いまさら
2024-06-21 01:58:47
4721文字
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研クロ 高1と高2 すこし弱ってるくろと、見守るけんま

 俺が高校二年生、研磨が一年生の六月、授業が午前で終わって、それに伴って部活も早く終わった日だった。俄か雨に降られて駅前のレンタルショップに駆け込んだことがある。駅前といっても少し歩く距離だったし、何より降り出した雨の勢いが強すぎて、その短い時間でふたりとも哀れな濡れ鼠になってしまった。
 研磨はもうじゅうぶん暑いのにジャージの上着を羽織っていたおかげか悲壮感は軽減されていたが、俺はといえばTシャツが肌に張り付くわ普段は重力に逆らっている髪の毛もシャワーを浴びたようにぐっしょり濡れて水滴が滴り落ちるわで側から見たら悲壮そのものだったと思う。
 雨宿りもそうだが、水分がまとわりつくような重くてぬるい空気から逃れたい気持ちもあって冷房が効いているはずのその店に入ることを選んだのだった。ふたりともあまりに濡れているので、このまま店に入るのは躊躇われて狭い軒先でエナメルバッグの中でなんとか無事だったタオルを使って水滴を拭き取った。
「うわ、見て、研磨」
「やば」
 シャツの裾を絞るとバケツの水に浸した雑巾を絞るときのように水が落ちていく。これでは拭いたところでキリがないが、まさかここで服を脱ぐわけにもいかない。研磨は羽織っていたジャージの中のシャツはさほど濡れてなかったらしく、ジャージの上着だけ絞って髪を拭けばかなりマシになっていた。
 店に入るのやめてここで雨が落ち着くの待ってもいいな、と思いながらも濡れた体の気持ち悪さに耐えられずに必死に雨水を拭く。体から水滴が落ちなくなる程度まで水を切って、ようやく店内に入る準備ができる。雨足は依然として強く、この中を走って帰る気にもなれなかった。
 風除室に入ると、そこは外と変わらないぬるさだったが雨が降っていないだけでじゅうぶんだ。自動ドアが開いて冷たい空気が流れ出てくるあの瞬間。それを期待してドアに向かう。が、ドアが開いてもその瞬間は訪れず、風除室よりはほんのり冷たい空気が柔らかく頬を撫でて、それでようやく微妙に冷房が効いてるのか、と気がつくくらいだった。期待はずれ、と思いながらドアを潜る。研磨を見やると多分同じことを考えてて、口がへの字に曲がっている。分かりやすさに少し笑ってしまう。
「俺、CDの方見てこようかな」
「うん、おれは雑誌見てくる」
 そうしていつも通りに別れてそれぞれ見たいものを見る。店内は同じように雨宿りと冷たい空気を求めて来たようなびしょ濡れの学生やサラリーマンの姿がちらほら見えた。本を置いているのにこの湿度って大丈夫なのだろうか、と余計なお世話が頭を過ぎるが、自分もさっきよりはいくらかマシになったとはいえ雨に降られたことがすぐ分かるような出で立ちなので湿度については考えないことにした。
 新譜の棚を見ながら、これはクラスのやつが好きなバンドだから多分そいつから借りられるだろうな、このアルバムのジャケットかっこいい、知らないアーティストだな、今度借りてみよう、などとりとめのないことを考える。DVDの棚に移動して同じようにパッケージを眺める。
 映画か、しばらく見てないかも。映画館にも行っていない。海が面白いって言ってたのなんだっけ。あ、たしかこの駅伝の映画だ。原作が小説で、陸上初心者のメンバーで箱根駅伝を目指す、というストーリーだったはずだ。スポーツものなら見やすいかもしれない。……いや、でも、今はいいかな、とすこし暗い気持ちになる。
「なんかいいのあった?」
「びっ……くりしたー…………!」
 後ろから声をかけられてひどく驚いた。大声を上げなかったのは幸いだ。研磨は俺の驚きをスルーして、棚の映画に目を向ける。
