いまさら
2024-05-20 23:18:31
6464文字
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猫も歩けば

大人の研クロ
猫も食わない https://privatter.net/p/10946175 の続き

 頭が痛い。薄々気づいてたけど缶チューハイって悪酔いするかも、体質に合わないのかな。味は好きだけどあまり飲まないでおこう。
 頭痛薬どこだっけ、と思いながら起き上がって、昨日のことを思い出した。ああ、おれ、クロに全部言っちゃった。
 あんなこと言って、もう来ないんじゃ。いや、でも、クロだしな。来るだろうな。
 おれ自身もどうしていいのか分からないのだ。今のままで会っていいのか、会わないほうがいいのか。だからクロに委ねた。
 居間の棚から頭痛薬を取り出して台所に向かう。シンクの横のラックには昨日クロが洗った食器類が並べられていて、何とも言えない気持ちになる。クロはここで暮らしているわけではないのに、こんなに色濃く存在が見える。
 このラックだって、クロが勝手に持ってきたものだ。そこに並ぶコップも。俺もここに来るし、とふたつ置いていった。その、クロが選んで持ってきた何の変哲もないコップに水を注いで、頭痛薬を流し込む。
 考えない方がいいかもしれない。今回の件に関しては、考えたらどつぼにはまる気がする。ゲームでもたまにあるよな、絶対同じところで同じミスして、分かってるのに抜け出せないの。そういうときは一旦、時間をおいてみると案外あっさりクリアできたりして。
 もちろんクロとのことはどうしようもなく現実で、ゲームのように失敗したら新しくやり直し、というわけにはいかないのだが、長い付き合いだからひとつ間違えて全てが壊れるということはない。何より相手はあのクロなのだ。ひとまず流れに任せて成り行きを観察しよう。

 クロは人の気持ちを汲むのが上手い。そのとき相手が欲しい言葉や対応をほとんど間違えることなく差し出すことができる。高校のときもそれ以降もクロに好意を抱いてるであろう相手をそれとなく交わして、でも相手は傷つけないように関係を維持する、というおれにとっては至難の業に見えることを易々とやってのけていた。
 だからおれの気持ちもいつか気づかれるのではないか、というかもう気づかれていて、そのうえで変わらない態度で接してくれているのかもとすら思っていたのだ。それなのにこの男は。
「けんまー、掃除機の紙パックってまだある?」
「あー、下の引き出しにあったと思う」
 単に鈍いだけなのか? おれの気持ちを洗いざらい吐き出した数日後、いつもと何ひとつ変わらない様子で家に訪れて、当然のように部屋の掃除をし始めた。あまりに違和感がないから、あれって夢だったのかな、と錯覚するくらいだ。
「ちょっとうるさくしまーす」
 そう宣言して、掃除機をかけ始める。なんなの、このひと。いや、おれがクロをこうさせてしまったのか?
