猫澤
Public
 

ネバーランドのセカイ



 スターになりたかった。
 子供の頃に家族で見に行ったショー。病弱で塞ぎがちだった妹も、オレも、一目で演者の織りなす魔法に釘付けになった。
 ひと際輝いていたのは、やはり主役のあの人だ。
 あの人みたいになりたい。
 オレも、誰かを、咲希を、みんなを。笑顔にさせる、そんなスターに。
 ――「観客が笑顔になって、そして、仲間も笑顔になれる!」
 ――「そんな最高のショーをやるのが、オレにとってのスターだ!」
 サーカステントの舞台から、オレは観客席に手を伸ばした。
 もうこれしか残っていなかった。オレの気持ちをまっすぐ伝えるには。
 伝われ。伝わってくれ。祈る思いで、オレは観客席を――たったひとりの観客を見つめる。
 どうしても欲しかった。一目惚れだった。我がワンダーランズ×ショウタイムに、この男は欠かせない存在だ。ううん、演出だけじゃない。神代類。お前が欲しい。楽しかったんだ、お前と一緒に作るショーは、あんなにも。
 オレも、お前と同じだ。ずっと独りでショーをしてきた。だから。
 ――「さて。それじゃあ、どんな演出をつけようか? 司くん」
 ぱっと顔を上げる。厳しい表情をしていた類は、一変して、困ったように笑っていた。
 思わず「類、」と名を呼んでしまう。まだショーの途中であるというのに。
 そんなオレを見て、類は小さく首を振った。
 ――「おやおや。間違えないでくれたまえ。僕は類じゃない」
 ――「錬金術師さ」

  ◇◆◇

――……?」
 鳥の囀りが聞こえる。
 虚ろに目を開いたオレは、すぐにうっと眉を寄せた。カーテンの隙間から漏れる日の光。眩しくて、逃げるように布団の中へ潜りこむ。
 随分と体が倦怠感を訴えている――さすがに疲れが溜まっているのか、このところベッドから出るのがなかなか億劫な毎日だ。
 久しぶりに、長い夢を見ていた。
 どこか既視感のある世界で、オレはショーをしていた。心が離れてしまった仲間を、類を呼び戻すため。再びワンダーランズ×ショウタイムで共にステージに立つために。
……
 緩慢な動きで寝返りを打つ。その拍子に、オレの腰を抱く何かに気が付いた。
 顔を上げて固まる。
 陰影をさす長い睫毛、薄く開いた唇。ささやかに、規則正しく上下する体。紫陽花色の髪――その顔をオレが見間違えるはずもない。
 ど、と心臓が飛び跳ねる。……全身から汗が噴き出るかと思った。
「おおわあ!? おっ、なっ、……なぜ類が……ハッ!」
 寝起きでぼんやりとしていた脳に、少しずつ昨晩の出来事が蘇ってくる。
 そう――そうだった。昨夜は類と二人で食事に出かけて、その足で類はオレの家に泊まったのだった。客室があるのだからそちらを使えと言っているのに、頑なに一緒のベッドがいいと駄々をこねて。
 二十七にもなって子供みたいに駄々をこねるな、と言いたいところだが、昨日はオレにも非があって、同衾を許した。我ながらいくつになっても類に甘くなってしまうところは健在で困る。
 というよりも。
 類に迫られて、感情がぐちゃぐちゃになってしまっていたのだ。
 昨夜の類は――気が触れていた。いや、焦っていたのだろうか。性急な手つきで触れられて、オレは類の中に眠る欲の片鱗を見た。
 うっすらと隈のある目元に触れる。あどけない、子供のような寝顔。昨夜の面影などまるでない。
 どうやら、類は未だにオレのことが好きらしい。物好きな男だ。そして諦めの悪さに恐れ入る。……オレは、その気持ちに応えられないのに。
 ……。それはそれとして。
……うぐぐぐ、なんだこれは抜け出せんぞ! おい類! 起きろ!」
 とにもかくにも朝っぱらからこんな至近距離で平静を保つのは一苦労だ。一刻もはやくベッドを抜け出してしまいたかったが、存外、類の腕ががっしりオレの腰に巻きついているせいでなかなか出ることが叶わない。
 ……なんかだんだん腕の力、強くなってきてないか?
 うごうごと身を捩らせるオレは傍から見たら大層滑稽だろう。最初は寝てる人間相手に……と控えめに触れていた手も、あまりに抜け出せないものだからがっしりと掴んで脱出を試みるが、それでも抜け出せない。それどころかどんどん密着してくる始末。
「どこから出るんだその馬鹿力! さてはお前起きているな⁉︎」
「くっ……フフ……
 くつくつと類の喉が鳴る音が耳元でした。
 吐息が触れて、形容し難い感覚を覚える。キッと睨みつければ、少しだけ、腰の拘束が緩んだ。
「おはよう、司。いい朝だねえ」
「オレは最悪な目覚めなんだが……
 寝起きだからだろうか。ベッドに体を預けたまま、類はふにゃりと頬を緩めている。陽光を受けて、青白い肌が陶器のようだ。
 オレは自然とそのゆるゆるの頬に手を伸ばして――ぐに。遠慮なく柔肌をつまみ上げた。
 いたい、と泣き言を言う類の腕をはたく。
「朝食、食べていくだろう? 作るから離してくれ」
「んー……でもまだ朝だよ」
「朝食とは朝に食べるものではないのか?」
 ベッドサイドのスマートフォンに手を伸ばす。午前八時。昨夜就寝した時間を考慮すれば妥当だが、規則正しい生活を極力心がけている身としては寝過ぎてしまった感が否めない。
 普段ならとっくに朝食を摂って――ないし、コーヒーを味わって――身支度を整えている頃だ。
 年末だが、今日はオレも類も今年最後の舞台稽古がある。ほら、と類の尻を叩けば、類はぎゅうっと顔のパーツを寄せてむずがった。子供か、お前は。
「稽古は午後からだろう? まだ惰眠を貪っていてもバチは当たらないと思うんだけど……
 たしかにバチは当たらないだろうが、早起きは三文の徳と言うだろうに。
 ため息をつく。昔から、一度駄々をこねはじめたらなかなか考えを曲げない男だった。ことショーに関して意見が衝突したときなどは、えむや寧々がオレに加勢してようやく大人しくなるほどだ。
 寧々達の前では大人ぶっているのが尚腹が立つ。それが類なりの、オレへの甘えだとしても。
 不意に。類の手がオレの体を撫でる。昨夜のことがフラッシュバックして、オレはじろりと類を見た。
……類」
「何もしないから」
 すり、と頬を寄せて、類が小さく零す。
「何もしない。君が許さないなら」
 頬擦りしてる時点で「何もしない」は通用しないのではないかと思いつつ。
 昨夜の――感情の読めない瞳に、視線に、心を貫かれるような。身の毛立つような鋭い眼光を向けられるくらいなら、甘えられる方が百倍ましだ。
 事実、類はまだ納得していないのだろう。昨夜はオレも類も冷静じゃなかった。だから、先に我に返った類が一歩引いてくれただけで。猫の正体を、類はまだ知らない。
 ……いっそ素直に打ち明けた方がいい気もしてくるが、十中八九、狂人扱いされるのがオチだ。この場に猫がいればまた説得力も違うのだろうが……
「そもそもだ。なんでそこまで、お前はオレにこだわるんだ?」
「『なんで』? おかしなことを聞くねえ」
 類が身じろぐ。シーツが擦れて、するりと音を立てた。
「一度想いを通わせてしまったら、もう孤独には戻れないから……かな」
 おそらく、オレは今スターにあるまじき変な顔をしていただろう。
「類。それは恋じゃない。執着だ」
「おや。フフ……それは面白い意見だね。では君にとっての恋とは何だろう」
 恋をしたことがないオレにそれを問うのは、あまりにも酷いのではないだろうか。
 長閑な朝だった。どこか遠くで鳥が鳴いている。冷え切った室内で、類が触れた箇所だけが熱をもつ。
「友情と恋の境界線を、君はどう考える?」
 類の指が。指先が――オレの頬をするりと撫でて離れていく。類の顔を見上げれば、類は少しだけ眉尻を下げて。こいつにしては珍しく、ぎこちない笑みを浮かべて見せた。
 これが、恋する男の表情だと言うのなら。
 あまりに切なそうで、こちらまで胸が苦しくなるような、締め付けられるような、そんな感覚を覚えてしまう。錯覚しそうになってしまう。
「僕はそれを――執着の差だと定義しているよ。だから僕は君に恋をしている」
……朝から重たい話だな」
「君が振ってきたんじゃないか」
 そう言って、へにゃりと類が相好を崩した。もうすっかりいつもの類だ。
「そんなことより、昨晩考えていたんだけど……
 体を起こして頬杖をつく。類は変わらず好き勝手オレの頬や髪に触れていたが、もう、咎める気は起きなかった。
 とろけた蜂蜜が細くなる。
「今日の稽古が終わったら、二人でセカイに行ってみないかい?」

