いまさら
2024-06-17 07:56:42
2629文字
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くちなし

研クロ 小学生と高校生 夏と感傷

 黒尾が父親の実家に引っ越してきた翌年の初夏のことだった。梅雨入り間近で天候の安定しないその週の金曜、黒尾と研磨は曇り空の下を駆けていた。日が長くなってきて、河川敷でバレーに夢中になっていると夕飯の時間が迫ってきていることを忘れてしまいそうな時期だった。真っ暗になって帰宅して、双方の両親から注意されたのは記憶に新しい。
 我が子を心配する言葉に加えて「研磨くんのお宅に迷惑がかかる」「鉄くんのお家のひとが心配する」と相手の家の事情を考慮するひとことが添えられた。叱られた翌日に親からの言葉を打ち明けあって、同じこと言ってる、と笑ったものだ。
 そんなことがあったので、その日も遅くなるわけにはいかなかったのだ。親から叱られるのは良い心地ではない。
「けんまー、はやく! また怒られちゃう」
「クロ、まって……走るのはやい……
 研磨は息を切らして黒尾を追いかける。黒尾は走るのが速く、極度の人見知りで最初は馴染めなかったクラスにも体育の授業でその運動神経の良さを発揮するとすぐに尊敬の眼差しとともに周囲に受け入れられたのだった。小学生にとって分かりやすい能力の証明。憧れる強さ。それが足の速さであった。黒尾がバレーをする相手は研磨のみだが、他の友人とはサッカーやドッジボールなどをして遊んでいることもある。
 対して研磨は黒尾と外でバレーをする以外は部屋でゲームをするのを好む子どもだった。普段から走り回っている黒尾にはなかなか追いつけない。バレーボールを抱えた黒尾は研磨を置いていかない程度のスピードで時折後ろを振り向きながら走っていたが、河川敷を離れて住宅地に入ったあたりでふと足を止めた。研磨は自分を待ってくれているのだと理解して、そのまま走って黒尾に追いつく。心拍数が上がって、体が熱く、足が重い。
「研磨、大丈夫?」
「あんまり大丈夫じゃない……
 研磨はぜえぜえと肩で息をしながら答える。黒尾は困ったように眉を下げて研磨が息を整えるのを待っていたが、あることに気がついてキョロキョロと首を動かした。
「クロ、なに探してるの」
「ん、なんか……いい匂い? がして」
 夕飯時に近いのである家の食卓の匂いだろうか。研磨もすん、と息を吸うがそれらしき匂いはしなかった。
「え、しないけど。どんな匂い?」
「あまい匂い。香水みたいな」
 探す匂いの傾向が違ったようだ。あまい香りを求めて空気を嗅いでみると、たしかに黒尾の言うとおりほのかに何かの匂いがした。あまいがくどくないその香りの正体を研磨は知っている。それを発するものが近くにあるはずだ、と辺りを見回してみる。
「あ、あった」研磨は住宅の塀の方を指差す。
「え?」
 研磨の指先の方向を見ると、住宅の庭に白い花をつけた木があった。塀の方に近づいて息を吸うと、あまい香りが強くなる。
「これだ」黒尾がとらわれたのは、その白い花が発する香りだったようだ。
「くちなし、っていうんだよ」
 研磨が言うと、黒尾は「へんな名前」と感想を述べた。確かに、へんな名前だ。研磨は小さくてきれいな花の由来が気になった。
「研磨、花の名前とか分かるの、かっこいいなー」
 屈託なく言われて、悪い気はしないどころか、嬉しくなってしまう。くちなしは、母が好きな花だから、買い物の行き帰りでこの香りがしたときに教えてもらったのだった。だから別に詳しいわけではないが、黒尾に褒められたことが嬉しくて、黙っていた。
「よし、じゃあ、急いで帰ろう!」
 匂いの正体が分かってすっきりした黒尾は再び全速力で駆け出し、研磨は自分が一瞬浮かれたことを後悔して、慌てて俊足の跡を追った。

「あ、くちなしだ」
 駅から家に帰る途中、黒尾が呟く。そう言われて、研磨は自分が吸う空気の中に微かにあまい香りが混ざっていることに気づいた。
 初夏の夕方、この時間でもまだ外は明るく、本格的な夏の到来を感じさせる。研磨はこの先の気候を思って俄かに憂鬱になった。
「研磨が昔教えてくれたじゃん。これはくちなしの匂いって」
 黒尾が懐かしがるように言う。そんなこともあったか、と研磨は記憶を遡る。
「俺、あのとき研磨のこと、この子はなんて心が豊かな子なんだろう、と思ったよ」
「どういうこと?」
「花の名前が分かるなんてさー、東京の子は違うわ、って」
「それぜったい東京関係ないから」研磨は呆れて笑う。
「だよなー。でもまだあのときは都会の子って意識があったから。研磨に対しても、クラスメイトに対しても」
 あの頃の緊張の面影は少しも感じさせなくなった少年が言う。黒尾はすっかりこの土地に馴染んだ。ここは東京といっても郊外だ。高層ビルがないかわりに、こうしてくちなしが植えられるような庭の広い住宅もあるし、もう少し駅から離れると車がないと生活が不便ですらある。
 東京の子なんて、足が速いやつには尊敬の眼差しを注ぐし、そうでないやつには体育のチーム分けで声をかけない。そんなものだ。きっと東京以外の他の地域でもそうだろう。少なくとも研磨はかつて黒尾が恐れたような存在ではない。
「夏だな」
 嬉しいのか、悲しいのか、感情の読めない声で黒尾が言う。夏が来てしまう。夏が去ると、秋が来て冬が来て、春になる。今までもそうだった。研磨はその時の流れの意味を考える。
「くちなしって、実が熟しても割れないからくちなし、っていうらしい」
 あのとき、黒尾がへんな名前だと言ったので、帰ってからネットで調べたのだった。その知識を10年越しに黒尾に披露すると、何が面白いのか黒尾はけたけたと笑う。
「やっぱ東京の子は違うわ」
「だから関係ないって」
 歩きながら研磨は新たな疑問を抱いていた。熟しても割れないって良いことなんだろうか、悪いことなんだろうか。
 あの日追いかけた背中を思い出す。くちなしの花が黒尾の足を止めて、研磨にちいさな喜びをもたらした日。追いかけたひとが今は隣に立っている。そして、いつまで隣に立っていられるのだろう、と考える。
「あつい」
 黒尾の呟きを研磨が拾わなかったので、それは独り言になって空に消えた。
 暑いのは嫌いだが、夏が来るのが、季節が変わるのがこわい、とどこかで思ってしまっている自分がいる。黒尾も研磨もその不安を口にすることはない。ぬるい風がくちなしの香りを運ぶが、ふたりはもうその存在に気を留めることはなかった。