きう
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盃に暗月

ワンズオ(禾→←左)

 任務帰りの甲板で、ズオ・ラウは幾分と緊張した様子のホーシェンに呼び止められた。同行していた後方支援部のリーベリが任務の事後報告を行う旨を伝え、ズオは礼を述べてからシャオホーの横へと並んだ。甲板に引かれた案内用の白線が、足元で夕陽を反射している。以前会った時より彼の横顔は日に焼けていて、少し大人びて見えた。編まれた髪も僅かに先を長くしている。
「今度の休み、大荒城に来ませんか」
……私が、ですか?」
 視線を向けると促されるように、夕暮れで赤みを増した琥珀色が自分を見た。その色は陽よりもずっと眩く、すぐに目が離せなくなる。
「君が忙しいのは知っています。ただ僕はその……要するに今は閑散期なので」
「行ってもいいんですか?」
……誘っているのは僕ですよ」
「嬉しいです」
 素直に告げるとふいと顔を逸らされてしまう。自分はともかく、彼の仕事に明確な休みなど存在しないことは知っている。三つ目の故郷などと言っては笑われるかもしれないが、自分にとっては思い入れのある土地だ。だからシャオホーが気を回してくれるのが嬉しかった。
……たまには息抜きも必要でしょう」
 荒野へ向けた視線をこちらへ戻そうともせず、けれど温かな言葉を彼は続けた。視線の先に何が見えているのか分からないまま、同じ方向を見る。彼の目にはどう見えているのだろう、赤く色を変える夕陽が、荒野を長く横切る岩の影が、紺へと色を変えつつある空が。シャオホーと同じ景色が自分の目にも映ればいいのに。詮無きことを考えている自分に声を出さずに笑った。同じものが見たいと思うほど、彼のこと愛おしかった。

 乾いた空気と土の匂い。刈り取られた稲は香りを失っているはずなのに、青々とした懐かしい緑が鼻腔に蘇る。目の前に広がる稲株は、此度の収穫を讃えるような黄金色を保ったまま整然と並んでいる。大きく息を吸い込むと冷たい空気が肺を満たした。大荒城に来るのは久しぶりだ。
「ズオさん、こっちです」
「シャオホー、出迎えていただけるとは思いませんでした」
「君も僕も休暇なんですよ。君が信使の仕事をしたいと言うなら止めませんが……
「いえ、平気です。その……休みですから」
 信使だと言われるのは心苦しい。彼も私がトランスポーターの仕事をしているのなど見たことがないだろうに、そのことを繰り返すのは、本当のことを聞かれているように思えていたたまれない。もちろん本当は、彼にその意図がないことも、私の仕事が信使ではないことに気が付いているだろうことも理解している。ただ私が罪悪感を理由に、彼に何もかも話してしまいたいだけだ。
 大して量のない荷物を片手にシャオホーの後ろへ続く。大荒城の夕暮れは百灶とは違う。傾いた太陽がいつまでも地平線の上に留まって、陽光を田畑に投げかけている。
「収穫後もこんなに綺麗な景色なんですね」
……見るのは初めて?」
「はい」
 物を知らないとため息をつかれるだろうかと、返事をしてから不安になったが杞憂で終わった。ホーシェンは何も言葉にしないまま、唇に笑みを浮かべる。この景色を私に見せてくれたのだと、その時気付いた。
……ありがとうございます」
「感謝されるようなことはしていません。……こっちです」
 促されるまま案内されたのは彼の家で、思わず玄関の前で立ち止まる。仕事で来た時は専用の宿舎があったが、今回は私用だ。てっきり宿を紹介してもらえるのだと思っていた。
「ズオさん?」
「ここ、あなたの家ですよね? いいんですか、その……
「構いませんよ」
 さっさと部屋の奥へ行ってしまう後ろ姿にためらいながらも続く。物は多いが整理整頓が行き届いた玄関。並べられた靴はくたびれているがよく手入れがされている。三和土には段ボールが置かれ、中から野菜が覗いていた。靴箱の上には何も飾られていない木製の花瓶、とはいえ埃が積もっているわけでもない。彼の手製か、それとも貰い物だろうか。部屋にあるひとつひとつがシャオホーの生活を覗き見ているようで気恥ずかしい。私生活を共有できるほど、私は彼と親しかっただろうか? 考えれば考えるほど、私はホーシェンのことを何も知らない。書類上で覗き見た、ほんの一握りしか。もしかするとこんなことを考えることすら価値観の相違で、彼の厚意を深い意味を持って受け止める必要はないのかもしれない。
