ミズクラゲ
2024-12-10 21:12:04
6903文字
Public ウデ
 

五臓六腑に沁みる

【支部再録済】
ウデです。映画本編後、四人同居前提。お互いの心のなかにある何かに気付き始めるお話。

 ヘラでかき混ぜていたソースを指先につけて口に運び、ウェイドはム、と眉を寄せた。頻度は稀だがよくある不調のうちの一つが訪れている。さてどうしたものかとコンロの火を最小に落として暫し考え、同居人の顔を順番にひとつずつ思い浮かべて、それからこの時間帯はリビングにいるはずの人物の名前を呼んだ。
「ローたん?ちょっと来て、」
 言いながら振り向くとキッチンの入口にぬぼっと立っている巨体があって、ウェイドは条件反射でシンクの上の包丁に伸びかけた手を慌てて止めた。こちらが呼んだとはいえ気配もなく背後に忍び寄るのはどうかと思う。間違って殺したらどうしてくれるのか、いや、殺しても死なないのは知っているけれど。
「いくら何でも早くない?新しくテレパスに仲間入りでもしたの?だとしたらマグニートーに頼んでヘルメット作ってもらわなきゃ。あんまりダサくない形にしてほしいけど」
……困ってたんだろ」
「うん、まぁそう。ね、こっち来て」
 寡黙さは変わらないながら、ローガンもウェイドの饒舌さにはすっかり慣れたものだ。長台詞を未練なく切り上げたウェイドが指先で呼ぶと、ローガンは躊躇いがちにキッチンに足を踏み入れた。
 冷蔵庫から酒や氷を出すときか、棚からグラスを取るときか、自前の刃物でツマミのサラミを切るときくらいに電気のついてないキッチンに立ち入るのが精々なローガンにとって、明るい調光の下でグツグツと湯気を立てている鍋やフライパン、シンクに積み重なった洗い物やエプロン姿のウェイドが織り成す光景は何となく居心地の悪いものだった。
「はい、お口あけてー」
 ふつふつと小さく泡を立てているクリーム色をスプーンでひと掬いして、そのまま手を添えて差し出されたローガンはほんの数秒躊躇って、ぱくりとその先端を咥えた。おお、食べた。野生の動物が自分の手から餌を食べてくれたような、そんな感動にも似た驚きがウェイドの胸に込み上げたが、表情に出さないまま「どう?」と訊ねる。
「どう、とは」
「味だよ。濃すぎるとか、薄すぎるとか、ない?」
……いや。いつもの味、だと思うが」
 ローガンのあまり要領を得ない返答に「そっか」と頷いて、ウェイドは肩を竦めた。
「ならいいや。ありがとローたん。もうすぐ出来るから座ってていいよ」
 ひらひらと振ったスプーンをシンクに投げ入れて、仕上げの段階にあるフライパンに向き直る。あとは焼いておいたベーコンを戻して軽く黒胡椒を挽くだけだ。しかし背後の気配が動かないどころか、穴が空きそうなほどの視線を背中に注ぐので、ウェイドは仕方なくもう一度声をかけた。
「ローたん?もう大丈夫だよ」
……味が分からないのか?」
 存外、心配そうな声だった。思わず振り返るとそこにはいつも通りの仏頂面があったので、気の所為だったかな、と内心で首を傾げつつウェイドは努めて明るい声を出した。
「まぁそんなとこ。でも心配ないよ、時々あることだから」
「不調は不調だろ。ヒーリングファクターは?誰かに診てもらったことはあるのか?」
 眉間に皺を寄せたローガンが言い募るので、ウェイドは役割を終えてシンクに沈んでいたナイフを拾い上げた。ローガンが止めようとするより速く一閃、手のひらに引かれた赤い線がゆっくりと消えていく。
「ほら、見ての通り。ほんとに大丈夫だって。そのうち勝手に戻るから」
……ウェイド」
「え、なに、怒ってんの?なんで?大丈夫だよ、このナイフはちゃんと洗ってから仕舞うから」
 ローガンは盛大なため息をついた。言っても詮無いことだと分かっている。それからふと覚えた違和感にスン、と鼻を鳴らすと、同時に気付いたウェイドが「やばい焦げちゃう!」と悲鳴をあげた。
 結局その日のランチは少し苦みのあるカルボナーラ・パスタになった。「美味しい!」と目を輝かせるローラをウェイドは嬉しそうに見つめ、ローガンはその光景をこそ味わうように、常よりも多めに盛られた皿の上をきれいに片付けた。