「これ去年映画やってた。もうDVD出てるんだ」
「海が良かったって言ってた気がして」
「ふーん、借りるの?」
……今日はいいかな」
「じゃあ、おれが借りる。うちで見ようよ」
「え、」
「ほかのがよかった?」
「あ、いや、それで、いい」
 研磨がパッケージを手にしてレジに向かう。どういう風の吹き回しだ、と思いながらも有無を言わさぬ態度の研磨を黙って見ていることしかできなかった。
 気を遣われている、と感じた。俺が気落ちしているのを研磨に悟られている。
 インターハイ予選が終わり、三年の引退が決まった。近いうちに新チームでの部活が始まり、俺はそのチームの主将を任されることになったのだ。今の一年と二年なら良いところまでいける、という自信はあるが、確信ではない。願望なのかもしれない。
 今の三年とは、一年半同じチームでバレーをしてきたが、上手くハマったと思う瞬間は皆無に等しかった。同じ空間にいるのに、向いている方向が違うのが悔しくて、もどかしかった。バレーだけでなく、先輩後輩としての関わり方も最後まで掴めないままだった。年上が苦手なわけではないはずだ。中学のときもここまで露骨に噛み合わないことはなかったのだから。ただ、どうしても水が合わないことはある。そういうことを学んだ一年半だった。
「おまたせ」
 会計を終えた研磨が戻ってきて思考が中断される。DVDの入った黒い袋が、さらに白いビニール袋で覆われている。
「なんか雨だからって袋に入れてくれた」
「雨、やばかったよな、帰れるかな」
 窓外を一瞥すると、雨足は弱まっているように見えた。雲は厚く、昼下がりの時間帯にしては薄暗い。研磨は袋をバッグに突っ込んで、先に自動ドアをくぐった。俺より随分小さな背中に縋りつきたい気持ちになって、ああ、俺は今弱ってる、とまた思い知らされた。
 小雨の中を小走りで帰る。ただいま、と言いながら家に入るが返事はない。そうか、今日は家のひとたちは予定があるんだった。みんなが雨が強いときに帰ってくるのではなくてよかった、と祖父母と父の顔を思い浮かべる。誰かに隣にいてほしい、と柄にもないことを思う。
 シャワーで雨水を洗い流して、部屋着に着替える。さっきまでは暑かったのに、今は空気が冷たく感じられて、長袖のシャツと長ズボンを選んだ。そのくせ髪を乾かす気にはならない。タオルを肩にかけて研磨の家に向かう。
「お邪魔しまーす」
「どーぞ……って髪濡れてるし」
「研磨もじゃん」
 同じように肩にタオルをかけた研磨が出迎えてくれる。研磨の家も両親が不在らしい。外はまた雨足が強まったのか、暗く静かな家に雨音が響いて、そんなわけないのにこの世に自分と研磨のふたりしかいないような気がしてくる。
「麦茶でいい?」
「お願いします」
 些細なやり取りも、階段を上る音もいやに大きく聞こえる。小学生の頃から入り浸っている研磨の部屋が、知らない空間のように思えた。どうして今日はいつもと勝手が違うのだろう。自分の体なのに、誰かの目を通して世界を見ているような、不思議な感覚だった。
 研磨がテレビをつけて、借りてきたDVDをプレーヤーに入れると、映画が始まる。部屋の電気がついてない、と気がついたが言いそびれてしまった。薄暗い部屋の中で画面の光が異様に明るくて、研磨のように夜中にゲームをしない俺にとっては見慣れない、非日常的な光景だった。
 映画は海から聞いていたあらすじの通りに、初心者が集まって箱根駅伝を目指す、というストーリーだが、どのメンバーも個性的で面白い。なんとなく今の二年と一年の顔が思い浮かぶ。
「この漫画好きなやつ、ちょっと研磨っぽい」
「おれもこれくらいゲームに囲まれて暮らしてみたい」
「ふ、床抜けるって」
