ひさね
2025-02-05 21:57:46
12067文字
Public 当該世界の余録と補遺
 

虚像について

本編7話。
ロイの服を買いに行く話。

 今の世情を知るための新聞と魔法に関する論文で机の上を散らかして、ラジオから流れる知らないアイドルや歌手の曲と時折流れる雑談、最近のニュースを聞き流しながら、今も原稿用紙のマス目を埋めている。魔法について語って以来、宿に籠ったまま――宿泊費についてはマリィがある程度は経費で落とすらしいので、遠慮なくこんな生活を始めて数日経った。筆が止まる様な事もなく、中々迅速にロイの上司のための二、三の成果物は出来上がったのだが。
「なんか、もうちょっと……おもしろくなりませんか?」
 編集者の評価は全く芳しくない。
……具体的には何処が不満なの?」
 ペンを置いて、振り返る。その先で、ベッドに座って原稿を両手に抱えるロイに尋ねた。彼女は顰め面のまま、うんうん唸りながら声を絞り出す。
「じじつばっかりなところ。ほうこくしょではないから、もっと、こう。……かんじょうを、しりたくて」
「それだと私小説的で、先方のニーズに合ってないような気がするんだけど」
「でも、じっさいあったじゃないですか。いろいろなきもちが」
「それはそうだけど。でも、外周をなぞって一応旅自体があった因果性を残しておくのが目的でしょ? 態々感情を、取り立てて書いたものは求められてないんじゃ」
「なんで? きもちってのこしちゃだめなんですか? しおんがいやだったの、みんなのくのうとか、そういうのがなくなることだとおもっていたんですけど」
……駄目ではないし、それはその通りなんだけど」
「だったらかかないと、いみがないのでは?」
 ロイは原稿から目を離して、わたしの顔をまっすぐに見つめて、首を傾げる。想像以上に具体的な要望と正確な推測に、思わずわたしの方が書物机に目を落とした。旅の中、見たもの聞いたもの振り回されたもの、そういう出来事は幾らでもあるし、その度にわたしの感情が揺れたのは分かっている。仲間達もきっとそうだった。だから色々と変化した訳であるのだし。
 でも、失われた旅の外周をなぞるために必要な感情とは何なのだろう。出来事が多すぎて、日によって、あるいは時間によって変わっていったそれらを、わたしが選別して良いものなのだろうか。掴んだと思っても次の瞬間には移ろうそれを、わたしが正しく掴めるのだろうか。大体、そもそも。
「他の面子の気持ちを、わたしが勝手に解釈するのが、ちょっと」
 閊えた喉でぽろぽろと言葉を零していた。人間の感情を、人間の言葉で表せるのだろうか。人間ではない自分が、どういう理屈で。
 依頼を受けさせられてから、ずっと考えていた事だった。
 頭の中を巡って仕方がない問いを、彼女はちゃんと理解したのかしていないのか分からないが、大仰に「たしかに」と言った。
「まりぃがへんに、たとえばきよわにかいしゃくされたら、おこりちらしますね。わたしが」
 そろり、と彼女を見やると、彼女は自分の服の長い袖をぶんぶん振り回しながら、仮想相手を叩く振りをしている。ひゅおんと風を切る音がしていた。相変わらず過激な部分が垣間見えて、つい苦笑する。彼女はあの面子がとても好きだから、他人に捻じ曲げられるのが一等嫌いなのだ。そこはわたしも同じ気持ちだったから、安心する。
「そこはちょっとかんがえないとですね」
「理解して貰えて有難いよ」
「でもそれはそれとして、のこしたいからどうしよう」
