猫澤
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ラブロマンス・ウィズ



 僕の世界は、これまでに三度色彩を失っている。
 一度目は仲間とするショーに絶望したときだ。誰も僕をわかってくれない。誰も僕の話を聞いてくれない。誰も――僕は世界に期待することをやめて、ソロパフォーマンスにこだわる決意をした。
 けれどそんな僕を水底から掬い上げてくれたのは、他でもない彼――天馬司だった。
 二度目は司に恋をした僕が、彼への恋を諦めようとしたとき。
 この時も僕に前を向かせてくれたのは彼だった。彼も同じ気持ちを抱えて苦しんでいる。その事実が何よりの僕を後押しする原動力になった。
 僕は、臆病だ。人に傷つけられるのがこわい。だからいつも後手に回ってしまう。離れようとする手を、掴むのに。勇気を振り絞る分だけのラグが生じてしまうのだ。
 そのせいで僕の指先から零れ落ちてしまったものは数多い。足元に散らばる宝物だったものは、いつしかがらくたに変わっていた。
 でも。それらを全部拾い上げて、落としたぞ、と僕に返してくれたのも、やっぱり君だったね。
 三度目は、今。
 さて。僕は現在、恋人と破局の危機を迎えている。


――あははは! おっかしー!」
「笑い事じゃないんだけどねえ……
 センター街に新しく出来たカフェ。窓際の席でアイスティーを嗜んでいた旧知の連れ――瑞希は、僕の話を聞くなり大口を開けて笑い飛ばした。
 セカイが崩壊しかけたという、あの一大事から。既に半年が経過していた。
 かといって生活はこれまでと大きく変わっていない。
 前々からえむくんと密かに口裏を合わせていた事務所立ち上げ計画はいよいよ明るみに出始めたし、司と寧々をうちに所属させる手筈も日に日に整いつつある。
 司との関係は、概ね好調だった。少なくとも僕の視点からは。
 そりゃ時々はしょうもないことで喧嘩したりもするけれど、そんなのは学生の頃から日常茶飯事だ。これまで上手に親友の皮を被って過ごしてきた僕らにとって、関係に「恋人」が追加されたくらいで何かが揺らぐわけでもなく。
 瑞希は春の兆しによく似た色の髪を、耳の下で緩くまとめて。大きく丸い瞳をすっと細めた。
「ふ、ふふふ……それで? ダ〜イスキな司先輩とやっと一緒に暮らせるようになったのに、なんでまた喧嘩になっちゃったわけ?」
「まだ一緒には暮らしてない。半同棲だよ。僕が半分、彼の家に転がり込むような形でね」
「うんうん。類、SNSでの匂わせヤバいもんねー。お揃いの食器とか、司先輩の写り込みとか」
「彼は人気者だからねえ。健気な僕はいつだって不安なのさ」
 そう、いつだって不安だ。
 独り籠って趣味や仕事に没頭しがちな僕と、交友関係が広くていつも話題の中心にいる彼では住む世界が違う。芸能界でも一躍名の知れた彼。そんなの、ますます周囲が放っておくはずがない。
 付き合う前だって牽制に牽制を重ねて、男だろうが女だろうが悪い虫がつこうものなら全力で追い返した。幸い彼はあまりネットで自分の記事を読んだりしないので、僕の魂胆にはつい最近まで気づいていなかったようだ。
 昔から僕は臆病で、だから本当に大事な時は相手が逃げる前に外堀を全て埋めて、退路を塞いで、じわじわと追い詰める。己の中の怪物を悟られないように。
 司のこともそうやって少しずつ、少しずつ、追い込んで。いつか僕の手を取ってくれたらと思っていた。
 ……まさか僕への想いごと手放していたなんて思いもしなかったけれど。
「喧嘩……というのもおこがましい気がしてきたな」
 さて、それで。僕と彼の仲違いの原因、だけど。
 実は既に心当たりがある。というか、明白だ。それしか思い当たるものがない。
 先日――僕達はいつものように司の家で食事を摂って、シャワーを借りて、ベッドで愛し合った。
 翌日司に大きな仕事が入っていないことは把握済みだったから、それはもう司の足腰が立たなくなる程度には深く交わって、そのまま眠りについて。
 朝起きたら、僕の左手の薬指に指輪が嵌まっていた。
 朝の光を反射してきらめく銀のそれ。寝起きということもあったが、僕はすっかり思考停止してしまって。
 先にベッドを抜け出してシャワーを浴びていた司は、寝室で呆然とする僕を見てそれはもう良い顔で笑っていた。例えるなら、そう、家事のお手伝いをして褒めてほしい子供、みたいな。いや、イタズラが成功した子供――かな?