 たしかにおれはクロがおれに構うのを結構なんでも受け入れてきた気がする。クロは世話焼きだが他人が鬱陶しいと感じる範囲の程度の見極めが異常に的確だ(まあ、高校のとき他校の一年に声かけてうざがられてたこともあるけど、あれも結果オーライだった)。相手が心地良く受け取れるくらいの施しをするのが得意、というか多分好きなんだろう。だから音駒では主将としてチームを引っ張れたし、同級生にも後輩にも慕われていた。
 おれはどうやってクロと関わってきたか。家族以外で最も長い時間を共に過ごしている相手。当たり前のようにそばにいたから、特別に世話を焼かれているとか、おれだけに甘いとか、そんなことを感じたことはなかった。クロ、強引なときもあるし、たまに悩み事があるとおれに泣きついてくるし。何も言わずにじっとそばにいて、おれから何があったの、と聞かれるのを待つ、という甘えを見せることもあった。
 そうして何も意識せずに一緒に過ごしているうちに、本来なら他人に干渉されて嫌な部分がクロ相手なら嫌じゃなくなって、許せることと許せないことの境界が曖昧になった。いつのまにか何もかもを許せるようになっていたのだ。
「クロ、掃除しにきたの?」
 掃除機から逃げて部屋のすみに追いやられたおれは掃除機の電源が切られるのを待ってそれを聞いてみた。こうして床から見上げていると本当にクロの頭が遠い。背が高いと自分より背の低い人の声を聞き取るのが大変だろうな、と思う。
「え? あ、そうそう。掃除もだけど、俺やりたいことあったんだよ」
 クロはいそいそと持ってきた荷物の方にしゃがみ込んで、その中から筒状のものを取り出すと嬉しそうにおれに見せてきた。床に座ってもなお頭の位置が高いが、さっきより声は近い。
「ジャーン、断熱シート。暑くなるし、そろそろ貼り替えとこうかなーって」
 やりたいことってそれ? おれの顔にそう書いてあったんだろう。何も言ってないのにクロは手に持ったもの(窓の断熱シートらしい)の効果を熱弁してきた。
「この家、これのおかげで結構快適に保たれてるんですけど。これ窓に貼るだけで全然違うんだから!」
「そうじゃなくて。なんでおれの家をクロが快適に保ってくれるのかって意味」
「だって研磨、容赦なくエアコンつけるから電気代やばいし、この家古くて効きも悪いし」
 伝わってない。クロがおれのことを思ってくれてるのは分かったけど聞きたいのはそこじゃない。
「まあ……それについてはありがとう。ただおれは、こないだクロにあんなこと言ったのにどうしてまだ普通の顔して来るのかなって、それが気になってるんだけど」
 前回、合鍵を渡して来たいときはそれ使って入ってきていい、と言ったけど、クロは今回もいつものようにインターホンを押して俺に鍵を開けさせて家に上がってきた。それもよく分からない。
 おれの質問に、クロは少し考え込んで、断熱シートを床に置いた。あのシートに本当に断熱効果があるかどうか、温度の差を測るとかの実証はしてないから知らない。ただクロはこの家の湿度やら寒暖差やらをおれ以上に気にして色々創意工夫してる。一度一人暮らしで選んだアパートが古くて痛い目を見たらしい。
「研磨は俺と付き合いたいの?」
 おれから投げかけたけど、いきなり直球で返ってきた。でも、今この場合、それは確かに最適解、かも。
……分かんない。たぶんそう、部分的にそう」
「急にアキネーター。俺、考えてみたんだけど、付き合ったら何か変わるのかなーって」
「どういう意味?」
「俺と研磨って今もまあまあな頻度で会ってるからさー。俺、前も言ったかもだけど働き始めてからは相手と会える時間なくて長続きしない、みたいなのばっかりだったのよ。でも研磨とは意外と会ってて……昔付き合ってた子たちよりずっと顔合わせてる。研磨と付き合ってもこれ以上することあるか、なんか今と変わんなくない? って」
 脱力。この前キスされたの覚えてないんだろうか。
「クロは付き合ってた人とキスもセックスもしなかったの?」
 こっちも直球。ただ、おれ自身もクロのことが好きなのは確かだけど、クロとどうなりたいのかはよく分かってない。
「研磨は俺とそういうことしたいってこと?」
 ずるい。質問で質問に返すって。じゃあおれも遠慮なく。