 ロイは腕を組んで、思いきり下に顔を向けて悩んでいる様だった。口ぶりからして、どうしても感情自体は書かせたいらしい。それが相手方の、ロイの上司たる神様自身の意向であるならば、わたしだって書かない訳にはいかないが、しかし。単なるロイの拘りにも思えるし、捻じ曲がるのが嫌だから書きたくない。それに何より、わたしが感情を書いた所で――
「あ!」
 がばり、とロイが顔を上げる。馬の耳がぴるりと揺れる。思考も吹っ飛んで何事かと首を竦めると、ロイは目を真ん丸にして叫んだ。
「ふく! あたらしいふく、かわなきゃいけなくて」
……何で?」
 突拍子もない台詞に、眉根を寄せる。ロイもロイで腹の前で腕をぐるぐると回して長い袖同士を絡ませては、恥ずかしそうに、今度は小さな声で呟いた。
「まりぃに、げきをみにいかないかって、さそわれていて」
「ああ、会議の時。戻ったらマリィもロイも話してたね。それが?」
「そのあと、しらべてみたら、たしょうのきそくがあるらしく。ふくがひつようだなあって」
……ドレスコードってやつか。そんなのもあったね」
 確かに彼女の今の服では袖が長すぎて、若干引っかかる可能性はある。それにマリィと並んで歩くのであれば、ちゃんとした服を着なければ、という気持ちも分かる。王族であるから服装もきちんとしているだろうし、劇場自体も席も恐らくかなりちゃんとしているだろうし。例え同行者の恰好をマリィは気にしなくても、周りの視線だけはどうしようもない以上、同行者としては風体だけでも相応しくしておきたい。
「でも、ひとりだとかいにくいから」
 もじもじと珍しく言いにくそうに吐き出した。
 ロイの見た目は十歳にも満たない。現代の常識では小さな大人ではなく、子供として扱われるのだから、一人で服屋に行って、一人で会計まで済ませるのは中々難しい。れっきとした大人が同伴していない子供は敬遠されやすい。だからわたしに付き添ってほしいのだろう。
 大体の要件を飲み込んで、頷く。でも服屋か。別件の、わたし自身の問題を片隅で考えつつ、ロイに尋ねる。
「マリィと出かけるのは、確か来週の木曜だったよね?」
……そうです。うっかり、ふくのこと、わすれていて」
 中々に急な話ではあるが、幸い今日は月曜の、しかも朝方だったので一週間以上の余裕がある。彼女は彼女自身の細々とした仕事とわたしの書き物の手伝い、例えば何処までが旅の本題か本題でないかの仕分けに明け暮れていたので、言い出す暇がない内に忘れてしまっていたのだろう。そもそもドレスコードを気に掛けなかったわたしの責もある。
 つまり、新しい服に着慣れるのも見込んで、今日買ってしまえば問題ないだろう。
「どういう服が良いとかある?」
「ええと、それが」
 わたしが聞いても、ロイは俯いて、しおらしくしている。それから深呼吸を挟んで、ゆっくりと顔を上げた。
「てがでるふく! それしか、わからず……なにをきるべきか……
 段々と声が尻すぼみになって、目線が逸れていく。
「あ~。わたしもそこは全然分からないな」
 わたし自身、服に頓着しないので、ちゃんとした規則に則った服と言うものが分からない。多分、ケントみたいな服ならば何ら問題はないのだろうが、ロイに適した服ではないし、それに女物、子供の服だとまた、何か違った暗黙の了解があるのかもしれない。
 自信がないばかりに腕を組むわたしを見て、ロイがきゅっと目を瞑る。可愛らしい顔がしわしわになっていた。
 わたしがこの調子では駄目だろう。ぱちり、と景気付けに手を叩き立ち上がる。
「よし。こういう時は人に頼もう。という事で行くよ」
「ええ、どこに?」
「ミカの所。今日休みだって」