 当然、うれしかった。きっと司だって、僕が喜ぶと信じて疑わなかっただろう。実際内心では喜んでいたし、司への愛しさは普段の数倍込み上げていたけれど。
 僕はこのとき選択を間違えた。少しだけ、複雑な胸中だったのだ。
 僕はいつも、不安を抱えて生きているから。
「思わず『これは受け取れない』なんて言ってしまって、それから……避けられてる……
「いやー、そりゃ避けるでしょ。別れ話されないだけありがたいと思わなきゃ」
「さすがは瑞希。ぐさぐさ刺してくるねえ」
「えー? わかっててボクに相談したんじゃないのー?」
 口元に指を当てて、瑞希がこてんと小首を傾げる。僕はフ、と息をついて、手元のソーサーからコーヒーの入ったカップを持ち上げた。
 瑞希は。
 相変わらず可愛いものが好きだ。今はファッションデザイナーとして服飾の仕事に就きながら、ネットシーンで音楽を作るサークルを続けているらしい。
 そんなことを僕が知っているのも、ひとえに瑞希自身が自分の話をするようになったからだった。
 お互い、自分のことを話すのが苦手で、僕と瑞希の関係を言葉に表すなら――ひとりとひとり。社会に溶け込めない個人と個人だ。
 輪から逸脱してしまった僕達は、故に同じ逸脱した者同士傷を舐め合う。そんな関係だったのに……僕は司と出会って、瑞希も今の仲間と出会って――いつの間にか僕達も社会の一部になっていて。
 そうすれば自然と、会う度に話題は互いの「好きな人自慢」になっていた。
 瑞希の――イラストレーターの友達はパンケーキが好きらしい、とか。コンポーザーの友達がよく無理をして体調を崩してしまうので、医者の友人と作業の手を止めさせるのに苦労している、だとか。
 まさかその話に出てくる「友達」も、僕にそんなことまで知られているなんて露も思ってないだろうな。
 ひとくち、コーヒーを口に含む。苦い液体が舌を撫で、喉を通り抜けていく。
「それで? 類はどうしたいの?」
「仲直りしたいよ、もちろん」
「あは。片想い長かったもんねー」
「そうだとも。今更手離せないし、逃すつもりも毛頭ないよ」
「やだーコワーイ」
 窓の外に視線を移せば、街ゆく人々が忙しなく右へ左へと流れていく。
 ……指輪は、司の部屋の寝室に置いてきた。きっと司のことを傷つけてしまった。だけど、臆病で、ワガママな僕は、それでも司を手離したくない。
 怒ってるだろうか。いっそ怒っていてくれたら、僕も謝れるんだけど。受け取れないと言った時の司はどこか、その想定もしていたみたいに少しだけ眉尻を下げて「そうか」と言うのみだったのだ。
「ていうか、そこまで言うならさ。受け取っちゃえばいいじゃん。わざわざ指輪用意したってことは、司先輩もそういうつもりってことでしょ?」
……まあ、お互い適齢期ではあるよね」
「あれ、意外。類、あんまり乗り気じゃない感じなんだ」
「んー……
 乗り気じゃないのはむしろ、司の方じゃないのだろうか。
 この国で同性婚が認められてから、少しずつ同性愛に対する偏見は薄れつつある。根強く残るところも勿論あるけれど、風潮としては「同性愛者を否定するのは悪」が主流だ。それが建前であれ、本心であれ。
 だから、多分。僕と司が今、社会的な意味で結ばれたとしても、世間から大きなバッシングを受けることはない。少なくとも、表立っては。