  ◇◆◇

 ――年明けは撮影で忙しくなるんだろう? なら、気になることは今年の内に確認しておこうじゃないか。
 空にぽっかりと月が浮かんでいる。気温が低いからだろうか。今日は一段と星が綺麗だ。
 白い息がふわりと浮いて消えていくのを、オレはぼんやりと見送って。先を歩く類へと視線を移した。
 羽織るコートを翻して真っ直ぐに進む類の、垂れた髪が左右に揺れる。ゆらゆら、ゆらゆらと。やっぱり猫の尻尾みたいだな。なんて思ったりしつつ。オレはその背を追いかけた。
 類の足取りに迷いはない。けれど周囲は徐々に街灯が減り、薄暗い路地裏へと迷い込んでいく。
――うん。ここなら人通りも少ないし大丈夫かな」
 ようやく類が立ち止まった場所は、スクランブル交差点の程近く。ビルとビルの狭間にある細い道だった。
 すぐ一本通りを抜ければ大通りがあるので、なるほどたしかにわざわざこっちの道を通る人はいないだろう。
 少しだけ遠ざかる喧騒。一緒にいるのが類でなければ、少々身構えてしまうかもしれない。
「それじゃあ、セカイへ行こうか」
「ここからどうやって行くんだ? 抜け道があるのか?」
……本当に思い出せないのかい?」
 きょろきょろと周囲を見回していると、呆れ、いや落胆に近いため息が類の口から吐き出された。そんながっかりした顔で見つめられても、覚えていないものは覚えていないのだから困ってしまう。
「曲を再生するんだよ」
「曲? ……あっ!」
 類が顔の横で翳したスマートフォンを見てはっとする。
 そうだ。何故忘れていたのだろう、タイムカプセルと同じくらいに、オレは類に聞きたかったことがあったのに。
「類、お前に見てもらいたかったものがある」
「僕に? なんだい?」
 オレは音楽アプリを開いて類に見せた。
 これなんだが、と『Untitled』の曲名を指さすと、類は僅かに眉を寄せて、目を皿のように細くする。
「『Untitled』……
「いつの間にかオレのスマホに入ってたんだ。削除しようとしたんだが何度試しても消えなくてな……。お前ならどうにかできるんじゃないかと……類?」
……
 妙に重たい沈黙が漂う。類は何かを考えるような仕草でオレのスマホを暫く見つめたあと、おもむろに自分のスマホを覗き込んだ。
「あの曲が消えている……? ……! 僕のスマホもだ」
「あの曲ってなんだ?」
……司。この『Untitled』を再生したことは?」
「無いな」
「一度も?」
「無い。怖いだろう、高額請求とか来たらどうする」
……再生してみよう」
「は⁉︎ あっ、オイ!」
 いやいやいや。オレの話、聞いてたか?
 慌てて制止しようとその腕を掴んだが、類の方が一歩早かった。たし、と画面に触れた途端、周囲が閃光に包まれる。
「っまぶし……
 星々の輝く夜に似つかわしくない明るさが、周囲一帯を包み込む。思わず両腕で自分の身を守るようにして、オレは固く目を閉じた。
 閃光は一瞬だった。
 そろりと瞼を持ち上げる。周りに目を向けるが、別段、先ほどと変わっているところは見受けられない。どこまでも薄暗い路地裏だ。
――なんだ? 今の光は……
「曲を再生したのに世界が変わらない……? いや……
 いや。ちがう。
 違和感はある。人のざわめきが消えた。
 類は遠くを見つめている。何かを凝視しているようだった。つられてオレもその方向へ視線を向ければ、……何かがいる。何かはわからないが、影が蠢いている。
「おい。……嫌な予感がするんだが」
「奇遇だねえ。僕もだよ」
 不意に、足元がぐらりと揺れた。
 地を這うような低い地鳴りと、揺れ。同時に何かが爆発するみたいな――破壊音。ガラガラと崩壊の音がにじり寄る。
 あまり日常生活では体験しない轟音に、オレは咄嗟に隣に立つ類の袖を掴んだ。音の発生源を辿ろうとすれば、今度はまた別の場所が雷鳴のような轟きをあげる。
「どぅわっ⁉︎ 地響き⁉︎ 地震か!」
「! 司、上だ!」
「上? ……なっ……!」
 類の手がオレの肩を掴んで物陰へと引き寄せる。縺れながら、上と言われて空を見上げて。オレは言葉を失った。
 星空、ではなく。硝煙がくゆる空。そしてその中を、何か大きな影が泳いでいる。
 思わず注視した。鳥、のように見えるが、翼に羽がない。爬虫類、のような。いや、もしかしてあれは。映画とかで見たことがある。……恐竜か!?
 オレ達の真上を滑空していく鳥のような恐竜。その先に、これまた映画とかでよく見るような――数十階ほどのビルの高さに引けをとらない大きさの怪獣が街を闊歩していた。
 怪獣は大きな尾を振り上げてビルに打ち付けた。まるでバランスを崩したジェンガだ。がらがらとおもちゃのように呆気なく崩れるビルに、ぞわりと恐怖と悪寒が同時に駆け巡る。
「なん、……なんだこれは――⁉︎⁉︎⁉︎」
 悲鳴を上げてしまっても無理はないと思う。刹那、足元を黒く大きな影が横切る。暗闇の中でもわかる、そこに何か生き物がいる。オレと類の様子を窺うみたいに。さながら、漂流するボートの下を泳ぐ人食い鮫だ。
 空には恐竜。地上には怪獣。地中で蠢く黒い影。
 ……いや、SAN値チェック不可避なんだが⁉︎
「ここは危険だ。場所を変えよう」
「いいい意味がわからん! なんだ⁉︎ あれ⁉︎ 恐竜⁉︎ 怪獣⁉︎ お前よく冷静でいられるな⁉︎」
「あの空を飛んでいるのはおそらくケツァルコアトルスだねえ」
「ケツァ……なんだって⁉︎」
「古代の翼竜さ。神話の風の神ケツァルコアトルから名付けられていて、ちなみに古代生物ではあるけれど分類的には恐竜ではなくてね、」
「待て待て待て。その話長くなるか⁉︎ 今必要か⁉︎」
 とりあえず、暴れまわる怪獣とは逆の方向へと走り出す。
 類はどうやら冷静に状況を分析しているようで――いや、この状況で冷静でいられるのも大概意味がわからん。図太いにもほどがある。しかもなんでちょっと笑ってるんだ。少し、いや結構かなりドン引いた。
「うん。確信を持ったよ。ここは間違いなくセカイだ」
 路地裏を抜けて大通りに出ると、そこもまた大惨事だった。
 横転する自動車の山。折れ曲がった信号機。割れた地面。つい先ほど歩いてきたはずの道が、この一瞬で破壊されているのだ。
 さすがに。ここが、さっきまでオレ達のいた世界じゃないことはオレも理解した。
 都内であるにも関わらず、死傷者はおろか通行人のひとりもいない。一瞬脳裏を家族や仲間の顔が過ぎったが、文字通りここは現実とは別のセカイなのであればひとまずは安心だろうか。
 まったくもって信じがたいが。信じがたいものを実際に目にしてしまっているので、信じざるを得ない。
「なんなんだそのセカイっていうのは! ここ……神山だよな⁉︎」
「そう、そこが不思議なんだよね。僕が知ってるセカイはもっとこう、摩訶不思議なところでね? 間違ってもこんな世紀末みたいなところではなかったはずなんだけど」
 ――十分このセカイも摩訶不思議だが⁉︎
 怪物の咆哮が轟く。影が、オレ達を手招いている。廃墟と化したビル。硝煙で曇る空。
 オレは類の手を取って歩き出した。せめてもう少し落ち着いて話せるところへ移動したい。類は大人しくオレに手を引かれるまま、背後で依然暴れ回る怪獣を振り返る。
「このセカイも、君が創ったのかい?」
「わけがわからん! 突然オレを妙な世界の創造主にするな!」
「でも君は、一度セカイを創ってるだろう」
……オレが⁉︎」
 そんなの記憶にない。ない、はずだが。
 怪獣がまたビルをひとつ破壊する。その崩落音と共に、脳内にかかる靄のようなものが少しだけ晴れるような感覚を覚える。
 青い髪の、女の子。……の姿をした着ぐるみが、ひょこひょこと奇妙な動きでおどけている。
 ――「ようこそ! ここは、キミの想いのセカイダヨー!」
 ――「キミの想いのセカイ……? 何言ってるんだ?」
 そうだ。あの着ぐるみは確かにオレにそう言った。名もない遊園地の片隅で。
「セカイ……オレの想いのセカイ……?」
 立ち止まったオレの頭上で、がしゃん、と何かが外れる音がする。
「司、危ない」
「うおっ……
 ――類の手が。オレの体を抱き寄せて。
 よろけたオレのすぐ後ろで、ビルの看板が落ちた。不自然に折れ曲がったそれを見てぞっとする。もしもあれが直撃していたら、オレは無事では済まなかっただろう。
「す、すまん。助かった……
「礼には及ばないよ。君に怪我がなくて何よりだ」
 肩を抱く類の手に力がこもる。
 こんな状況だというのに、全身に感じる類のぬくもりに――オレはかなり、安堵してしまっていた。
 指先が迷う。類を抱き返してもいいのだろうか。オレが。
 こんな時ですら、それが親友として適切な距離感か悩んでしまう自分が恨めしい。例えばオレがえむだったなら、きっと迷わず抱きついていたに違いないのに。
――ああ、来てしまったんだね、司くん」
「!」
 少し離れたところから声がして、ぱっと顔を上げる。
 類越しにその姿を視認したオレは瞬いた。
 ゆるい私服のパーカーに袖を通した、十年前の類。
 ――猫が、そこに立っていたのだ。
「おや……君は、うっ」
「あ――――――‼︎ 類! お前! 類だな⁉︎ 今までどこに行ってたんだ!」
「フフフ。司くん……そっちの類くん、顎を押さえてるけど大丈夫かい?」
「ん? ……類? どうした、大丈夫か?」
「ああ、気にしないでくれ……いや、君の石頭には恐れ入るよ……
 振り返ると顎を押さえて蹲る類がいた。
 類は首を傾げるオレを少し物言いたげに見つめて。ゆっくり立ち上がり、猫へと視線を戻す。
「君は昔の僕……のように見えるけれど、このセカイの住人かい?」
「うんうん、さすがは類くん。察しがいいねえ。その通り、僕はこのセカイの住人――司くんの想いの一部さ」
「セカイの住人……? お前、やっぱり……十年前の類じゃないのか……?」
……
 猫はそれには答えず、代わりに笑みを深くした。
 なんとなく、おかしいとは思っていた。クリスマスのあの夜。姿を消す前のこいつは、オレの記憶について何か知っているようだったのだ。
 それ以外にも不自然なところはいくつかあった。類のくせに、妙に綺麗に片付けられた客室。消えたロボット。まるでオレの家に類の痕跡を残らないようにしているみたいな――
 ……いや。ちがうな。
 最初からオレの家に、猫はいなかったということか?
……
「聞きたいことがたくさんあるって顔だね、司くん?」
「当たり前だ! こうなったら洗いざらい話してもらわんと気が済まん!」
「洗いざらい、か……
 猫は気まぐれに空を見上げて、ふむ、と顎に手を当てた。
 怪獣の足音が轟く。翼竜が呼応するように、甲高く鳴き声をあげる。
 ふたつの金の瞳が、月の光を吸って淡く発光していた。
「それなら、僕と追いかけっこをしようじゃないか。君が僕に追い付けたら、君の知りたいこと全てを話してあげる。――僕を捕まえてごらんよ、司くん」