 昨日、銀行で財布の中身を補充した帰りに偶然ミカに会って、軽い世間話をしたのがこう繋がるとは。こういう偶然は、少し面白い。
 困惑するロイを横目に、机の隅に放り投げていた財布の中身を、ちゃんと昨日の分が入っているか確認してから上着のポケットに突っ込んで、部屋のドアを開けた。ロイは少し遅れて、よたよたベッドから飛び降りて、そして部屋の鍵を持ってわたしの後についてきた。

 ***

 二、三歩前をロイとミカが歩いていく。並木道に沿ってこつこつ、石畳を歩く度、ミカの後ろで縛った三つ編みが重たげに揺れていた。
「突然押し掛けてごめんよ。自分がちゃんと選べればよかったんだけど、肝心の服屋の場所すら怪しくて」
「ううん、全然気にしないで! ロイちゃんの服を選べて楽しいから」
「後でお礼させてよ」
「そんなに気にしなくて良いのに」
 ミカに二度目になる謝意を告げれば、彼女はちょっと振り返って人懐こい笑みを浮かべて答えた。
 急遽、彼女の家に朝から訪ねても、気の良い彼女は快諾してくれたので助かった。何処かでちゃんとお礼しないとな、と辺りを見渡しながら、何か丁度良い品がないかと店内を窓越しに伺っている。小物や食器がぴかぴか光っていた。
「やさしい~。すきです」
「ふふ。どんな服にしようね」
 ミカに顔を向けられてロイは尻尾を高く揺らしている。
「観劇かあ。ジャンルは? 悲劇? 喜劇?」
 ロイにそう尋ねるのはニアだった。
 ニアには助力を乞うた訳ではない。ミカの家を出発して彼女の職場である宿屋の前を通りがかると、空から降ってきた。そして勝手に付いてきた。要は招かれざる者だった。しかし彼女も、人からの印象を良く把握する質だからあるべき服装も分かるだろう。だから好きにさせている。
 ロイはひょこひょこ歩きながらニアの質問に答えた。
「ひげきっていってましたよ。ところどころ、ちょっとくせもつよいって。みてからのおたのしみだって」
「あはは、成る程。悲劇か、王道だねえ。楽しんできなよ」
「それは、もちろん! ですよ〜!」
 ロイの返事に、ニアは満足気にけらけらわたしの隣で笑っていた。
 店の窓から垣間見えるものが陶器の光沢から白いマネキンを飾り立てる色彩になっていく。ロイも段々静かになって、通りに面したショーケースをきょろきょろ見ている。先を見ても、並木道の向かいを見ても似た店ばかりで、まかり間違っても八百屋や肉屋、黴臭い本屋はなかった。全く綺麗に整理整頓されている。ちょっと路地を一本抜ければ途端に混沌としてくるのだが。ここは、少しばかり眩しい。
 忙しそうに辺りを伺っていたロイが、ふと吸い込まれる様に一瞬だけ見渡すのを止めた。それと同時にミカが立ち止まる。不思議そうにロイがミカを見上げる。
「中、見てみようか」
 ロイにとっては思いがけない提案だったのだろう。目を丸くして、そして内心を見透かされた時のちょっとした気恥ずかしさを、ちょっとした無言の間に乗せて、おずおずと頷く。
 いじらしい仕草に、にこりと笑ったミカはロイが見つめていた店のドアに手をかけた。
 その背中に一声かける。
「もし決まったら教えてよ。お金は出すから」
「べつにいいのに。……しおんは、そとでまつんですか?」
「うん。後ろ着いて歩くだけじゃ実益がないしね」
「そういうものじゃないとおもうんですけど」
 はて、とロイは首を傾げるも、ミカに促され店の中に入っていく。からんからんとドアに備え付けられたベルの音だけが通りに残った。
……ニアは行かなくて良いんだ?」
 彼女は予想に反して、わたしの隣で結んだ髪の毛先を指にくるくる巻きつけては解いている。
「うん。なんとなくね」