「したいって言ったらしてくれる?」
「それは……分からない」
「まあ、そうだよね」
 この話ってどこが着地点なんだろう。おれはクロが好きで、クロはそのことを知っているけど今までと変わりなく接してきて、おれはクロと付き合いたいのかどうかは分からなくて。
 畳に視線を落として自分の中のクロという大きさの存在を考える。なんだっけ、クロがこの掃除機が畳でも使いやすいらしい、とかわざわざ調べてきて、おれがそれを買ったんだ。違いはよく分からないけど。おかげでいつもこの家の床はきれいだ。
 かなり侵食されていると思う。おれも、この家も。
「おれは、クロが他の人と付き合ったり結婚したりするのは嫌だ」
 そう、おれがクロへの気持ちを自覚したのは大学生になったクロから恋人ができたと聞いた瞬間だった。それからいつも別れただのまた恋人ができただのの報告を聞くたびにつらかった。クロは黙って続きを待っている。
……それで、付き合ったり結婚したりする相手が、おれだったらいいなと思う。別に、キスもしなくていい」
 ただ、何者にも脅かされることなく共にありたい。
 あ、そういうことか。だからみんなわざわざ恋人という関係を作るのか。それは、その人との関係を保証するような役割があるんだな、と今ようやく腑に落ちた。
 今まで、好きだから付き合う、という意味が分からなかった。一緒にいて楽しい、って付き合ってなくても成り立つ関係だし、セックスもしようと思えば交際関係がなくてもできる。
 世の中には恋人とかパートナーとか、同じ名前でも人によって色んな関係性があるだろうけど、おれにとってそれは自分たちはお互いに好意的な存在です、という宣言であると同時に、互いが他の誰かとそういう関係を結ばないようにする縛りみたいなものでもある……のかもしれない。
 こんなこと、今になって気がつくなんて。そもそもちゃんと考えたこともなかった。
 おずおずとクロの方に視線を上げるとクロは虚をつかれたような顔をしていた。何考えてるんだろう。そう思った瞬間、あぐらをかいていたクロは「んあー」と変な声をあげて、後ろに倒れ込んだ。伸びた足が、断熱シートの筒に当たってそれが壁際に転がっていく。つま先がおれのふくらはぎに触れて心臓が小さく跳ねた。
「ちょっと、何、急に」
 クロは天井を見つめたまま、おもむろに喋り始める。
「俺さー、研磨のこと好きか嫌いかでいうと確実に好きだよ。ただ、おまえに恋人ができたり結婚したりしても、それを嫌だと思うかは分からない。研磨が満足してるなら、それでいいと思ってしまう、多分」
「恋人なんかできないよ。結婚もしない。おれはクロが好きだから」
「そう、なかなか熱烈ね……
 クロは手で顔を覆って黙り込んでしまった。ここまで言い切ってしまったら、おれはもうこのひとに対して隠すことは何もない。あとはクロがどうするか、だ。
 おれはきっとこの先クロが誰かと付き合えば今までと同じように傷つくだろうし、そういう可能性があるなら距離を置いておきたい。そんな思いが前回のあれそれを呼び起こしてしまったのだが、だからといって会えないのもつらくて、我ながらなんて自分勝手なんだろうと自己嫌悪に陥ってしまう。
「けんま、」
 クロが寝転がったまま手招きでおれを呼ぶ。どうしよう、この先の言葉を聞きたくない。そう思うのに、不思議な引力でクロが呼ぶ方に体が動く。
 横たわったクロは思いのほか穏やかな表情でおれを見上げていて、おれはたまらなくなる。
「クロ、おれと付き合って」
 考える前に言葉が出ていた。クロはゆっくり起き上がって、自分の手元を見つめる。それから意を決したようにおれに向き直った。
「研磨さん」
「なに」
 無理です、とか、お友達のままで、とか返ってくるのを想定して、身構える。あー、どうしよう、いよいよサヨナラかも。おれたちの20年来の友情、そしてここ数年の間に自覚したおれの恋心。クロは渋い顔をして、口を開いた。
「あの、キスしてみてもいいですか」
……は? …………なにその、試着してもいいですか、みたいな言い方」
 突拍子もない申し出に驚きつつもツッコミを忘れないのは積年の習慣みたいなものだった。
「同意取るのは大事でしょうが」