  ◇◆◇

 ――オレは走った。全速力で走った。
 何故なら、得体の知れないロボットに追いかけられていたので。
『侵入者発見、侵入者発見』
「のわあああああッ!」
 いや、本当に何がどうしてこうなった!?
 突如始まった猫の類との鬼ごっこ。最初こそ素直に猫を追いかけていたつもりだったが、いつの間にかどこからか現れたペンギン型のロボットに背後をとられてこのザマだ。
 こんなに全力で走ったのは……学生時代、類の怪しげな実験に巻き込まれそうになって逃げだした時以来だろうか。いや、トップスピードははじめてのハロウィンショーで類の作ったゾンビロボットに追いかけられていた時の方が出ていたかもしれない……どっちにしても類が関わってるのは何なんだ! いい加減にしろ!
「くっ……次から次へとしゃらくさい……!」
「司、こっちだ」
 ぐるぐると頭を回転させ、目を赤く光らせるペンギンロボットの視界から逃れるように――類はオレを路地裏へと引っ張りこんだ。そのまま少し古びたアパートの階段をごんごんと上っていく。足がローラーで出来ているロボットは、階段をうまく上れないようだった。
「ナイスだ、類!」
「それほどでも。でもあまりのんびりはしてられないね」
「あっ! あいつ、もうあんなところに……!」
 ペンギンに気を取られているうちに、猫とは随分と距離を離されてしまった。だが焦って飛び降りたところでまたロボットに追いかけられるのが目に見えている。
 一か八か。
 オレは一度類に目配せをした。ここはアパートの二階。すぐ隣の棟の屋根ならば飛び移ることが可能だろうか。そのまま屋根を伝っていけば、ショートカットは十分見込める。
 類もオレの視線を受けて、暫しの逡巡の後に両手を組んで下ろした。助走をつけてその手のひらに片足を掛ける。類が大きく腕を振り上げた反動で、オレは屋根へと無事飛び移った。
 どこかの誰かさんの無茶苦茶な演出に慣れてるおかげで、この程度のアクションなら余裕だ。類も長身を活かして手摺りから跳ぶ。
 手を伸ばして。……よし、掴んだ!
「なかなかやるな。かっこいいじゃないか、類!」
「やむを得ない状況とはいえ、命綱なしにこれは結構心臓に堪えるね……
「お互い怪我がなくて何よりだな」
「本当に。あまり無茶はしないでくれ」
 屋根から屋根を飛び移る。途中の、怪獣が破壊したであろう瓦礫から地上に下りれば、予想通り猫との距離はだいぶ縮まった。が、等倍――どころか猫の方が少し足が速いのか、こちらがいくら必死に足を動かしてもなかなか捕まらない。
 ぐぬう。悔しさに奥歯を噛む。
「なんっ、あいつっ! 足が速い! くそお!」
「息も絶え絶えだねえ。運動不足かい?」
「お前――! 同じ類だろうが! なんで追いつけないんだもっと全力で走れ!」
「心外だなあ〜、ちゃんと全力で走ってるよ」
「せめて息が切れてる演技をしろ演出家ッ!」
 わかっている。類はオレを置いていけないのだろう。空は翼竜が、街は怪獣とロボットが。そして影に潜む巨大な生き物が、オレと類を排除しようとしている。オレだって類をひとりにしたくない。
 ああもう――なんでこんなことになってるんだ、それも年の瀬に。今年一番のびっくりを何も年末に凝縮しなくてもいいだろうに。まるで本当にSFの世界に迷い込んだみたいな気分だ。
 息があがって呼吸がしづらい。なんとか気力で脚を動かしてはみるものの、度重なる地割れで舗装の崩れた道は普通に走るよりも体力を削ってくる。
 もう無理だ。走れん。膝に手をついて項垂れていると、一緒に立ち止まった類がオレの肩に手を置いて猫を指さした。 
……うーん。どうやら、彼は僕達を案内してくれているみたいだね」
「はああ? 案内? どこにだ……
 猫は少し離れたところからじっとこちらの様子を窺っている。来ないのかい、とでも言いたげに。
「くそ……足元見られてるな……
「まあまあ。待ってくれるなら、休憩を挟みつつゆっくり追いかけよう。僕達ももう若くはないしね?」
「まだ二十代だ! 今から老け込んでどうする!」
「フフッ……いやあ、若い僕を見てるとついね」
 息を整えるがてら、改めて周囲を見る。
 オレ達は最初にいたスクランブル交差点から随分と東の方へ走っていたようだ。右手に学生時代よく行ったCDショップが見える。
 立橋は崩落し道を塞いでいたが、下道はかろうじて無事だった。だが先程のようにショートカットをして距離を詰めることはなかなか難しそうだ。
 類はこんなときも、楽しそうに笑っていた。生来理屈で説明出来ないものとか、不可解なものに目がない男だ。
「さて。それで、君は彼のことを知っているようだけど……まずはちゃんと一から僕に説明してくれないか?」
「待て……話を進めるな……せめて息を整えさせろ……
「運動不足かい?」
「ええいうるさいな! さっきも聞いたわ!」
 ぜいはあと肺に冷たい空気を流し込む。澄み渡っていく。
 現役舞台俳優を舐めないでほしい。体力づくりだって手は抜いてないのだ。
 体を起こして立ち上がる。――天馬司、復活だ。
「長話にしても仕方がないから簡潔に言う。あいつが、猫のポチだ」
「人間に見えるけど」
「言っとくが最初に猫とでも思えばいいって言ったのお前だからな!?」
「それは僕じゃなくて、向こうの『僕』だね。こんがらがってるなあ……
 だが本当に、そうとしか言いようがないのだ。
 まさかこんな形で現代の類と対面することになるとは思わなかったが。論より証拠。百聞は一見に如かずだ。実際に過去の類の姿をしたあいつがいるのだから、類だって信じるほかないだろう。
「十日ほど前……だったか。あいつが、オレのマンションの下にいたんだ」
……現実世界の?」
「他に何がある。ああ、セカイか? 言っておくがオレがこのとんちきなセカイに来たのは今が初めてだぞ……
……ふむ。……うん、どうぞ、話を続けて」
 先を促す類に頷く。