 掃き清められた廊下を進み、畑に近い様相の庭を通りすぎ客間に通される。遊びがなくシンプルで必要最低限にまとめられた部屋はシャオホーの実直さの現れのようだった。
「こちらの部屋を使ってください」
「助かります」
「あとこの後に……僕は必要ないと言ったのですが……
「?」
 歯切れ悪く言う姿に首を傾げると、シャオホーはため息をついてみせた。
 彼がため息をつきたくなるのが少し分かった。この地の歓迎会もとい飲み会はとても賑やかだ。客桟の緊張感の残る騒々しさとは違う。厚い絨毯の上で行われる、挨拶回りを目的にしたパーティとも違う。さんざめく人の声は皆溌剌としており誰もが笑顔だ。盃が空になると誰かが次を注ぎに来て乾杯と叫ぶ、その声につられて別のところでも乾杯という言葉が響いて、輪唱のように酒量が増える。始めは隣で牽制してくれていたシャオホーも気付けば部屋の対極位置へと移動していて、私は初対面の男に最早何杯目か分からない酒を注がれていた。
「ズオ・ラウはシャオホーとインターンシップ先が同じなんだろう? シャオホーはどんな感じだい?」
「彼はとても優秀ですしコミュニケーションも上手いですから、ロドスでも頼りにされていますよ」
「そうだよなぁ! 俺は心配してなかったよ、でもやっぱり寂しくはあってな」
 こちらの言葉に嬉しそうに笑いながらも、拗ねるように手酌で酒を注ぐ、その姿に笑みが零れる。彼がロドスで頼りにされるように、ずっとこの地で頼りにされていたのが分かる。そんな人と今任務に就くことができる。目的を共にできる、そのことが素直に嬉しかった。何度この出会いに感謝したか分からない。厳しくも善い友人。そんな人が、この先の人生で何人もできるとは思えない。
 大切にしよう。そう思うたび、胸の奥が淡く痛んだ。蓋をしている感情が溢れる気配に、盃の酒を飲み干した。

 部屋の対角位置でズオが誰かに絡まれている。いや、話し掛けられているだけかもしれないが、こちらから話の内容までは分からない。ただ相手が自分に注ぐのと同じスピードで、彼の盃を満たしているのは知れた。あれでは近いうちに潰れてしまうだろう。大荒城の酒は飲みやすいがそれなりに強い。慣れないうちはそれで何度潰れたか分からなかった。
 傍へ行こうと立ち上がりかけたところで力任せに肩を組まれた。そんなことをしてくる人は多くない。
「俺の酒が飲めないってのか、シャオホー」
「酔ったふりは止めてもらえますか、先輩」
「そんな冷たいこと言いなさんな。ほら一杯」
 差し出された口縁を無下にするわけにも行かず、膝を床へ戻して盃を受ける。
「シャオホーが連れてきたってことはやっぱりあれか?」
「? あれって?」
「付き合ってるんだろ、ズオ・ラウと」
 そう言った先輩の顔は至って真面目で、そのことが余計に僕を混乱させた。酒が入っていたせいか、どっと身体に血液が回る感覚があり身体が熱くなる。
「は? ど、どうしてそういう話になるんです?」
「今まで大荒城に来た奴をお前がもう一度呼び寄せたことがあったかよ。しかも家に泊めるんだろ?」
「それは友人として当然のことで」
 否定する言葉を聞き流して彼は盃を煽った。その視線がついと遠くに投げられる。その方向に誰がいるかを知っていた。
「綺麗な顔してるもんなぁ」
「そんな目で彼を見ないでください!」
「誰もズオ・ラウのこととは言ってないだろ」
「でもそういう話だったでしょう!」
 顔が熱い。首に汗をかいている。妙に口が乾いて、手元にあった盃で唇を湿らせた。何が面白いのか、言い出した本人は楽しそうに笑っている。ただ酔っているだけかもしれない。
「ほら、外に行くみたいだ。飲まされ過ぎたのかもな」
「ああもう、様子を見てきます。それだけですから!」
「分かってる、からかって悪かったよ」
