エンドレス214

2025.2.15 MT. C△MP SITE-VALENTINE’S PARTY- の展示でした

 聡実は絶望した。さすがに今日は2月15日だったはずだ。
 昨日のことははっきりと覚えている。
 朝の占いを見て少しうとうとしてから身支度を整えた聡実は、アルバイト先のファミレスで昼から深夜まで働いた。客の面々はいつもとそう変わらなかったが、さすがにこれは取りすぎでは?というくらい大量に仕入れられたチョコレート系のデザートが片っ端から出続け、最終的には正常な在庫数となったことにはやはり感動した。シフトを交代する際には朝シフトの主婦Aさんから「お疲れ様です〜もう15日だけどよかったらこれどうぞ~」とシールの貼られた透明な袋をもらった。シールは金の地に赤色の文字でHappy Valentine's Day!、中には市販のチョコレートが数粒入っていた。
 店を出た聡実は確かにその包みをダウンのポケットに入れて持ち帰ってきた。外気に晒されて急激に冷えていく手をそのポケットの中に一緒に突っ込んで暖を取ろうとして、あ、溶けるかなチョコ、と逡巡した、その小さな葛藤も覚えている。
 これらの出来事は昨日、2月14日、後半7時間分くらいは2月15日に起こったはずだ。だから当然、今この瞬間も2月15日であるべきだ。しかし帰宅してから聡実が取り出したスマホのディスプレイは異なる事実を示している。2月14日。
 聡実はそれをぼんやりと見下ろした。
 やっぱりこのスマホはいかれてもうてるのか、それとも勝手にどっか違う国の時間帯設定とかになってるのか、いや、僕がいかれてもうてるのかな。
 一旦落ち着こ、と思ってつけたテレビの中ではアナウンサーが声高らかに占いランキングを読み上げはじめる。
≪2月14日、占いの時間です!バレンタインの運勢を占っちゃいましょう~11位はてんびん座!赤い服を着ましょ~。8位うお座。足元のおしゃれが吉……
 聡実はそれをぼんやりと見守った。
 実のところ、見守るまでもなく、聡実はランキングの内容を知っていた。最下位と1位の前に溜めを作ること、1位は牡羊座でラッキーアイテムはチョコ、ほんとの気持ちを伝えてくださいね❤️であること、そして12位はごめんなさい牡牛座のあなた😭コーヒーを飲んで一息ついて、自分と向き合ってみてくださ〜い😭とアナウンサーが悲しげに読み上げることを知っていた。
 なぜかというと、聡実はもう内容を覚えてしまっているのだ。なぜかというと、2月14日バレンタインの占いを見るのはもう3回目だったから。
 聡実はこれから少しうとうとして身支度を整え、アルバイト先のファミレスで昼から深夜まで働くのだ。
 もうデザートの発注采配には感動できまいと思いながらばたりと横になった。
 
 2月14日、大学は春休みに入っていた。もともと入れていた深夜帯のシフトに加え昼シフトのヘルプに岡くんを呼んだのはそういう理由で、と店長は弁解した。「Bさんインフルらしくて。べつに岡くんが暇そうだからって思ったわけじゃなくて。大学生だからさ。春休みでしょ」
 狂児貯金があろうがなかろうが何かと物入り、かつ実際2月14日に絶対やり遂げなければならない用事もない聡実は、店長の言葉にどことなく釈然としない思いを抱えながらも、呼ばれるがまま3度目の2/14昼シフトにいそしんでいた。家にいればそわそわしそうだったし働いていたほうがいいかもしれないという打算もまあ、1回目はあった。2度目はパニックに陥っており何か思うどころではなかった。3度目の今は、いったいこれが何なのか確認しに来たつもりだった。
 過去2回の記憶が正しく、この2月14日に同じことがずっと繰り返されているのだとしたら、ランチの混雑も落ち着いた昼下がりの店内で、聡実は今から女性客二人組の会話を聞くことになっている。若干関心のあるトピックスとはいえ盗み聞きするつもりはもちろんないし客のプライバシーを侵害してはならないのは承知だし、ただ声がでかい。ほんまに。何回聞いても。
 二人組の会話の内容は以下の通りだ。まず一人がこう言う。「バ先の社員がチョコくれんの。今時は男性からもとかいってドヤァって」
 ドリンクバーの烏龍茶がほぼ無くなりかけたグラスの底をストローでつつきながら、もう一人がこう答える。「へーいいじゃん。毎年?」
「毎年。いいか?社員ってあれだよ、前飲んでたときに店で見たあの……
「あ~あの……じゃあチョコによるな」
「でっしょ。でもね、そのチョコがゴディバなんだよ。それを『わかってる俺』みたいな顔で」
「あ~~~~ね」
「いやべつにゴディバはうまいよ?てか好きピだったら板チョコでもチロルチョコでも生協の麦チョコでも無くてもなんでもいいよしょうみ。けどあのオッサンに恩着せがましくゴディバ渡されるとさあ」
「わかる~ことわれないしね~。あ~チョコくいて~」
「え~頼む?あのチョコのやつ」
「頼む」
 自分は気を付けようと3度目の誓いを心に刻みながらハンディを手に卓に向かう。彼女らは相変わらずチョコレートケーキと、「あたしやっぱティラミス」を注文する。