「あいつは、何やら実験をしていたら過去から未来に飛んできてしまった、帰る手段がないから居座らせてくれと頼んできた。実際追い出すような理由もなかったしな……まあ、しばらく家に置いておくことにした」
「なるほど、そこで『猫のポチ』が誕生したわけだね」
「そういうことだ」
「だんだん僕の方も辻褄が合ってきたよ。つまり僕は、自分――いや、厳密に言うと違うんだけど、僕の姿をした彼に嫉妬していたわけだ」
「む? 嫉妬?」
……司に虫がついてるなあって……
……。あっ⁉︎ お前、この前の虫ってまさかそういうことか⁉︎ おい目を逸らすな!」
 いつだかの稽古で。オレに虫がついていると類は言ったが、この季節に虫なんて変だとは思ったのだ。
 もしや類はあの頃から猫が猫ではないことに気づいていたのだろうか。……妙なところで観察眼が鋭いやつだから、ありえる。
「本当に、ここ数日は生きた心地がしなかったよ」
「昨晩のこと、オレはしばらく根に持つつもりでいるからな」
「おや、それはそれで都合がいいね。是非とも僕のことで君の頭をいっぱいにしてくれ」
「勘弁しろ……そうじゃなくてもここ何日かは寝ても覚めてもお前のことばっかりなんだ」
 本当に。もうずっと、類のことばかりを考えている。
 猫の類はこのセカイの住人だと言うが、オレにはやっぱり過去の――高校生の類に見えるのだ。外見だけじゃなく、中身の部分も。
 類が二人いるようなものだ。一人でも手が掛かるのに、二人なんて手に負えるはずがない。
 オレ達が十分に休んだのを確認して、猫は再び走り出した。見失わないよう、オレと類もその背を追いかける。
 時折休憩を挟みつつ猫を追い続けると、徐々に景色は見覚えのある場所へと変わっていった。
 思わず類を見た。
 何度も通った入場口。瓦礫が門の先を塞いでいるが、生垣の裏の抜け道がまだ生きている。
「ここは……
「フェニックスワンダーランドだね」
……ぐっちゃぐちゃだな……
 まるで廃れた遊園地だ。
 いくつかゴンドラの落ちた観覧車。レールが途中で折れたジェットコースター。傾くコーヒーカップ。ワゴンが倒れ、商品が散らばる売店。
 足下に転がるフェニーのマスコットを拾いながら、その酷い有様に眉を顰める。
「世紀末ってこんな感じなのかもしれないね……。人類が滅亡した世界、生き残ったのは僕と君の二人だけ……。うん、面白い脚本が書けそうだ」
「こんな時もショーのことか、お前は」
「こんな時だからこそだろう? それに、僕はいつだってショーと君のことしか考えてないよ」
……お前にショーとオレを同列に扱われるとなんだかこそばゆいな」
 マスコットをワゴンへと戻しながら、オレ達は自然と生垣の奥へと足を向けた。
 四人と、着ぐるみと。力を合わせて舗装した、ステージへの道。その先の思い出の場所。客席はいくつも倒れ、類がかつて作った4DX用の機材も壊れてしまっていたが。
 ――ワンダーステージ自体は記憶と変わらぬ姿のまま、そこに佇んでいた。
……よかった」
「そうだね……この場所まで破壊されていたらと思うとぞっとしないよ。それも時間の問題だけど……ん?」
「なんだ? なんかいるな……
 よく目を凝らすと、ワンダーステージの舞台上で何かが跳ねている。
 小さくてよく見えないがあれは――ピンクと黄色のフェニー?
『あたしは魔王様のドラゴンのお世話係・エムム! 王子なんて、ぺっちゃんこにしちゃうぞ〜!』
『くっ! あんな巨大なドラゴン、どう倒せばいい⁉︎』
 ステージ横のスピーカーから聞き慣れた声が流れ出した。それに随分と覚えのある台詞だ。
 オレの。そしてオレ達の初めての舞台。これは。
……ツカサリオン?」
「あのぴょこぴょこステージで跳ねてるマスコット、見覚えがあるねえ……
……たしかえむがタイムカプセルに入れたやつだ。あいつら……ツカサリオンを演じてるのか」
 散々怪物やらロボットに追いかけ回された後だと、マスコットがステージで芝居をしてるくらいじゃ驚きも起きないな……
 ステージでは後から緑と紫のマスコットも合流して、ぴょんぴょんと飽きもせず跳び回っている。
 フェニーのマスコット。よくよく思い返してみれば、寧々がタイムカプセルに入れた台本は、ツカサリオンではなかったか。
「そうだ……タイムカプセル! セカイにあるんだろう? どこにあるんだ?」
「さあ?」
「さあ⁉︎」
「セカイが違うんだよ。僕もこのセカイには今日初めて訪れたんだ」
「そんなにいくつもセカイはあるものなのか……?」
「少なくとも、僕はもうひとつ違うセカイを知っている。だけど……
 類はそこで不自然に言葉を区切って、ワンダーステージの入り口を見た。
 猫はじっとこちらを見ている。いつの間に着替えたのだろう。彼はかつてワンダーランズ×ショウタイムで類が着ていた衣装を身に纏っていた。
 ヴィランモチーフの、類によく似合うあの衣装だ。
「このセカイにタイムカプセルはないかもしれないね」
 零れ落ちた類の言葉に、その顔を見上げる。
 類はじっと猫を見つめていた。類の言う、別のセカイのことはわからない。それにオレは、きっと何か大切なものをどこかへ落としてしまっている。それはこのセカイにあるのかもしれないし、ないのかもしれないが。
「かもしれない、ってことは、ある可能性もまだあるんだろう?」
……司。でもそれは……
「可能性があるなら掴むまでだ! 幸い、オレ達には夢先案内人がいる」
 オレの声が聞こえたのだろうか。十年前の姿をした類は、満足気に笑みを浮かべて踵を返した。走り出した猫を追いかけるために、オレ自身も地面を蹴る。
「追いかけるぞ、類! あいつの口から全部吐かせてやる」
――。フフ、主役らしからぬ悪い顔だねえ。……お供するよ、座長さん」
「ハーッハッハッハ! 俄然やる気が出てきたな!」
 怪獣の咆哮が聞こえる。物哀しい、悲痛な声だ。構うものか。目の前にぶら下がった餌に飛びつく度胸もなくて、舞台の主役は務まらない。
 そんなオレを見て。背後で小さく、類が笑う気配がした。