 先日、僕と司、それに瑞希も出席した――後輩の結婚式。瑞希がデザインしたという白いドレスに包まれた彼女達は、とても幸せそうだった。
 周囲にも祝福されて、これからは二人で長い人生を歩んでいくのだろうと思うと。正直なところ、やっぱり羨ましくなってしまう。
 恐らく司もそれに感化されたのだろう。彼は感受性が豊かな人だから。
「どっちかと言うと悔しい……かな?」
「悔しい?」
……僕が、彼を幸せにしたかったんだ」
………………あははっ」
 今度こそ瑞希は腹を抱えて前のめりになった。本当に、全然笑い事じゃないんだけど。旧知の仲である瑞希には僕の不幸が面白くて堪らないらしい。
「はーあ。もう……惚気、聞いてあげたんだからここは奢ってよね」
 惚気どころか、人生二回目の大ピンチなんだけどねえ。
 はあ、と憂鬱がため息になって零れ落ちる。とにもかくにも司と話をしないと始まらないのだ。気が重いけど。
 蝉の鳴く夏の日。空飛ぶ自動車の影が過ぎっていく。
 アイスティーの氷がからんとぶつかり合うのを、僕はぼんやりと眺めていた。

  ◇◆◇

 夕焼けがきれいだ。
 マンションの下から見上げる狭い空。薄い雲。赤とも橙ともつかない色が、静かに宵に侵食されていく。
 夏の夜は短い。きっと瞬きをする間に暮れてしまうから、僕は両目を開いてその様をずっと見つめていた。
 ざり、と。靴が地面を踏む音。緩慢に、音がした方へ顔を向ける。甘いカスタードの髪をさらりと靡かせて、帰宅した彼――司は、どうやら僕の姿に驚いているみたいだった。
「おかえり、司」
「お前……夏とはいえそんなところに薄着で立ってたら風邪ひくぞ」
 呆れ半分の声を聞いて笑みを深くする。
 司の家の鍵を開ける仕掛けは、僕のスマートフォンにも共有されている。僕は自由に司の家に出入りする権利をもっている。それでも今日それをしなかったのは、僕なりの誠意と、罪滅ぼしだ。
「君を待ってたんだよ」
「そのようだな」
「ねえ、僕の話を聞いてほしい」
……
 琥珀色の瞳が僕を見つめる。感情はない。寂しそうな色を感じたのは、僕がそうあってほしいと思うからで、実際のところはどうだろう。
 その左手の薬指に指輪は嵌まっていなかった。あの日から一度も司の家にあがっていなくて――合わせる顔がなくて――結局今、指輪の所在がどこにあるのかはわからない。
 司のことだから捨てたりはしていないと思うけれど。……いや。どうだろう。よりによって一番大切な感情を、エゴで投げ出した前科があるんだった。
「ちょうど、オレも類に話がある」
 淡々とした声に、肩が跳ねる。
……それは、良い話? それとも悪い話かい」
「さあな。お前が決めることだ」
「嫌だ。はぐらかすなら聞きたくないよ」
「駄々をこねるないい大人が……
 嘆息。司は首裏に指を這わせて、ふと、手元の腕時計を確認した。
 空は徐々に暗くなっていく。もうじき時計の短針は七を向く頃だろう。
「まだ間に合うか。よし、ついてきてくれ」
……どこへ行くんだい?」
「内緒」
……やだなあ」
 本当に嫌だ。けれどさっさと踵を返して歩き出した司を、追いかけないわけにもいかなくて。しぶしぶ、重たい腰を上げて歩き出す。
 神山通りを抜けた先。スクランブル交差点も通り過ぎて、立橋の傍を少し離れて歩く。
 いつか二人で猫を追った道と同じだ。現実世界ではさすがに、道路は陥没していないし、信号機も曲がっていないけど。