 それ以降もこれまでの2回と寸分違わぬできごとが起こり、2月15日朝7時、聡実の労働は終わった。Aさんは今回も「お疲れ様ですもう15日だけどよかったらこれどうぞ~」と、シールつきの透明袋に入った市販のチョコレート数粒をくれた。「ありがとうございます」
 その包みをポケットに入れようとしてふと、家に帰ったらこのチョコは消えてしまうことを思い出した。少なくとも過去2回はそうだった。今までと同じ行動を繰り返していたら明日もきっと2月14日になってしまう。何もわからないがそうに違いないと聡実は考えた。少なくとも今、未来を変えうる行動ができるのは聡実だけだ。
 無根拠の確信のもと、聡実は、カラフルな銀紙に包まれたチョコをぼりぼり食べる重大使命を果たしながら帰途についた。まだ薄暗い部屋で立ったまま携帯を取り出し、「……
 煌々と輝く2月14日の表示にため息がぼとりと畳に落ちる。どないなっとんねんこれはどういうことやねん。いや、チョコ食べたくらいで解決するとは思てへんかったけど。
 憎からず思う相手がいるとはいえ、聡実にとって2月14日はさほど特別な日ではない。思うところがなくはないが、14日に約束がなかったから特別にならなかったし、無理に特別にしようとも思わなかった。それよりも聡実には、明日2月15日に、その憎からず思う相手との予定がある。
 聡実はその日をずうっと待っていた。なんだかそういうことになってから、いやその前から、聡実にとって狂児と会う日は特別だった。なんだかそういうことになったとはいえなんだかそういうことになる前とちっとも変わらず落ち合って一緒に食事にいくだけなのだが、それが特別だった。明日は焼肉だし。それに、言いたいことや聞きたいこともいくつかあった。
 だからどうしても明日になってもらわなければ困る。
 それにしてもなぜ明日にしたのだろう、と聡実は考えた。狂児がこちらに予定を聞いてきたのか、それとも狂児に仕事があるから15日になったのだったか。どちらにしろ、バレンタインいう柄でもないやろお互い、と思って15日にしたのだが。
 こんなことになると知りえなかったとはいえ、こんなことだったら今日にしておけばよかった。後悔先に立たずとはこのことだ。……ところでこの先って未来なのか過去なのかいっつもわからんくなるけど、今考えると余計混乱しませんか。ああ……
 狂児に向かって胸中で話しかけている自分に気づき、その行為と内容の両方に呆れて眉根を押さえる。≪バレンタインの運勢を占っちゃいましょう~11位はてんびん座!赤い服を着ましょ~。8位うお座。足元のおしゃれが吉……

……1位は牡羊座!今日はハッピーなバレンタインになりそうです。ラッキーアイテムはチョコ❤️ほんとの気持ちを伝えてくださいね❤️そして12位は~ごめんなさ~い牡牛座のあなた~!😭チョコを食べるときは一緒にコーヒーを飲みましょう。一息ついて自分と向き合ってみてください。飲むけどやな。」
 ホンマに申し訳ないおもてますー?と独り言つ声が、タバコの煙とともに壁紙に吸い取られる。
 狂児がこの占いを見るのはこれで4度目で、4回とも池袋のホテルでこうして打ちのめされている。せめて常宿の蒲田だったらよかったのに。いや、どこであろうと状況は一緒なのかもしれないが。
 狂児が蒲田でなく池袋にいる理由は、池袋にある組のキャバクラ、その店長の要望によるものだ。スナックやデリヘルと異なりキャバクラではまめまめしく季節折々のイベントを行っていて、バレンタインも一つの搔き入れどきである。そんな搔き入れどきにひとつ成田さんの顔を見せてキャストを鼓舞してほしいんですとのことだった。
 ついでだから昼間もこの辺で雑用を片付けた狂児は、これからチョコを持って店に行く。バレンタインくらいはりくおじ以外を買っていけと小林のアニキに諭されたために行きがけに買ったゴディバのチョコを。そしてそれをボロカスに言われるのだ。キャストから。
 店長が腹の底で何を思って狂児を呼んでいるのかは知らないが、少なくとも狂児は、キャストにとても好かれているというわけではない。どちらかというとその逆のきらいすらある。狂児は自分の顔がある場面において非常に役に立つことを重々理解しているが、それはこの場面ではないということも理解している。さらに言えば、そもそも色管理が特に上手いわけでもない自覚もある。性格的にもポジション的にも、アニキにくっついていっしょに店に顔を出していたころくらいが諸々ちょうどよかったらしく、このように統括的立場となるとまったくもって喜ばれない。嬢たちも言っていた。顔はね。顔はマジでいいからね。どうも。
 以下はこれまでに3度聞いた会話である。
「しょーもないもん持ってこなきゃそれでいいんよ。顔がいいんだから」
「それな。もういいからりくおじは。つかお前が切ってくれりくおじは。」
「わかる。てかチョコゴディバって。ゴディバって」
「え~❤️ゴディバ逆にかわいくない?❤️❤️おじさんすぎて❤️❤️」
「いいよね成田にメロってるひとは……あ〜、はやく好きピのとこいきたい❤️ゴディバで無駄なカロリー取りたくない❤️」
 まあまあ聞こえてますけど。