 鍋をかき混ぜながらお玉でひと掬い。ふむ、と小首を傾げていると、不意に背後から「まだ治らないのか」と問われてウェイドは飛び上がった。
「い、いるならいるって言えよ!」
「気づかないお前が悪い。で?」
 横暴な理論を述べたローガンは片眉を吊り上げた。腕組みをして柱に凭れ掛かるその仕草は実に様になっている。
「まだだけど。味見してくれるの?」
 さっさと歩み寄ってきたローガンが鍋を覗き込んで匂いを嗅ぐ。大きめに切られた野菜とソーセージがゴロゴロ入った具だくさんのスープはローラに野菜を摂らせるための作戦だ。放っておくと肉かスナックばかり食べるので、ウェイドはどうにか彼女にまともな食事を覚えさせようと食育に励んでいた。
 淡く色付いたスープを掬って、少し考えてふう、と息を吹きかけてから口元に差し出すと、ローガンは迷わず口を開けた。厚い舌がぺろりと唇を舐めていくのを見守っていると、そのまま沈黙が落ちる。
「なんか違う、って顔だけど」
……薄い、のか?」
「聞かれてもなぁ。塩……はちょっと危険だから、ケチャップ足してみようか。知ってる?コンソメにトマトって旨味と旨味の相乗効果でスゲーんだって」
 くるくる。どう?うーん。を繰り返しているうち、ようやく「旨い」と呟いたローガンを見てウェイドは吹き出した。かき混ぜている鍋の中身はすっかりコンソメスープからミネストローネの様相になっていたからだ。
「あは、アンタのスープの好みが分かってよかったよ」
……すまん」
「なんで?いいよ、美味しく出来たなら」
 楽しそうに鍋をひと混ぜするウェイドを見つめて、ローガンはまた眉間に皺を寄せた。
「お前は」
「ん?どうしたの、怖い顔して」
「食欲が無いんじゃないのか」
 昼から明らかに食事量が減っている。静かに指摘され、機械のような正確さでバゲットを均等に切りながら、ウェイドは「そうだね」と事も無げに言った。
「味が分かんないとどうしてもさ。いや、全く無味ってわけじゃなくて、遠くでなんとなく甘いとかしょっぱいとかは感じるんだけど」
「前はどうしてたんだ?」
 ローガンがこれほど会話に前のめりなのは珍しい。仕事の終わったナイフをクルクルと指先で弄びながらウェイドは「前ねぇ」と唇を尖らせた。
「適当に買って済ませてたかな。そもそもこんなにマメには料理してなかったし……
 大して狙いもせずに投げられたナイフが収納ケースに吸い込まれる。それを当然のように見送って切り終わったバゲットをバスケットに突っ込むと、ウェイドは長身を屈めてオーブンの小窓を覗き込んだ。
……俺も人のこと言えないけどさ。アンタもローラも、家庭料理みたいなのとは縁遠そうだろ。いつまで続くか分かんないけど、こうやって一緒に暮らしてる間くらいはさ、こういう……まぁオッサンのなのが残念かもだけど、手作りの料理を皆で囲むのも悪くないかなって」
 顔を見ないままの言葉は本来であれば伝えようとは思っていなかった内心だった。ローガンとこうしてキッチンに立つなんていう思ってもみなかった状況にあって、ウェイドはどこか浮ついた心持ちだった。
 オーブンから取り出されたメインディッシュのミートローフにも刻んだ野菜がたっぷり入っている。切り分けられ、断面からほかほかと湯気をあげるそれは見るだけで腹の虫が鳴くような出来だったが、ローガンはその匂いをどこか遠くに感じながら冷たいフローリングの上に立ち尽くしていた。
 この家は四人で住むには狭すぎる。それはローガンも実感を持って理解していることで、だからローラと住むための家探しを人伝に頼んでもいた。しかし、こうして当たり前に享受している日常の終わりを改めて示唆されると、足元が揺らぐような、胸の奥が鈍く痛むような、そんな感覚がローガンの中に渦巻いていた。
 ローガンがそんなことを考えているとは露知らず、他意なくミートローフに注がれ続けていた視線を受けて、苦笑したウェイドが「一切れだけだよ」とつまみ食いの許可を出す。
「旨い」
「そう。よかった」
 どこか茫洋としたままのローガンが手に取ったそれを齧って呟くと、へへ、とウェイドが笑う。屈託のない笑顔だった。出来立ての、温かい手作りの料理は、腹より先に胸を満たすらしい。ローガンは数度瞬きをすると、恐らくは台所の蒸気によって烟った視界を振り払った。