 先を歩く司はスマホ越しに誰かと会話しているようだった。
 ねえ、誰と話しているの。どうして僕といるのに、僕の方を見ないの。薄暗い嫉妬が腹の奥でぐるぐるととぐろを巻いている。胸焼けしたみたいにむかむかして、知れず、拳をぎゅっと握りしめた。
 今すぐ君を抱き締めて、この人は僕だけのものなんだって世界中に知らしめたい。
 存外、僕は嫉妬深いらしかった。司に他の男の影を感じただけで、僕は平静を装えなくなってしまう。冷静でいられなくなってしまう。
 ダメだな、こんなんじゃ。司に飽きられても、文句のひとつも言えやしない。
 陰鬱なため息が出る。俯いた僕に、司が「着いたぞ」と少し離れたところから声を掛けるので、仕方なく顔を上げた。
……フェニックスワンダーランド」
「えむに少し無理を言った。こっちだ」
 まあ、道すがら、薄々そうかとは思っていたけど。
 今日は休園日で、いつもの底抜けに明るい音楽は聞こえてこない。
 しんと静まり返る園内。当たり前だけど、観覧車もジェットコースターも崩落していないし、マスコットキャラクターのフェニー人形は可愛らしく店先にディスプレイされている。
 辿り着いたのは、ワンダーステージだった。今は、かつて僕達ワンダーランズ×ショウタイムがステージを披露していた頃より、ほんの少し綺麗に整備されている。えむくんが変わらず着ぐるみくん達と手を入れてくれているのだ。
 照明のついていない薄暗いワンダーステージには、見慣れた人影が立っていた。
「ネネロボ。それに寧々とえむくんも……
「駄目。類はそっちに座ってて」
「そっち……って。客席かい?」
「そうだよ! 今日の類くんはお客さん!」
 寧々とえむくんが、二人がかりで僕の体を客席に押し込む。いつの間にか司は姿を消していた。どこへ行ったのだろう、と周囲を見回す僕に、寧々がひそりと耳打ちする。
「ここ数日、わたし達ずっと司の相談に乗ってあげてたんだから。類も感謝して」
「え……?」
「こら寧々! 余計なことを言うんじゃない!」
「うるさ……地獄耳……
 ――ステージの、真ん中に。スポットライトが当たる。
 王子様モチーフの――あの、白と青を基調とした――懐かしい衣装に身を包んで。司が立っている。
 傍にいた寧々とえむくんは顔を見合わせて、二人揃って僕とネネロボを置きざりにして。花のような微笑みを浮かべながらステージに上がっていった。
 ……ショーが始まる。予感が、する。
「類!」
「えっ、……はい……?」
「お前のためだけに、特等席を用意した! いいか、よく見ておけよ。一夜限りのショーだ。今後再演は無いと思え!」
 刹那、ぞわりと。
 背がわなないた。心が、心の臓が逸っている。泣きたくないのに、鼻の奥がつんとして、瞳にうっすらと膜が張る。
 ああ。僕の青春が、そこにある。
――行くぞ! ワンダーランズ×ショウタイム、開演だ!」
……!」
 裏に着ぐるみくん達もいるのだろうか。司の号令と共に軽快な音楽が鳴り響く。薄暗いフェニックスワンダーランドで、ここだけが、ワンダーステージだけが光り輝いている。
 司達は華麗なステップを踏んで、歌をうたって、寸劇と、パフォーマンスを。全てたったひとりの観客である僕のためだけに披露した。
 心が躍る。
 わくわくする。
 なのに、どうして。僕はあのステージに立っていないのだろう。ねえ。どうしてだい。
 ――君を輝かせられるのは僕だけなのに!