 まあまあ聞こえてますけど、だからといって特に腹を立てるような内容でもない。何度聞いてもえらいすんまへんなあとしか思わないが、一つだけ、今日あがったら好きピのとこにいくのだと浮かれているキャストも2月14日をループしているのか、きちんと好きピに会えたのかどうかは尋ねてみたかった。狂児にも2月15日には好きピのところに行く用事があったのだ。多忙な年末年始を超えてずうっと待ちわびていた予定が。
 今日会うことにしとったらなんべんも会えたかもわからんのに。
 そうなった場合本当になんべんも会えるかどうかはさておき、世界が明日になってくれないと狂児は聡実に会えない。4度目の今日はこのループをどうにかして抜けなければならなかった。真剣に考えた結果狂児が導き出したのは、キャストの不満が時空を捻じ曲げてしまったのかもしれないという可能性であった。ゴディバはそんなにあかんかってんな。食いもんの恨みはホンマに怖いからな知らんけど。ホンマに知らんけどとにかく、4度目の今回、狂児が店に入って手渡す紙袋はゴディバのそれではない。リサーチの末導き出した、ラデュレとやらのマカロンである。
「これみんなで食べ」
 狂児が声をかけると、姿勢を正したキャストたちは今まで見た中で一番素晴らしい贈り物をもらったという顔をした。
 ただしそれはゴディバのときも同じであった。
 というか、すべての客が持ってくるすべての贈り物に対して同じであった。
「嬉しい〜!!」
「私大好きですこれ〜!可愛い〜!インスタあげよ❤️」
 この店のキャストはよく教育されていると思う。キャストは悪くないし店長も悪くない。狂児はこれまでの3回と同様、今まで見た中で一番素晴らしい贈り物をもらった顔を何度も繰り出し、その対価にしっかりとクリスタルやアルマンドなどのオーダーを得る素晴らしきキャストらの働きを見守り、その後彼女らのストレスのはけ口としての役割を、粛々と、できる限り誠実にこなして宿に戻った。ゴディバは不可でラデュレは可なのかそれともラデュレも不可なのか、そもそもそういう問題ではないのかの答え合わせをするためにテレビをつける。果たして。
≪2月14日、占いの時間です!バレンタインの運勢を占っちゃいましょう~11位はてんびん座!赤い服を着ましょ~。8位うお座。足元のおしゃれが吉……
……
 わかってました~。キャストの顔見たときからわかってました~。
 ため息をつく気力も乏しい。実際の肉体疲労はさておき、精神的には4徹目の朝である。しかも同じことを繰り返し続けての4徹目である。気が狂って当たり前だと何かに言い訳しながら、狂児は携帯を手に取った。好きピの力を借りなければ5度目の2月14日を耐え抜くことはできそうになかった。
『おはよう🌞』
 彼が夜勤明けであることは知っていたしすでに仮眠に入っていたら申し訳ないと思ったが、狂児はそう送った。幸運にもすぐに既読がつき、すぐに返ってきた挨拶に頬がゆるむ。
『おはようございます』
『早起きやな~』
『今から寝る』
 狂児は少し考えた。『バレンタインくらいバイト休んだら』
 既読はついたが今度は返信が来ない。聡実も返事を考えているのか、それとももう眠りに落ちたか。小さな部屋で上下する肩が脳裏に浮かぶのを眺めながら携帯を置き、かけたのと同時に、通知が入る。『別に用事ないです』
 狂児はタバコに火をつけた。
 なぜかしら妙に安心しながら煙を吐き出し、したり顔の猫が「そっか」と納得しているスタンプを送った。
『狂児さんはなんの仕事してるんですか バレンタインに』
『サンタかな』
『バレンタインに?』
『せやねん』
『意味わからん』
 わからんとは言いながらも何らかを察してはいるであろう聡実のドン引きですという顔を想像して緩く開いた口から、肺に入れる前の煙がこぼれた。
『今日も頑張ってな。また明日』
『はい。また明日』

 聡実はしばらくラインの画面を眺めていた。5度目の2月14日にして、初めて狂児から連絡がきたことになる。今までとは異なる展開だ。変化は希望の兆しに思えたし、それとは別に、自分自身のテンションが思った以上に高まっていることに聡実は驚いていた。やはりなんとしても明日にしなければならないということだ。
 狂児とのラインを経た聡実は今日、意識的にこれまでとは違う行動をとろうと試みた。サーブの順番を変えてみるとかオーダーミスを起こしてみるとか、また他のバイトとのロッカールームでの世間話の内容など、他人を巻き込む行動をアレンジしてみた。すると一つ発見があった。聡実がどう行動しようと、周囲の対応がさほど変わらないのである。つまり現状、5度の2月14日で明確に今までと異なる行動をとっているのは、聡実ともう一人、狂児だけだ。
 この災厄に巻き込まれているのは自分だけではない。かもしれない。
 という世紀の大発見があったとはいえ5度も繰り返すとなんとなくわかってくるもので、おそらく今日はループから抜けられていないだろうと、聡実はほぼ確信していた。今後の人生で全く役に立たないであろう直感が磨かれていると思いながらスマホを見れば案の定、そこには6度目の2月14日が表示されており、では昨日の2月14日に交わした会話はどうなっているのだろうと立ち上げたトークルームからは、確かにあったやりとりが消えてしまっている。まあ、そうならんとおかしなるけど──『おはよう🌞』
