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彌夜
2025-02-03 20:40:11
5456文字
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景丹
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しづごころなき赤の
閲覧ありがとうございます。拙作は景丹🦁🍁となります。以前ワンドロでちらっと出した、🍁の瞼譜の紅は🦁からの贈り物と同じ流れを汲んでいます。少しでもお楽しみ頂けましたら幸いです。
※モブ視点でいっぱい喋ります。苦手な方はご注意下さい。相変わらず捏造ばかり。
【しづごころなき赤の】
乳を垂らしたように白い靄が晴れる前から、多くの商人の朝は始まる。と言っても私の商いは半ば道楽。利を追求し手広く、他の星と提携しているわけでなく、先代から継いだ昔から変わらぬ製法のもの。ひたすら質を保って良き品をと拘り抜いた羅浮でも珍しい老舗だ。お客の数は日暮れまで片手の指で事足りるが、有り難くも劇団員や、信心深い商売仲間、伝統を重んじる占者に、持明族の方々が御愛顧下さる。時折大口の注文がどんと入るも、日頃は閑古鳥の鳴くいたって平凡で人目を引かぬ地味な店構え。だが私は満足だった。こうしてのんびり茶を一服してから、帳簿と銭を用意し、並べた品を綺麗に手入れできるのだから。
白檀くゆる店内は静かだ。並べた売り物は何十億年もかけ蛋白石に変じた骨や化石じみている。遠くで奏でられる琴の音に合わせ、とろり光沢帯びる鼈甲の簪を柔らかい布で拭く私は、今日も日没まで変わらぬものだと思っていた。軒先に下げた風鐸が、ちりん、と来客を告げる前までは。
「いらっしゃいませ」
慌てて立ち上がり、目を瞠る。
門を潜る見慣れぬ青年。若鹿に似た体躯へ羽織る上着は仙舟風で、身に付けた籠手や肩当てから武人らしい凛々しさが匂い立つ。しかし。配達で何度も演習や凱旋を眺めたり、兵舎にも行ったが、青年を見たことはない。一度まみえれば決して忘れぬ。青く澄んだ水面に咲く蓮とよく似た彼とは、口惜しくもすれ違ったことがないと断言できてしまう。仕事柄記憶力に自信があり、まだ耄碌していないのだ。
思わず見惚れる私を怪訝に一瞥する、煙がかった水嶺の碧。すぐに切れ長の美しい眸は重たげにまつ毛をそよがせる。採光窓を頼りにぐるり店内を見回す彼の所作は品良く落ち着き、見た目よりも年嵩なのかもしれない。
「何をお探しでしょうか?」
古い記憶を微睡む琥珀の腕輪も、仙女が霧から紡いだ打掛にも目をくれず、陳列棚の前で悩む姿に粗相があったか急く内心を圧し殺し、大股で歩み寄る。端からするとゆっくり優雅に。客を警戒させてはならないのだ。沈思していた青年が顔を上げる。猫毛の濡れた黒髪越し。片方の目尻だけ引いた紅が彼の清廉さとアンバランスに色っぽく、年甲斐も無く心臓が跳ねた。確かに端正な顔立ちだが、華やかというより玉の玲瓏さだ。商売柄もっと麗美なものとも出会ってきた。しかし、彼が纏う神秘的な雰囲気は、滅多にお目にかかれない。隠そうとしてか抑え気味なのも禁欲的だ。思わず美術品を鑑定するように矯めつ眇めつ私へ、彼はそっと尋ねる。
「すまない、店主。これを直せないだろうか」
袖口からころり、小物が現れた。手袋を嵌めてから受け取るのは燻し銀な丸い紅入れ。錆びついてはいるが、丁寧に使い古された年代物だ。今時の若者なら決して選ばないが、古風な彼のてのひらにぴたりと収まる容器へ、何処となく既視感を私は感じた。残念ながら表面に大きく走る亀裂で、思惟も引き裂かれたが。
許可を貰い蓋を開くと曇った小さな鏡、ほとんど残っていない紅粉、それと無理矢理鋭く細い金具で引っ掻いたような祈りの印が私に語り掛けてくる。気が遠くなる年月という河を青年と流れて来たのだろうか。繰り返し替えられた痕跡がある微細な赤の濃淡が、如何に捨てられず、大事にされてきたかを誇る。指紋の残る下地にほぅ、と感心しながら蓋を閉めると、無惨な罅の下、光の加減でひっそり簡素な獅子と牡丹が線を結んだ。青年が持つにはやや渋い図案だが、魔除けという意味ではお誂え向き。深い関係の誰かが、彼の身を案じて持たせたならばしっくりくる。
贈り物とはそういうものだ。
じっくり細部まで片眼鏡で調べ、私はなるべく棘のない言葉で諦めろと告げる。
「経年劣化で土台自体が弱っておりますな。上手く金継げばいっとき戻せましょうが、壊れるのも時間の問題。手前としましては、新しく購入されるのをお勧めします」