  ◇◆◇

 少しだけ、僕と彼の話をしよう。
 天馬司は、既にスターである。……本人はそれを認めようとしないけど。
 地中に隠された原石は掘り出され、磨かれ、見事その輝きを自分のものにした。彼の活躍は舞台俳優にとどまらず、映画、ドラマ、バラエティ番組、ありとあらゆるメディアに起用され、今やこの国で「天馬司」の名を知らずとも、彼の顔を見たことがない者はほとんどいないと断言できる。
 彼から笑顔や勇気をもらった人間は、おそらく彼が想定しているよりもずっと多い。天馬司はもう十分に、国民的スターである。
 それでも彼が頑なにそれを認めない理由を考えていた。
 ――僕は、司に恋をしている。
 いつから、なんて野暮なことは聞かないでほしい。残念ながら一目惚れなんて運命的な恋の落ち方はしていない。なんだか僕の周囲にはいないタイプの、面白い人間だなと、初めて出会ったときの感想なんてそんなものだ。
 彼はスターになりたいから手を貸せと僕に言った。その話に、僕も便乗する形で乗った。ただの利害の一致だった。
 どうやら僕が考えるショーの演出は過激で、危険らしいので。どうせ彼もすぐに離れていくと思っていたのだ。
 今となって思えば。本当にそれで離れていってくれたならどんなに良かっただろう。
 彼と出会わなければ。僕は他人と交わる幸福を知らないまま、人生をのうのうと生きていたに違いない。孤独しか知らない孤独な人間は、寂しさにどこまでも無頓着だ。
 けれど僕は結果的に、天馬司という原石に惹かれてしまった。日に日に輝きを増す彼に、目を焼かれてしまった。蝋の翼が溶け、地に落とされて。未だに僕は地面を這いずっている。
 僕と彼が、一度だけ犯した過ち。
 司の罪が、僕の人生を狂わせたことだとすれば、僕の罪は司に呪いをかけたことだ。
 縋る僕を彼は突き放せない。それだけが、僕の人生の希望だった。
 これが、こんな暗く重たい執着が恋だというのなら、神様はなんて意地悪なのだろうね。
 遠い日にした約束なんて、とうに時効だろうに。それでも僕はまだそれに縋っている。たとえ関係に進展がなくてもいい。君の隣にいられればそれだけで満足だった。
 だけど。君に見知らぬ影が近づくのを、僕は思っていたよりも許せないみたいだ。
 ――苦しい。
 ――苦しいな。息ができないよ。
 こんなに苦くてつらい思いをするくらいなら。僕は君に出会いたくなかったよ。君に、恋なんてしたくなかった。
 僕のものになってくれないのなら、この想いごと壊れてしまえばいいと。
 愚かにも、そう、願ってしまったんだ。
 空に輝く、あの一番星に。

  ◇◆◇

――やあ。お疲れさま」
 猫の尻尾を掴んだ。いや、厳密にいうと腕だ。とにかくオレは、猫の類を捕まえてみせた。
 金の瞳は柔らかくオレを見下ろして弧を描いた。肩で息をしながら、オレも不敵に口の端を上げる。
 無我夢中で追いかけていたから、今になってようやく気がついたが――フェニックスワンダーランドから今度はかなり西へと駆け抜けて、神山高校の中庭まで迷い込んでいたようだ。懐かしい風景が広がっている。
 オレに腕を掴まれた猫は体を反転させ、にこりと微笑みを浮かべた。
 ショーの衣装を纏っていた類は、いつの間にか神山高校の制服姿へと装いを変えていた。グレーのカーディガンに桃色のシャツ。耳朶を飾るターコイズが怪しく光る。
「ぜえ、ぜえ……やっと追いついたぞ、類!」
 いやしかし。さすがに。息がつらい。
 膝を折って手をつきながら、必死に整わない呼吸を落ち着かせる。ばくばくと鼓動を主張する心臓を押さえ込んで、オレは息巻いた。
「さあ! 知ってること全て話してもらおうか!」
「フフ……もちろんさ! でもその前に、僕からも質問させてほしい」
 質問? とオレが眉を顰めると、猫は大したことじゃないんだけどね、とにこやかに前置いた。
 自論だが、類の「大したことない」は大したことの前触れだった験ししかないので、少し身構えてしまう。
「このセカイは崩壊の時を迎えようとしている。何故だかわかるかい?」
……? いや、まったくわからんな」
「君に関わることだよ、司くん」
 猫が裂けた空を見上げる。街のどこかで、怪獣が尾を振り上げている。口から炎でも吐き出したら一瞬で街に火の海が広がりそうだ。今のところその兆しはないけれど、十分それをしそうな風体ではある。
 オレの後ろで静観していた類が、ふと口を開いた。
「セカイは、想いで出来ている。その想いを思い出したとき、『Untitled』は歌になる――
「そう、それがこのセカイの仕組みだ」
「想い……
 このセカイが何らかの想いから生まれたというのなら、崩壊の理由は明白だ。
「つまり、オレには忘れてしまった想いがあって……
「そうとも。そしてその想いは今……捨て去られようとしている」
「捨て去る? オレが? ……その想いが何なのかもわからないのにか?」
……
 猫はそこで初めてオレではなく、後ろにいる類を見た。
 二つの視線が交差する。……先に目を逸らしたのは大人になった方の類だった。
……ああ、そういうことか」
「類?」
 どこか自嘲するような。諦観しているような。そんな顔をしながら、類が目を伏せる。
「それなら――僕が思うに、このセカイには足りないものがあるね。行こうか」
「お、おい……行くってどこにだ」
「僕と君、二人の思い出の場所だよ」
 類がオレの手を引く。せっかく捕まえた猫から手を放していいものか悩んでいると、猫は「もう逃げないから大丈夫だよ」と優しくオレの手を解いた。
 類の足取りに迷いはなく、躊躇も見せずに校舎の中へと足を踏み入れていく。
 ――神山高校を訪れたのは何年ぶりだろう。卒業後、彰人と冬弥と寧々の様子を見に神高文化祭を訪ねたきりだから――八年、か。
 校舎の中は記憶と寸分違わない。昔のままだ。下駄箱も、廊下も、教室も、階段も。
 手を引かれるまま、階段を上へ上へと上がっていく。やがて辿り着いた屋上の扉を開けると、視界一面に割れた夜空が広がった。
 けれどそれよりも、オレの視線を釘付けにしたのは。
……オレがいる」
 オレの。天馬司の姿をしたそれは、屋上のフェンスに凭れ掛かりながら眠っていた。穏やかな表情で、何かを守るように抱きしめながら。
「あれは多分――僕の想いだ」
 一歩、類が歩を進める。それに倣って、オレも眠るオレ自身へと近づく。
 眠るオレは、十年前の――学生時代の姿をしていた。
 咲希と揃いの黄色のカーディガン。きっちりと結んだネクタイ。紺のスラックス。
 不思議な気分だ。鏡越しではない自分をこうしてまじまじと眺めるのは。
 類が猫を振り返る。
「そして君は、司の想いが生んだ僕」
「その通り。ここは司くんと、……類くんの想いのセカイだからね」
 ――オレと、……類の想いが生んだセカイ?
「なるほどさっぱりわからん……どういうことだ?」
「僕も未練があるということさ。君と同じ想いの、未練が」
 そう言って、類はおもむろに眠るオレへ手を伸ばした。
 守るように抱きしめていても、所詮は眠ったオレだ。腕の中のそれをあっさり取り上げて、類はオレに手渡した。
 見覚えのある箱。背中の発条。――オルゴール。
「! タイムカプセル……!」
「開けてごらん」
……いいのか?」
「その為に、僕達はここへ来たんじゃないか」
 そう。……その通りだ。
 箱を持ち直す。オレは躊躇を重ねて、迷いながら、ゆっくりとその蓋を開けた。
 ――刹那。
 音楽が、聞こえてきた気がした。
 オルゴールの、雨粒のような音色の奥で。それよりももっと華やかで、晴れやかで、オレはこのメロディを覚えている。何度も耳にしている。
 空を舞う風船。宙に浮くメリーゴーランド。喋るぬいぐるみ。自由自在に駆け抜ける、ジェットコースター。鮮やかな光景が目の裏に浮かんでは消えていく。
『ハロー、えぶりわ〜ん! ミクだよ〜!』
「っ」
 声が。
 抜けていた最後のパズルのピースを埋めていく。
 胸が詰まりそうになる。とめどなくどこかから湧き出て溢れる感情が、記憶が。水滴となって決壊する。
 オルゴールの中では、青い髪の男女の人形がくるくるとダンスをするように回っていた。発条が切れるまで。くるくる、くるくると。
 彼らの名前を、知っている。
「ミク……カイト……
 ああ。
 そうだ。ミク。カイト。オレの想いを気づかせてくれた人達。
 オレは音もなくその場に頽れた。
 ぱたぱたと、その拍子にコンクリートの地面に染みが浮かぶ。オレの手の中で、ミクとカイトが滲んでいく。
 ずっと、――ずっとオレが探していた色だ。
 そして同時に。ずっと、オレが捨て去りたかった色でもあった。
「司……
 項垂れるオレの肩に、類の手が触れる。
 思い出してしまった。全部。セカイと、オレが抱えていた想いごと、全てだ。
……
 ――ゆっくりと、蓋を閉じて。
「司!」「司くん!」
「離せ類……っ! こんなもの……!」
 屋上から投げ捨てようと振りかぶるオレを、二人の類が止める。
 涙の止め方がわからない。喉の奥が熱い。かぶりを振れば、涙はぼたぼたと落ちていく。いっそのこと、この感情ごと涙に溶け込んで――オレの体から消してしまえたらどんなに良いか。
 想いを捨てて、セカイが崩壊するというのなら。
 消えてしまえばいい。怪獣がいっそう激しく咆哮する。空に新たな亀裂が入る。ビルや建物が爆発する。地面からマグマが噴き出し、火柱があがる。
「司くん。ダメだ。その想いは――捨てちゃダメなものだよ」
 十年前の類の姿をした何かが、オレに囁く。
「っ」
……司!」
 オレは二人の手を振り払って。――脇目も振らず、駆け出した。

