猫澤
Public
 

深海のホエールソング



 空が裂ける。
 地鳴り。いや。怪物の咆哮か。
 足元を巨影が泳いでいく。崩れ落ちる建物。曲がった信号機。噴き出すマグマ。
 色褪せていく世界。
 ああ――もう、君をここへは呼べないな。

  ◇◆◇

「む〜……むむむ……
 テレビ局の楽屋。そのソファーに腰かけながら、オレはスマートフォンと睨めっこしていた。
 『Untitled』――アンタイトル。三日前、クリスマスの夜に――突如としてオレのスマホに入っていた楽曲だ。入れた覚えもなければ、聞いた覚えもないタイトルである。
 ちなみにまだ再生はしていない。押した拍子に何かの高額請求が届いてしまったら困るので。
 しかしこのままスマホに入れっぱなしにしておくのも据わりが悪く、オレは何度かその曲を削除しようと試みたが、どういうわけか削除しても再びアプリを開くとまたインストールされている。まったくもって不可解である。
――不可解といえば、猫のあいつもだ)
 十年前から来たという類は、あの晩に忽然と消えて以来オレの前に姿を現していない。
 ひょっとしたら、元の時代に帰れたのかもしれないし――あるいは、そのためのマシンを作るのに夢中で時間を忘れているのかもしれないが。足取りを知る手段がないのだ。
 こんなことなら、スマホのひとつでも持たせておくんだったな。後悔しても今更だ。……それに。
 今となっては、あれが本当に十年前の類であったかも怪しい。
 わからない。類のことは昔からだ。オレは細く息をついて、背もたれに寄り掛かった。
 そもそも。よくよく思い返せば。オレが神代類という男を真に理解できたことなど皆無に等しかった。発想が奇抜で仲間想い。温厚な性格で、極力波風を立てない主義。ただし舞台演出においては奔放。
 ショーが大好き。あとは。
 オレのことが好き、……かも?
……いやいやいやいや。十年も前の話だぞ? いくらなんでも」
 長期戦覚悟とはたしかに言っていたが、それにしたって長すぎる。
 だが、先日の――電話越しの類の声は、たしかに真剣味を帯びていて。気圧されてしまった。
 ――「昔……僕とした約束を覚えているかい?」
 ――「スターになるまで、君は誰のものにもならないって言った話だよ」
 律儀に約束を守っているわけではないが、結果的にオレは未だに独身で、未だに清い体だ。だが三十路を手前にしてそうも言っていられなくなってきている。あるいは、類もそうなのかもしれない。
(大体、本当にまだオレのことが好きならもっとアピールしてきてもいいはずだろう)
 だのに、類がオレに触れたのはただ一度きり。それ以降は、何の変わり映えもなくお互いただの友人として接しているのだ。
 ……だからこそわけがわからん。本気なのか、そうじゃないのか、オレは掴みあぐねている。
「はああ……そもそもあいつの考えてることを理解しようと言う方が土台無理な話だな……
「うわ。でけえ独り言……
……ん? おお、彰人に冬弥! 久しぶりだな!」
「ども」
「お久しぶりです、司先輩」
 楽屋に連れ立って入ってきたのは、かつての高校時代の後輩である彰人と冬弥だった。
 明るい茶髪に黄色のメッシュ。青みがかった黒と白のツートン。記憶と違わない二人の姿に懐かしさが込み上げる。
 今日はこれからバラエティ番組の収録がある。来年秋に公開予定の映画の番宣も兼ねて、オレはゲストとしてお呼ばれしていた。
 チーム対抗で、番組レギュラーチームと様々なゲームをして競い合うのだが――オレのチームメイトはどうやら彰人と冬弥らしい。番組の進行台本をぱらりと捲って、しみじみと頷く。
「しかしまさかお前達がオレの映画の主題歌を歌うとはな」
「光栄です。やっと念願が叶いました」
「冬弥のやつ、ずっと司センパイと共演したいっつってたからな」
「ほう! そうかそうか、相変わらず冬弥は可愛い奴だな! よおしよおし、撫でてやるぞ!」
「犬じゃねえんだぞ……
