いまさら
2024-06-18 15:59:40
8140文字
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二十歳の研クロ ⚠️飲酒、大学生活捏造、くろに元恋人がいる

 お酒が飲める年齢になった。一年のうち一ヶ月だけ同じ年でいられる旧友が成人祝いに飲みに行こうと誘ってくれていて、おれは誕生日当日をその祝いの席の日に指定した。
 旧友──クロは家族で過ごさなくていいのか、と聞いてきたが、うちの親はさっぱりしていて、高校生になった頃から誕生日に特別にすることといえば夕食の後にケーキを食べるくらいだった。それが毎年恒例だからさっぱりというよりはむしろ仲の良い方かもしれないが、特にどこかに出かけたり何か変わったことをするわけでもない。プレゼントは封筒に包んだ現金を渡されて好きなもの買いなさい、というスタイルだった。
 クロからは、そうやってみんなでケーキ食べるっていうのが大事なんでしょうが、とか思われそうだが。思えば小さい頃から互いの誕生日はケーキがあるから食べにおいで、と誘いあってついでに夕飯も一緒に食べていた。それがなかったのが一昨年、クロが大学一年生でおれが高校三年生のとき。クロも同じ生活リズムだった二年間はともかく、おれだけが高校生で春高を目指している多忙な時期でもあったのでクロが不在の食卓でケーキを食べた。同じ理由でクロの誕生日にも隣家にお邪魔することはなかった。
 それから去年。大学生になったおれは少しクロとの距離感を掴みかねていて、母親から鉄くん誘っといて、と言われたのに声をかけなかった。クロはクロで成人を迎えるその年の誕生日は父親とふたりで酒を飲むと言っていたのでまだ十九歳のおれは同席しなかった。
 成人の誕生日ってどう過ごすのが一般的なんだろう。クロとお父さんのような過ごし方はよく聞く話のひとつである。おれだって家族が大事じゃないわけではないが、でも今年のこの日はクロと過ごしたいと素直に思ったのだ。
 どうせ隣の家なので、現地で待ち合わせなんてせずに家から一緒に店に向かうことになっている。大学生になっても変わらず出不精気味なおれはちゃんとした店なんて居心地が悪いから気を使わないような店がいい、とクロにリクエストしていた。
「研磨ー! 誕生日おめでとう!」
 夕方、玄関まで迎えにきた友人から祝いの言葉とともに大きな袋を押し付けられた。なにこれ、と問う間もなく、クロが質問してくる。
「おばさんとおじさんは?」
「まだ帰ってきてない。クロとご飯行くって言ったら妙に喜んでたけど」
「なんか俺が研磨を借りてっちゃうの悪いな」
 期間限定で同い年の友人がすこし申し訳なさそうに言う。たしかに親からすれば一人息子が無事成人を迎えて感動もひとしおかもしれないが、うちの両親はそれに加えてクロとおれとの仲がここまで続いていることにも日頃から感心しているので、この件に関しては何の問題もない。それでも気にしてしまうのがクロというひとなんだけど。
「それより、この袋はなんなの」
「枕! ちゃんと寝なさいよ、の気持ちを込めて」
「どうもありがとうございます」
「棒読みヤメテ」
 枕ってどういうプレゼントのセンスなんだ、と思いながらもありがたくいただいて、それを自室に置きにいく。部屋に入ってふとベッドの上を見るともう何年使ってるんだろう、という様相のくたびれた枕が鎮座しており、思わず笑ってしまった。これはこれで長年愛用しているから馴染んではいるのだが、たしかに新しいものを贈りたくなる気持ちも分かる。
 とはいえ、大学生になってからクロがこの部屋に来ることはほとんどなくなった。たまにレポートが終わらないとかで押しかけてくることはあるけど。押しかけてきたところで学年も専攻も違うからおれは隣で自分のゲームや作業をしたりしているだけだが、クロは場所を提供してくれたらそれでいいらしい。よく分からないし、おれはクロのその寛ぎ方にいつも不思議な苛立ちを覚えている。もう幼い頃から続いていることだから今になって部屋に来られるのが嫌なわけじゃないはずなのに、最近は、いや、多分もうずっと前から、クロといると落ち着かない気分になることがある。
