やごろく
2025-02-05 22:35:47
3213文字
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今夜は卵も

洛軍が龍捲風に褒められてグラッとくるお話です。
※信洛と同じ製造ラインで作られています。

◇◇◇

 迫るピンチに最初に気づいたのは陳洛軍だった。その日の洛軍は、いつも通りガスボンベの配達業務に勤しんでいた。

 洛軍はフッフッと短く息を吐きながら、迷路のように入り組んだ細い階段を上がっていた。肩にはガスボンベを一つ担いでいる。中のガスは軽くても、外側のボンベは金属製でずっしりと重い。しかも一度に持てるのは精々二つが限界で、城砦中の契約者に届けるためには、同じ道を何度も何度も往復しなければならない。
 皆が嫌がるきつい仕事───だが、洛軍はこの仕事が嫌いではなかった。ボンベを担ぎ、隘路を走り抜けて契約宅へ納品する。その単純な繰り返しに、何故か心が安らぐのだ。勿論、極たまに納品先で貰える菓子やジュースも無視できない。疲れた身体に甘味が染み渡り、受けた優しさが胸を温かくしてくれる。元来身体が丈夫なこともあり、洛軍は仕事が選べる時でさえ、ボンベ配達に率先して手を挙げていた。

 今日の配達はもう終盤に差し掛かっていた。最後に残ったのは上層階にある歯医者の店で、洛軍は駆け足で階段を登りながら今夜の夕飯について思いを巡らせていた。城砦に逃げ込んだばかりの頃に比べればかなり懐事情は良くなっているものの、決して余裕があるわけではない。パッと浮かんだ叉焼飯を、頭を振って掻き消した。そういえば少し前、麻雀で負けが込んで手持ちが無くなった十二が、次集まる時に珍しい酒を買ってくると言っていた。「だから、な?今日のところは勘弁してくれよ!」と、哀れっぽく手を握り合わせながら懇願する十二の姿を思い出して、洛軍は小さく笑った。今夜の夕飯代は、十二の酒のつまみ代として浮かせておこう。
 そんな風に頭の中で考えながら足を動かしていると、いつの間にか目的地に着いていた。半開きの戸を開けて院内に入ると、歯医者の老爺が洛軍を振り返った。
「あぁ、ありがとよ」
 雑然とした部屋の中には、診察に使う道具や椅子がみっしりと詰め込まれている。定位置にガスボンベを置いた洛軍は、ふっと浮かんだ疑問を口にした。
……今日はチビは来てないのか?」
 洛軍はこれまでこの歯科医院に何度もボンベを運んできたが、いつも決まって小さな男の子が一人、入り口の戸の傍に置かれた小さな椅子に座っていた。その子は老爺の孫息子で、城砦の中で別の店をやっている息子夫婦に頼まれ、日中は院内で預かっているらしかった。歳の割に大人しく、いつも静かにスケッチブックに絵を描いているその子が、今日は珍しく椅子に座っていない。
「ん?そこに座ってないか?」
 老爺がのろのろと辺りを見回す。物が多い院内には隠れられる場所も多い。子どもらしい悪戯心でどこかへ隠れているのかもしれない───洛軍も釣られて部屋を見回した。
 そして、診察部屋の奥にある老爺の寝室の扉が、風でゆらゆらと揺れているのに目を留めた。部屋の奥にある開け放たれた窓の桟の上で、小さな足がバタバタともがいているのが目に入った瞬間、洛軍は猛スピードで走り出していた。
「坊主!」
 大きな声に驚いたのか、はたまた幼いながらの踏ん張りに丁度限界が来たのか、小さな下半身はずるんと窓の外へと滑り落ち、伸ばされた洛軍の手は空を掴んだ。非常に不味い状況だった。この辺りの階層は比較的天井が高く、窓のすぐ下に下階の庇があるとは限らない。まるで心臓が頭の中で鼓動しているような感覚───「助けねば」その一心で、洛軍は躊躇うことなく窓枠へ手をかけ、窓の外へと飛び出した。
 洛軍が予想した通り、窓の下に庇は無かった。目の前で落ちていく小さな身体へ必死に手を伸ばし、運良く掴めた服の裾を手繰って抱き込む。すぐに身体を捩って背中を下にし、洛軍は固く目を閉じた。

