
「ん?」
薄い膜を張ったような目にも鼻声にも気づかないふりをして応えると、長谷部はあくまで淡々とした素振りで言った。
「悪いが、夕飯はすぐには入りそうもない」
「あー、結構量あったもんな」
「腹減ってるなら先に食べてくれ」
「いや、俺もまだいいわ」
「風呂行っていいか」
「おう」
沸かしてくる、と立ち上がった長谷部はいつも通りの顔に戻っていた。ふと思いついたように号を見て、ほんの少し口端を上げて言った。
「一緒に入るか?」
悪くない提案だと、思った。