 詰まらなさそうに、ゆったりと、ニアは呟いた。
 なんとなく、と言われては仕方がない。返す言葉も差し当たって思いつかないので、くるりと振り返って目の前を隔てるガラスに目を移す。正確にはガラスの、その奥。ロイの視線が奪われた先でもあった。
 そこには白いワンピースがある。裾の端まで見える様にと台の上にトルソーごと置かれていた。
 レース地の飾り襟に、たっぷりの布がたわんだ裾にも蓄えられたフリル。てらてらと光を舐めて光っている。装飾は多くとも華美ではない様に思えた。わたしの感覚が狂っている可能性は否定できないが。
 展示されたそれから目を離せず、また離す理由もなく、見つめていたら、ふと装飾にあてがわれた布の分だけ肩が重くなる感覚を思い出す。この服もきっと相応に重たい。
「おや、欲しいのかな。案外少女趣味もあったり?」
 想像と確信に耽ったわたしの顔を覗き込んで、ニアはわざとらしく、少女趣味と強調してはにやにや唇を歪めている。
「違うよ。昔は似た服を着てたな〜って思っただけ」
「そうだよね。今はすっかり軽そうな服ばっかり着てるもん」
……やっぱり分かってて揶揄ってる」
「そりゃあ勿論」
 あっけらかんと悪びれもせず、悪戯に彼女は言いのける。そして、軽ろやかに舞う様に一歩を踏み出して、ずい、とわたしの顔に近付いた。鼻先が擦れるのではないかと錯覚する程に。
 真っ赤で深く、暗い色を湛えた瞳が宝石の様に輝く。
「シオンが意外に面倒臭いところも知ってるから」
 その宝石みたいな光にか、瞳の奥にある深い、何かにか、吸い込まれそうだった。
 一歩後退れば、ニアはあっさりと身を離す。相手を引かせたら去る。悪魔らしく引き際を弁えている。
 それがちょっと忌々しくてじっとりとにやけ顔を見ていれば、彼女は何事もなかったかの様に話を続けた。
「それで、吸血鬼の昔ってどれぐらい昔?」
 鈴の鳴る様な声には自信が満ちていた。この問いに答えない訳がない、という自信。そして、事実、わたしは答えようとしていた。全く人の性質を見透かしている。
「産まれた時だよ。ずっと家に引き篭もってた時期とも言うけど」
 言葉を重ねながらあの頃を思い出す。ものを取るにも部屋を移動するにも手足を使わず、魔術を使っていた頃。髪も引き摺る程、伸ばし放題にして、カーテンを閉め切った黴臭い書斎に引き篭もってばかりいた。他人も対話も、煌めいて鈍く痛む刺激もない、太陽で灰になるという母の嘘も信じる程に知らない事ばかりが取り巻いていた。あのぬるま湯のような日々を!
 服も髪も重たくて、得意の魔術で誤魔化して感じないようにしていても、ずっと過去の重たさが残っていた。今でも感覚ごと思い出せる位に鮮明で、滑らかなスカートの布地まで指先を擽っていく。
「こういう服、意外と重たくて。布が多くてさ。綺麗な重しを着ている感じ? 今の方が断然好き、ポケット多いし」
「あはは、分かるよ。お洒落とされるものって足枷になる趣味のものが多いからね」
……ニアが言うと迫力があるんだよなあ」
 思わず彼女の足に目を落とす。黒いストラップシューズを履きこなす両足は小さいが、ニアの小さい体躯には相応だった。
「あは、纏足の事気にしてる?」
 当事者本人からそのものずばり、と言い当てられたものだから心臓が跳ねた。
 纏足。わたしが産まれる前の、さらに一昔前――ぎりぎり古代と言っても差し支えないほど昔の風習だった。
 足は小さい方が美しいから、歪める。子供の足を布で縛り付ける。三寸金蓮。定義と口伝と単語だけは聞いた事がある。
「まあ……知ってて気にしない方が難しいというか」
