みすみ
2025-02-02 22:15:34
2040文字
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カレイドスコープ

エグシャリ

「前とは逆ですね」
 シャリア・ブル中佐の執務室はいつ訪れても整然としている。明るいはず部屋は、なぜかいつもどこか寂しい。
 応接用のソファーに座り足を組み、渋々こちらに血の滲む左手を差し出す上官を、片膝をついたエグザベが立場が逆だった以前のことを覚えているだろうかという願いを込めて見上げると、彼は口もとをゆるめた。覚えている、の合図だった。
 自身の震える手に気がつかれないように祈りながら、エグザベは恐る恐る差し出された手をとる。普段はグローブで覆われているシャリアの手は、どんな時に触れてもエグザベよりも冷たい。
「あの時、あなたに絆創膏を貼っていただけるなんて思いもしませんでした」
 不思議そうに首をかしげたシャリアは「だって、君」と、リラックスした様子でソファーの背もたれに寄りかかった。
「だって、君、とても落ち込んでいたでしょう?」
 その通りだ。エグザベは、シャリアに叱責されるとばかり思っていた。
「僕を慰めるために?」
「当然ですよ」
 フラナガンスクールで主席だったとはいえ、エグザベにとって初めての実戦だった。ジークアクスでオメガ・サイコミュを起動できず作戦の遂行を失敗したばかりか、軍警に現行犯逮捕されてしまったのだ。落ち込まないほうがおかしい。
 情けない気持ちを隠すことができなかったエグザベは、当時自ら迎えにきてくれた上官が手にしていた絆創膏に「わざわざ買ってきてくれたんですか?」と苦笑することしかできなかった。「迷惑ばかりかけて、褒められるようなことはなにひとつできなかったのに」とうつむいたエグザベのひたいに絆創膏を貼りながら、「君は、もっと俯瞰的に物事を見るべきですね」と、あの日の彼もいまのように小さく笑った。「私はこれからの君に期待しています」と。その時にようやく、エグザベは彼のことを非の打ち所がない雲の上の存在ではなく、同じ人間なのだと自覚したのだった。
 見事にエグザベの気持ちを落ち着かせたシャリアに先導されてバーのカウンターに並んで座り、彼がグラスのふちをなぞる指先を自然と目で追ってしまいながら、このひとも料理や掃除をするのだろうかとまったく関係のないことをふと思ったことをよく覚えている。先ほどまでその指先がエグザベのひたいに触れていたからかもしれないし、初めて彼の私服姿を見たからかもしれない。
 その後、配信されていたクランバトルに奪取されたジークアクスが現れた瞬間に、そんな考えも吹き飛んでしまったけれど。
 あれからしばらく経つが、エグザベはいまだにシャリアが感情を乱す姿を見たことがなかった。
 ジオン公国軍の中佐。木星帰りの男。ジオン公国軍のかつてのエースパイロットのマヴ。フラナガンスクールに在籍していた頃から、エグザベがひそかに憧れていたひと。
 赤い彗星が行方不明になったいまも、ただひとり追い続けるのは、一体どんな気持ちだろう。シャリアにとって、赤いガンダムのパイロットは、どんな存在だったのだろう。
 もし自分が彼と同じような状況になったら、と時々考えながら、時間の経過とともに直接聞くことができる距離を彼に許されても、エグザベは疑問を口にできずにいる。彼が料理をする姿や、掃除をする姿、セットされる前の髪の柔らかさは知ってしまったのに。知ってしまったからこそ。
 シャリアはエグザベのマヴではない。しかし、もし、自分だったら。ある日突然なんの前触れもなく彼がいなくなってしまったら。
「中佐が急に姿を消してしまったら、僕があなたを探します。あなたを見つけるまで」
 きょとんと目を瞬かせるシャリアの表情は、出会ってから見た中で、いちばん幼く見えた。
「それは、告白みたいですね」
 シャリアの軽口にエグザベが返事の代わりに曖昧な笑みを返してやると、さすがの彼も閉口した。彼の幼い表情が、エグザベにいつものような従順な少尉らしい反応ではなく、あえて別の選択をさせたのだ。
 忠実な部下である僕をこう育てたのはあなた自身ですよ、という気持ちでエグザベは多くの修羅場をくぐり抜けてきたであろうシャリアをじっと見つめる。時には相手の弱みにつけこむことも必要なのだと、エグザベは彼のそばで学んだ。
 しばらくして、平静を装ったシャリアが威厳に満ちた声でエグザベに告げた。
「ひとの心を覗きすぎるのはよくないですよ、エグザベ少尉」
 彼を正面から見つめ、絆創膏を貼ったばかりの左手を離していなかったエグザベは、シャリアの瞳が揺れていることにすぐに気がついてしまった。気がつかないわけがなかった。
 このひとは、きっといま自分がどんな顔をしているのか、自覚がない。
 ――ひとの心を覗きすぎたのはあなたのほうじゃないんですか?
 そのひと言を飲み込んで、エグザベはシャリアの少しあたたかくなった指先に唇を落とす。
 彼がいつまでもどこまでも赤色を追っていようと、エグザベの心はもう変わりようがなかった。