「早く、治るといいな」
 努めて平静にそれだけを呟いたローガンをちらりと見て、ウェイドは少し怪訝そうに「ありがと」と言った。

……ローたん?」
 団欒の時間が終わり、各々が入浴を終えて、順番に寝室に消えていく時間。さて水に浸けていた皿を洗おうかとキッチンにやってきたウェイドは、薄暗い中で寝酒の準備をしていたローガンに出くわした。言葉少なに今夜の酒を確保したローガンが中々キッチンから出ていかないので、ウェイドは戸惑いながら声をかけた。
「まさかだけどお皿洗ってくれたりするの。ウルヴァリンが?」
「ああ」
 寝巻きの袖を肘まで捲ったローガンが頷く。ウェイドは「あぁ、そう……」と目を丸くして呟いたが、ローガンは今更ながら普段の食事の支度から後片付けまでウェイドに任せきりにしていたことを申し訳なく感じていた。
「最近は家庭でも家事の分担が主流って言うし。アンタにそんな文句言う人なんていないと思うけど、今から慣れておいて損はないかもね」
 ウェイドはそう言って肩を竦めるとローガンにスポンジを手渡した。返答のない仏頂面をちらりと見て、「ローガン、洗う。俺、片づける。OK?」とカタコトで訊ねるとやっとその口端に苦笑が浮かぶのを見て安堵する。未だにローガンの逆鱗がどこにあるかイマイチ分かっていないウェイドは、彼の眉間の皺の深さを目視しながら許容範囲を測っている最中だった。
 しばらく食器が擦れる音と水の音だけがキッチンに響いたが、沈黙に耐えかねたウェイドが喋り始めるより先にローガンが口を開いた。
「お前の作る飯は旨い」
「そ、そう。ありがとう」
 取り落としかけたスープ皿を平静を装って棚に戻しながらウェイドは言って、上がろうとする口角を必死に宥めた。ふと視線を上げるとローガンが冷蔵庫に貼られたカレンダーをじっと見つめている。
「これは?」
「あー、それね。うん。アンタやローラが美味しいって言ってくれたメニューを書いてるんだ。忘れないように、……っていうか、忘れても大丈夫なように」
 確かに日付ごとに設けられた枠からはみ出して、ウェイドの乱雑な字で書かれているのは料理名のようだった。正式な名前が無いものも多いのだろう。材料の名前や調味料の分量だけが殴り書きになっている箇所が多々あるせいで、ぱっと見ただけでは読み解けない暗号のようになっている。
「ね、明日の夜はテリヤキにしようか」
 柔らかく目を細めてウェイドが言って、それから可笑しそうに肩を震わせた。
「あのときのアンタたち、すごかったよな。無言のまますごい勢いで、皿ごと食べるんじゃないかって食いつきでさ。さすがの俺も“やったぜ!”ってガッツポーズしそうになったくらい」
「よく覚えてるな」
「だって嬉しかったもん。……これ最後?助かったよ、ローガン。洗剤って手が荒れるんだよね」
 手元から洗い終わった皿を取り上げようとしたウェイドの手を反射的にローガンは掴んでいた。落ちかけた皿を片手で掴んで無造作にシンクの上に乗せ、手のひらの中にある凹凸の皮膚を親指でなぞる。自分より小さくはあるが、柔らかくも薄くもない、ざらついた無骨な男の手だ。それでも、これを手放したくないと、理性を超えたところで心が叫んでいた。
「ローガン……?」
 戸惑ったように呟いて、小首を傾げたウェイドがローガンの瞳を覗き込んでくる。カサついた薄い唇がすぐ目の前にあって、いとも簡単にキスができそうな距離だった。
 ローガンは半開きの唇から無理やり視線を逸らすと、水面のように揺れる茶色の瞳を見つめ返した。すう、と息を吸い込んで、そして。
「お前の作る飯は旨い」
「ぁ、……うん。さっきも聞いた、けど」
「一緒に食べるなら、お前も味わえないと意味が無いだろ。……早く治せ」
 手についていた水滴を無造作にズボンで拭って、呆然と自分を見つめる頬を優しく撫でて、ローガンは大股でキッチンを出ていった。用が済んだのだから、当たり前だ。残されたウェイドは両手で口元を覆った。撫でられた頬がやけに熱い。バクバクと跳ねる心臓の音が、五感の鋭い彼に聞こえてしまわないかと心配だった。