 気まずい一方で、美意識の果ての生々しさが、ここになかった事に安堵する自分が居た。同時に確かに在った筈の所のものを無に帰した罪悪が胸を刺す。
 思考が纏まらなくなって、言葉は中途半端に途切れてしまった。するとニアの丸い目が可愛いものでも見た時の様に、柔らかく細められる。
「全く気にしいだよね。生前に頓着するあたしじゃないのに」
「頓着しなさすぎるんだって。……本当に」
 ニアはけらけら冗談でも言う様に笑い飛ばしてしまっていた。四肢をバラバラにされた最期に故国を滅ぼして、それでも過去に一切の執着がないのは、彼女が伝承通りの悪女で、性悪であるからなのか。それともずっと自由で在りたかったのか。どちらなのだろう。
 わたしは性質も心も見透かされているのに、彼女の一切は立ち現れて来ない。それはわたしの未だにある過去への執着のせいか。相容れない性質のせいであろうか。
 でも、そうだとしたら、何故、彼女はわたしを知り得るのだろう。
 いよいよ訳が分からなくなってきた。
「そんな事より、誰の趣味なの?」
「え?」
 突飛な問いかけに素っ頓狂な意味のない声を返す。殆ど無意識の反射だったそれで、ふっと思考の渦から面を上げる。
 ニアは続ける。店の窓にも、白いワンピースにも背中を向けたまま。
「ああ言う服、シオンに着せた人が居たんでしょ? 他人に着せる服って意外と出るよー? その人の趣味が」
「はは、それも経験則?」
「そう。贈り物は多いからねえ」
「順調に縺れていた様で何より」
 その総計はどうなるのだろう。今を含めれば気も遠くなる程の数になりそうで、苦笑する。
 確かにあの服を選んだのは誰だったのか、知らないままだった。親から与えられたものを着ていただけではあったのだが。
 でも、と口を切る。
「分からないんだよね。明らかに親の趣味ではなかったし」
 両親の顔を思い返す。何もかもを知って、無断で旅を始めてからもう随分会っていない。今振り返っても、中々奇怪なひと達だった。悪い意味ではなく。……良い意味でもないのだが。
 それでも胸の奥が暖かくなって、ニアは「そうなの」と少し意外そうに呟いているから、自然と言葉が出ていた。
「母親は布は少なければ少ない方が好きで。服の袖が嫌みたいだからこういう服は論外だよ。……大抵の服が論外とも言うんだけど」
「過激なお母さんでウケるね。じゃ、お父さんはどうなの?」
「父親は……カソックしか着てないよ。多分それしか持ってない」
「おや、神父だったんだ?」
「そう。母親とくっついたから破門。ついでにわたしもいるから、さもありなん、だね」
 肩を竦めると、ニアは「不良神父って奴だ」とくすくす笑った。確かに外観はそうだったし、口も余り良くはない。母親曰く、そこは現役の時から変わりないらしい。
 それでも毎日太陽のない薄暗い早朝に何かを祈って、窓を開けて冷たい空気を吸っていた。外の遠く、空と地上を境目を見やって聖書の一節を呟いていた。だから、きっと。
「ちゃんと信仰はしてるから、質素で観想的な生活を心掛けているよ。神以外に装飾が多いものは、多分好きじゃない」
「真面目な不良神父って感じ? 瞑想と読書に明け暮れてそう、シオンみたいに」
 わたしみたいではないよ。そう否定しそうになって、次の瞬間には何をムキになっているのかと俯瞰していたから、止めた。
「本は読んでないよ、聖書も含めて」
「おや、訳ありかな」
「字が読めないんだ、あの人」
 代替の事実を答えればぱちり、と丸い目が瞬く。気にせず続ける。
「だから瞑想と思索をして、母親の読み聞かせを聞いてるよ。一度聞いたもの、見たもの――文字以外なら、覚えているから生活に支障はないみたいだけど」