 新着のメッセージに聡実は動揺した。単に驚いたのではない。それが昨日と同じだったからだ。
 これ以降も昨日と同じやりとりが繰り返される場合、聡実だけでなく狂児もループしているという仮説は不成立となる。
 挨拶から会話が始まるのは一般的慣習だと言い聞かせながらこちらも挨拶を打ち込み送信ボタンを押したが、聡実は、たった24時間前の自分の記憶があまりに頼りないことを自覚した。同じというけれど、では前回は一体どういうやりとりをしたのだったか。大まかには覚えているが、一言一句が脳裏に刻まれているわけではない。
『早起きやな~』
『今から寝る』
『聡実くん、昨日何してたん?』
『バイトです。』
 聡実は少し考えた。同じことを繰り返している以上、日常の報告だけでは、昨日のやりとりと違うか否か、というか狂児も自分と同じ事態に陥っているか否かの確認ができない。目を閉じて数回呼吸しながら考え、そして追伸を送った。『チョコのケーキがたくさん出た。バレンタインやったから』
 ノータイムでついた既読マークを見ながら固唾を飲んで待っていると、画面が切り替わる。返信ではなく着信。
 前のめりで応答ボタンをタップすると、狂児は若干面食らった声で「おお?はよう」といった。変なところに挟まったクエスチョンマークの間抜けさに安堵し我知らず肩の力を抜く。まだ安心するのは早いが、少なくとも昨日とは違う。
「おはようございます」
「また夜勤明けなん」
「狂児さんも」
「うん。バレンタインのお仕事」少しの溜め、ののち、「しとった」
 過去形だ。
「サンタ?」
と恐る恐る尋ねると、数秒の間を置いて「はあ〜〜〜〜〜」とデカいため息が聞こえた。そして「なあ、聡実くんもなん?」
 聡実は止めていた息を吐いた。「はい」
「あ〜〜〜〜〜よかった〜〜〜〜、いや良くはないけど、よかった〜〜〜〜」
 めっちゃ心細かった〜〜の声を聞きながら壁に背をつけずるずる座り込む。尻が畳に着地した瞬間、こちらの様子が見えているかのように、狂児は「今何回目?」と問うてきた。
「5……いや6回目」
 狂児はいちにいと数えてから「俺も6や。マジか。3回目までくらいはどんだけ疲れてんねん俺はくらいにしかおもてへんかってんけど、6か」
「3回気のせいにするのは長いやろ……じゃあ5徹ですか」
「6徹とちゃう?」
「え?……わからんもう……わからんけどしんどいですね……僕は若いからまだ平気やけど……
「聡実くんは慣れてへんやろ。俺はベテランやからまだ慣れてるけど……
 寝起きの布団のような会話だ。寝てへんのに。
 ぬるいそこからなんとか抜け出すため聡実は首を振った。「マウント取り合ってる場合ちゃうねん」
「ほんまやね」
「なんでこんなことになってるんですか。狂児さん、なんかしました?」
「俺ぇ???」
「僕らしか気づいてへん気がするから僕らが原因とちゃうんかなって……ほんで僕は何もしてへんし」
 依然として寝ぼけたような聡実の仮説に狂児もぼんやりとそういうもんなん?と返してきたが、すぐに「あ」と声が続いた。「アニキに言われて今年はチョコ買うてってんけど。そのせい?それ自体あかんかった?」
……誰に買うたんですか」
「仕事先の人?あ、サンタとしてやで」
「僕に聞かんといてください。知らんしバレンタインのサンタの生態は」
 聡実の低い声をどう受け取ったのか、狂児は「聡実くんにもあげるよぉ、サンタとしてやなくて」と意味のわからない弁解をした。とってつけたような適当さにため息がでたが、まあ、自分達はそんな柄ではないと言ったのは確か聡実だし、今もそう思っている。多分。「要らん」
「要らんの?」
「そんな柄ちゃうやろ」と言い聞かせるように呟いている頭の片隅を、5回か6回聞いた女性客二人組の会話が駆け抜けた。
 嫌な予感がして念の為尋ねる。「ちなみにどんなチョコあげたんですか」
「ゴディバと」
「ゴ」すべてを聞き終えぬうちに聡実は額に手を当てた。「それや。ゴディバはあかんねん」
「聡実くんうちのキャストみたいなこと言うやん。キャバやっとった?」
「死んでください……一般的に偉い人がゴディバ買うたらあかんねんで狂児さん」
 原因を突き止めたかもしれない爽快感と問責の気持ち、そしてチョコの話が始まってから突如主張をはじめた謎のモヤモヤを抱えながら、聡実は続けた。
「こういうのって、誰かの潜在的な願いというかやりたいのにできなかったことというか、そういう思い残しが解消されるまで、その日が永遠に終わらんみたいなことないですか、漫画とか映画とかやと……
「そうなん」
「知らんけど。知らんけど、その仕事先の人に狂児さんのゴディバが恨まれとるんちゃう」
 聡実の名推理はしかし、狂児も一度通った道であったらしい。彼は「俺もそう思て4回目はラデュレにしてんけど、あかんかったみたいやな」
「ラデュレ」
「ラデュレ。わざわざ専門店行ってんで。女の子らし〜お店でじっさい女の子しかおれへんしやな、紙袋も箱も下着みた……
……
……ちなみに聡実くんは?なんか恨まれることしてへん?」
「してません」
「恨みいうてもやった方はわからんからなあ〜。いつもと違うことしてない?」
「狂児さんと一緒にせんといてください」
「いや俺もしてへんよ。多分」