◇◇◇

「洛軍!陳洛軍、返事しろ!」
 声が聞こえた。身体が揺すられている感覚が遠いところから戻ってくるのと同時に、鈍い痛みが全身を走った。
「いッ……!」
 のろのろと瞼を開けると、真上から顔を覗き込む信一と目が合った。真剣な表情が一気に弛緩して、形の良い唇が真横にギュッと引き結ばれる。普段の信一ならまずしない、泣き出す寸前の子どものような表情が無性に可笑しくて、洛軍はフッと口から息を漏らした。
「馬鹿……お前、心配させやがって!笑ってんじゃねえ!」
「がッ……いってぇ!」
 肩口に撃ち込まれた信一の怒りの鉄拳に身悶えしていた洛軍は、己の腕の中が空っぽになっていることに気付き、ガバッと勢いよく上体を起こした。洛軍が倒れていたのは、ビルとビルの間を繋ぐ小さな通路だった。見上げると、通路の上には電線が何重にも張り巡らされている。
「チビは?!窓から落ちたんだ」
「坊主は無事だ。傷一つ付いてない」
 静かな低音が問いに答えた。通路とビルの間にある扉から現れたのは、龍捲風と四仔───そして、半べそをかいた孫だった。龍捲風に背中を軽く叩かれて、孫は洛軍に恐る恐るといった様子で歩み寄った。龍捲風の言う通り無傷のようだったが、どうやら洛軍に怒られると思っているらしい。俯いてモジモジしている小さな頭を、洛軍はガシガシと乱暴に撫ぜた。
「怖かったな。もうあんな危ないことはするなよ?」
 孫は潤んだ瞳でこくこくと頷いた後、迎えに来た両親と一緒に帰って行った。
「なぁにが『危ないことはするなよ』だ。説得力もクソもあったもんじゃない」
 座りこんだままの洛軍の尻を、信一が靴の爪先で軽く蹴った。
「骨が折れてないのは奇跡だな。お前、あの窓から落ちたんだぞ」
 四仔が指差す先を見ると、張り巡らされた電線の遙か上に見覚えのある窓があった。まともに落ちて叩きつけられたら確実に死んでしまう高さではあったものの、落下途中に何度も電線に引っかかったお陰で勢いが殺され、幸運なことに打身と脳震盪だけで済んだらしい。
「頭を打ってるから、安静にして様子見だ。しばらくは魚蛋だけ作ってろ」
 四仔の簡単な手当てが終わると、その様子を見守っていた龍捲風が、黙って洛軍へ手を差し伸べた。大きく力強い手のひらを見て、洛軍は心臓を羽根で撫でられるような、むず痒い気持ちになった。誰かに手を引いてもらって立ち上がるなんて、幼い頃に母にしてもらったきりだった。
 餓鬼っぽい照れを振り払って手を伸ばすと、驚くほど軽々と引き上げられた。決して軽くはない身体をいとも簡単に引き上げてしまうその手際の良さに、洛軍はふとあの日のことを思い出す。龍捲風に初めて会った日のことを。何が起こっているかもわからないまま、棒切れのように床に叩きつけられたあの晩、険しく冷やかな表情を浮かべていた龍捲風を思い出す。
 あの時の表情と、今目の前にある表情がまるで違うことが、洛軍は無性に嬉しかった。握った手を胸の前でグッと強く引かれて、洛軍は軽くたたらを踏んだ。日頃から様々な刃物を扱う手のひらはゴツゴツとして硬く、そして温かい。
「よくやったな、陳洛軍」
 優しく細められた目が、眩しそうに洛軍を見つめている。カッと顔が熱くなった。俺に父親がいたら───咄嗟にそんなことを考えてしまった自分にひどく混乱した。そんなことは、この歳まで生きてきて一度も考えたことがなかったのに。厳しい顔に浮かぶ微笑が、引く手の力強さが、認められた喜びが、洛軍の胸の奥底の、今まで誰にも触られることのなかった部分に触れたから。
「今夜は美味い飯でも食うといい」
 握った手をパッと離して洛軍の肩を軽く叩き、龍捲風は去って行った。
「今のは『夕飯代は俺のツケにしていい』って意味だよな?」
「馬鹿言うな、確認するまでもない。洛軍、勿論俺たちも混ぜ───洛軍?」
 後ろで騒いでいた四仔と信一が、ピクリとも動かない洛軍を見て不思議そうにしている。一粒だけ溢れた感情を乱暴に手で拭い、洛軍は笑顔で二人を振り返った。