「キス、されるかと、思った……
 ゆっくりとその場にしゃがみ込んでため息のように呟く。
 ウェイドの味覚異常は心因性だ。体の異常はローガンの因子が治してくれるのだから、原因なんてそれしか考えられない。中年の危機も乗り越えて、人数の増えた同居人との暮らしは賑やかで楽しくて、いったいどんなストレスが?自問するまでもなく、答えは明確だった。
 ――この生活が、ずっと続けばいいのに。
 有り得ないことは分かっている。この部屋は四人で住むようにはできていないし、ローガンたちは自立するべきだ。それでも、期間限定の暮らしを愛するほどに、いつか来る別れのことを思わずにはいられない。ウェイドはそういう性分だった。
 だけど。先程のローガンの眼差しを思い出す。まるで……、そう、愛しい恋人でも見つめているかのような瞳だった。穏やかに下がった眦に、常よりなだらかな眉間の皺。頬に触れた手だって、あのウルヴァリンのものとは思えないような、壊れ物にでも触れるような優しさだった。ねえ、ローガン。ずっと言えずにいる台詞が頭をよぎる。俺たち、同じ家に住んでなくたって、まだ、一緒にいられるかな。
 肺腑の全てから息を吐ききって、立ち上がる。今日はホットミルクにブランデーを入れて飲もう。明日の朝はローラとパンケーキを焼く約束をしている。その後の買い出しにはローガンにも付き合ってもらおう。一緒に街を歩いて、食材を買い込んで、ランチをテイクアウトして。この分だとローガンは明日の夜もキッチンに来てくれるかもしれないから、話をしてみよう。今まで何となく避けていた、少し先の話を。
 シンクに取り残されていた皿を拭いて棚に仕舞う。隣の扉を開いてマグカップを取り出して、テーブルの上でミルクを注いで、床下からブランデーを拝借しようとして……やはり一言声をかけるべきか。そう思ったウェイドが「ローガン」とキッチンから顔を出すと、すぐ目の前に彼が立っていた。反射的に大きく飛び退いてから、手にマグカップを持ったままでなくてよかった、と思う。
「な、にしてるの」
「いや。何だ、用か?」
 ローガンは少し気まずそうな顔で顎髭を撫でた。ウェイドが「ブランデー、少し貰うけど」と言うと「あぁ、そんなことか……」と呟いて、ローガンは肩の力を抜いた。
「ホットミルクか。待ってろ。作ってやる」
 マグカップをレンジに入れて、数分の無言。湯気を立てるミルクにティースプーンで砂糖を掬い入れ、ブランデーを垂らしてかき混ぜる。少し口をつけてから良し、と頷いたローガンに手渡されたカップをおっかなびっくり受け取って、ウェイドは「ありがとう……」と言いながら眉を下げた。
「どうした」
「せっかくローガンが作ってくれたのに。味が分からないんじゃ勿体ない」
「そんな大層なモンじゃない。またいつでも作ってやる」
 ローガンが言うとウェイドは目を丸くして、それから少し俯くと「いつでも、かぁ」と呟いてへらっと笑う。ローガンはその様子を見て息を詰め、少し掠れた声で「ウェイド」と囁いた。
「なに、ローガン?」
……いや。おやすみ。いい夢を」
 片手にウイスキーの瓶を持ったローガンを見て、そういえば持って行き忘れていたのか、とウェイドは気がついた。また足早に出ていこうとする背中を呼び止めて、怪訝そうに振り返った頬を唇が掠める。
「おやすみ、ローガン」
 悪戯を成功させた子供のようにウェイドは笑ったが、その頬には薄暗闇でも分かるほどの朱が差していた。暗闇に光るローガンの瞳が剣呑な色を帯びる。結局、首筋に頬髭をジョリジョリ擦り付けられて笑い混じりの悲鳴をあげる二人の年甲斐もない戯れに終止符を打ったのは、ベッドルームから飛んできたアルの罵声だった。
「Fxxkするなら場所を変えとくれよ!」
「してねェって!聞き耳立ててんなよスケベ!」
 扉に向かって怒鳴り返したあとのウェイドの屈託のない笑顔を見て、自分でも意識しないうちにローガンは微笑んでいた。それは以前ローラに指摘されたことのある、“愛しくってたまらないって感じの顔”そのものだったのだが、先立ってカウチに向かっていたウェイドを含めてその表情を見ていた者はいなかった。