  ◇◆◇

 オレは、神代類が好きだった。
 これまで一に家族、二にショーを愛していたオレにとって、類に恋に落ちたことはまさに青天の霹靂、言ってしまえばめくるめくスター人生の大変な番狂わせであった。
 感情が表に出やすいオレは、多分、それはもうわかりやすく態度が変わっていたことと思う。
 類を見るとそれだけで気分が高揚して饒舌になってしまう。類に会えない日はなんだか落ち込んでしまう。声を聞けば安堵するし、視線が合うとどうしようもなく心臓がざわついた。
 周囲の人間だって気づいていたことだろう。初めての恋に浮かれるオレは、類への好意が駄々洩れだった。もしかすると類自身も気が付いていたかもしれない。それでもよかった。都合がいいとすら思えた。
 世界はオレを中心に回っている。
 けれど。卒業を間近に控えたある日。オレは気が付いてしまった。
 ふと、オレと類が結ばれたらどうなるだろうと考えて。オレは、オレのエゴに類を巻き込む覚悟があるのかと。幸せな家庭を築けるのだろうかと。果たしてそれは、スター人生と両立できるものなのかと――疑問を抱いた。
 あんなにも燃え盛っていた感情が、冷水を浴びたように鎮まっていく。
 どうか笑ってくれ。まだ付き合ってすらいないのに、オレは本気でオレと類の未来を案じてしまった。好きという感情だけでその手を取るには、あまりにも自分自身が未熟だと気づいてしまったのだ。
 オレは、神代類が好きだ。
 好きだからこそ。手放さなきゃいけないものもあるのだと知った。
 ちょうど、同性婚が法律で認められる運びになったと、朝のニュースで世間を賑わせていた日のことだった。


――タイムカプセル?」
……ってなあに?」
 通い慣れたサーカステントの舞台袖で、バーチャルシンガーのカイトとミクはオルゴールの箱を覗きながら同時に首を傾げた。
 卒業式は目前。間もなく我がワンダーランズ×ショウタイムは解散する。
 今後、オレは役者の道へ。類は演出の道へ。えむと寧々にもそれぞれの道がある。互いの道は交差すれど、重なる未来はまだ遠い。人生とはそういうものだ。
 その中で、これは――タイムカプセルは、オレ達が共に青春を駆け抜けた証だと言えた。みんなで思い出の品を箱に詰めて、将来、一緒に開けて笑い合うための。
 輝かしい未来を過ごすであろうオレ達を飾る、最後の演出である。
 ミクはぱっと表情を明るくさせて、きらきらとした視線をオルゴールに向けた。
「へ~、それじゃあこの箱には司くん達の想いが詰まってるんだね! すご~い! セカイみたい!」
「司くんはタイムカプセルに何を入れたんだい?」
「オレは……
 オルゴールの中には、既に類とえむ、寧々の思い出がしまってある。オレは、最後まで逡巡していた。何を入れるか、迷いに迷って、ようやくひとつの答えを出した。
「恋心を、しまうことにした」
「えっ」
 ミクとカイトの声が重なる。
「司くん、それって……
「スターになるオレには、必要のない感情だからな! それに、その方があいつにとっても都合がいいはずだ」
……
「司くんは、それでいいのかい?」
……心は決めてきた」
 眉を寄せたカイトに、オレは口角を上げてみせた。
 この二年間、ずっとステージの経験を積んできた。カイトにもよく演技指導をしてもらった。その成果が今、上手に発揮されていることを願う。
 類に。一喜一憂して、恋焦がれるような心は要らない。
 唇に触れた類の熱を思い出す。あの日、あの時、あの瞬間だけでも、類がオレと同じ気持ちであったのなら。それだけで十分だ。十分、オレの恋は報われた。昇華された。
 これから先の未来は。親友として、類の幸せを願っていたい。
「ミク。カイト。どうか力を貸してくれないだろうか」
「でも……司くん……
――わかった」
「っ、カイト」
 カイトの言葉に、ぱっと顔を上げる。眉尻を下げて戸惑うミクを制して、カイトは正真正銘、完璧な微笑みを携えて。オレに手を差し出した。
「でも僕達に出来るのはお手伝いだけだよ。君の想いを、僕達が預かっておくだけ。それでもいいかな」
「構わない。……ありがとう。恩に着る」
……司くん」
 差し出されたカイトの手を取る。固く握りしめて、手袋越しにも伝わる体温に涙が出そうになった。
 きっとオレは、彼らにとても酷いことを頼んでいる。自分本位な感情を押しつけている。
 それでもカイトは笑っていた。この舞台を締め括る座長として。
「君は、誰かを大切に出来る子だ。君の本当の想いを、どうか忘れないでほしい」
……っ」
 頬を、熱いものが伝った瞬間。セカイに眩い光が走った。
 ……気が付けば、オレは現実世界に立っていた。
 ミクとカイトと。セカイをオルゴールに封じたオレは、その瞬間から徐々にセカイの記憶が薄れていくのを感じた。卒業する頃には、彼らのことさえ思い出せなくなってしまっているかもしれない。
 胸が、張り裂けそうだった。
 だんだんと、どうして自分が泣いているのかもわからなくなって。それでも、オレは――いつか必ずスターになって、観客もキャストも、一人残らず笑顔にしてみせようと。
 この気持ちだけは絶対に忘れずに生きていきたいと、強く願ったんだ。
 たとえこの身を削ってでも。

