近くを一級河川が流れているからだろう、校舎の屋上はいつも清々しく爽やかな風が吹き抜けて心地が良かった。じんわりとかいた汗が乾いてゆくが、ほんの少し雨の匂いを感じる。空を見上げると、晴れてはいるものの波模様の雲があり、下校時間までに降らなければ良いがと半助は思った。
わが城となって久しい社会科準備室からこっそり持ち出した煙草のソフトパックの底をとんとんと叩き、頭を出した一本を咥えて己の手で風除けを作りつつライターで火をつける。安っぽいオイルの香りに、じりっと物が焼ける小さな音。咥えたまま息を吸うと、じりりと煙草の先が赤くなり、口の中に独特の味が広がる。すぅ、と肺まで煙を落とす。僅かな酩酊感があり、ゆっくりと目を閉じた。
この時代には、かつて半助が生きた頃には無かったもので溢れている。恐らくあれは、前世と呼ばれるものなのだろう。その前世を思い出したのは十八か十九の頃だったか。これは仏教用語でいうところの輪廻転生というものなのか、今世での自分の半生を振り返り、何もここまで前世をトレースせずとも良いのにと笑ってしまったものだ。
便利なものが増えすぎて、なかなか新しいものに追いつけずにいる。忍者は随分と昔にフィクションの存在となったらしく、少なくともこの国は戦をしていない。平和で良かった、という思いと共に、平和であるからこその問題も様々にあるのだと日々思い知らされていた。
「あ、ここにいた」
屋上の入り口からひょっこりと顔を覗かせた人物に、半助は慌てて手元の煙草をコンクリートの床面に押し付けて消す。気配に気づかない程ぼんやりとしていただろうかと、自身の平和ボケを呪った。
「参ったなあ……見られちゃった」
「別に学生じゃないんだから良いでしょう、吸われるのは意外でしたけど」
確かに鍵はかけたはずだが、と思ったが相手が利吉であればそれも無駄な抵抗だったようだ。何の因果か、今世でもこうして同じ場に立つことになった山田利吉は、現在半助が教鞭を取る中高一貫校であるこの大川学園中等教育学校にやってきた教育実習生だった。
利吉は職員室で半助を見るや否や、そのきりりと精悍な瞳を大きく見開いた。彼も覚えているのだと確信し、運命の可笑しさを思った。
後から聞けば、利吉は半助と初めて会ったその瞬間に昔を思い出したのだという。
「球技大会を抜け出されたと思ったら、こんな場所でサボっておられるとは」
半助も利吉も今日は上下ジャージ姿だ。年に一度の球技大会、教師チームとしてバスケットボールの試合に出たばかりだった。半助と利吉は別々のチームであり、若くイケメンな教育実習生の晴れ姿に学園中の女子生徒の視線が集まっていたように思う。
「後はもう閉会式まで暇だからね」
見られたのなら開き直ってしまうか、と半助はもみ消した煙草を携帯灰皿に突っ込んで新たな煙草を咥える。
「利吉くん、そっち風下だからこっちにおいで」
手招きをして自分の隣を指差す。私サボりに来たわけでは無いのですが、と苦笑いを浮かべつつも素直に隣にやってくるあたり、やはり可愛いななどと思ってしまった。
チープなピンク色のライターで再び煙草に火をつける。深く肺まで行き渡らせてから吐き出した白い煙は、川から吹き上がる風に吹かれていった。視線に気づき隣を見ると、利吉が興味深げに半助の手にある煙草を見ている。
「美味しいんですか、それ」
初めて見たわけでもあるまいに。だが半助や利吉が生きた、今で言うところの室町時代にはまだ煙草は普及していなかった為今世で初めて出会ったものではあるが。君のお父上は吸われないだろうからなあと言うと、それもありますがと前置きをしつつ。
「体に悪いですよ」
彼らしい生真面目な心配に、それはそうなんだよねえと半助は苦笑を浮かべる。体に悪いものを摂りたくなる事もあるんだよ大人には、なんて言ったらきっと子供扱いはやめてくださいと怒るに違いない。
黙ってもう一服と煙草を持った手を口へ持って行こうとすると、その手を利吉に取られた。火がついているのに危ないよ、火縄と同じようなものなんだから。そう言おうとした唇を形の良い薄い唇で塞がれた。
「ッ……苦い」
「……まあ、煙草だからね」
すぐに唇は離されて、眉間にくっきりと皺を寄せた利吉が嫌そうに表情を歪める。仕方なしに半助は二本目の煙草もまだ長さを残したまま携帯灰皿に押し付けて消した。
「口寂しいならもっと美味しい物を食べたら良いのに」
「別に口寂しいわけでは無いけど……」
正直な話、少し驚いた。いわゆる前世では確かに自分たちは恋仲であったが、まさか今世でも彼と唇を触れ合わせるなんて想像もしていなかったのだ。だって彼は若く、美しく、賢く、それはそれはモテるのだから。
人気の無い屋上で、吹き上げる風が利吉の前髪をふわりと揺らす。少し気圧されそうな程にまっすぐ半助を見上げた利吉は、きゅっと唇を引き結んでから視線を斜め下に落とした。
「……すみません」
「え、何が」
「その、あなたの許可も取らず……キスしてしまって」
相変わらず律儀だな! と半助は思わず笑いそうになる。だがここで可愛らしさに笑ってしまったら盛大に拗ねるであろうことは、それこそ前世からよく分かっていたのでなんとか表情を崩さないように努めた。
「じゃあ、今度からは許可を取ってくれるのかい?」
利吉が顔を上げる。じわり、と目尻から耳にかけて肌が赤く染まってゆく様が見て取れて、その反応に半助はたまらない高揚を感じる。
――ああ、この子は今世でも変わらず、私を好いてくれている。
利吉はフイと踵を返した。
「では、私は先に戻ります。その匂い消してから来てくださいよ?」
「あ、うん……準備室にファブがあるから」
「うわあ用意周到だ」
さてはしょっちゅう吸っているな、という視線が痛い。教師の喫煙が禁止されているわけでは無いがやはり屋上に勝手に忍び込んで、というのはまずかったか。
「この件は内緒にしておいてくれないか……ね?」
お願い、と両手を合わせて拝みながら彼の顔色を伺う。利吉は何故か悔し気に眉間に皺を寄せながら、相変わらずあなたのそういうところは変わらないなどと小声で言いつつ、わかりましたからと言った。
ただし、という条件付きで。
「これから口寂しくなったら私に言ってください」
「なんで」
「今度はたっぷり、キスを味わっていただくので」
それじゃ、と笑顔で手を振り屋上を後にする利吉を半助は目を丸くしたまま見送って、誰の目も無いというのに緩む口元を掌で覆う。
今世もどうやら随分と利吉に好かれているらしいことに気づき、たまらなく嬉しかった。
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