 曲が止まり、照明が司を明るく照らす。司は耳に着けていたイヤモニとマイクをえむくんに手渡して、小さく「んん」と咳払いした。
 司の瞳が、まっすぐに僕を射抜く。そしてそのままゆっくりと片膝をついて、右手は後ろへ。左手は恭しく、僕に向けて差し伸べて。
「類。オレの、オレだけのお月さま。どうか、このオレと結婚してほしい!」
――
 呼吸を、忘れた。
 瞬きさえも惜しい。今この瞬間の司の姿を目に焼き付けなければ、きっと僕は生涯後悔してしまう。
 呆然と立ち尽くす僕に痺れを切らして、司は肩眉を上げた。
「おい、ここはオレの名を呼んで飛びつくところだろう。そんなんでは他の観客に笑われてしまうぞ!」
「え……?」
 照明が客席に向く。振り返ればそこには――僕と司に縁のある人々が立っていた。
 司の妹の、咲希くん。その幼馴染の、『Leo/need』バンドメンバー。
 神山高校で僕達の後輩だった、東雲くんと青柳くん。そして先日挙式をあげた元風紀委員の白石くん。その可愛い奥さん。
 彼らの隣で可愛らしくピースしているのは瑞希だ。
 なぜ彼らがここに、と疑問を口にする前に、ステージから降りた司が僕の傍らに立った。馬鹿、と小さく罵られる。お前が来ないからオレが来るはめになってしまった、と。
「まったく。お前が素直に首を縦に振らんから、こんな大事になったんだぞ。あいつらは立会人だ。お前、のらりくらりと躱すのが上手いからな」
「さすが、よく知ってるねえ……。でも少し強引すぎやしないかい?」
「フフン。このオレが覚悟を決めたんだ。強引だろうがなんだろうが構うものか。後はお前だけだぞ? 類」
 司の手が僕の頬を滑る。ひとステージ終えたからだろうか。指先は熱を持っていた。
 思わずその手を掴んで。頬を寄せる。
……別れ話をされるかと思ったよ」
「何故だ? オレはお前を愛しているし、お前もオレを愛しているだろう。別れる理由が思いつかん」
「だって君……結婚とか、するつもりなかっただろう」
「まあ、それはそうだが」
 すい、と。司の視線が観客の方へ向く。彼の妹――咲希くんは。両手を組んで、祈るように僕達を見守ってくれていた。
 彼女だけじゃない。真剣に見つめる彼女達も、めんどくさそうにする彼らも、――ステージ上の彼女達も。ただの他人である僕達の幸せを本気で心配して、案じている。
「実際今も、……正直不安だ。オレはどうやら、普通の幸せのハードルが高いらしいからな」
「誰に言ってもらったんだい?」
「可愛いオレの後輩達だよ」
 俯いて。司は僕の――左手の指先を掬った。
「だがもうこの際だ。お前には、とことんオレのエゴに付き合ってもらおうと思う」
「エゴ?」
「決めたんだ。オレが、お前を幸せにする」
 司が衣装の襟元を緩めて、ネックレスチェーンを引っ張り出す。重なる二つの指輪は、つい先日にも目にしたそれ。そのうちの一つを外して、――僕の左手の薬指へと嵌める。
 その手は、少しだけ、震えていた。
「当たり前に結婚して、子供が出来て、穏やかな老後を過ごして――そういう、普通に得られるはずだった幸せを全部捨ててまで、お前はオレの手を取ったんだ。ならば、オレはきちんとその責任を取らなくちゃな」
 とん、と。司は僕の胸を叩いて、ステージの上へと戻っていく。僕だけの天馬司から、世界が愛する天馬司になってしまう。
 いかないで、と無意識に伸ばしかけた手。後目にそれを見て、司の白い歯が、赤い舌が、はは、と僕を笑った。
「見縊るなよ。オレは天馬司。お前の無茶振りにだって全て応えてきた男だ」
 そう。そうだ。彼は、この十年、一度も僕の演出を拒んだことはない。僕が望む演出を。僕が愛する演出を。彼以上に、知っている者はいない。
