いまさら
2024-05-17 04:33:13
2438文字
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骨と爪

中学生の研クロが爪切ってるだけ

 ぱちん、ぱちん、と小気味良い音が部屋に響く。クロが床で爪を切っているのを、ベッドから見ている。少し丸まった背中、なんだか珍しい。寝転がったまま、クロの方に足を投げ出してみる。
「おれのも切ってー」
 思ったより気の抜けた声が出た。実際、気は抜けていた。試験期間に入ったのでゲームやテレビなど誘惑の多いおれの部屋ではなくクロの部屋で勉強している。風呂もご飯も済ませてから集合ができるのはお隣さんの特権か。帰ったら寝るだけなので気が楽だ。
 集中が切れて各々休憩している最中だった。おれは持ってきたゲームがいまいち面白くなくて気分転換に失敗していた。変なタイミングで爪を切り始めたクロを見て、おれもそろそろ爪切らなきゃなあと思ったのだ。
「ひとの爪って切ったことないんだけど」
「多分おれもない」
「そうじゃなくてー、慣れてない人に任せるの危ないでしょうが。自分で切りなさい」
「クロならできると思う」
「できない」「できる」「できません」「できるって」
 そういえば爪切りっていつから自分でやるようになったんだっけな。バレーをするようになってから、手の爪は常に短く切り揃えている。足の方は切りすぎると巻き爪など怪我の原因になるので手より少ない頻度で手入れしていた。
 何も本気でお願いしたわけじゃない。思い出したから言ってみただけだ。それなのに、自分の爪を整え終えたクロは、おれの足を掴んで爪切りを足先に近づけた。ぱち、と細かく先端を切る音が聞こえる。
「なあ、膝立てられる? それか座ってくれたら切りやすい気がする」
「んー」
 起き上がるのが億劫で膝を立てるとクロは静かにおれの爪を切り始めた。誰かに爪を切ってもらうなんて久しい。クロがおれの適当な発言に付き合うことにも驚いたけど、おれはそれが嫌ではない自分のことも意外に感じていた。
「あ、いけそう。てか上手いかも、爪切るの」
「だから言ったじゃん」
「研磨って意外と足おおきいな、身長伸びるんじゃない」
「別に、いらない」
「なんで。デカいセッターもかっこいいじゃん」
「デカいとやることが増える……おれはトス上げるだけでせいいっぱいだから、身長はクロに任せた」
「やること増えるけど、できることも増えるんですよー、俺もあと50センチくらい伸びたらいいんだけどなー」
「2メートル越えのクロ……うえ、戦いたくない」
「おまえは味方じゃん」
 気の抜けた会話の合間にぱち、ぱち、と控えめな爪切りの音がする。
 おれは身長が低い方でもないけど、高い方でもない。このまま平均身長まで伸びたらまあよく成長したかな、と思う。クロはまさに成長期に突入したのか、ここ数ヶ月で一気に背が伸びていた。
「クロ、骨端線って知ってる?」
「こっ……なんて? テストに出る単語?」
「いま試験週間中なの覚えてたんだ。骨端線はテストには出ないけど。骨の端っこの柔らかい部分で、それがどれくらいあるかで身長が伸びるかどうか分かるらしい」
「どうやって確かめるんだ?」
「レントゲンで分かるんだって。テレビでやってた」
「へえ、俺も自分のコッタンセン知りたいな……よし、右足終わり。左足もお出しなさい」
「この体勢飽きた。座ってもいい?」
「寝っ転がるのに飽きるも何もなくない? いいけど」
 ベッドのふちに腰かけて、床に座り込んだままのクロのつむじを見下ろす。重力に従って下に垂れる黒髪を見るのは風呂上がりから寝るまでの間だけだ。試験期間中だけ見慣れる姿。
 左足の爪がぱち、ぱち、と切り落とされていく。
「おれもクロのレントゲン写真見てみたい」
「え? なんで俺?」
「おれはもうあんま伸びないの分かってるから。両親もそんなに大きいわけじゃないし。クロはまだまだ伸びそうじゃん」
……そうかあ?」
 今、クロは自分の両親のことを思い浮かべただろう。おれはいまだにクロの家族についてどこまで踏み込んで触れていいのか分からない。ズカズカと踏み込みはしないけど、あまり気を使いすぎないようにもしてる。
 攻撃は最大の防御。クロがこうして色んな人に構うのは、他人から干渉されないためなのかな。そう思うことがある。中学に入ってたくさん友達ができたくせに、誰かを部屋に入れるのだって、おれ以外に許したことはないはずだ。
 それは──クロの本当の気持ちを知ることができないのは、なんだか面白くないように思う。どうしてそう思うのかは分からない。友達だからって何でも言い合えるわけじゃないし、何でも知っておく必要はない。そのことは分かっているつもりだ。
 だから、面白くないと思うにとどめている。ちょっとした反撃はさせてもらうけど。
「あの、つむじ押すのやめてもらっていいですか」
「腹下しのツボらしいよ、ここ」
「爪切ってくれてるひとになんてことを」
 クロは誰かに構ってるくらいがちょうどいいのかもしれない。おれも、このひとに構われるのは嫌いではない、多分。
「爪ってさー、骨なの?」
「え、知らない。でも骨にしては弱くない?」
「たしかに。じゃあ爪は爪か」
「なにそれ」
 おれの左足の爪が、床に敷かれたティッシュの上に落ちていく。数秒前まで自分の一部だったものが、体から離れた瞬間に不要なものとなる。こうしておれたちは入れ替わって新しくなっていく。
 爪のかけらを見ながら、ふとクロのレントゲン写真を想像する。クロが何を考えていようが、何を黙っていようが、すっと伸びた白い骨は、嘘をつくことなくそこに存在する。おれはただそれが見てみたい。
「はい、おわり。お気に召されましたでしょうか」
「うーん、まあまあかな」
「まあまあかい」
「うそ、ありがとう」
 クロの中で、おれは爪じゃないといいなと思う。あのしなやかな肉体の中に埋まって体を支える骨のように、確かな存在でありたいと、自分がそう思っていることに気がつくのはもう少し後のことだった。