 ひらりと上げられた手の平を視界の端に認めながら、紺色の外套を追った。どこまでが酒の席での冗談だったのだろう。付き合っている? まさか! 確かに過去ここに研修へ来た人を再び招いたことはないよ。でもそれは縁がなかったから。彼とはロドスという縁があったし、それに。それに? いや、他に何ということもない。ただ彼はここの五豆粥を食べていないと言っていたから、食べさせてやりたいと思っただけ。この地で作った酒を飲む機会だってないままで。
 だから彼に味わって欲しかった。そう思うのは、そう考えてしまうのは、僕が……

 騒がしい部屋から出ると一転、外には夜が静かに広がっていた。酒精の入った身体に初冬の空気は肌寒い。少しも歩かないうちに土手に腰を下ろしたズオ・ラウを見付けた。彼は水も入っていない田を見るともなしに眺めているようだった。空と同じ色をした髪が微かに空気に揺れている。
「ズオさん、大丈夫ですか?」
 声を掛けるとこちらを振り返ったが、すでに僕の存在には気が付いていたのだろう、彼に驚いた様子はない。
「少々飲み過ぎてしまって……酔いを醒ましていました」
「無理せず断って良いんですよ。皆自分の酒を飲ませたいだけなんです」
「ふふ、ええ。ですからつい、盃を重ねてしまいました」
 柔らかく笑う表情は酔いのせいか、普段より幼く無邪気だ。可愛いひとだなと頭を過ぎった感情を慌てて振り払う。
「立っていないで隣に来てください、シャオホー」
 穏やかに呼び掛けられて我に返った。ズオは棒立ちの僕を怪訝に思ったのか首を傾げる。考えを打ち払うように慌てて隣に腰掛けた。寒さのせいなのか、それとも睡魔なのか、ズオはゆったりとまばたきをした。あんな会話をしたせいか、白い目蓋がやけに色っぽく目に焼き付く。
「さ、寒くはないですか?」
「大丈夫です。あなたの方が薄着でしょう。ほら」
 ズオが外套の金具を外す音が夜に響いて、何故だか心臓が大きく音を立てる。暗がりに白い肩が浮かんで、腕が僕の背へと回った。遅れて衣擦れの音が耳へ届く。
「こうすれば温かいかもしれません」
 外套は彼の体温で温まっているのか、それともそういう材質であるのか、肩に掛けられただけで想像よりも温かかった。風を防いでいるからかもしれない。
……半分僕へ寄越したら、君が寒いんじゃないですか」
「あなたと体温を分け合った方がずっと温かいですから」
 確かに寄せられた身体は冷えている。あまり酒の影響が体温に出ないのだろうか? それともフィディアの彼にとって外は寒すぎるのか。視線で背後を探ってから、外套の下の肩を抱き寄せた。ズオが驚きに目を丸くして、それから朗らかに笑う。
「優しいですね、シャオホー」
「休暇に風邪を引いたと言われては困ります」
……ええ、気を付けます」
 言いながらズオは視線を正面へと逃がした。澄んでいるようにも秘めているようにも見える薄い色の目に星々が映る。彼の目にはこの地はどう映っているのだろう。これから厳しい冬を迎えるこの北の地は。
 好きになってほしい。この地を、大荒城を、彼にとっては過ぎ行く景色のひとつかもしれなくても。
……ここに来た時、星を探しに行こうと言っていたことを、覚えています」
 寒さのせいか、ズオが身体をこちらに寄りかからせながら呟いた。心臓が大きく跳ねて、彼の言葉を追うのが一瞬遅れた。流れ星が落ちた場所は豊作になる。それがお伽話であることぐらい彼には分かっているはずだ。何故今になってその話を持ち出すのか理解できず、返答に迷う。
「そ、それはシャオマンが言い出したことで……
「私にはその意味が分かりませんでした。でも今は……
……今は?」
 ズオがこちらを見た。柔らかに揺れる睫毛が見て取れるほど近い距離で。綺麗な顔をしている。それは、そうかもしれない。ここに誘った時、ロドスの甲板の上で、夕陽に染まる瞳が美しいと思った。でも、どうしてだろう、そう思うのは僕だけだと思っていた。
……星を探しに行くのもいいと思えます」
 細められた目が夜だと言うのに楽しそうに煌めく。もし他人も彼を同じように思うのなら、彼はいつか僕以外と星を探しに出てしまうのだろうか?