――天翔けるペガサスと書いて天馬! この名はお前にくれてやる! だからお前も寄越せ! 類!」
 ここで、飛びつかなかったら大嘘だ。
 勢いのまま地面を蹴って、檀上に飛び乗る。恥も体裁も一切関係ない。僕は君が欲しい。僕達のお星様。僕だけの太陽。
 ――十年間、僕は君だけを愛し続けてきたんだよ。
「類……
 手を伸ばす。司の細い腰を、抱き寄せる。
 柔い頬を撫でれば、司は琥珀の瞳を揺らがせた。鼻先が触れる。躊躇なんてひとつもしない。
 数日ぶりに触れた唇は、あたたかかった。
……誓うよ、司。僕は一生君だけを愛す。痛める時も健やかなる時も」
……おい。キスは誓いの後だろうが」
「順番なんてどうだっていい。君が欲しいんだ。ねえ、お願いだよ」
 司の首元に手を伸ばして。ネックレスチェーンから、残された指輪を抜き取る。
 ――ああ、まんまとやられてしまったな。
 演出は、僕の専売特許なのに。でも、僕は彼の言葉に心を動かされてしまった。
 オレとやるショーは楽しいぞ、だっけ。……あの時と一緒だね。
 司の手を取って、指輪を嵌める。互いの薬指を飾るそれが、照明に当たって輝いている。
「神代司に、なってくれるかい」
「お前のお願いはいい加減聞き飽きてしまったが。……ハーッハッハッハ! 当然だ! ……最高のハッピーエンドだな!」
「!」
 胸倉を掴まれたかと思えば、唇を塞がれた。一瞬で離れてしまったけど。
 司は顔を赤に染めながらも、にかりとお日様のような笑顔を振りまいて。観客席に向かって大きく手を振る。
「本当に……最高のハッピーエンドだ」
 号泣しているらしい咲希くんが頽れて、妹想いな司は慌ててステージを飛び降りた。彼女達と同級生だったえむくんももらい泣きしてしまって、それも一緒に慰めながら。喜びを噛み締めあっている。
 僕は静かに目を細めた。
 ああやって人の輪の中で輝く君を、僕が奪うことはできない。でも、君がそんな僕さえも見捨てず掬い上げてくれるというのなら――僕は世界一の幸せ者だ。
「類、泣いてるの?」
「寧々……恥ずかしいからあんまり見ないでくれるかな」
……いいじゃん。今日くらいは、素直になったら」
「おや。心外だな……僕はいつでも素直だよ」
 音もなく隣に立つ幼馴染は、随分と大人びて見える。僕の方が年上なのに、僕は君を導く立場でいないといけないはずなのに。いつの間に、大人になってしまったんだろうね。
 寧々は探るように僕を見上げて、にや、と口角を上げてみせた。
「どうせまだ司に渡せてなくて、つまんない意地張っちゃったんでしょ」
……寧々に隠し事はできないね」
 セカイに埋めた、僕達のタイムカプセル。ワンダーランズプロジェクトが軌道に乗って、事務所の方針もきちんと固まったら。全員で開けようと約束を交わしたあのオルゴールの中に、僕の十年前の秘密が隠されている。
 どうか、十年後の未来。司くんと結ばれていますように。
 そう願いを込めてしまいこんだ一対の指輪は、まだあの丘の下に眠ったままだ。
「いいんだ。ほとんど願掛けみたいなものだったし……それに、高校生の時に作ったものだしね」
「そんなの司が気にすると思う?」
「でも僕達は、大人になってしまったから。どの道新調はしないと」
 指のサイズだってちゃんと測らずに、気持ちばかりが先行して作ったただの自己満足の指輪だ。
 寧々の言う通り、僕は少し意地になってしまっていた。
 それに、これ以上の幸せを望むことに臆病になっていた。ひょっとしたら、高望みをしたら。神さまがそっぽを向いてしまって、僕から大切なものを奪っていくんじゃないかって。
