流されるまま戦って、言われるまま走ってきて、それでも未だにわからなかった。僕はどうしたらいいのか。目の前の光景は本当なのか。どうしてこうなってしまったのか。
いくら瞬きしたところで、現実は何も変わらない。赤黒い経路を繋ぐようにヒジリが磔になっていて、その前には勇が僕を試すように立っている。勇はヒジリを殺す気で、おまえはそれをどうしたいのかと問いかけられている。
止めなくちゃ、と僕は思った。誰かが殺されるところなんて見たくなかった。勇が誰かを殺すところなんて見たくなかった。僕は善人なんかじゃない、僕が僕のために嫌なだけだった。こんなの全部まちがってる。僕は唾を飲み込んだ。やめてくれ、と叫んでしまいそうだったけど、今言うべきはそんな言葉じゃなかった。勇を止めるためには、もっと何かが必要だ。
でもどうやって? 僕と勇は数歩分離れていて、直接掴んだりはできない。仮に一息に距離を詰めたって、その間に勇は終えてしまうだろう。
でも僕は、僕なら……これくらいの距離なら、勇を……それは駄目だ。絶対に駄目だ。一瞬でもそんなことを考えてしまった自分が気持ち悪かった。こんな世界のせいで全部がめちゃくちゃだ。だから、こんな状況にもなってしまうんだ。
僕は、勇を見つめるしかなかった。勇は何故か僕を冷ややかに待ち続けていた。僕が止めたがっているのを、きっと勇もわかっている。それなのに何もしないのは、やっぱりそうか、と納得するためなんだ。
だから次の僕の言葉で全てが決まると思った。どうしたら勇を止められるだろう。説得の言葉は全部無意味だ。手遅れだ。せめて、今の状況を変えられるのは何だろう。
今ここにあるもの。勇の興味を少しでも引くもの。なくなっても構わないもの。
──僕か。
勇の説明を反芻する。あれが本当なら、人間じゃなきゃいけないってことはないはずだ。
少し開いたままだった口は乾いていたから、一度閉じた。それから、湿らせた口をようやく開いて、僕はこう言った。
「ヒジリじゃなくて、僕を架けたらいい」
勇の、金色になってしまった目が、大きく開いた。
「……は? 何言ってるんだ」
「元の計画なら、あそこに架けられてるのは僕かおまえだったんだろ。
なら僕でもいいはずだ」
勇は暫く固まっていた。勇の体に浮かんだ人面瘡みたいなのが蠢くだけで、勇自身は口を僅かに開けたまま、僕を見ていた。
「……コイツなんかのために、死にたいってのか?」
ようやく返ってきた勇の声は、低くて小さくて、聞き取るのがやっとだった。
僕は一歩だけ距離を詰めた。
勇は動かなかった。
「別に、誰でもいい。
おまえが誰かを殺すのが見たくないだけだ」
「……オレがオマエを殺すのは?」
「……僕はそれを見なくて済む。殺されているから」
悪魔が何かを殺すのは、獣が人間を殺すのと同じようなものだと思う。獣は獣だって殺す。だから悪魔も悪魔を殺す。そうして何度も殺してきた。しかたないことだった。だってそうしないと、殺されるだけだからだ。
でも知っている誰かが、知っている誰かを殺すのは違う。
人間だって人間を殺すだろって、心の中の自分が言う。でも、違っていてほしかった。何が違うのか……それはわからない。でも嫌なんだ。それを見たら、最後の全部がこわれてしまう。
「勇。どうする」
勇は答えなかった。僕をじっと睨んでいた。
金色の眼は、暗いところでも何故か光っている。それが少し怖いなと思って、目を逸らした。それから、僕も同じか、と思い直した。全身に人の体には無いはずのものがあるところも、僕らは同じだった。全身の刺青。全身の蠢き。もはや普通の人間じゃない、化け物みたいな肉体。
僕が勇の姿を信じられないように、勇もまた、言わないだけできっと僕にそう思っていたんだろう。経絡で再会してから、いつもの軽い表情が消えて、冷たい目つきが張り付いていることにも慣れないけれど、もしかしたら僕も同じその表情をしているのかもしれない。
勇はその眼で僕を見ているだけだった。僕も勇を見返した。
ずっとそうしていた。
時間が止まったみたいだった。
赤いマガツヒで出来た天井から、ヒジリを通って、マガツヒの池が渦巻いている。それ以外何も動かない。全ての決定権は勇にあるのに、勇が何もしないんじゃ、何も終わらなかった。
僕が出まかせを言っているのかと疑っているのだろうか。適当なことを言って了承させた隙に、自分を殺しに来るんじゃないか、とかかな。もし殺すつもりならとっくにしているし、そのつもりがないから、僕は今こうして突っ立っている。
「せっかくの申し出だ、頷かなくていいのか?」
長い沈黙に飽きたのか、ヒジリが他人事のように口を出した。今にも死ぬかもしれないというのに、ヒジリは不思議なほどいつも通りだ。
「コイツが敵に回ったら、お前さんじゃきっと苦労するぞ」
「……」
僕も他人事みたいに、ヒジリの言うことはもっともだなと思った。それでも勇は答えない。同じことを考えていても、ヒジリが勧める通りにするのが嫌なのかもしれない。
「……勇」
僕は、急かすように名前を呼んだ。
決められない気持ちは僕もよくわかった。決められない間に、いつだって事態が動いてしまう。
だから僕もそうさせたらいいのかもしれない。
決められないなら、決めなくてもよくすればいい。
オベリスクを上っていた時に、一度だけ考えたことがあった。ここから飛び降りたら終われるのかって。
あの時は、それよりやらなきゃいけないことがあったけれど。今は、別にもうない。
僕がこのマガツヒのプールに飛び込んでしまえば、全部終わりだ。
勇をちらりと見てから、僕はそのまま直進する。マガツヒの溜まる淵へと近づいた。
踏み出す一歩は簡単だ。それで全部終わり。
目を閉じて、
僕は片足を持ち上げて、
自分の体が傾くより先に、水音みたいなものが響いた。
何が起こった?