「それが、大荒城の外でも?」
「はい」
「炎国の外でも?」
「ええ」
「地の果てで星が見付からなくても、君は行くんですか?」
「目的は星を見付けることかもしれませんが、果てに行く途中でもっと大切な経験が得られるように思うのです」
……そう、ですか」
 寒さが身に沁みるような、胸が締め付けられるような痛みがあった。僕は彼の長い旅路の途中で出会った、路傍の人になってしまうのかもしれない。そのことを自覚すると想像以上に堪えた。僕は彼から特別に思ってほしいと考えていたらしい。そんなことを初めて知った。
 不意にズオが肩に置いたままだった僕の手に触れた。
「シャオホー、一緒に探してくれますか?」
……僕が、ですか?」
「はい。……私は、あなたがいい」
 ズオの唇がはにかむように横に引かれた。僅かに伏せられた目に睫毛の影が落ちる。何か思うより先に顔を寄せていた。目が合う。深い青は夜空そのもののように僕を捉えた。ズオが音もなく目蓋を閉じる。唇が触れたかどうか曖昧な距離で吐息が混ざった。
……あの、」
 薄く目を開けて、彼が小声で続ける。
「あなたも目を閉じてほしいのですが……
 言われて、目を開けたままでいることに気が付いた。
……そういう君も開けているのでは?」
「気配で察しているのです。……シャオホー、もう一度」
 言いながら目を閉じたズオの唇に、今度は分かるぐらい触れる。乾いているとも湿っているとも言えない、少し冷えていた。彼の望み通り目を閉じて、再度合わせる。柔らかく潰れる感覚が伝わってきて心拍が速くなる。ズオの手が外套の下で僕の服を掴んだ。急激に体温が上がる感覚があって、思わず唇を離した。
……シャオホー?」
「ば、場所を変えませんか……
 寒かったはずなのに背中に汗をかいていた。このまま続けていたいような、冷静になりたいような感情の狭間に、人に見られたくないという独占欲があった。腕の中の貴重なものを誰にも見られたくなかったし、よく見たかった。
 ズオの手がシャツから離れて心臓が跳ねる。そのまま手を唇へ持っていく姿に緊張が走った。口元を手の甲で押さえるようにしながら思案している時間が短くも長くも思える。早く返答が欲しいような、ずっと考えていて欲しいような。そうして伏し目がちに彼が僕を見た。
「そんなことを言われると……
「な、なんですか? 嫌だったわけじゃないですよね?」
「いえ……その……、」
 彼の白い頬が夕陽を浴びているわけでもないのに染まっていて、無意識に咽喉が鳴った。暗月が僕を照らす。
「期待して、いいんですよね?」
 こちらを窺うように覗き込まれて、可愛いという言葉がはっきりと脳裏に浮かんだ。気が付けばまるで唆されたみたいに、ひとつ頷いていた。