「通りで公園で、論文でも何でも読み上げるんだ。躊躇いもなく」
……この間の事、ケントから聞いたでしょ?」
「うん! 印刷でお金スッた所まで、バッチリと」
「彼奴……
 余計な事まで言って。人の口に戸は立てられないから仕方ないのだが。でも彼奴は口がない方が正確なのだから縫い付けた方が正しいのではないか。私怨ばかりで生産性のない思考ばかり回って仕方がない。
 ロイ達の進捗はどうだろう、と無理やり脳内を切り替えてもう一度振り返る。店の大きな窓ガラスの奥、服を出しては戻す二人を見つめた。じっくりと選んでいる。
 視線を外そうとして、ガラスに映り込んだ街路樹と対面の道路が目に入る。映り込みは強く殆ど影のようだったが、二人の様子は見やすかった。「あ」と小さく呟く。今更気が付いた。
 ニアが映っていなかった。もっと近くに在って、目を離せばすぐ隣にいるはずのニアの姿は全く、影すらもなかった。鏡写しになりきれていない。
「ニア、映り悪いじゃん。今日は」
「バレた? 虚像がどっか行っちゃって、退屈で退屈で」
 あはは、と鈴を鳴らした様に笑い声が響く。
「だから店に入っていかなかったの?」
「全然入っても良かったけど、服選びの邪魔しても詰まらないでしょ? 劇の話聞かせてもらえないんじゃ損だし」
 彼女はくる、と窓ガラスを振り返り見た。ツインテールが動く度ゆらゆら揺れる。
「シオンはずっと映らないね」
 そして、彼女の指摘通り、鏡写しでないのはわたしもだった。ため息を吐く。今更落ち込んでどうする。そういう定めだろうに。
「この方ずっとちゃんと映った事はないよ。写真は何故か写るんだけど」
 同じ光の反射であるように思うのだが、その理由は未だに分からない。虚像と実像の差であろうか。
「珍しく吸血鬼っぽい。だから服屋には入らないんだ」
「そう。鏡が多いからね」
 像も薄い窓への映り込みならば大抵目立たないが、鏡となるとはっきりと映っていないものだからどうしても目立つ。だから服屋には基本入らない様にしていた。ロイに頼まれた時に少し悩んだのも、ミカを頼ったのも、これが一番の理由だった。
 自分の手を見つめる。右手を握ろうと思えば、その通りに拳になっていくし、開こうと思えばちゃんと開いていく。ニアがまじまじと、わたしの確かめるような動きを見て、首を傾げた。だから、きっとわたしの身体は他人からも見えている。でも、鏡には映らない。
「何で鏡に映らないんだろうって、ニアは考えた事ある?」
 ぽつり、尋ねる。常に、ではなく、稀に鏡に映らない彼女に、無性に聞いてみたかった。
「ないよ」
 言葉は軽かった。でもわざわざ反らして見えた横顔は、処刑を観覧していた時の様に、澄ました表情をしていた。
……わたしはある。実体がないからだって」
「足元に影を溜めているのに?」
 彼女は悪戯に微笑んで、わたしの足元を指差した。その先を辿れば、金色に輝いたタイルの上、真っ黒な影がわたしの足先から溜まっている。ニアにも同じ様に溜まっている。
 片足をちょっと上げれば、黒いそれは足から離れて地面を泳いで、その最中に妙に伸びて、変形して、街路樹の影に溶けて、また足を地面に付ければ、分離して、元の形になって戻ってきた。
 洞窟の影絵の喩えが過る。
 実体とは何だったのだろう。昔考えたそれは既にぼやけてアテにならない。
……影は実体じゃないし、直ぐに伸びたり歪んだり、輪郭と呼ぶには覚束ないよ。逃げ水だって作る」
「鏡だってただの像だよ。何かの意図を反射して、それを観測しようとしないと成り立たない。なら光を遮って無条件にできる方がそれに近い」