  ◇◆◇

 脱兎のごとく逃げ出した司の後ろ姿を見送って、僕はため息を零した。
「さっきまであんなに息を切らしてたのに……まだ全然走れるじゃないか」
「フフフ、彼は本当に、火事場に強いねえ」
「あまり悠長なことを言っている暇はなさそうだ。……追いかけよう。君もついてきてくれるかい?」
「もちろんだよ」
 十年前の僕の姿をした彼――便宜上、ポチとでも呼ぼうか。ポチはひとつ頷いて、僕とともに駆け出した。
 それにしたって不思議な気分だ。見れば見るほど姿かたちは昔の僕で――仕草も挙動も癖も僕のそれだ。司が彼を「タイムスリップしてきた僕」と勘違いするのもわかる。
「ひとつだけ質問をしてもいいかな」
「どうぞ」
 上ってきた階段を段飛ばしで駆け下りながら、僕は心に引っ掛かっていた疑問を口にした。
……司は、君とマンション下で出会ったって言っていた。それに彼の口ぶりだと君達は数日間一緒に暮らしていたようだ……。セカイの住人である君が、一体どうやって現実世界に?」
「ああ……簡単だよ。僕が現実世界に行ったんじゃない。司くんをこちらのセカイに呼んでいたんだ」
 たとえば、司くんが泥酔していたあの日も。
 言われて、数日前にワンダーランズ×ショウタイムでした忘年会を思い出す。
 あの日、司はかなり酔っていた。タクシーに詰め込んで見送ったはいいものの、結局マンション前に着いたところで動けなくなり、予め運転手に渡しておいたメモから僕の元へ連絡が入ったのだ。
 寧々達を送り届けてすぐに僕は司のマンションへ向かった。そして司を自宅まで引き摺って、ぐずる彼をベッドに寝かせた。
 そう。この時、僕は既に一度彼の部屋に足を踏み入れている。
 猫を飼い始めたという司の話に違和感を持ち始めたのはこの時からだ。どこを見てもいつもと変わらないシンプルな部屋で、猫を飼っているとは到底思えなかった。
 かと言って司は意味もなく嘘をつくような人間じゃない。それがずっと閊えていたのだ。
「君が帰ったあと、僕は司くんをこっちのセカイに呼んだ」
「『Untitled』を再生して?」
「そうだよ」
 なるほどね、と零す。ということは、やはり、翌日司の首筋についていた虫刺され――もとい、キスマークは。ポチが犯人だったというわけだ。
 ちり、と忘れかけていた嫉妬心が再び熱を灯す。それにポチも気づいているだろうに、知らんぷりで彼は話を続ける。
 ほら、その飄々とした態度も、まさに僕のそれなのだ。
「司くん、相当忙しい毎日を送ってるみたいだね。結構うたた寝が多くて……おかげで僕もこのセカイに呼びやすくて助かったけれど。心配だよ」
……そうだね」
 ポチは――僕の姿をしているだけあって、随分と司に好意的な印象を受ける。
 途端に口数の減った僕を見て、彼は何を思い、考えたのだろう。
 猫は金の瞳を細め、見透かすように僕を見つめた。
「このセカイは元々現実世界とそう変わらない風景だったんだ。妙な生物は昔からいたけど、暴れたりはしなかった。なんせ君と司くんの想いのセカイだからね。それがこんな風に荒れ果ててしまったのは……本当につい先日からなんだよ」
 積みあがった瓦礫の山をひとつひとつ慎重に上っていく。
 街は酷い有様だった。空を裂く亀裂の先には闇が広がっている。影を蠢く何かは、血走った目でこちらを睨んでいた。……随分と、恨みのこもった目だ。
「心当たりは?」
「ある。……僕のせいだね」
「そう。このセカイが崩壊しはじめたのは、類くんのせいだ。……僕の司くんが眠ってしまったのも」
 やっぱりか、と目を伏せた。
 想いを捨て去ろうとしたのは司じゃない。僕だ。司に忍び寄る影に気づいて、影に嫉妬し焦る傍らで。僕は自分の身を焦がす感情を無くしてしまいたいと願ってしまった。
 僕の幸せを願う彼を、僕は身勝手と言ったけれど。本当に身勝手なのは僕の方だ。
 僕は僕の手で彼を幸せにしたかった。導きたかった。彩りたかった。魅せたかった。僕は決して聖人じゃないから、僕の手を離れて勝手に幸せになろうとする君を心から祝福なんてできやしない。司と、違って。
 まるで駄々をこねる子供だ。その結果、僕はこの大人になれないネバーランドのセカイを破滅へ追い込んだのだ。
……すまない」
「謝罪は結構さ。それよりも、君ははやくお星様を捕まえてくれ」
 気が付けば。街を破壊し尽くさんとしていた怪獣や翼竜は、いつの間にか姿を消していた。当然だ。あれは僕の心が生んだ怪物だったのだから。
 一時は司を諦めようと思ってしまった、僕の弱い心。
 けれど。
 ――セカイはまだ始まってすらいない。
 始まっていないものを、終わらせることなどできるものか。……僕はまだ君に伝えていないんだ。僕の本当の想いを。
 なんだか、まるで……学生の頃に戻ったみたいだ。
 必死で逃げる君をこうして追いかけるのは愉しいけど。追いかけっこには負けない自信がある。ふう、と細く息を吐いて、俺は、地面を蹴った。
 誰もいないスクランブル交差点の真ん中。横転した自動車、折れ曲がった信号機。割れた地面に、星と、月明かりだけが照らすその先で。腕を伸ばし、司の手を掴む。
 彼の手は震えていた。手だけじゃない。声も、体も、シロップのような瞳も。
「っ……離してくれ、類……
「嫌だよ。離したらまた逃げるだろう、君は」
……
 オルゴールをぎゅっと抱きしめて、司は僕から目を逸らした。
「思い出してしまったんだ、オレは」
……想いを、かい」
「そうだ。オレは……お前が好きだった。……愛していた」
 知っている。
 司が、僕に好意を向けていることは。ちゃんと僕も気づいていた。それが果たして、僕と同じ気持ちであったとは思わないけど。
 君が僕に向ける恋の眼差しはきらきらしていた。いつだって輝いていた。純度の高い透明なそれは、僕が抱えるそれとはあまりにもかけ離れている。
 それでも、時折君が苦しそうにしているのを、僕は知っていた。
「辛かった。苦しかった。お前を好きになる度に、オレは別の誰かを演じられなくなった。どうしたって浮かれてしまう。お前にオレを、オレ自身を愛してほしくなってしまう」
 俯く司の表情はわからない。だけど、いつも胸を張って大きく見えていた体はすっかり縮んでしまって。堂々たる振る舞いをする彼の、奥底に眠る弱さに触れる。
「スターには要らない感情だと、気づいた」
 顔を上げ、まっすぐに僕を見た司の瞳は揺れていた。
 琥珀が溶けだす。蜜が、零れて、僕の手を濡らしていく。
「だから捨てたんだ。ミクとカイトに、想いを託して」
「司。それは違う。君は想いを捨てていないよ」
「捨てたも同然だ。……彼らに酷いことをした」
 スター失格だ、と。呟く彼の、手を握る指先に力が籠る。
「今朝……友情と恋の境界線を聞いたな。オレの答えはひとつだ。友情は結ぶもの。恋は散るもの――オレはお前と、結ばれていたい。これからの未来もずっとだ」
……嬉しいけれど。賛同できないな」
 絞り出した僕の声も僅かに震えていた。
「みんなを笑顔にするのがスターだろう」
 司の肩を掴む。揺さぶる。もうこれしか残っていなかった。僕の気持ちを、屈折なく伝えるには。
 伝われ。伝わってくれ。祈る思いで、僕は見つめる。
「なら……それなら君が! 一番笑顔でなくちゃいけないはずだ!」
「類……
 声を荒げたのは何年ぶりだろう。
 司は目を丸くして、じわりとまた瞳を潤ませた。ぐ、とその唇が引き攣る。
「ショーをしよう」
「は……?」
「僕達が語り合うにはこれしかないだろう? 生憎、観客は彼しかいないけれど」
 振り返ると。微笑みを浮かべた過去の僕が、小さく拍手をした。
 月光が差す。ああ、さすが僕達のセカイ。最高の演出だ。仄かに照らされたステージで、僕は恭しく頭を下げる。
「『――あるところに、ヘンテコな旅の一座がいました』」
 セカイを思い出した君なら。きっと僕に応えられるはずだ。
 これは君の、君と僕のための演目だから。
「『一座は偶然、森の中でひとりショーをする錬金術師に出会いました』」
……『君のショーはすばらしい! 錬金術師よ、オレはショーを作りたい! 力を貸してくれないか?』」
……
 ――僕は、司に恋をしている。
 いつから、なんて野暮なことは聞かないでほしい。残念ながら一目惚れなんて運命的な恋の落ち方はしていない。なんだか僕の周囲にはいないタイプの、面白い人間だなと、初めて出会ったときの感想なんてそんなものだ。
 だけど。
 君と初めて出会った時の感動は、ずっと僕の胸の奥で鮮やかに光り輝いている。
 十年経っても色あせない。きっとこれから先、命の灯が消えるその瞬間だって、絶対に。
「『観客が笑顔になって、そして、仲間も笑顔になれる! ――そんな最高のショーをやるのが、オレにとってのスターだ!』……
「そう、それが君にとってのスターだ。忘れてしまったのなら何度でも思い出させてあげるよ――錬金術師は、君の言葉に心を動かされた。もう一度誰かを信じてみようって……君を、信じようって思ったんだ」
 あの日、僕を救った君に、今度は僕が手を差し伸べようじゃないか。
 瓦礫に囲まれ、月光のスポットライトだけが当たる粗末なステージの上で。立ち尽くす司に、一歩、また一歩と近づく。
「さあ、錬金術師はその後どうしたと思う?」
「知らん……知らない。物語はそこでハッピーエンドだ」
「違うよ。孤独だった錬金術師は愛を知った。とてもとても大きな愛を。でも彼は臆病だから、それをどうやって君に伝えればいいのかわからない」
 約束なんて、しなければ。僕が君を呪わなければ。君が僕を愛さなければ。
 物事はもっと単純で、僕の恋も呆気なく終わりを迎えて。僕も君もごく普通の幸せを手に入れて、なんとなく日々を消費するような、そんなささやかな毎日を送れていたんだろうな。
 けどそれじゃあダメなんだ。……ダメだった。君が恋よりも夢を選ぶとわかって、僕は言葉を濁した。本当に伝えたかった一番大事な言葉を、まだ君に伝えられていなかった。
「随分、待ったし、随分待たせてしまったねえ……
 手を伸ばす。こうして君に触れてしまえば、みっともなく震える僕の指先に鈍感な君だって気づいてしまうだろう。
 洒落た演出も、虚栄もない。ここにいるのは演出家の神代類じゃない。ショーを傍観する観客でもない。
 正真正銘、この舞台におけるひとりの役者だ。
「かくして、君はスターになった」
「違う、オレはまだ……
「好きだよ、司」
「っ類」
「好きだ」
「やめてくれ……
「君を、愛してるんだ」
……
 司の背中へと、ゆっくり腕を回す。じわりと司の涙が肩口に溶け込む。それさえ、愛しく思えてしまう。
 僕は多分、君が思っているよりもずっと、君のことが好きだよ。
 だから。ねえ、お願いだよ、司くん。君は、僕のお願いはなんだって叶えてくれたじゃないか。