送り主様も、ここまで使い込まれれば本望でしょう。そう続けると、困ったように彼は眉を下げた。無理もない。名も無き鄙の職人へ頼るくらいだ。彼にとっての至宝であろうが、どうやら名工揃いの工造司に頼めぬ事情がある様子。厄介事は勘弁だ。本来ならば断るが、生憎、本当に残念なことに、近頃暇でしょうがなかった。仕事がないのもそわそわする。だから私の思考は修理に必要な物を素早く見繕い、気付けば引き受けてしまっていた。
やってしまった。このお人好しめと心の内で罵倒するも、すぐに考えを翻す。何故なら先の違和感が離れないのとそれ以上に。
「
…
ありがとう、お願いする。大事なものなんだ」
人形めいて精巧な頬がふわり綻んだからだ。まるで見習い時代、水晶が閉じ込める古代の水を透かして机に作った月虹を彷彿とさせる微笑みに、やり遂げようと腹をくくる。こんなに贈り手へ愛おしげな顔をするひとを、無碍にするほどひとでなしではない。
大まかな納期や必要経費、希望を聴き取り、契約書を交わす。青年の手蹟は雲間を龍が泳ぐように流麗だ。半紙を渡し、帰り支度した彼を店の前まで送り出す。頭を下げてから思わず口に衝いたのは好奇心。
「幸せですね」
「?」
「貴方様が何としても失くしたくないと願われた、あの贈り主様がです。扱い方で解りますとも」
「なるほど
…
いや、どうだろう。これは俺が旅立つ日に与えられたんだ。あの人にとっては、覚えておく価値もない、些細な餞別だろう。俺も単に勿体ないからと、持ち続けているだけかもしれないな」
「御謙遜を。必ず直してみせますので、御任せ下さい」
「ああ。頼む」
瞼譜を刷く眦が優しくほどける。そっけない声とは裏腹に、けぶる碧に満ちる恋慕は噎せるほど色濃かった。底の見えぬ深海へ引きずり込もうとするような深い情に、袖すら振り合わぬ他人の私さえ充てられそうだ。どうでもいいものだというは嘘だと確信するも口を噤む。形あるもの全てはいずれ崩れ去る。けれど。残り香を惜しむのは心を託せる誰かがいる人の特権なのだ。紅を足すのに、長持ちするよう容器ごと買い替えず、手入れし続けるのも手間だと青年が知らないわけがないのだから。
そのまま朝靄へ消える背を見送り、暖簾を下ろして腕捲くりした。久々の大仕事だ。
一心不乱に寝食も忘れて打ち込むも、椿事は起きる時には連なり来たる。
翌日奥の工房に籠もる私の耳に、ちりん、と来客を告げる鈴の音が届いた。開店中の幟も表に出していないのに。閂を開けると外は雨。滂沱と叩きつける激しさはなく、金属や咲き初めた花、香料の匂いを際立たせるしっとりした霧雨だ。しかし鬱屈とした雫を朱塗りの紙傘で遮ろうと、客が従える曙光の気配は隠せやしない。
傘を畳んで佳人が笑う。
「お久しゅう。まだ軒を畳まれていなくて良かった、此処しか心当たりが無かったからね」
砂金の粒めく茶目っ気を含んだ左眼を間近にするのは、幾星霜ぶりか。
「これはこれは。遠目に御健勝なのは拝見しておりましたが、直接御言葉を交わすのは誠に久しぶりでございます。御世辞も麗しいままですなぁ」
「ははは。本心だとも。工造司は良い仕事をするけれど、どうにもお喋りな耳目が多くてね」
勝手知ってる休憩スペースに腰を下ろす将軍は、昔より表情が明るくなった。能面じみた穏やかな笑顔を繕うのは流石に疲れたのか。欠伸を漏らす横顔から深刻さは伺えないが、どうやら近頃建木が蘇り、奔走していたのは落ち着いたようだ。ほっと胸を撫で下ろす。未だ私が幼かった頃、舟主に立った将軍との付き合いは存外長い。自身の身の回りには頓着せぬこの御方がそれまでの墨や古書ではなく、珍しく細部まで指定した化粧品の後、ぱたりと注文が絶えてしまうまで。
ただ一度、魔除けの赤を納品するまで。
楽師よりはがっしりとした骨格の、それでも美しい雪白の手が無造作に湯飲みを取り出す。続けて物入れ代わりの硝子瓶に挿した何種類かから摘むティーパックの表紙は、蓮の花。湯を注ぐと科学香味料のわざとらしい甘ったるさが鼻を突く。あまり美味しくはないが、将軍の気分で選ぶものに毒を盛りようもない。ある意味信用の証なのだろう。微妙な眉の下げ方をしながら、将軍は月日の隔たりを感じさせない親しさで片手を掲げる。
「さて。用向きは察して貰えただろうか?例の紅を再び注文したいのだけど」
「
…
はぁ。構いませぬが。不思議なこともあるものです」
青年から紅入れを預かった日の既視感は正しかった。これは私の作品だ。どのようにもう一人の当事者である将軍へ伝手を辿ろうか悩んでいたが、これぞ天啓。かさりと懐から薬包を一包み。中には手ずから調合した秘伝の紅。羅浮でも希少な製法と材料を知るのは私と、依頼人である将軍だけ。偶然でも創り出すのは困難だ。なのに。流通していない筈の赤が此処にあるのは不吉だろう。