 ニアは静かに、横髪を耳に掛けながら、わたしを見上げる。彼女が口にしている事は因果に引っかからない。詭弁に、相違なかった。それでも、耳を傾けてしまう引力があった。
「答えはそれだと良いって思った事、ない?」
 澄んだ目。光を湛えたそれに、黒い髪と白い顔が映って、消えた、気がした。きっと白昼夢だった。
「ないよ」
 影絵を作り出すもの。常に照らされる所のものと常に照らすものが世界を象っていると、知っている。そこにわたしの意思は介在できないのも知っている。
「そっか、ざーんねん。こっちの方が面白いのに」
「悪魔らしい誘惑だったよ。自分の欲優先で、典型的」
「シオンは旅してる時から……いやその時よりも、深刻そうじゃん?」
……考える事が多過ぎるだけだよ。大した事じゃない」
 ふうん、と口を尖らせてニアは呟いた。数回瞬く内、やけにぴかぴかした目が次第に興味を失った様に色がのっぺりして、それからわたしに手を差し出した。
「財布貸してよ。ミカの所に持っていくから」
 何時も通り、上目遣いで媚びた微笑を浮かべている。
「一緒に待ってるんじゃなかったの?」
「気が変わっちゃった! 鏡なんか大した話じゃないし、それに時間も結構経ったでしょ? 進捗聞きたいと思わない?」
「気分屋。でも、そうだね。一理ある」
 頼むよ、と財布を手渡す。受け取ったニアは「承りました」とご機嫌に鼻歌をワンフレーズ転がしながら、店の中に入っていった。
 ひとりになって、手持ち無沙汰なまま上着のポケットに手を入れる。指で探れど空っぽで、ズボンの方も確認してみても結果は同じだった。そういえば、と思い出す。煙草は机の上、論文の山の影の辺りに置いた記憶がある。完全に忘れてきたらしい。
 息を一つ吐く。背後の白いワンピースを着ていた頃にはすっかり必要がなかったものを、今は探している。ニアの理論ではあの頃は何かを望まれて、それを着て過ごしていた訳になるけれど。
 でも、今は? 誰に何を望まれ得るのだろう。
 自分の影が伸びて、屈折して店の壁に掛かっていた。

 ***

 夕方の商店街は人通りが多い。食品に至ってはセールをやっているのだから、当然である。人のすっかり居ない薄暗い路地に一歩入って、夕焼けに染まった表通りを眺めていた。
 ロイは一番始めに物色した店で買った黒いボウタイブラウスと濃緑色のスカートを早速着ていた。「きっと気に入りますよ」なんて言って、早速マリィの感想でも考えていたのだろう。いたく気に入っている様子だった。
 そんな彼女は今頃、八百屋で野菜を物色しているのだろう。食事は出ないタイプの宿屋だからキッチンを借りて適当に作る必要があった。丁度備蓄を切らす所だったから、買い出しに来て、分担していた。
 ロイは元々馬故か、野菜に関する拘りが強い方なのでもう少し待つかもしれない。肉や魚などの生物は買っていなかったのが幸いだった。人いきれの中から彼女が飛び出してくるのに時間が掛かっても、腐らずに済む。……仮にあったとしても保冷剤なり魔術なりでどうにでもなりはするのだが。
 暇で回す思考に耽っていると、突然後ろからとすん、と腰の辺りを押されてよろめいた。反射で地面を見下ろし、そして左足を出していたから転ばずに済んだと理解する。
「あ、御免なさいね」
 口調とはアンバランスな幼い声が降ってくる。大丈夫だと答えようと顔を上げれば、言葉が吹き飛んでいく。
 黒いボウタイブラウスに濃緑色のスカート。長くうねった髪を纏めるだけの緩い二つ結び。ロイの来ている服と、普段の髪型。全く同じだった。