 彰人はげっそりと顔色を悪くしたが、わしわしと冬弥の柔らかい髪を撫でまわせば冬弥は嬉しそうに破顔した。あまり表情筋は動いていないが、それなりに付き合いが長いからわかる。これは喜んでいる顔だ。
 彰人と冬弥、そしてあと二人の女性ボーカルを入れて、四人で『Vivid BAD SQUAD』というボーカルユニットを組んでいることは前々から知っていた。
 あまりメディア露出はせず、ライブイベントを中心に活動しているグループだ。オレも何度か誘われてイベントに立ち寄ったことがあるが、いつも熱気にあふれていて自然と元気が漲るライブだった。ショーにも似たものを感じる。
「つうかマジであの映画、司センパイが主演だったんですね。高校ん時の文化祭とかヤベー劇してたのに」
「ヤベー劇とはなんだ。ああ、最高傑作と言いたいんだな? わかる、わかるぞ……あのロミオはオレが脚本を手掛けた中でもトップレベルの出来栄えだからな!」
「あれがトップレベルとか……脚本家にならなくて正解っすよ、センパイ」
「彰人、司先輩の脚本はどれも思慮深く繊細に作りこまれている。間違いなく脚本家の才能もあるお方だ」
「マジ、オレの相棒が誑かされてんのが一番許せねえんだわ」
 オレとは対面する形で彰人と冬弥がソファーに腰を下ろす。
 番組のゲームは体を動かすものもあって、全員カジュアルな格好をしていたが、とりわけ彰人と冬弥の二人はだぼついたオーバーサイズのパーカーを着ていた。
 類といいこいつらといい、どうしてゆるい服装を好むのだろう。ゆるいから背が伸びるのか? そういうことか?
「あ、そうだ。オレ達センパイに渡すものあったんだった」
「なんだ?」
 顔を上げると、彰人は持っていたファイル――おそらく番組の資料などが入っている――から、一枚の封筒を差し出した。
 受け取って、裏表を確認する。真っ白なそれ。けれど金箔で華やか、且つささやかに装飾されている。
「結婚式の招待状? 結婚するのかお前達」
「オレ達じゃねえ……
「白石です。元神高風紀委員の……
「ああ! 類相手に物怖じしない肝の据わった……そうか。時の流れははやいものだな」
 オレ達の母校である神山高校。その校内の風紀を乱しているだとかなんとか(実際に乱していたのは類であってオレじゃない)で、学生時代にオレと類はよく風紀委員のお世話になっていた(不本意だ)から覚えている。
 常に飄々として何考えてるんだかわからない類相手にも堂々と会話ができる、数少ない貴重な人材だ。
 たしか彼女は彰人達と同じグループを組んでいるのではなかったか。
 オレが視線を上げて彰人と冬弥を交互に見ると、言わんとしていることがわかったらしい。彰人は自身の後ろ髪を掻いて、あー、と小さく声を零した。
「ま、あいつらも一応芸能人なんで。今のところ結婚の公表はしないで、式は身内だけでーって感じらしいっすね」
「公表しても、ファンは喜びそうなものだが」
「まあいろいろあんだろ。あいつらにも」
 それはそうだ。人はみな一冊の本が書けるというし、オレに言わせれば人はみなショーができる。人生という名の台本で。
 オレにオレの人生があるように、彰人と冬弥も、この白石もオレには想像のつかないような人生を歩んでいるのだ。
 きっとそれは輝かしいものだけじゃない。少なからず苦悩も葛藤もあるだろう。おそらく、オレには想像も及ばないようなところで。
 そうか、と頷いて、招待状を開いた。
 白石杏。ああ、たしかにこんな名前だった。相手の女性と幸せそうに並ぶ彼女の写真は、数年前の面影がしっかり残っている。
「パートナーは女性なんだな」
 というか。よく見たら相手の女性も知っている気がする。どこで見たのだったか――なんかこう、ハムハムした感じに覚えがあるような気がするのだが。
 はて、と首を傾げるオレをよそに、彰人は大きく脚を組んだ。今更気にならないが、先輩の前でする態度として正しいのか、それは。
「今時同性婚も珍しくねえからな……つうか正直、司センパイこそ誰よりも真っ先に結婚すると思ってたわ」
「オレが? 何故だ? 相手がいないだろう。恋人いない歴イコール年齢だぞ、オレは」