私は敢えてにこやかに、世間話めかして話す。
「先日、見慣れぬ若者が紅入れを持ち込みましてな。金具部分の罅の修理ですが。洗浄を施そうと底へこびりついた紅を落とすと、妙なことに、身共と、細かく材料を指定した貴方様しか存じぬ成分が抽出できまして。何故かご存知ですかな?」
暗に盗人かと問う。黒髪の若者はあの紅入れを宝物にしていたようだし、その心根に職人魂を穿たれたが、もし。もし将軍の私物を盗み、何らかに利用しようとする間者ならば情けをかけられない。
全ては羅浮の為。必要とあらば、始末するのも厭わないのだ。
剣呑な案を呈する私にぱちぱちと日溜まりの眼が瞬いた。次いでいつもの泰然自若を放り出し、口許を拳で覆って頑健な肩を揺らしだす。噴き出すのを耐えられなかったらしい。白皙に薄っすら血の気が差す。くくくっ、と小鳥の囀りめいた笑い声は雨音の粒も壊さず静かに溶けてゆく。
やがて震えは収まった。組んだ指で艶めく唇を隠したまま、ゆっくり顎を上げる気怠い仕草。だが私の背には氷塊が滑り落ちる。
向けられる柔らかさを剥いだ、獣の冷徹な黄金。触れれば切れん薄氷の牙。ぞっとするほど冷艶無私な策士の眼差しで、甘やかなだけではない男が、感情の起伏を消した言葉を繋ぐ。
「
…
あれは。私に許された中で、彼の為だけに必死に考え、与えた紅だよ。他の誰にも教えやしない。もし旅先で彼が売ったとしても、それならすぐに足がついた。だが先日自分で使い切ったと白状してね。大丈夫。あの子の身元は私が保証しよう」
だがこの工房を訪れるとは、流石だね。裏に刻印した屋号からか。逆に彼以外が持って来ていたら困るけれども。
そう嘯く獅子は眠りを妨げられたのに御立腹のよう。或いは、彼という牡丹が害される可能性に唸ったのか。私は頭を垂れて雷雲をやり過ごす。人に当たる理不尽な方ではないが、びりびりした威圧感と相対するのは一般人には荷が重すぎる。温厚篤実、神策鬼謀を謳われる智者が、まるで悪戯好きな子供のように天真爛漫に、無垢な残忍さをも持ち合わせると知るものは少ない。この御方自身が弱味だと握られるのを嫌うから。
どうやら先日の若者は、平等に羅浮を照らす日差しの例外であったらしい。
すぐ元の春風駘蕩な雰囲気を纏い直し、将軍はのんびり茶で喉を湿らせ、妙案を思いついたと唄う。
「納品する際、またあの紅粉も付けて欲しい。無論料金は私が持つよ。彼には内緒で」
「左様で。
…
貴方様程の御方でも老いらくの恋をされるのですね。恋とは、恐ろしいものですなぁ」
「若気の至りと諌められたら良かったのだろうけれどね。だが、あの子には敵わない」
照れ笑う獅子は一介の愛に振り回される恋人にしか見えない。笑っていても本心ではなかった将軍らしからぬ、無邪気な表情は、あの若者のお陰だろう。身中の毒虫に牡丹ではなく、蓮の露が景元様と合っていたということか。
筆を執って意気揚々材料を書き出す将軍様に、此方と比較なさいませと黄ばんだ古い紙を差し出し、私はほろりと殺意を溶かして感謝に変える。憂いを帯びた美しい諦観の笑みを湛え、それでも意地で舟を支え続けるこの方の、心許せるほとりとなってくれた事に。
滔々話し続ける武人の節ばった手の小指に残るのは、淡い花色。相槌を打ちながら私は気付かれぬよう口の端を緩めた。きっと此処に来る前、あの青年と睦んだのだと予想して。
数日後依頼品は輝きを取り戻した。
わざと艶を消したから眼を惹く華やかさはなく、けれど、獅子と牡丹はくっきり磨かれ祈りの印と共に持ち主への思慕鮮やか。ひび割れは埋められ獣の背で紋様を描く。かちり、と開いて中身を検めた青年がはっと息を呑んだのは小気味良かった。受け取った往時の記憶が蘇ったのだろう。私も覚えているだけ忠実に再現し、将軍様にもお墨付きを頂いたのだから、こうでなくてはならない。おまけですとしたり顔の私に、平然を装っても隠しきれず、はにかみ染まる目元は生まれたままの肌。
礼もそこそこに足早に立ち去る青年はこれから将軍様の手で魔除けの赤を施してもらうのだろう。無粋な筆を使わず紅を掬い、小指の先で。その微笑ましい光景が目に浮かぶようだ。
さて、と私も店を閉める準備をする。材料を多めに採取しに行くためだ。これからは、あの特別な赤を切らさず蓄えておかねばならないのだから。
(あの方の小指から、昔と変わらぬ思ひ色が消えないように)
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