「僕はバレンタインやからってすること一個もあれへんし。ゴディバもラデュレ……?も、サンタも」
「クラスの子ぉからチョコもろたりしてへんの」
「大学休みや。クラスもないです。……だいたい『いつも』って、僕蒲田に来てから2月になるの初めてなんで、全部いつもと違います」
「そっか」
「強いて言えばバイトの人からチョコもらいましたけど」
……ほーん?」
「あとは、」と口に出してしまってから、聡実はハッとした。今から言うことは2月14日の話ではない。2月14日中ずっと頭にあったことではあるがしかし。「あとは?」
 しかし聡実には、言わんとしていたことと全く別のことを瞬時に生み出し、元のものとすげ替えて口に出すスキルはまだなかった。聡実の言葉を待っている狂児の沈黙がうるさい。
 仕方がない。聡実は観念した。それが今までのバレンタインと大きく異なる要素であることは事実なので──「明日やけど、狂児さんと約束してる」
「ああ、」
 聡実の葛藤と比較して、狂児の返答はさらりとしたものだった。「それや」
 芝居じみた顔でぽんと膝を打つ、きょうびドラマでも見ない絵まで見える。
「俺も約束があるわ、聡実くんと。明日やけど。あー、それかー」
 なにかに勝手に納得している狂児の意図が聡実にはわからない。「ほんなら約束せんかったらよかったですね」と口をついて出た言葉が思った以上に冷たく響き、そのことに自分でギョッとしてから、いやこれは狂児のせいやろと流れるように他責する。一方電話の向こうの狂児はまるで気にしたふうもなく、むしろおかしそうにはははと笑った。「逆逆」
「逆」
「今日会いに行くわ。ややこしな。2月14日に行くわ」
「なんで」
「思い残してることがそれかもわからんし」
……
 狂児の意図は依然としてわかるようなわからないような、というか、自分の想定する彼の意図と本当の彼の意図が同じか否かに自信がない。
 それでもどこか浮つきはじめた頭で、聡実は「僕バイトです」と返す。ピンチヒッターなんか断ればよかった。
「ン、ファミレス行くよ」
 いや~、考えとったよりだいぶ会いたいのかもわからんね、という言葉の主語が狂児なのか聡実なのか、それすら確認できないまま会話をぶん投げて入った風呂から出ると、『後でね』と短いメッセージが入っていて、それだけで聡実は本当に、本当に救われてしまったのだった。
 狂児お前そういうとこやぞと思い続けて迎えた昼下がり、電話口と寸分違わず軽〜いノリで彼はやってきた。本来この時間にするはずだった仕事をどうしたのかは知らないが、ヤクザは斜陽業界だというし暇なのかもしれない。知らんけど。
 知らんけどほんならそもそも約束は今日でよかったんちゃう、と思いながら、聡実は努めて普段通り、ゴディバがあかんという立証をするために件の二人組の席の後ろに狂児を座らせてみたりしつつも、粛々と業務に勤しんだ。二人組の会話に頬を引き攣らせやがて眉根を押さえる狂児の姿はなかなか見応えがあり、笑い出しそうな唇に思いきり力を入れながら観察しているのを勘付かれた聡実は、彼から6度の注文を取らされる逆襲をうけた。
「ご注文は以上でよろしいでしょうか」
「何べんも来てもろてえらいすいまへん、ボクとっても優柔不断で……
……
「あ、チョコケーキ追加」
「またか」
 マニュアル外の言葉を漏らした聡実に狂児はにっこり笑った。
「お兄さんのチョコケーキめっちゃおいしくて〜」
 何をぬかすのだこの男はという思いや、ただでさえ不当なリピート労働を強いられているのにさらにリピートさすなという思いを丸飲みし、聡実は多分3つ目のチョコレートケーキを運んだ。……とはいえ、これまでの5回と比較して今日は足がだいぶ軽かったのは事実だ。
 人の減り始めた夕方、狂児は席を立った。ホールでワンオペとなっていた聡実が彼を追いかけてレジに立つと、狂児は二人にしか聞こえない声で、「ほんならまた明日な」と囁いた。
「明日になったらええけど」
「なるやろ。少なくとも俺の心残りはないよ」
……そうですか」
 顎を引いてレジを叩く。ホールからチャイムが聡実を呼んでいるのが聞こえるが、感熱紙が出てくるのを引っ張らずに待つ。
「僕もかも」
 聡実が付け加えた小さな声に、狂児は「ンフ」と笑いを漏らした。「よかった」
 ほなねーといって出ていくデカい背中を見送ってから、聡実はホールに向かって踵を返した。狂児に大丈夫と言われると即座にそんなような気がしてしまう件に関してはよく考えなければならない。ヤクザに励まされるようではあかん。ヤクザを励ますくらいにならんと。
 とかなんとか考えながら労働を終え、帰宅した聡実はテレビをつけた。
 
≪2月14日、占いの時間です!バレンタインの運勢を占っちゃいましょう~11位はてんびん座!赤い服を着ましょ~。8位うお座。足元のおしゃれが吉……
「あ?」
 人をビビらせるときの声を出してしまった。
 誰も聞いていないがなんとなく咳払いでごまかして頭を抱える。彼への言葉は断じてリップサービスではなかったのに。聡実くんに今すぐ会いたい、以外に今日やりたいこと何?ないやろ!?「あるみたいですね」
 電話口の声は疲れ切っていた。
「これ以外なんも思いつかへんねんけど」