「僕は君を笑顔にしたい。君が世界のスターになるなら、僕を君だけの月にしてくれないか」

  ◇◆◇

 十年越しの愛なんて、重すぎる。
 類のぬくもりを全身に感じながら、オレは馬鹿になった涙腺を誤魔化すために、類の肩に顔を埋めた。
 お前、演出家のくせに。こんな時は何の小細工もしてこないなんて、卑怯じゃないか。
 ――でもオレも、人のことは言えない。一度決壊した涙はなかなか引っ込まないし、鼻は垂れるし。熱まで持って、顔面ぐしゃぐしゃだ。多分人生で一番かっこ悪い顔をしてるだろう。
「そろそろ観念してほしいんだけど……ダメかい」
 オレが何も答えずにいたからだろうか。ダメ押しとばかりに、類は得意の甘えた声で、オレの耳元に言葉を吹き込んだ。
「君の中に芽生えていた恋を、僕に育ませてほしい。絶対に散らせないよ。なんせ僕は緑化委員の経験があるからね」
 ふ、と思わず笑みが零れる。一体何年前の話をしてるんだ。
 ああ、でも。多分、お前なら。本当に散らさずに、大事に育ててくれるんだろう。
「お前、頭はいいのに……本当に馬鹿なヤツだな。大馬鹿者だ」
「フフ。馬鹿にもなるよ。だって、初めて人を愛してしまったからね」
 オレを抱きしめる類の腕が、少しずつ離れていく。
 まだ、迷いがあった。類の手を取ってしまったら。今度こそオレはもう、類を手放せなくなる。
 それでもいいのだろうか。オレは、お前に、執着恋をしても。
……オレは。類を好きになって、いいと思うか……?」
「それを僕に聞くのかい? なら僕は、僕の都合のいいように答えようかな」
「意地悪だな、お前は」
「君が僕にした意地悪に比べたら、全然、可愛いものだよ。健気だろう、僕。それにお買い得だ。逃す手はないと思わないかい?」
……フ、……フフ。……ははっ……
 だんだんと必死になっていく主張に、腹の底から笑いが込み上げる。
 さっきまでのかっこよさはどこに行ってしまったんだ。困ったように眉尻を下げるその顔に、頬に、手を伸ばす。
 ああ。悔しいが。オレは、やっぱり、お前のことが。
…………好きだ」
 ぽつりと呟く。いつの間にか破壊の音は止んで、世界はオレと類、そして一匹の猫だけになっていた。
 凪いだ静寂の中、オレの声が聞こえなかったはずはないのに。
「よく聞こえないなあ」
「嘘つくな! っああもう! オレも好きだ! 類!」
……フフッ」
 類が笑ったかと思えば。腕を強く引き寄せられて、再びオレは類の腕の中に収まった。
「報われてしまったねえ」
 ――報われてしまった。本当に、その通りだ。
 互いに臆病になって、遠回りして、何人もの人を巻き込んで――でも。そうして、オレ達の世界は回っている。
 オレの、オレだけの、人生という名のショーは続いていく。
……待たせたな」
「本当だよ。でもそのお礼は、また今度してもらおうかな」
 ……一体どんなお礼を要求されるのだか。
 年明け早々妙な実験に付き合わされないことだけを祈りながら、オレはオルゴールを持ち直した。
「ようやくここから、セカイが始まる気がするな」
「取り戻そうか。僕達のセカイも」
「そうだな――彼らにも謝らなければ」
 オルゴールを撫でるオレの手に、類の手が重なる。
 月明かりに照らされて、オレの上に影が落ちた。顔を上げる。類が微笑んでいる。頬に触れた類の手を、拒む理由はもうない。
 約十年越しに触れた唇は、オレと類の境界線をいとも簡単に曖昧にしていく。
 瞬く隙に。眩い光がセカイを包み込んだ。
 聞こえてきたのはあのメロディだ。

「ハローえぶりわ~ん! ……ミクだよ、司くん!」