「いやー……神代センパイ以外います?」
「んんえっほ」
 想定の斜め上から不意打ちで切り込まれて、オレはつい飲んでいたコーヒーを噴き出してしまった。きたねえ、と彰人が眉を寄せ、冬弥が慌てて布巾を探しにいく。言っておくが、彰人のせいだからな、これは。
「ぬあ、む、何⁉︎ 類⁉︎」
「いや、センパイ大好きだったじゃないですか。神代センパイのこと」
「はあ~~⁉︎⁉︎⁉︎」
「うるっさ……
 しまった、と口を押さえるが、今更かと開き直った。大声だって出したくもなる。
 オレが類を好き? いや、それはもちろん好きは好きだが、結婚したいとかそういう意味での好きではない。それはどちらかといえば類の方で――とはさすがに言えず、もごもごと口をもごつかせる。
「ま、神代センパイも相当司センパイに惚れ込んでましたけど……
「先輩方の卒業前は、最早隠す気もなかったな」
「それな……。神高出身で知らねえヤツ、いないんじゃねえの?」
 風評被害が甚だしいんだが……
 冬弥から布巾を受け取って口元を拭う。変人ワンツーフィニッシュだなどと不名誉な呼び名が広まっていることは把握していたが、まさか類との仲まで噂されていたなんて。これは大変よろしくないんじゃないだろうか。
 今だって何かとオレと類はセット扱いされがちなのだ。
 類は知っているのだろうか。知っていたとしても気にしなさそうだが。
「類は親友だが、それ以上でも以下でもないぞ……
「は? マジで言ってんすか?」
「大マジだ」
……オレ今はじめて神代センパイに同情したわ」
 一瞬遠い目をした彰人が、オリーブ色の瞳をオレに向ける。
「ホントに付き合ってないんですか? 別にいーっすよ隠さなくて」
「ないと言ってるだろう!」
「司先輩。それくらい、先輩方は仲良さそうに見えたってことです」
「むう……。仮にそうだったとして……不毛だろうが。オレと類じゃ」
 ため息混じりに呟いて、オレは誤魔化すようにコーヒーカップに口を付けた。
 付き合って、結婚したって。オレ達には恋だの愛だのにうつつを抜かしている暇はない。オレは根っからのショーバカで、ショーや舞台のことになると他に構っていられなくなるのだ。……類だってそうだ。
 だからオレは。オレ達は。
 そうして類のことも引き延ばして、先送りにして。
 ――「君は現実から目を逸らしてるんじゃないのかい?」
「っ」
 かちゃ、とソーサーの上でカップが不安定に揺れる。
……不毛じゃない恋って何?」
……
「好きになっちゃダメな相手って、いないと思いますけど。つうかセンパイこそそういうの、偏見ないと思ってましたよ」
「偏見がなければ、付き合うのか?」
「それは……
 彰人はぐっと唇を噤んだ。心なしか悔しそうな顔をしているのに気が付いて、配慮が及んでなかったなと内省する。仲間が結婚するのだ。オレの言い方では同性婚自体を不毛と言っているように聞こえてしまう。
 そうではなく。オレと類が結婚することが不毛なのだ。
「同性婚に偏見はないぞ。愛の形は様々だしな……。だが、当事者となれば話は別だろう? 好きだという気持ちひとつでどうにか出来るのなら、世の中そう苦労はしない――
……耳が痛いな、彰人?」
「うるせえ……
「?」
 オレの言葉に、冬弥は薄く笑みを浮かべて彰人を見た。彰人も苦虫を噛み潰したような顔をしている。
 気まずい沈黙。微妙な空気にさせてしまったことが申し訳なくなって、オレは切り替えるように手を打ち合わせた。
「まあなんだ! オレは、類には……普通の幸せを掴んで欲しいのかもしれん」
「普通ねえ。……普通の幸せって何だよ」
「そうだな……
 彰人は昔から感情が表情に出やすい子だった。相棒の冬弥があまり感情を表に出さないから、その分も担ってくれているのかもしれない。
 冬弥はオレにとって可愛い後輩であり、行く末の気がかりな弟分――類にとっての寧々のような存在であったから、彰人と冬弥が出会ってくれてよかったと思う。
 安心して、この男には冬弥を任せられる。
「普通は、普通だ」