「僕も……
……聡実くん、もういっぺんよぉく考えよ……ほんまに思い残してることない?俺らだけが今日から出られへんちゅーことは、どうしても今日やらなあかんこととかやりたいこととかがあるんちゃうの?俺らのどっちかか、両方に」
「一日中寝たいです」
「俺も……
 リアルな6徹の疲労感ではないが精神的にはそれを上回る疲労を感じている。ぼんやりした頭で「なんでやろなあ、俺聡実くんにチョコまでもらったのに」とつぶやくと、えっと怪訝な声が返ってきた。
「あげてませんけど。おかしなった?」
「え?昨日のチョコのケーキ」
「曲解やろそれは……チョコ欲しかったですか?」
 正直に言えば、狂児自身はバレンタインのこの慣習に関して何の思い入れもなかった。が。
「こうなってから、あ、ほんまは欲しかったのかもと思いました」
 こちらの告白に対してしばし考えたのち、聡実は「それか」と言った。「狂児さん、僕もほしいのかもしれへん。チョコ」
 狂児は胸を抑えた。「ヒエ」
「稗?」
「いえ」
 朝陽の差さないビジネスホテルで混沌とした感情に襲われる狂児の沈黙を埋めるように「別になんでもええけど」と聡実が続けた。
「僕も要らんおもててんけど。なんかそんな、普通な感じとちゃうし僕ら……けど今、欲しかったかもって思いました」
……そんなん、ほんまにあげるしなんでもなんぼでも……何がほしい?どこでも買いに行くわ」
「仕事せえよ。いやせんほうがええけど……板チョコでもなんでもいいです」
 板チョコでもチロルチョコでも生協の麦チョコでも。「好きピだったら……?」
 ファミレスの客の会話を反芻してぼろっとこぼすと、聡実ももごもごと、
「まあ……好きピやから……
 え~~~~~~~~。
「聡実くん、もっかい言って……
「あ、僕は当日にシフト動かせないんで」
「ファミレスいくわ。開店から」
「24時間営業です。……店でもええけど、朝は空いてますか?仕事終わってからこっち来れますか」
「え?うん」
「僕あがるの7時なんですけど。あの、そのとき食べませんか、チョコ。それでどうなるか、確認しませんか」
 
 狂児はありったけのリソースを駆使してありとあらゆるチョコをかき集めた。まだ陽の上りきらない駅前で落ち合った聡実は、こちらがぶら下げている大量の紙袋に盛大な呆れ顔を見せる。「多いわ」
「豚まん20個半日でなくなる子やん」
「それでも多いわ。これ、日付リセットされたら全部消えんねんで」
「そうなん?」
「そうです。……まあええわ、はい、これ」
 聡実がポケットから出したのは板チョコだった。「部屋戻って消えてもうたらいややから、今食べてください」
 差し出された見慣れたパッケージはこの世に二つとない聖なるものに見える。
 徐々に輝きを増す朝日に照らされて輝き出すパッケージを眺めていると、聡実くんはなんやねん板チョコで悪かったなと悪態をつき、それからすぐに荷物持ちますと手を差し出してくれる。大丈夫大丈夫と紙袋の持ち手を手首に移して、狂児はようやくそのチョコを受け取った。
「ありがとぉ」
「僕にも一個ください」
「どれがええ?」
「どれでも」
 ほんならこれ、と渡した小さな箱を躊躇なく開けた聡実は、小さな粒をつまんで口に放り込む。歯を立てた瞬間口内で何かが起きたのか、目がまん丸に見開かれた。「なんですかこれ」
「チョコ。まずかった?」
「いやめっちゃうまい……え、え、中からなんか出てくる。なんですかこれ」
「チョコよ」
「それはわかるけど」
「うまかったならよかったわ。俺もいただきますね~」
 昔はこれ箱やなくてただの紙やったよなあ、そうでしたっけ、などと話しながら開封して銀紙を剥き、一口分歯に挟んでパキッと割る。こちらの咀嚼音が聞こえているのかなにか妙な顔をする聡実を眺めつつ、口内と鼻腔を経て頭蓋骨いっぱいに広がってゆく香り、味蕾を侵すように浸透する甘さに、狂児はしみじみと唸った。「……沁みる……
「まったく釣り合ってないけど」
「なにが?」
……
 聡実は唇を結んだまま狂児の脇を通り過ぎた。アパートまでの道を先導してくれるらしい。
 後ろから見える彼の耳がほんのり赤いことに笑いを堪えながら、ああ、この後姿を追って朝のひかりの中を歩くこの時間が一生続けばいいのにと思う。眩しさに目を細めながら後頭部を見つめていると、「なに?」と振り返られた。
「なんでもないです」
 アパートの階段は西を向いていて、朝日のあたらぬそこはまだ寒々しかったが、部屋の玄関を開けるとやっぱり明るく、差し込む光が舞う埃を照らして筋になっているのが見えた。天国のようだと思いながらぼんやり眺めていると、手を洗った聡実がこちらを振り返って「狂児さんも手洗ってください」と言う、その途中から見開かれていく目が、狂児の手元を凝視した。「狂児さん」
「なに?」
「消えてへん、チョコ」
 指さす先の大量の紙袋は確かにまだこちらの両手にぶら下がっている。「ほんまや」
「成功したんちゃいますか……?」
「え……チョコ交換したから……?」
 呆然と見つめ合う。
 先に我に返ったのは聡実だった。
……そんなにバレンタインしたかったんですか狂児さんは。ほなはじめっから言うてください。14日に約束しとけばよかったのになんで15日にしたんですか。おかげでこんな大変な目に」