 今日は、昔みたいに落ち着いた気持ちでいられますように。祈りながら階段を降りるが、玄関でおれを待っているクロが目に入るとどうしようもなく浮かれた気持ちになって、ああ今日もダメだった、と早々に負けを認めた。
「じゃ、行きますか」
 おれの気持ちなんか知らない友人はいつもの通りに笑ってみせる。おれもいつもの通りを取り繕って、クロの隣を歩かなければならない。
 クロが予約してくれたという店は最寄りから一駅らしいので、涼しくなってきたことだし歩こうか、と歩いて向かうことにした。天気予報は曇り時々雨だったが、雲は薄くて雨は降っていない。金曜の夕方なので、人の多い電車も避けたかった。
 今年の夏は暑くて、残暑も厳しかった。十月半ばになってようやく気温が落ち着いたように思う。クロはこの夏から就活のインターンだか何だかで忙しそうにしていて、顔を合わせることはほとんどなかった。大学四年間のうち、三年目から就職に向けて動かないといけないなんて大変だ、とどこかひとごとのように思いながら、クロと会わない夏が終わった。おれも投資やゲーム実況の配信活動が軌道に乗ってきて法人化の準備をしていたし、法人化したあとも活動に追われていてそれなりに忙しかった。
 おれたちは別に会わなくても困らない。そのことに対して安心と不安とがある。
「父さんと行ったことある店なんだけど、これが結構よかったのよ」
「クロの誕生日に行ったの?」
 クロはずっとお父さんと仲が良いようで、そうした話を聞くとおれはなんだか嬉しくなる。秋の始まりの涼しい風が浮ついた心を落ち着かせていく。
「去年はうちで飲んだ。最初は鉄も成人かあ、とか言ってしみじみしてたんだけど、酒が回るとお説教始まって困ったわ」
「ふ、なんか想像できる」
 大丈夫だ。いつも通りを装える。おれは安堵してポケットに手を突っ込む。指先が冷えていた。
「そういえばさ、おれ、実家出ようと思う」
 ぽそりと告げると、クロは大げさに驚く顔を作って、手で口元を覆う。
「つ、ついにヒルズに……!?」
「出た、ヒルズ」
 有名な動画投稿者がこぞってタワマンや大豪邸に住む様子を動画に撮って投稿しているせいでそんなイメージがついているのか、おれはクロや高校時代の仲間からこのいじりをよくされていた。投資としてはマンションを持つのはいいが、自分がそこに住みたいとは思わない。
「まあ、物件決まったら呼ぶし、楽しみにしててよ」
「おー、研磨が選ぶのってどんな部屋だろ。楽しみにしてる」
 それからぽつぽつと近況を報告しあって、高校のメンバーが今どうしてるかなんかも話して、二十分程度歩いて店に着いた。予約してた黒尾です、と店員に伝え、個室の座敷に通される。店は程よく綺麗で程よく古くて、褪せた畳に手をつくと柔らかくて心がほどける心地がした。それで、おれはまだ緊張していたのか、と自分の状態を悟る。でも多分もう大丈夫だ。人目はないが、客や店員の声、キッチンで人が動く気配などで店内は適度に騒がしく、しかしうるさすぎず、ちょうどよかった。この明るすぎない明るさもありがたい。
「えーと、二十歳の研磨くんは何をお飲みになられますか? というかお酒は飲まれますか? ノンアルもソフドリもありますが」
 クロがメニューを差し出してきて言うが、おれは本当に初めて酒を飲むのでアルコールの名前だけ見たところで味の想像ができない。
「お酒は飲みたい。ビールは嫌」
 幼い頃、親戚の集まりで麦茶だと思って誤って口にした苦い記憶がある。クロもそれを知っているのでおれの即答にひとしきり笑って、じゃあ、といくつか提案してくれる。
