溶けかけ。
2025-02-03 17:19:23
2132文字
Public ほぼ日刊
 

安全地帯はキミの隣

地脈異常で心の声が聞こえるようになったフリーナのお話。

 フリーナの姿を見かけなくなった。
 ヌヴィレットがそれに気づいたのは、最後に彼女を見てから一カ月程経った頃だった。
 ──彼女の身に何かあったのだろうか?
 
 時刻はまだ早朝といって差し支えのない時間、立ち込める濃霧に紛れるように一人の男性がリオンエリアの石畳を踏みしめていた。男性──ヌヴィレットはとあるアパルトマンの前で立ち止まると下ろしていた手を胸元まで持ち上げた。
…………
 僅かな逡巡のあと、ヌヴィレットは一室の扉を静かにノックし、全神経を聴覚に集中させた。非常識な時間に訪問しているのはこちらである以上、家主が出てこなくとも不思議ではない。
「はーい」
 小さな囁く声と共に慎重に室内を歩く足音が近づいてきた。それはやがて、扉の前で止まるとドアノブを回した。
「どちらさま……って、ヌヴィレット?」
「久しいな、フリーナ殿」
 家主であるフリーナは目をまん丸に剥くと、扉から顔を出してきょろきょろと辺りを見回して、安堵の息を吐き出した。
「取り敢えず入りなよ。誰かに見られては事だからね」

「息災であったか?」
「まずまずってところかな」
 フリーナはヌヴィレットに適当なテーブルを指し示す。彼が座ったのを確認すると湯気の立つマグカップを二つ置いた。
……白湯か」
「茶葉がなかったんだ。そもそもこんな早朝に来た以上、文句は言わせないよ」
 彼女はヌヴィレットの正面の席に座るとまだ熱いマグカップにふぅ、ふぅ、と息を吹きかけて口へと運んだ。
「それで、なんの用?」
 マグカップを手の中でころころと転がして暖を取りながらフリーナがヌヴィレットに問いかける。彼も同じようにマグカップを手の中で遊ばせていた。
……君の姿を見ていないと思ったのだ」
 どう切り出せばいいのかと迷ったヌヴィレットは結局、そのままを伝えることにした。寧ろ、遠回しに言えばのらりくらりと躱されてしまう可能性を考慮してのことだった。
…………そんなことはないと思うけど?」
 不自然な空白のあと、フリーナは首を傾げて笑みを深めた。彼は溜息をつくと少し温くなった白湯で唇を濡らしめ口を開く。
「沈黙は肯定と相場が決まっている。今、君は私に嘘をついている」
 朝焼け色の目が獲物を捉えた獣のように鋭い眼光を放つ。こうなったヌヴィレットを説得するのは不可能に近いということをフリーナは長い経験で知っていた。
 息を吐き出し、マグカップの水面を見つめる。思えば、彼にこれを出した時点で負けていたのかもしれない。水に溶けた感情を読み取れる彼に手がかりを与えてしまったのだから。
 いや、勝ち負けの話ではないのだけど。
 フリーナは白湯の入ったマグカップの縁を指でなぞる。何でもいいから、縋るものが欲しかった。
…………声が聞こえるんだ」
「声?」
 微かに震えた声でフリーナは言った。聞き返したヌヴィレットにゆっくりと頷く。
「キミなら理解してくれるかな? ……通りすがりの人の心の声が聞こえる感覚を」
 フリーナか顔を上げる。彼女は疲れきった顔をして微笑んた。
「そんなことが……
 あり得るのだろうか? ヌヴィレットの表情にフリーナはふっと息を漏らした。
「なんて……冗談だよ。ただ、外出するのが面倒だっただけなんだ」
 彼女はマグカップを傾けると残りの白湯を一息に飲み干した。それから立ち上がり、「これでキミの疑問は解けたかな?」と言うとキッチンへと体を向けた。
……まだ何かある?」
「冗談ではないのだろう? ではなければ、君はそこまで憔悴していないはずだ」
 ヌヴィレットの手はフリーナの手首を掴んでいた。
 やっと掴めた手がかりなのだ。ここで「はい、そうですか」と引き下がれるほどヌヴィレットは甘くない。
「君の話を聞かせてくれ」

 ヌヴィレットの説得で彼女は訥々と自身に降りかかった災難について話した。
 要約すると、地脈異常、もしくは秘境の影響で無差別に人の心が読めるようになってしまったとのことだった。
 効果範囲は約五十メートルほど。壁などの概念はないため、隣室住人の声は毎日聞こえてきているのだという。
「嫌になってしまったんだ。街に出れば、悪意に満ちた声も優しさに溢れた声も全ての声が聞こえてくるからね。それに、話してる声と思ってる声が同時に聞こえてくるから、仕事も買い物も立ち行かなくなって、気がついたら外に出られなくなっていたんだ」
「そうか……
 フリーナの話にヌヴィレットは顎に指をかけて、足を組んで考え込む。
 自身にも似たような力があるとは言え、フリーナのように無差別に、というわけではない。そもそもヌヴィレットと今のフリーナでは権能と呪いという性質の差があった。
「ふむ……。では、こうしてみたらどうだろうか?」
 ヌヴィレットは部屋全体に結界を張る。
「あ……これなら少し楽かも……
 フリーナの顔が喜色を帯びる。どうやら、物理的な壁は貫通しても権能で作った壁であれば大丈夫のようだ。

「そういえば、キミの心の声が聞こえて来ないんだ。きっとキミが特別だからかもしれないね」
 そう言って、彼女は満面の笑みを見せた。