🥞🎩3️⃣/10月のプールに飛びこんだ

いちろうくん、真夜中のプールにて





(※ありえたかもしれない、ふたりの話)





――おい、いいかげん帰るぞ」

ぱしゃん、

はじける水音の先に、目をすがめる。
あわい光に反射する水面にむかって言ってやれば、プールの中にいた悪魔はすこし不満そうな顔を覗かせながらも一郎のもとに戻ってくるのだ。

「さすがに僕が寒い」
「あくまくん、泳いでないのに?」

水の中にいるわけでもないのに、どうしてさむいんだ? とでもいいだけな丸い目が、じっと見上げてくる。
ひとに対する知識がなさすぎなんじゃないだろうか。この子の祖父は、いったい何を教えていたのだろう。
最近ブームらしい真夜中のプールをねだられて、連れ出しているこっちの身にもなってほしい。

白い月あかりのした。
はねる水滴に用心しつつ、これの気のすむまで……と、本を読んでいたが残暑などすっかり過ぎ去った十月だ。
さすがに冷える。
勝手にひとりで泳がせてもいいのだけれど、何をするか分からない。
それだって張り巡らせた結界が反応するのだから、別に一郎はここにいなくてもいいのだけれど。
いっしょに泳ぐわけでもないのに、『ひとりじゃつまらない』などとくちを尖らせてくるのだから、仕方ない。
プールに入るのだけは、『興味ない』の一点で断固拒否している。

……いいから帰って、僕にホットケーキを作ってくれ」
「!! 二枚、のったの?」
「ああ、それがいい――

強請ったとたん、ざぶんっと勢いよく水面からほそっこい身体があらわれた。
水着なんてもってないという子が、その高そうなスーツ一式を台無しにしようとするから、研究所にあった一郎のTシャツを貸してやっている。
『おでかけ』と言えばすぐに正装になるのは、有名なこの子の祖父の育て方なのか。
ないしょの連れ出しでさすがに目立つので、外見の年齢に合わせたものを一郎が用意してやっている。
依頼とは別に勝手にやっていることなので経費はもちろん落ちない。
本代に使いたかった先月の給料は、これの秋冬の服代に消えてしまった。
ほんとうに頭の痛いあくまだ。

「ココアも、練習した」
「へぇ」

それは楽しみだ、と我ながら平坦な声で返してやる。
それでも悪魔の子は、まろい頬をゆるめて一郎を見上げてくるのだ。
『僕なんかより、よっぽど人間らしい』という言葉を飲み込むのは、何度めか。
ツノもなければ、黒い羽根もない。これのどこが『番外の悪魔』なのだろう。
まっすぐなひとみが一郎の顔を映して、くしゃりと細められる。

「たのしみにしてろよ」
「そうだな、……ほらこっち来い」

もふっと、おおきめのタオルにくるんでやった幼い顔が、飽きもせず一郎を見あげてくる。
あのとき、にんげんを見るのは初めてだと言っていた。
そこから勝手に何度も連れ出しているが、飽きることもなく一郎の様子をみてくるのは何なのか。
困ったことに嫌ではないなのだから、タチがわるい。こういうところが悪魔らしいのか。

「あくまくん、まだ?」
「まだ、だ」

水分を含んだまつげが重そうにまたたき、透明な粒をまとっているのを一郎こそ飽きもせずに見惚れている。
悪魔を狩る側であることが多い一郎は、それこそいろんな容貌のモノを見てきたはずだ。

うつくしいもの、
みにくいもの、
あってはならないもの――

真夜中のプールをねだってはしゃぐようなのは、初めてだった。
人のことは言えないが、あのヴァチカンの頭の固い連中もこの姿を見たら拍子抜けするんじゃないだろうか。
この子が72柱に含まれない『番外の悪魔』の血族だなんて、誰が信じるのだろう。
――実際は信じるとか、信じないの話ではないのだけれど。

「あくまくん?」

いまだ少年らしさを残す肢体にサイズのあってないTシャツをまとわりつかせ、
バスタオルで出迎えた一郎の好きにされながら『ありがと』などとあどけなく笑われてしまうと、どんな顔をしていいか分からなくなる。
このまま腕の中にとじこめて、だれの手もとどかない場所に隠してしまえたらいい。

一郎のほうこそ、ちっともにんげんらしくない。
『悪魔くん』らしくない欲を、ずっと抱えたままだ。

思えば出会いから、
ふたりはまちがっていたのだ――







暗い森をすすんで、すすんで、その最も奥。
枯れた灰色の蔦にまみれた細長い塔が、ぽつんとその場に取り残されている。
……その塔に通うはめになったきっかけは、一年前だ。

――害獣調査……?」
「ええ、低級がやけに集まる場所があって……捨て置いてもいい類のものばかりで駆除の対象ではなかったんですが――

語尾を濁したのは、言いにくい何かがあるのだろう。
(本当に、ただの調査か……?)
ヴァチカン直属の祓魔師がわざわざ一郎の研究所までやってきたにしては、拍子抜けするものだった。
興味はない。だが、そろそろ千年王国研究所の仕事では、家賃が払えなくなってきていた。
義父には借りを作りたくないこちらとしても都合がいい。その頃合いを狙われたのだろうが。

――N県、山間部。
普通の人では這入りこめない場所に、その塔は隠されていた。
どんなトラップが待ち構えているのかと思えば、第一階層の強固な石の扉は一郎を拒まなかった。
第二階層、第三階層……あまりにも手応えがないので、一郎は途中から数えるのを止めた。
一郎が現役の『悪魔くん』であることが起因しているのか。……これは今でも分からない。
そのままするすると最上階まで突破し、苦痛といえば硬い階段をのぼらなくてはならないことぐらいだ。