 コーヒーを飲み干すと、ちょうど収録の準備を終えたアシスタントが楽屋のドアを開けた。
「天馬さんスタンバイお願いします」
「はい。ではまた後ほど、二人とも」
「はい」
……っす」
 楽屋を出ると、冬特有の肌寒さがオレの体を震わせた。
 思考を切り替えていく。ただの天馬司から、俳優の天馬司へと。
 そうだ。オレはスターになる男。物心ついた時からその気持ちは変わっていない。
 ではなぜ、こんなにも胸が突っかかるのだろう。
 なぜ。類を想うと、苦しくなるのだろう。
 なぜ。
 ――「どうして、……忘れてしまったんだと思う?」
 脳内に類の言葉が反響する。
 オレは何を忘れてしまったというのだろうか。


 司センパイの去った楽屋は、不思議と室温が少し下がったように感じた。
 昔から口を開けばうるさいやつで、自意識過剰で、ナルシストで。悩みなんてほとんどないように見えていた。
 ただそこに在るだけで周囲を明るくさせる。どんなに暗く淀んでいても、あの人がいるだけで前を向けるような。そんな男が、天馬司だったはずだ。
 太陽が翳っているのは、空を覆うこの重たい雲のせいか。それとも、――月のせいか。
――司先輩のご実家は家族仲もよく、俺にとっては絵に描いたような理想の家族像だった」
 隣に座っていた冬弥が、不意に、ぽつりと言葉を零した。
 司センパイの家族仲が良いことは知っている。聞いてもいないのに「妹は」「妹が」「妹に」と家族のことばかり話すようなセンパイだ。
 妙に生真面目で素直な性格。擦れない司センパイを見ていれば、自然と――それこそ冬弥が言うような理想の家族像だったのだと窺える。
 それでも、ある時を境に、司センパイが口に出す人物が少しずつ変わっていった。「類は」「類が」「類に」「類のやつが」――耳にタコができるほど神代センパイの話ばかりしていたくせに、あれで無自覚なんだとしたら本当に神代センパイが不憫で仕方ない。
「普通の幸せって……あの人の普通のハードル高くなってねえ?」
「おそらくは。……だが……
「絶対好きなのにな。神代センパイのこと。好きっつーか……
「彰人」
 冬弥が俺の腕を掴む。俺は視線だけ冬弥に向けて、大袈裟にため息をつきながら項垂れた。腹が立つほど感情がぐちゃぐちゃだ。
 なんなんだよ、あいつは。有名になって、数多のメディアにも引っ張りだこで。まさに今、ずっと夢見ていたスター人生を歩んでいるところなんじゃないのかよ。
「それ以上は野暮だ」
「だああ! わかってる。ったくどいつもこいつも……世話が焼けるっつーか。周り巻き込まないで勝手に幸せになってりゃいいのに」
 どうせこの世のほとんどの人間は、誰が誰とどう幸せになろうと、そこまで大して興味ないのだから。
 もっと自分勝手に振る舞えよ。
 傍若無人なお星さまだなって、オレ達に呆れられるくらいがちょうどいいんだ。

  ◇◆◇

「お疲れ様でしたー」
「お疲れ様ですー」
 番組の収録を終えてタクシーに乗り込むと、タイミングよくポケットのスマートフォンが小さく震えた。類からメッセージだ。この後類と食事に行く約束をしているから、きっとそのことについてだろう。
 そうだ。『Untitled』のこと、類に聞けば何かわかるだろうか。あいつは機械に詳しいし、曲の削除の仕方も知っているかもしれん。
 そんな悠長なことを考えながらメッセージを開いて、オレは目を平たくさせた。読み間違いかと思って目を離してもう一度画面を眺めた。うん。読み違いじゃないな。
 ――言い忘れていたけど、今日の店はドレスコードがあるのでよろしく頼むよ。
……げ。ドレスコードだと……?」
 そんな大事なことを言い忘れるんじゃない。オレは額を押さえて、控えめにタクシーの運転手に声を掛けた。行先を変更だ。
 待ち合わせまであと二時間。一旦家に戻って、服を見繕って……なんとかギリギリ間に合……わないな……
「はああ……もっと早く言え、馬鹿類が」
 待ち合わせ、遅れる。端的に返信すると、秒で「OK」のスタンプが返ってきた。こちらは何もOKじゃないんだが?