 チームのひとりに漫画が好きで、時間さえあれば漫画本を読み耽っている人物が出てくるのだが、そのひとが住む部屋がすごかった。画面の中には、古くて狭い寮の一室にびっしりと漫画が山積みされている様子が映し出されている。それは好きなことに没頭できるというそのひとの性質を象徴する風景であり、ここまで何かを極められることを俺は好ましく思いながら画面を見ていた。
 研磨はこの映画を見てどう思っているんだろう。走るの好きか、という台詞が出てきたが、俺は研磨にバレーが好きかどうかは聞けないかもしれない。研磨に辞めるなよと言ったのを思い出す。あれからいくらか時間が経って、研磨は今もバレーを続けている。もしもバレーが好きか、と聞いて、肯定的な答えが返ってこなくても、それでじゅうぶんだった。
「このひと、クロみたいだよね」
「え、俺こんな感じなの」
「うん」
 研磨が指したのは、箱根駅伝に出る、と高らかに宣言してチームのまとめ役をしている人物だった。信頼も厚く、ひとをフォローするのも上手い。俺もこんなふうにひとと関われたらな、と羨ましく思いながら見る。
「競技をすごく好きで、信じているところが、クロに似てる」
 そう言われて、はっとする。そうだ、俺はバレーが好きなのだ、と当然のことを思い出して、張り詰めていた気持ちがふ、と緩んだ感覚があった。インターハイ予選の結果、三年と最後まで折り合いが悪かったこと、新チームの主将になることへのプレッシャーなど、ここのところずっと緊張していたのだ、と気がつく。バレーに関わることだが、それによって生じる負の出来事や感情に囚われすぎていたように思う。バレーを好きでいることを見失いたくないのに、靄がかかってしまっていた。
 研磨は何食わぬ顔で画面を見ている。俺もすぐ画面に意識を戻した。雨が降る音は続いていて、相変わらず部屋の中は薄暗いが、いつもの研磨の部屋に戻ってきたように感じた。

 誰かに髪を触れられている感覚で意識が浮上する。テレビの音だろうか、誰かが話す声が静かな部屋に響いている。外からは雨音も聞こえる。心地よさに目を閉じて横たわったままでいるうちに、研磨の部屋で映画を見ていたことを思い出す。ということは、俺はいつのまにか寝てしまっていて、今髪に触れているこの手は研磨のものだ。すこし驚きはしたが、頭を撫でる手つきがあまりにもやさしいので目覚めるのが惜しく、そのまま後を引く眠気に任せて再び意識を眠りの底に沈めてしまった。
「ごめん、寝てたわ」
 次に目覚めたときには、テレビはエンドロールを映していて、映画は終わってしまっていた。研磨は最後まで見たようで、面白かった、クロ見れなくて残念だったね、と笑っている。頭を撫でられていたことについては、気恥ずかしくて聞けるはずもない。
 1時間も寝ていないくらいだが、久しぶりにちゃんとした睡眠を取った気がして心も身体も軽かった。頭もすっきりしている。眠れてないわけではなかったのに、やはりすこし参っていたようだ。
「クロに足りないのはちょっとの横暴さかもね」
「なにが」
「なんでもない」
 映画の内容について言っているのだろうが、途中で寝てしまったので何を指しているのか分からなかった。時間は経っているはずなのに、部屋は来たときよりも明るい。不思議に思って窓の外を見ると雨が止んで雲が薄くなっていた。夕日がわずかに部屋に差し込んで、俺たちを茜色に染める。
 同じように雨の日に研磨とバレーの試合を見たことを思い出す。あのとき、研磨にはセッターが向いていると思ったのだ。そして研磨は今も同じポジションでバレーを続けている。これからは、新しいチームでその能力を遺憾なく発揮することができる。その事実が胸を高鳴らせる。
「俺、めちゃくちゃ回復したわ、多分」
「何のアイテム使ったの」
「せかいじゅのしずく」
「つよ」
 研磨といつものやりとりができることに安心して笑う。そうしてひとまず俺の梅雨は明けたのだった。