 研磨の父さんも母さんもお酒強いから大丈夫だとは思うけどいちおう強いのはやめとくか、この日本酒美味いから大丈夫そうだったらまた来よう、おまえが好きそうなのはねえ、炭酸はレモンサワー、ハイボールとかこの辺のメニューで、甘い系だとカルーアミルクとか梅酒……は水割りかソーダ割りで、あとこれはおまえがいつも飲んでるエナドリのピンクのやつにちょっと味が似てる気がする、俺は結構好きなんだけどー、みんなの前で飲むとカワイイっていじられてちょっと遺憾の意、あとはー…………
 メニューをかいつまんで説明してくれる指先に見とれて、あんまり話を聞いてなかった。のを悟られないように、エナドリに似た味のお酒、に引かれたそぶりで「じゃあ、これにする」と答える。
「ん、カシオレね」
 クロは生ビールを注文して、それからふたりで適当に料理を選ぶ。
「ここ、料理もお酒もメニュー多いけどどういう店なの」
「隣がバーで、そこと同じ系列の店だから、って聞いたけど。そっちはカクテルとかもっと種類多くて、こっちに置いてあるのはわりと居酒屋のお酒って感じかな。でも美味いよ」
 なるほど、この辺りで系列で店を持っているならそれなりに大きい会社かもしれない、この店の家賃はどれくらいなのか、客足は悪くなさそうだが売り上げは、などとどうでもいいことを考える。そう、こんなことは今はどうでもいいのだ。
 失礼します、と店員が飲み物とお通しを運んできて、どうでもいい思考を中断する。透き通ったビールのジョッキがいやにきれいに見える。おれが頼んだカシスオレンジとやらは、不透明で赤みの強い橙の液体だった。おれがよく飲んでいるエナドリよりも濁っているように見えるが、たしかに色は似ている。
「じゃあ、研磨の成人を祝して。かんぱーい」
 カツン、とグラス同士を当てて、そのオレンジ色をひとくち啜る。甘くておいしい。ビールのジョッキを呷ったクロがドヤ顔でこちらを見ている。
「だろ?」
「なにも言ってないけど」
「顔に書いてあった」
「勝手に読むのやめてよ」
「ビールひとくち飲んでみる?」
「えっ、うーん……ちょっとだけ」
 渋々ジョッキに口をつけると、多少苦いとは思うが記憶よりまろやかで思ったより飲みやすかった。おいしい、かも。
「うまいだろー!」
 またおれの反応から胸中を読んだクロはけらけらと笑う。そうか、クロとお酒が飲める年になったんだ。じわじわと実感が湧いてくる。
 いつも追いかけるばかりの年齢差だった。クロと同じ年になったかと思えば翌月にはクロがまた年上になる。二十歳になった今、どうしてかその追いかけっこが終わったような気がする。許されることが同じになったからだろうか。選挙に行ける、お酒も飲める、でももっとそれ以外の何かについても、ようやく同じ土俵に上がれた気がするのだ。
 年齢にとらわれるのは自分でもいくらか愚かだと思うが、クロとの関係についてはこの十一ヶ月差が大きくのしかかってくることが多かった。十一月が年度始まりなら、と四月が来るたびに思った。遠足や修学旅行のたびに恨んだ。先に卒業していくのが寂しかった。誕生日の日付だって、十月十六日と十一月十七日で、月と日にちどちらもクロの方がひとつだけ数字が大きいことすら呪いのように感じられることもあった。
 それらの憂鬱は当時は漠然としたものだったが、クロが高校を卒業してから少しずつその憂鬱の輪郭が浮かんできて、とにもかくにもおれはクロの隣にいたかったのだ、と理解した。そのときは気がつけなかったのだ。
「なー、ホッケ頼んでいい?」
「好きにすればいいじゃん」
 ジョッキを傍に置いた友達を前にして、じわりと憂鬱が溶かされていく感覚がある。おれたちは大人になってしまった。
 料理を食べながら、三杯ほどお酒を飲んで、ちょうどよく空腹が満たされた。アルコールの弱い甘いものばかり飲んでいたからか、多分ちっとも酔っていない。水飲め、としきりにクロが促してくれたおかげもあるかもしれないが、そもそもアルコールには強い方なんだろう。クロも強そうだが、度数の高そうなものを飲んでいたので顔は少し赤くなっている、ように見える。照明が暗めなのではっきりとは分からないものの、わずかに目が潤んでいて良くないな、と思う。