 いつだって自分には逃げ道を作って、甘やかして――本当にダメだね。これからは司と一緒の道を歩むのだから、まっすぐ前を見据えないといけないのに。
「馬鹿な類。でも、……本当によかった……
「寧々……
「おめでとう。……幸せになって」
 なんて。僕以上に素直じゃない君が言うものだから。
……ありがとう」
 感情が。雫が溢れて――ぱたりとステージの上に落ちた。

  ◇◆◇

 とんとん。階段を登る音。ぱたぱた。スリッパの音だ。
 であるならば、あと五つも数えないうちに寝室のドアは開けられるだろう。五、四、三、二、
……類! お前〜〜……いつまで寝てるんだ! とっくに昼だぞ!」
「んんう……
「まったくお前は……、いったあああ⁉︎ なんだ⁉︎ なんか踏んだが!」
……司、うるさいよ……
「なんだと〜〜⁉︎」
 独り寝には広いベッドを贅沢に使って、僕はごろりと寝返りを打った。
 清楚なシャツと紺のスラックス。に、薄橙のエプロン。どこからか味噌汁のにおいが漂って、くう、とお腹が空腹を訴える。
 もう昼、と言われて枕元のスマートフォンを見れば、たしかに正午を回っている。とはいえ昨夜は作業にのめり込んでしまって――先にベッドで眠る司を起こさないように気をつけながら――ようやく就寝したのが明け方だったのだ。
 司が踏んだのはおそらく僕が寝ぼけながら作業場から持ってきた部品だろう。プラスチック製だから見事に割れてしまっている。まあ別に、いくらでも替えのきく部品なので問題はない。
 依然起きる気配のない僕に痺れを切らして、司はぷくりと頬を膨らませた。なあにその可愛い顔。朝から食べたくなっちゃうな。もう昼だけど。
「むう……そうかそうか! そっちがその気ならば仕方ない。お前、今日の夕飯は覚悟しておけよ。野菜責めにしてやるからな!」
「それはちょっと大人げなくないかい? ねえ、君もそう思うだろう?」
「みゃあ」
「猫を味方につけようとするんじゃない!」
 司の後をついてきていた子猫がベッドの上に乗る。足下を我が物顔で闊歩する命の温度に、僕は頬を緩めながらそっと手を伸ばした。
 ――司と結婚してもう何年目だろうか。
 最近二人で飼い始めた子猫は、僕の手のひらにすっぽり収まってしまうほどまだ小さい。指の腹で腹を撫でると、うにい、と甘えた声をあげて猫は喉を鳴らした。
 司は相当おかんむりのようだ。もう知らん! と一階のキッチンへ降りてしまった彼を見送って肩を竦める。
 ここ数日、司は海外へ飛んだり、僕も舞台演出に使えそうな装置の設計図を書いたりと忙しくしてて、今日は本当に久々に重なった貴重なオフだった。
 当然、昨晩は愛し合うつもりでいたのだけど。うっかり良い演出案が浮かんでしまって、僕は作業場の妖精と化した。こうなったら梃子でも動かないことをよく知る司は、仕方なしと先に寝てしまったのだ。
「やれやれ。これは早く行って機嫌を直してあげないとだね……
「にー」
「フフ。大丈夫さ。ちょっと不貞腐れてるだけだからね」
 司も僕に愛されたかったのだろう。ベッドサイドに用意されていたボトルと箱に、当然僕も気づいている。
 さあ、なんと言って彼のご機嫌をとろうか。このまま二人、ベッドで休日を貪るのもいいし、たまにはデートと洒落込んで映画を観に行くのもいい。リビングでショーの映像を観ながら、あれやこれやと議論を交わすのもきっと楽しいね。
「さてと。僕達も行こうか」
 失われた色彩は、再び、世界を鮮やかに彩っている。
 眩い空は雲ひとつもない。先を行く小さな足音を、スリッパを鳴らしながら追いかけて。

 誰もいなくなった寝室の、棚に飾られたオルゴール。
 不揃いの指輪を抱いた、青い男女の人形は――陽の光を浴びながら、いつまでも愉しげに笑っていた。