平日の昼間、大人たちは仕事場で働き、何処の家も子供しかいない。武臣君はふらふらして働いていないけど、さっきどこかに出かけてしまった。多分、駅前のパチンコ屋に行ったに違いないけど。
夏休みに入ってから、オレは毎日明石家に行き、明石兄弟と宿題をしている。居間の畳に座って一緒に勉強していた千壽は、トイレに行ったまま帰ってこないので、もしかしなくても逃亡したのかもしれない。
夏休みなのだから、宿題よりもまずは学校の無い日常を楽しみたいというその気持ち、すごくよく分かる。だって、春千夜君がいなかったら、オレも千壽みたいに遊びに行ったと思うからだ。別の世界線のオレは、毎年夏休みの最終週に親に怒られながら宿題をやっていたのだから間違いない。なんで、オレも誘ってくれなかったんだと、千壽に文句の一つも言いたくなった。
そう言う訳で、明石家の居間にいるのは春千夜君とオレの二人だけ。壁に掛かった時計は何度見ても10時を過ぎた頃で、こんな時間に勉強していると、学校のある日となんら変わらない気がして嫌になる。
この時間だったら、TVで夏休みのアニメが放映されているのだけれど、とても見たいと言える状況ではない。小学生らしい怠惰な夏休みが送りたいとオレは切に願っていた。
算数ドリルの1頁を終わらせても、千壽は戻ってこなかったので、捨てられたのは確定みたいだった。脱走するならオレも一緒に連れて行ってくれたら良いのにと、また思ってしまうくらい、午前中だと言うのに気温が高くて死にそうだった。
明石家の居間のエアコンは昨夜から壊れていて、窓を全開にしていても無風状態で、居間に風もそよがない灼熱地獄になっていた。
机の上には、珍しく武臣君が持って来てくれた大きなオレンジ色の花柄のグラスに入った麦茶があった。
そのグラスの外側には、隙間がないくらいびっしり水滴がついていて、それがいかにも夏という感じを醸し出している。室内の暑さで溶けた大きめの氷がカランと鳴って、ますます夏っぽいと、朦朧としながらオレは思った。
それにしても、どうにも暑くて、区民プールにでも行けたら良いのにと思ってしまう。春千夜君が言うように、確かに宿題は早く終わらせて損は無いとは思うけど、今日みたいなどうしようもない暑い日は、ムリして宿題はやらなくても良いのではないかと思うのだ。しかも、エアコンが壊れているのだ。
けれども、そんなことを春千夜君に提案する勇気がオレには無かった。
何しろ春千夜は恐ろしく怖いのだ。
暑いから宿題するのは止めようなんて言おうものなら、たるんでいると怒られるのは、火を視るよりも明らかだった。そして「心頭滅却すれば火もまた涼し」とか武士みたいな事を言って、弱音を吐いたオレを責めるに違いない。
グラスについた水滴のように、オレの額にもびっしり汗が噴き出していて気持ち悪い。それなのに、目の前に座っている春千夜君は汗一つかかず、すました顔で宿題をしているから嫌になる。
「なに?」
身体のどこも動かさず視線だけをオレに向けた春千夜君と目が合ってドキリとする。
春千夜君の瞳はとても綺麗だ。しかも、妹の千壽同様に長い睫毛にびっしりと彩られていて、二人とも睫毛にマッチ棒が乗るレベルだ。
「なんでもない」
本当は「今日は宿題を止めにして遊ぼう」と言いたいのに、言えない気弱なオレ。
他の人には普通に話せるのに、何故か春千夜君と話すのは緊張してしまうのだ。同じ顔の千壽とは何の問題なく話せるのに不思議で仕方がない。
「言いたいことがあるなら言えよ」
春千夜君が持っていた鉛筆を机の上に置いて、顔を上げてオレを見た。その視線の臨戦態勢ぶりに、背筋が伸びる思いがした。
「本当になんでもないよ?」
「嘘つけ。顔に『宿題をしたくない』って書いてある」
「あは…バレた?」
「おまえの考えている事なんてお見通しだ」