 違うのはロイの色を反転させた様な白い髪と白黒の目、大人びた口調。耳と尻尾の有無。
「如何したの。幽霊を見た様な顔をして。私、貴方に怪我をさせてしまった?」
 目の前に躍り出て、首を傾げる少女の髪は夕日に照らされ、オレンジ色に光る。
 問題ないとだけ答えるには間を空け過ぎた。特別伏せる理由もなかったので言葉を選びながら白状する。
「いや、大丈夫だよ。……ただ、知り合いに顔も服もそっくり過ぎたから、驚いただけ。不思議な偶然もあるものだなって」
「そう? その子と服の趣味はそっくりみたいね」
 眉を下げて浮かべた微笑には陰がある。意味深長な言葉。今度はわたしが頭を捻って、ふと映った地面が見えて、息を呑む。
 地面はオレンジ色と黒色がはっきり分かれて、彼女は明るい方に確かに居る。
 それなのに、彼女の足元に伸びているべき影は何処にもない。
 がばりと顔を上げれば、小さな手で自分の頬をゆっくりとなぞって、目を細めた。
「気が付かれちゃった。ふふ、まあ良いよ。今日の本題ではないもの」
……何が言いたい?」
「今日の原稿、私は好きだったけど。って、それだけ言いに来たの」
 ロイにしか見せていないそれを何故、目の前の少女が知っているのだろう。
 わたしが誰何するより先に、彼女はあはは、と軽やかな笑い声と足取りと共に去って行く。
「それじゃあ左様なら! また一段落する頃に会いましょうね!」
 手をひらひら振ったのを最後に死角に消えて、わたしが表通りへ出た時には既に彼女は人混みに溶けていた。
 影もなければ形もない。言いたい事だけ言って去ってしまった。少女は一体誰だったのか。彼女は余録と補遺の原稿を知っていた。順当に考えればロイの上司、あの神様の関係者なのだろうが。
 でも、何故、原稿を読んだ様な口振りだったのだろうか。
 考えても分かる筈もなく、それでも無駄だと切り捨て難く延々と堂々巡りしていた。
 そうして十数分経って、五時の鐘が鳴って漸く諦めがついた時。
「おまたせしました」
 くわあ、と大きなあくびをしながらロイが、人混みを掻き分け掻き分けわたしが突っ立っている路地に入ってきた。
「遅かったね」
「ええ。ちょっと、まよっちゃって。やおやさん、とおりすぎてたんですよ」
 そしてまた彼女はあくびをした。白い袋を持っていない方の手で目を擦る。
 一頻り涙を拭って手が空いた所で、その小さい手を握って、ゆっくりと帰路を辿って行く。遠くで烏がガアガア鳴いていた。
「疲れちゃった? 結構お店も回ったから」
「ううん。……そうかもしれないですね。なれないふくも、きてますし」
 綺麗な服で良く似合っていた。なのに、先程の一瞬だけの邂逅のせいで、ロイと全く同じ服を着た謎の少女がまた過ぎってくる。
……ロイと同じ様な格好したひと、帰りに見てない?」
「んー? みてないですよ」
「そっか」
 原稿の中身を知っているひとの事を聞こうと口を少しだけ開いてから、また閉じた。原稿は机の上に置きっぱなしだ。関係者として、勝手に読まれても文句は言えまい。影もないのなら、部屋に入り込むのだって容易い話だろう。
 だからこの話はお終いにした。自分の中で、勝手に閉じた。
「それより。はやくかえって、ごはんたべましょうよ」
 ぐるる。ロイが催促するなり、小気味良く腹が鳴る。少し照れた様に、彼女は尻尾を揺らす。わたしと繋いだ手を振り回す。離して、先に駆け出さないのがいじらしく、可愛らしい。そういう所は、何時まで経っても可愛い子馬だ。
「そうだね。サラダでも作ろうか」
 振り回されるまま曖昧に笑えば、ロイはかしゃりと袋を抱き寄せて、屈託なく笑った。