 クロがお手洗いに立ってひとりになったおれは今日は何話したっけ、と振り返る。クロの就活のこと、おれの会社のこと、大学のこと、些細な昔話、あとは、そう、クロがこの春に恋人と別れて今は誰とも付き合っていないこと。
 高校のときは恋愛なんかする暇もないほど部活で忙しかったが、大学生になってすぐクロには彼女ができた。バイトの先輩の、話を聞く限り落ち着いていてしっかりした感じのひと。後輩の世話が好きなわりに、恋愛の相手は年上なのか、とすこし意外に思った。そのひととは一年くらいで別れて、それからしばらく経って付き合い始めてこの春に別れたのも年上のひとだったはずだ。
 元々クロはかなりモテる方だと思う。こわそうな見た目だけど嫌味のない気遣いができるし、よくひとを見ていてそのうえでひとに優しくする。おれもひとのことをよく見てはいるが、困っていそうでも助けるかどうかの判断ができなくて手を引っ込めがちだった。面倒だな、という腰の重さもあるし、負担に思われたらどうしよう、という保身もある。それは多くのひとが持っている感覚なのではないだろうか。たくさんのひとと関わってきた今はそう思うし、そのひとに助けが必要かどうかの判断も徐々にできるようになってきた。
 クロの優しさは一種の才能だが、危ういと思うことはたまにあって、線引きを間違えれば相手に変な勘違いをさせるんじゃないかと、そう感じることもあった。それでも何か厄介な感情を持たれていることを察するとするりと身をかわすので、そこも含めてクロの才能だ、と理解していた。
 空になったグラスの表面を水滴が滑り落ちていく。クロが恋人と別れたのは聞いていたが、それから交際相手はいないし、いい感じのひともいない、か。クロの話を思い出す。どういう流れでその話になったんだっけ。おれが不躾に聞いたんだったか。
 それから、研磨はどうなの、と聞かれた。おれはもうすべてを話してしまいたい衝動に駆られながら、そんな相手いない、とだけ答えたんだった。すべて、とは何なんだろう。
「ただいまー、トイレちょっと混んでた」
 考え始めたところでクロが戻ってきた。こんないつも通りの様子を見ても心が揺れるのは、もう、認めざるを得ないし、認めてもいいと思う。酒のせいではなくて、年を取ったせいだ。今日、おれは二十歳になった。今までそうでなかったことに対してどこか縛られていたんだろう。だって認めてしまえばこんなに心が軽い。
「なーに、そんなに見つめちゃって」
「いや……胸のところ、なんかこぼした跡がある」
「え? うわっ、まじだ。帰ったら洗濯しなきゃ」
 クロが席で会計を済ませたのを見届けて立ち上がる。立ってみると少しだけふらついた。これが酔ってるってことなのか、と冷静に理解をするが、体には力が入らない。
「おーっと」
 靴を履くために小上がりを降りようとしてバランスを崩したところを、気の抜けた声を出しながらクロが支えてくれる。やめてよ、と思うのに突き放せない。目の前にシャツのシミが見えて、あ、これはさっき食べたモツ煮をこぼしたのかな、とどうでもいいことを思う。
「ちょっと研磨くん、自分で立てますかー? 靴履ける?」
「立てる、履ける、離れてください」
「えっ、なに急に」
 クロは真に受けずに笑っている。懐かしい。部活でもこんなことあったな、疲れてフラフラのおれを救護するクロ。
 結局、支えられながら店を出て、しばらく立って夜風に当たっているとふらつきがましになってきた。
「研磨、大丈夫?」
「うん。美味しかった、ありがとう」
「改めまして、おめでとう」
「ふ、何回言うの」
「何回でも祝いたい気分だよ。あの研磨が成人だなんて」
「ひとつしか変わらないでしょ」
「それもそーね。でも自分のときより嬉しくて」