僕は目を開けた。
僕が飛び込むより先に、勇がヒジリを落としたんだ。
揺らぐマガツヒの水面は、もうヒジリを全て解体していた。
死んだ。死んだんだ。やっぱり止められなかった。
でも少し遅かった。僕の体はそのまま重力──こんな丸い世界で、どうしてあるのかわからないけれど──に従って、深い血溜まりに落ちていこうとする。
これじゃ無駄死にか。
まあ別に、突然何かに殺されたりするのはごめんだけど、自分で終わりを決められるのなら、構わないか。
そう思っていたのに、何かに二の腕を無理に引っ張られた。
僕の体は、前じゃなくて後ろに倒れ込む。うなじのツノが床にぶつかって、首から頭に激痛が走った。
上体を起こしながら、痛みに顔をしかめる僕に、言葉が降ってきた。
「……気持ち悪いんだよ……」
掠れた声は、勇のものだった。ここにはもう僕たちしかいない。だから僕を引っ張ったのは勇だった。
僕は座ったまま、勇を振り返った。勇は唇を噛んで、忌々しげに僕を見下ろしている。できるなら蹴り飛ばしてやりたい、そんな顔だ。
そんなに嫌な顔をするなら、望みどおり僕の背中を蹴り出して、さっさとマガツヒに焚べてしまえばいいのに。なのに勇がしたのは逆のことだ。わからなかった。勇はいつもよくわからない。
僕は立ち上がれなかった。体から力が抜けていた。死んだ気分になっていた。
さっき人が死んだのに、勇がヒジリを殺したのに、あんがい僕はなにも感じていないみたいだ。さっきはあれだけ嫌だったのに。実際起こってみると、そんなものか、と思った。むしろ死に損なったなとさえ思った。僕が死んでマガツヒがたまりきったら、全てが上手くいっていたのに。そうしたら後のことは知らない。僕は死んでいるから。
でも、勇は僕を止めてしまった。
黒ずんだ勇の指先が、居場所を無くしたみたいに不自然に持ち上げられたまま、僕の顔の先にあった。僕を引っ張ったことを後悔しているみたいだ。
勇も放ったらかしのその手に気づいたのか、舌打ちをして、右手を引っ込めようとした。僕はなんだか立てないので、差し伸べられているわけじゃなかった勇のその手を掴んで引き下ろした。腕から手にまで広がっている瘡は、見た目通り触るとぼこぼこしていた。
バランスを崩された勇の顔が、僕の顔に近づく。何するんだよ、と勇は抵抗しようとするけれど、勇の手を掴んだままでいるのは簡単だった。うっかり折ってしまわないように気をつけた。勇は次第に諦めて、僕に合わせて屈んだ。また舌打ちをしたのが聞こえた。わざとらしい、大きな音だった。
電車で隣の席に座ったときみたいに、勇の顔がすぐ近くにある。僕たちがこうなってから、勇をこんなに近くで見たことはなかった。勇はいつも、手を伸ばしても触れない距離を保っていて、僕が近づこうとするとすぐにどこかへ消えてしまっていたからだ。
僕と似た、それでもどこか違うような金色の瞳が、暗闇に浮かぶようにきらきらしている。
「どうして僕を止めたんだ」
明るい眼は僕には眩しすぎた。勇の目はそんな目じゃなかった。僕の視線は勝手に落ちていった。
痛そうなぼこぼこが、頬をずっと覆っている。僕は手を伸ばした。凹凸の感触は治りたての傷痕みたいだった。ゆっくりとその痣をなぞっていく。痣は口のすぐ側まで迫っていた。その唇はぼろぼろで、ところどころ切れてしまっていて赤い。乾いた血が張り付いている。
「……気持ち悪いって……言っただろ」
その切れた唇が小さく動く。声が少しだけ震えている。
「僕がこわい?」
掴んだままの勇の手は強張っている。勇は逃げ出したいだろうから、僕はもう少し強く掴んだ。とても簡単なことだった。殺そうと思えば、殺せてしまうんだろうなあと思った。
勇はぎゅっと口を噤んだ。ぱさぱさの唇がまた切れて、うっすらと血が浮き出てくる。頬の凹凸に触れたまま、親指を伸ばして、唇の血を拭った。
「僕もこわいんだ……」
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