……ンフ、聡実くんこそ僕らそんな柄やないとか言うてたけど、あれツンデレってやつ?ひょっとして。ほんま可愛らしいわ」
「ツン……
 聡実はあまり上手くない舌打ちをした。「はよ手洗ってください」
 堪えきれない笑いに肩を震わせながら手を洗っていると後ろから軽く膝蹴りされる。その後彼が湯を沸かし始めたので、狂児はてっきり例によって寿司の湯飲みにお茶が注がれるのだと思っていたのだが、聡実はインスタントコーヒーを取り出し、その瓶から湯呑みに顆粒をさらさらと落としている。
「あれ、聡実くん、普段コーヒー飲むん」
「飲まへん」
……
「狂児のために買った。ラッキーアイテムゆうてたから」
……
……牡牛座ですよね?」
 もはや稗も生やせずに濡れた指で目頭を押さえると、ギョッとした声が「うわ、なに?」
「ありがとう聡実くん……意地悪言うてほんまごめんなさい……
「コーヒーくらいで大げさやねん。2月14日の占いやからもう無効かもしれないですけど」
 事実として強調しておきたいが聡実が狂児に淹れてくれるコーヒーは地球に太陽が昇る限り舞分毎秒ラッキーアイテムである。
「寝るまで今日やろ」
 そのラッキーアイテムが淀川と寿司になみなみ注がれる。そんなに上まで注いだら熱くて持てへんでというところまで。
「ほんなら、まだバレンタインということで」
 天国みたいな畳の間で膝を突き合わせうやうやしくチョコレートを食べる様はなにか新しい儀式のようだったが、狂児も聡実もそれについては何も言わなかった。聡実は粛々と狂児の紙袋から箱を取り出し、一粒摘み上げては、すごい、綺麗、おもちゃの宝石みたいやと感心し、その割には躊躇なく思い切り歯を立て、その度に毎回違う表情で驚愕し、我に返ったように狂児さんも食べてみてくださいこれと差し出してくれる。一方の狂児は聡実の板チョコで胸がいっぱいで、それがどんな高級チョコであろうがこの味を上書きしてしまうのが惜しい。そう言うと聡実は呆れ声で「いや、その辺で買えますけど」
「うん。いや、これも飾っときたい」
……好きにしてください。これ美味しいから食べてみてって」
「はあ……せやけど……
「そんなんまた買うし」
「俺全然知らんかってんなこのイベントの醍醐味……
……来年もあげますから」
……
「いいから食えや」
「は~い」
 聡実がじっと見守る中、一粒受け取り口に入れた。
 チョコレート外側の硬い層を破壊する咀嚼音に混ざり、聡実の静かな呼吸が聞こえた。中から出てきた甘いものをどろりと飲み込む狂児の喉仏を見届け、彼はチラリと視線をあげる。探り合うように見つめ合いながらコーヒーを飲む。
 空気を壊さないよう息を潜めていると、やがて聡実がハッと顔を上げた。「テレビつけていいですか」
「え、うん」
「一応確認で」
 確認て、もうこのゲームクリアしたんちゃうと狂児は思い、そしてそれが勘違いであることが1秒経たぬうちに判明した。
≪2月14日、占いの時間です!バレンタインの運勢を占っちゃいましょう〜11位はてんびん座!≫
……8位うお座。足元のおしゃれが吉……
「7位は水瓶座のあなた〜。遅刻に気をつけて😖」
 狂児と聡実は交互にランキングを読み上げた。最下位と1位の発表前の溜めの秒数まで完全再現したのちに顔を見合わせる。
「嘘や」
……せやけど」
 狂児は誰に向けるでもない弁明から始めた。「方向性はあってるんちゃう。俺、昨日まで毎日池袋のホテルにおったし。チョコも消えてへんやろ」
「まあ確かにそうですけど……
「もう一声や」
「もう一声って……
……聡実くん牡羊座やんな」
……はい」
「1位は牡羊座!今日はハッピーなバレンタインになりそうです。ラッキーアイテムはチョコ❤️ほんとの気持ちを伝えてくださいね❤️や」
……はあ」
「やからほんとの気持ち❤️を……
……
 聡実は怖い顔で押し黙った。そして「またですか」
「またって何」
「どうなりたいのどうしたいのですか。もうええっちゅうねん」
……俺ちゃうで。なんか大いなる意志が……
 聡実はまた舌打ちをする。あかん。「舌打ちやめなさい」
「ヤクザに言われたないわ。だいたい狂児さんはどうなんですか」
「なにが?」
「一息ついて自分と向き合ってますか」
「向き合ってるよぉ、向き合った結果俺初めて能動的にバレンタインしてんねんで今」
「それって本当にやりたいことなんですか」
 薄い色の瞳が狂児をじっと見るが、狂児は嘘などついていない。
 ……嘘などついていないがより正確に言えば、狂児がコーヒーを飲んで一息ついた瞬間、いや多分もっとずっと長い間、毎分毎秒強く願っているのは、今この瞬間が一生続けばいいのにということだった。聡実くんと向かい合ってコーヒーを飲んだり寝ぼけたようなやり取りをしたりひかりの中を歩く彼の後ろ姿を見つめたり、彼と明日の約束がある今この瞬間が、一生続いてほしいというようなことを、狂児はずうっと考えている。向き合うまでもなく。
 もし馬鹿げたループを引き起こしているのが狂児のこの欲だとしたら、明日は永遠に来ないのだ。困ったことに。
……せーので言おか」
「なんでですか」
「ビビりやから、俺が。聡実くんのほんとの気持ち❤️聞くの怖いねん」