 酔っているせいなのか、いやに上機嫌で直接的な物言いだった。普段なら寒く感じられそうな夜風の冷たさが心地よい。思考に鈍りはないがおれもすこし酔ってるのかな。
 店に入る前には薄らと明るかった空は完全に日が落ちて真っ暗になっている。周囲の店の灯りや街灯がおれたちをか細く照らす。冬の夜空になりつつある。
「研磨の家寄っておばさんたちに挨拶していい?」
「うん」
 体の動かし方を思い出すようにゆっくり歩きながら帰る。楽しかった、と噛みしめるように一歩一歩を踏み出す。クロがこちらを見て、ぱちりと目が合う。
「見すぎ」
 にやりと笑われて心臓が跳ねた。言われてから自分がクロを見ていたことを知った。気まずくてポケットに手を入れると、何か小さな塊に手が当たった。ビニールの端にギザギザの手触り。飴だ、と気がついて、そういえばさっきクロが勝手にポケットにこれを突っ込んできたな、と思い出した。おれがふらつきと戦っていたその隙に、レジの横から選んで取ってきてポケットに忍ばせたのだろう。
 指先で飴のシルエットを辿ると、よくある球体の飴とは違って平たい円の形をしていることが分かる。きっとこれはあの黄色いパイナップルの飴だ。そう思い至ると色々な記憶が勝手に蘇ってきた。
「雨降らなくてよかったな」
 クロは呑気に空を見上げている。天気予報では雨が降るかも、とのことだったが結局降ることはなかった。金曜の夜だからか、歩いているひとも多い。
 十分ほど歩いて、もう十分歩けば家に着くくらいのときだった。少し細い道に入り、人通りも車の通りもない。おれとクロだけが歩道を歩いている。
「研磨。俺に言うことない?」
 そういって急にクロが立ち止まったので、何歩か先に進んでしまったおれはクロを振り向かなければならなかった。
 高い背の隣にある自動販売機の光が、友人の顔を白く照らす。街灯と自動販売機とが作る細身の影が地面に落ちて、おれの足元まで伸びている。
 クロは潤んだ目を細めてこちらを見ていた。やさしくてきれいで、すこしこわい笑顔だった。
 何を言われたわけでもないのに、すべて見透かされている、と直感的に理解してぞっと背筋が凍る。そして、おれが何も言えないこともクロはきっと分かっている。
「いつから……」なんとか言えたのはそのひとことだけだった。
 いつから知ってたんだろう。おれが自分で気づく前から知られていたのかもしれない。そうだ、相手はクロだった。ひとの心を見極めて、自分の本心は上手に取り繕うことができるのだ。知っていて、知らないふりだっていくらでもできるひとなのだ。さっきまで心地よく感じていた夜の空気が急速におれの思考を冷やしていく。
「さあね?」
 煽るように片方の口角を上げる笑い方はいつものものだった。ふ、と張り詰めた空気が弛んで、クロが大きな一歩でおれの隣に並ぶ。
 負けた、と思うと一気に悔しくなってきた。勝ち負けではないと頭では理解しているが、おれがひとりで抱えていたものの存在をクロには知られていて、そのうえで今までこの態度でいられたのが悔しい。自分のことで精いっぱいだった自分に対しても悔しさがある。
「おまえ、分かりやすいのよ」
 放心状態に近いおれの隣をさらに一歩踏み出して、大きな背中が前に出る。慌ててポケットから手を出して歩みを再開した。このひとはいつも先を行って、歩みを合わせてくれることはあるが待ってなどくれない。
 悔しさのあまり握りしめた手の中にはおれが憧れ続けるそのひとが与えてくれた飴がある。変わらずに甘いはずのそれを掴んだまま、クロを追い越すように駆け出した。
「あっ、研磨、ずるい!」
「どうせクロの方が速いんだから手加減してよね」
「ゲームのときそんなことしてくれないくせに。絶対勝ちます」
 おれにとってのクロとは、追い越してようやく隣に並べるひとなのかもしれない、とすこし焦りながら、どこかで嬉しく思いながら、二十歳の夜をふたりで走った。