「そっか」
オレは春千夜君の考えている事など全然分からないのに、春千夜君はすごいなと普通に感心してしまう。
「あと、1頁終わったら、プールに連れて行ってやる」
「え? マジで? 速攻やるし」
プールなんてスペシャルな提案を、春千夜君からしてもらえるとは思っていなかったオレは、一気にやる気が漲った。
「現金な奴だな」
オレは文字通り速攻で片付けた。外側は小学生だが中身は26歳なので、本気を出せば小学3年生のドリルなんて簡単だ。もしかすると、高学年のドリルは出来ないかもしれないけれど、今のドリルは楽勝だった。
前にいる春千夜君の様子を見ると、まだ解き終わっていないようなので、オレは畳の上に仰向きに寝転んだ。さらりとした畳の表面が心地良い。自分の部屋は板の間なので、寝転がると痛いのだが、畳は寝転んでも優しく受け止めてくれるから好きだと思う。このイ草の匂いも気持が落ち着くから好きだった。
居間の窓から見える空は青く、暑中お見舞いの絵葉書みたいな入道雲が見えた。
プールの帰りにアイスクリームも食べられたら良いのにな…と、能天気な事を考えているうちに、オレはうとうとしていたようで、ハッとして目を開けると辺りは薄暗くなっていた。
プールはどうなった? と、焦ったオレは、直ぐに薄暗く感じた理由を知った、春千夜君がオレの上に覆いかぶさっていて、夏の日差しを遮っていた。春千夜君の顔は近すぎて、焦点が合わないくらいだった。ゆっくりと視界がクリアになり、春千夜君が目を閉じているのが分かった。そして同時にあのバサバサの睫毛が長い事をすごく実感できる。
それにしても、なんでこんなに春千夜君の睫毛を鑑賞できるのかと不思議に思った瞬間、春千夜君の唇がオレの唇に触れてきたから、オレは目を見開いた。さらりとした滑らかで薄い唇が、オレの唇の表面を押し付けるように触れていた。
春千夜君の手の平がオレの両頬を挟む様に包み込んできて、その手の平のしっとりとした感触に、春千夜君が汗ばんでいるのだとドキリとする。先ほどの済ました春千夜君の汗一つかいていない表情を思い出していた。顔には汗をかかないなんて、女優さんみたいだと思って、いや、それどころじゃなくて、春千夜君にどうしてキスされているかの方が重要でしょ? と、自分で自分に突っ込んだ。
春千夜君は、オレが寝ているからキスしたのだ。そのオレが実は起きていましたというのは、春千夜君も気まずいだろうし、オレも気まずい。だったら、このまま寝ているふりをして、キスされたことなど知らないフリをしたら良いのではないかと、またしても気弱なオレは考えた。春千夜君のキスが終わるまでにと、慌てて目を閉じると、丁度、春千夜君の唇が離れて行くのを感じた。
春千夜君でには直接陽が当たり、目を閉じていても瞼の裏がオレンジに染まる。
オレが目を覚ましている事に気が付かれませんようにと、必死で寝ているフリをしているオレに、春千夜君は「いつまでタヌキ寝入りするつもりだ?」と言った。
起きているのがバレている? と、一瞬思ったけれど、これは罠で、オレが引っかかるのを春千夜君は待っているかもしないと、引き続き寝たフリ作戦を敢行する事にした。
「気まずくなると思って寝たふりをしてるんだよな? もうバレているからさっさと目を開けろよ。そうしないと、気まずくならなくなるまでキスしてやるから」と言って、速攻でオレの唇を再び塞いできた。しかも、びっくりして口を開いた隙に舌をねじ込まれ、もうパニックだ。机の上にあるグラスの氷が更に解けて、カランと音を立てる。そして、春千夜君と密着している部分の熱さと、初めてする深いキスに眩暈がした。
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