「あれは、ほんとにごめん」先日、同意を取らずにキスをするという無体を働いたことを謝る。
「で、どうなの」「お願いします」「ふ、お願いしますって」
 だって、こんな、改まって言われるとどう答えていいか分かんない。……ていうか、え? おれ今から好きな人をキスするっぽい? やばいやばいやばい、心の準備とかそういうの一切できてない。どんな顔して受け入れればいいんだ。
 おれが内心で焦っている間に、肩に手が置かれ、覗き込むようにクロの顔が近づいてきて──あ、目が合った。クロ、少し笑ってる。悔しい、好きだ。瞼が伏せられるのが見えて、それから唇に何かが触れる感覚があって、すぐに離れていった。
 キスした、クロと。半ば呆然としてると、クロはおどけておれを小突いた。
「けーんまくん。黙るなよー」
「なに、レビューでもほしいわけ」
「いらないけど! だってなんかめちゃくちゃ恥ずかしいじゃん、今の」
 恥ずかしい? おれはそんなこと考える余裕すらなかったよ。キスした後の正しい反応も知らない。でも、今のがクロなりの確認作業なことは分かる。
「クロはどうなの、付き合ってくれるの」
「えっ、あ、うん、いや」
 恐る恐る結果を聞くと、どこかのバレーボール選手のような肯定か否定か分からない返事があった。
 気まずい。テレビつけとけばよかったかな。うるさければいくらか緊張も和らぐ気がする。
……俺、さっきも言ったとおりだけど、研磨はそれでいいわけ? 研磨が俺を好きなのと、俺が研磨を好きなのは種類が違うと思うんだけど」
「いい。おれ、お金ならあるから……クロが望むなら何でもするし、できるし、付き合って損はさせない、と思う」
「あのねえ……
 分かってる。クロはこんなことじゃ靡かないってことは。
 でもおれも必死なのだ。そんな可能性ないけど、もし仮におれが他の人を好きになってもクロが悲しまないというなら、悲しむくらい好きにさせたい。できるかどうかは別として。
「ふっ、あはは! そんな顔しないでよ、研磨くーん」
 こっちは切羽詰まってるっていうのに、ひとの顔見て笑うなんて失礼だ。クロはひとしきり笑ってから、「はーあ」と大きく息をつく。
「じゃあ、まあ、そうね……とりあえず、よろしくお願いします、でいいのか?」
「えっ」
 驚いた声を上げると、クロはおれの目を見て、ゆっくりと頷いた。え、まじか。
「クロ……おれ、クーリングオフとかないけど大丈夫?」
「訪問販売じゃないんだから。大丈夫。よろしくな。なんか改めて付き合うとかちょっと不思議な感じだけど」
 おれは珍しく感極まってクロに抱きつきそうになる。ああ、違う、ダメだ、同意、大事。
……ハグしてもいい?」
「どーぞ!」
 広げられた腕に身を委ねる。こうして抱きしめ合うのって久しぶりだな。バレーやってたときはお互いパーソナルスペース狭かったけど。ナイスプレーの出ない日常生活でハグすることなんてなかった。
 相変わらず大きな体はおれより少し体温が高くて、整髪剤の匂いと、柔軟剤の香りがして……これは……ちょっとまずい気がする。
……ごめん、クロ。やっぱりえろいこともしたい、かも」
 前言撤回。キスもセックスもしたいです。おれ、そういう欲は薄いと思ってたけど、いざ好きな人を目の前にするとそうとも限らないのかもしれない。明け透けな告白を受けたクロは大きく笑って、おれから逃れる素振りをする。
「っはは! けんまくんのえっち! それはまあ、追々な。俺はとりあえず窓のシートの貼り替えしますんで」
「今から?」「今から。おまえ、これだけ置いといてもやらないでしょ」
 クロはさっさと立ち上がって壁際に転がった筒を拾い上げると、作業に取りかかった。おれはひとり畳の上に取り残される。
 あのひとの情緒どうなってるんだ。いやでもあれくらい強かじゃないと、クロの仕事ってできないのかも。
 窓際で黙々と作業を進めるクロの背中を眺めながら、寝転がる。おれ、クロと付き合うことになったんだよな。なんだか現実味がなくて夢を見ているようだ。
 そのまま床で眠っていたら、作業を終えたクロに起こされて、あ、夢じゃないっぽい、とようやく実感が湧いてくる。クロは次は網戸張り替えたいなーと言っていて、寝ぼけ眼のおれは初デートはホームセンターか……と浮かれたことを考えていた。