のぼりつめた十二番目の部屋。中央に薄い布で覆われた天蓋のベッドがひとつ。
寝室らしいそこには……ちいさな子どもが、眠っていた。
あどけない顔を無防備にさらして、すやすやと――

「あれは、反則だった」
「???」

これをどうしろというんだ。
害獣でもなければ、悪意のある魔物でもない。

――塔のなかにいたのは
――ひとりぼっちで眠る、悪魔の子だった。





……本当に練習したんだな」
「パパに聞いた」

きつね色に焼けたホットケーキは、消し炭をつくっていた子が作ったものとは思えなかった。
じゃあ何ばんめ? と首を傾けてくる子に、答えは教えてやらない。
消し炭の時から世界で二番目なのは、いっしょうのヒミツだ。

……まさか、会ったのか?」
「ちがう! 鏡で……おじいさまにはナイショだけど――
「ああ、君にやったあの魔道具か。役に立って何よりだ」
「うん」

にんげんと駆け落ち同然で物質界で暮らしている父親とは、直接会ったことがないらしい。
余計な火種は作らない方が賢明だ。
逆に、義父の第一使徒であるかの悪魔のことを知っている一郎に、色々と聞いてくる始末だ。
高位の悪魔に名を連ねる血統の者が、物質界に縛られているなど前代未聞だろう。人間である一郎にだって分かる。
――その子どもが、問題にならないはずがない。
さぞ眷属はもめただろうし、それを束ねる長が自分の孫を魔界で囲うハメになったのも仕方がない。

それだって昨今の物騒になりすぎた魔界に置いておくことが出来ず、
物質界の中にあって、物質界からも遮断された場所に、こうして子どもを仕舞いこんでいる。

調査のきっかけとなった、やたら増えた低級の悪魔は、魔界からやってきたちいさな主に、挨拶にでもきたのだろう。
当初、ふよふよと部屋のすみを漂う黒いほこりのようなイキモノは、くっついている小さな目をきょろきょろさせては一郎とこの悪魔の様子をじっと観察していた。
塔の主である悪魔の子に害をなす人物でないとようやく判断されたのか、十二番目の寝室には入ってこない。

「粉がもうない」
「ああ、他にも足りないものがありそうだな」

開けたばかりの袋の他に一袋置いていたはずだが……どれだけ入念に練習したのか。
ちいさな手をそっと盗み見る。
見たところケガはないが、これでも半分悪魔だ。見てくれだけでも治ったように見せることだってできる。
一郎のいない間、なにをしていたのかと思えば『ホットケーキをおいしく焼く練習』だとか……どれだけ悪魔くんをダメにするつもりなんだろう。

ヴァチカンへの定期報告は『現状、害意なし』のみ。
高位の悪魔が噛んでいることは、あの連中だって知っているだろう。
それも踏まえたうえで一郎が――現悪魔くんが、監視役となっている。

監視対象にはじめて作らせたホットケーキは、散々だった。
『つくれるか』と聞けば負けん気の強そうな顔を、くん!っとあげ、『作れないわけない』と言い返してきた。
レシピ本とにらめっこする姿は、明らかに初めての様子だったが。一郎はなにも言わなかった。
悪魔の子がつくる初めてのホットケーキを食べる機会など、そうそうない。
この子が会えない父親や、魔界で腰をおさえながら奮戦している祖父にすら、与えられてない。

だから、焦げ目どころか、ほぼ真っ黒な完成品をみても一郎はがっかりなどしなかったし、
皿のうえと一郎を交互に見てうなだれるまるい頭に『……悪くない』と言ってしまった。

――正直、味は覚えていないが。

つたない手つきで生地をひっくりかえす子の、ぎゅっとむすばれた口元だとか。
バツが悪そうに伏せられたまるい瞳だとか。そんなのばかり鮮明に覚えている。

……あくまくん、なんで笑ってんの」
「君が初めてつくったホットケーキを思いだしていた」
「わすれろ!」

ぽすんっと行儀の悪い脚がスネのあたりに飛んでくる。
地味に痛いのだけれど、そこは意地でふんばってやった。

「僕は、好きだよ」

すきだ。
ぐっと、うなりながら黙り込んでしまうこの子のことも。もうとっくに。
つくったものを『美味しい』と絶賛されるよりも、『好き』だと言われる方がよろこんでしまうところとか。
唇をむずむずさせながら『また作ってもいい』なんて無防備に約束してしまうところとか。
――ねだられたら、この子に酷いことをした人間なんかにホットケーキを焼いてしまうところとか。

あげだしたらキリがない。
好きにならない理由を探し出す方が、むずかしかった。

「明日、買い出しに行こう」
「!! おでかけ?」
「ああ、」

ついつい内緒のはずの外出予定をばらしてしまうくらいには、甘やかしている自覚がある。
――あくまくんと出かけるの、おれもすき。
そう、あどけなく追い打ちをかけられて、とうとう堪えきれずに目のまえのおでこに口付けてしまう。
びくっと肩がはねたのは一瞬だけ。
すぐに、ぽすんっと再びスネにつま先が飛んでくるが、それすら可愛いだけだった。

「あくまくん?」

このぐらいは許されるだろうと、身じろぎする身体を抱きあげ、怒られる前にその手をとって、また唇を押しつける。
心臓にいちばん近い、左のくすりゆび。ちいさくふるえる手が愛おしくて、苦しかった。

たったひとつのいのちなのに、
この重さはなんだろう。

ああ、
失えないものが腕の中にある。

……メフィスト、」

ぼくが迷ったとき、
ずっとここに明かりが灯っていて欲しい。
どれだけ願っても足りやしない。

腕のなかでみじろく、
この小さなひかりがあればいい。







(どうしたっていっしょになるふたりの話し)