瑞々しく咲き誇る紅に鼻を近付けるとその芳香に藍桐はうっとりと細い目をさらに細める。顔を離すと藍桐は白い陶磁器の花瓶をテーブルの中央に寄せ、向かいに座る无諦へと笑みを向ける。
「本当に色づきも香りも素晴らしいバラだね!」
「よく無邪気に喜べるな」
「花に罪はないもの! それで、どうする気だい?」
「暫くは飾っておく」
「花のことではないよ! 令嬢のことさ!」
二人の間に咲き誇っている薔薇はオトマイヤー家の夜会でさる令嬢から无諦が貰ったものだ。无諦がその令嬢と会うのは二回目だったが、一回目に随分と好意を持たれたようだと思っていたところ、今日この薔薇を贈られたのだ。側にいた藍桐と二人して花の扱いに戸惑い、とりあえずランドール家の奥方に花瓶を借りた時に、赤い薔薇は恋の花言葉を持つ花だと教えられたのだ。
花言葉という風習は、无諦も藍桐も学生時代に西洋文化の一つとして知識はあったがいざ自分が花を贈られた時にその連想が繋がることはまるでなかった。そして、二人の部屋に戻りその花に込められた恋情を、无諦は持て余し藍桐は面白がっている。
「どうって……断るしかない」
「豊太郎の苦悩の可能性は事前に絶っておくと?」
「あの話はエリスが踊り子だから成り立つ話だろう。あの令嬢とは違う。それに、」
呆れた顔で无諦が藍桐を見つめる。
「今は君がいる」
藍桐はきょとんとした顔をする。そして无諦の言葉を理解し、えへへと顔を崩す。誰にも言ったことはないがー言えるはずもないー无諦と藍桐は恋仲だ。无諦は自分に寄せられる恋情を断る理由に藍桐との関係を数えている。
「断る理由を僕との関係にしてくれれるのかい!?」
「当然だ。君とは明言しないが」
「僕としてはこの地で无諦がお嫁さんを見つけても構わないのだけれどね!」
「妻を娶るなら私は日本の女性がいい」
「あっはは! あの令嬢を攫っていく无諦も見たかったけれど!」
会話が途切れたところで藍桐はふと花瓶の薔薇に目を戻す。その真紅に込められた熱情がにべもなく拒否されると知らず花は咲き誇る。その姿は滑稽ですらある。花言葉、という風習を思い出してから考えていたことがある。
「花言葉ってさ、因子付与のようではないかい?」
やれやれ、といった風で会話を続けていた无諦の目が光る。无諦は藍桐と問いに答えず、問いに問いで返した。
「どこがそう思った?」
「神が作ったにせよ、進化したにせよ、その花がこの地球に生まれた時点では自然の中でらその花は存在してる以上の意味はないだろう! 人々が花に意味を与えることで花を贈るという行為の意味が変わる……それは操作的因子付与に似ていないかい?」
无諦は腕を組み、涼しい顔で片目だけを伏せる。藍桐の問いへの答えは持っているが、それをどのように解説すべきか考えている、といった表情だ。しばらくの沈黙の後、无諦は口を開いた。
「因子とは、単体では属性、情報にすぎない。それは理解しているな?」
「うん!」
「因子が力を持つのは、参照する先のルールにとって重要な因子の場合だ。私は神と世界、作家と創造世界は常に一対一で想定している。この場合、因子は参照する定義は常に一つしかない。しかし、花言葉の場合、贈り手と貰い手の二つの定義を参照する必要がある。私が彼女から受け取った瞬間には理解できていなかったように、花言葉が因子として作用するには最低でも二人の定義が一致している必要がある。ばらとRoseは同じではないのだ。私は操作的因子付与とは世界の中で常に因子が作用できる必要があると考えているため、花言葉は私の定義する操作的因子付与とは言えない」
无諦の講釈に藍桐は無言でニコニコと聞き入る。藍桐は花言葉と操作的因子論に相似を見つけた瞬間、无諦の新しい講釈が聞ける、と胸を躍らせた。実際それが相似かどうかはさして興味がなかった。はたして藍桐の目論見通り无諦は持論を展開した。
「しかし、」
无諦はそこで言葉を区切り立ち上がる。テーブルの周縁を周り藍桐の前で立ち止まる。花瓶から一輪薔薇を抜き出し、藍桐の目の前に差し出す。
「今ここで私がこの薔薇に新たな花言葉を付与して、君との間で薔薇に新たな意味が生まれるのだとしたらそれは興味がある。作家ではなく恋人としてのだがね」
「无諦なら赤い薔薇になんて言葉を込めるんだい?」
「そうだな……「至高天の先へ」は白薔薇の方が相応しいからな。……考えれば考えるほど恋が花言葉として相応しいような気がする」
「无諦らしくないよ! それじゃ本当に赤い薔薇が恋の因子を持っていることになってしまうよ!」
「可能性はある」
「本気かい? ああ、「ずっと見ている」はどうかな? この赤を見ると君の瞳を思い出すから!」
藍桐の提案に无諦はふむ、と頷く。そこそこ気に入ったらしい。
「脅迫の言葉とも取れるが、恋人としての囁きでもあるな。私が先に死んだら墓前に供えておいてくれ」
藍桐は原田家の墓前に赤々と主張する薔薇を想像して吹き出した。
「君、毎年贈り合おうの前にそれかい!?」
「白薔薇なら墓前に備える意味はないからな。赤薔薇でいい」
「どうしても供花の話をするんだね、でもいいよ! 君がそう望むのならとびきりの薔薇の花束を供えに行くよ! でもその前に、恋人として花を贈り合おう!」
藍桐は花瓶から一輪抜き出し、その真紅よりも輝かしい一対の赤の前に差し出す。
「无諦、君のことを隣でずっと見ているよ!」
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