 これは嘘だ。
 聡実は顔をしかめたが、虚言は咎めずに「大丈夫です」と言った。
「ほんまに?」
「多分……
 彼の声は苦しげに詰まりはじめ、手も少し震えているようだった。しかし狂児を見つめる瞳はやはり1ミリも逸れない。
「そんなん言われたら余計に緊張するやん」
 言いながらその瞳にずいと顔を近づける。
……
「な、一緒に言お」
 互いから漏れる甘い香りが、それこそよくできた嘘のようだった。呑まれまい騙されまいという目でこちらを見据えてくっと顎を引いた聡実に向かい、狂児は一方的に囁いた。「せーので言うで」
「え」
「せ~の、」
 一瞬躊躇した聡実はしかし、狂児が大きく息を吸うのを聞いた途端に覚悟を決めた顔になり、
「早く先に進みたい」
と言った。
「明日そう言うつもりやっ──」
 一方の狂児は息を吸ったままそれを聞き届けた。
……っ」
 ああやっぱりこのままではいられないと思う心の上を、さあっと、「聡実くんがそう言うなら」が塗りかえてゆく。
……狂児お前……!」
 呻いた聡実は上下する喉仏でなんらかの感情を飲み下し、こちらの胸ぐらを掴む。
 それからぶつかってきた唇、本当にただぶつかってきただけのそのやわらかな粘膜の感触を、狂児は目を閉じて受け入れた。
 彼の鼻息がこちらの鼻の下を湿らせていくのを感じた。乾燥して少し捲れた皮がこちらをひっかくのを享受した。綺麗事より融点の低いおもちゃの宝石が壊れて、中からどろりと溢れてくるものを感じた。聡実くんがそう言うなら。聡実くんがそれを望むなら。
 唇が離れたので目を開ける。
 聡実が体を引こうとするのを視線だけで引き留めていると、今度はこつんと額が当たった。まつ毛が蝶々のように狂児の瞼を掠めた。
「僕を舐めるのも大概にせえよ」
「舐めてへんよ」
「おかしいやろ」
「せやなあ、名前まで彫ってもうてるしなあ……
……大丈夫やから、言って」
 聡実が囁く。「教えてください」
 チョコとコーヒーの味のキスの合間に繰り返される懇願を転がしながら、押し倒された背中を畳に預けた狂児は、よぉく自分と向き合った。それでもやっぱり、誰がどう咎めようが気味悪がろうが道義に反していようが、狂児の望みは、聡実くんの望みをかなえることでしかないというところに帰着していくのを、改めて確認した。それ以外何もなかった。
 ただ、聡実からこぼれつづける「大丈夫やから」が苦しげで、それが辛くて狂児はつい、「このまま、」とこぼしてしまった。このまま。このまま……
「何……?」
 視線を落とすと、シャツのボタンを外そうとするぎこちない指先が固まっているのが見える。それが猛烈に愛おしくて唐突に、わかる。
 このままずうっと、ずうっと、変わっていく聡実くんを見ていたい。
 あー、これやろ。つまりは。
「このまま続けて」と言うと聡実はじとりとこちらを睨みつけてきた。その目のふちや吐息から溶け出すものが甘すぎてごくりと喉を鳴らしそうになり、それはさすがに笑ってごまかすしかなかった。
「ところで先ってこっちなん?」
……そうです」
「聡実くんのえっち」
……うっさいねん」

 精神的6徹、いや7か?……そうでなくとも普通に夜勤明けだ。寝不足からの軽い運動はてきめんに効き、陽の光の具合からしてそう時間は経っていないように思われたが、しばらく意識を失っていたのは確かだ。
 目を開けてぼんやり天井を見ていると、隣の狂児も身じろぎした。二人ともそれぞれの職務から帰宅したばかりの服が少しばかり乱れた状態で、しかし寒い部屋である、2人ともなんとか布団の中に収まろうと不自然な体勢で横になっており、妙に力の入った体はガチガチに硬い。
 蘇ってきた甘い声に身震いした聡実は、日付を確認するために上半身を起こした。スマホよりもリモコンが近かったのでまずはテレビをつける。短い睡眠の間に占いつきのニュース番組は終わってしまったようで、液晶に映し出されたのはここ数日見ることのなかったワイドショーだった。日付がよくわからない。
……何時?」
「9時です」
「聡実くん今日なんもないん」
 今日が14日か15日かによる。前者だったら午後からバイトで、後者だったら狂児と焼肉を食べに行く予定がある。──いやもう、14日だったとしても、インフルとかになろうかな。あるやろそんなことも。「なんもないです」
 それでも一応携帯を探そうと、狂児の顔の脇に手をついて捜索を始める。バランスを崩したらこの強い顔面の上に落下する姿勢にも関わらず、彼はこどものように聡実にちょっかいをかけてくる。畳の上に突っ張った指の間を通り抜ける指紋の感触にびくりとし、「触んな」と忠告すると、「ひど〜お」とふざけた声が聡実を非難した。「弄んだんやな、ボクを」
「ちゃうわ。危ないやろ」
「はーい。……予定ないならもうちょっと寝よ。ええやん14日でも15日でも」
「僕は焼肉も食べたいです」
「あ、はい」
 やっと見つけた携帯のディスプレイを二人して覗き込む。
 2月15日。
「「クリアや……」」
 どっちでもいいと言った割に狂児は安堵のため息をつき、先に進みたいし焼肉も食べたかったはずの聡実は少しだけ、ほんの少しだけ、二人だけの2月14日の世界を惜しんだ。