 駅前の広場の噴水前。約束していた場所へ駆け足で向かうと、類が缶コーヒーを片手に立っていた。何かの賞を受賞して公の場に出る時以外は、あまり見慣れないスーツ姿だ。
 類はすぐにオレに気づいてひらりと片手を挙げた。
 これで薔薇の花束でも持ってたら完璧なプロポーズの現場だが、生憎待ち人はオレでオレと類は恋人ですらない。
 ちなみにオレが知る限り類も恋人いない歴イコール年齢の男だ。天才的な頭脳と顔の良さの遺伝子をかなり無駄にしている。オレ達の年齢であれば、そろそろ子供のひとりやふたりいたっておかしくないというのに。
「すまない、類! 待たせてしまった」
「気にしないでくれ。遅れると聞いていたから、さっきまでそこの喫茶店でお茶していたんだ」
「見え見えの嘘をつくな! そんなに顔を赤くして……ほら、このカイロ使え!」
「わ」
 ポケットに突っ込んでいたカイロをぶん投げる。
 類は片手で器用にそれを受け取って、ふにゃりと頬を緩ませてみせた。ああもう、鼻の先が赤くなってしまっているではないか。
「まったくお前も咲希も、なんだって大人しく外で待つんだ。待たせるオレも悪いが……
「仕事だろう? こんな年末までご苦労さま。そのスーツよく似合ってるね。ネクタイも……サンタ柄?」
「ハーッハッハ! このオレに着こなせないものなどないからな! このネクタイは今年のクリスマスプレゼントに咲希がくれたんだ。かっこいいだろう」
「うんうん、さすが咲希くんだねえ……センスに司と同じ遺伝子を感じるよ」
 最高の称賛だ。満足気に頷いていると、類はオレの腰を抱いて「こっちだよ」と促した。
……、」
 オレが女性であったなら大変に様になっていただろうエスコートだが、残念ながらやはり相手はオレなのだ。
 類の指定した店はオレでもその名を知っているほど有名な――それこそ本当にプロポーズで使われるような――高級ホテルのレストランだった。事前に予約していたのか「神代です」と従業員に声を掛け、夜景の見える席に通される。
 圧倒されていた。まさか男二人でこんなところに来る日がくるとは思ってもいなかったから。
 というか。そもそも。
「こんな良い店予約してるなんて聞いてないぞ……
「たまにはいいだろう? 安心していいよ、今日は僕の奢りだ」
「オレが奢るという話だっただろうが」
「じゃあそれは次の機会にでも」
……むう」
 類がどんな無茶ぶりしても応えられるようにと懐はしっかり温めてきたつもりだが、こいつもそれなりに稼いでいる男だ。変に遠慮するのも違うかと、今回はお言葉に甘えることにした。
 食事のコースも決まっているようで、前菜の――なんだ。なんか蟹とセロリにソースが乗ったサラダがオレの前にだけ置かれる。
 ははーん。こいつさては事前に自分の分には野菜を抜くよう言っていたな? 抜かりがないところは相変わらずだ。
「飲んでもいいけど、飲み過ぎないようにね」
「さすがにこの雰囲気でがばがば飲むような真似はしない。……乾杯」
「乾杯」
 白ワインの入ったグラスを当て、香りを楽しむ。
 重ね重ね思うが、こんなに綺麗な夜景をバックに雰囲気のいいレストランで、何故オレと類は乾杯しているのか。考えたところで類の思考を読み取れるわけでもないので、最早気にするだけ無駄だろうか。
 セロリをフォークで刺して口に入れる。ちら、と類を見れば、地上に浮かび上がる星空を眺めながらグラスに口をつけていた。
 窓越しにオレが見ていることに気づいたのだろう。すぐにオレに視線が向いて、「ん?」と優しく微笑みかけられる。
 オレはなんとも微妙な気持ちになった。
 筆舌しがたい気分だが、なんというか……神代類という男をオレが独り占めしている現実が。世界に申し訳なくなってしまったのだ。
 食器の音と、優雅なクラシックと。時折聞こえる囁き声。
 テーブルに置かれた魚料理――甘鯛のなんとか――にフォークを伸ばす。
「そうだ。類に聞きたかったことがあるんだ」
「なんだい?」
「実はだな……
 鯛の身をほぐし、口の中へ放り込んだ。柚子の風味が広がって、口内でふんわりと溶けていく。
 『Untitled』について聞こうとして、やめた。居酒屋ならまだしも、こんなフレンチのフルコースが出てくるような店で食事中にスマートフォン出すのは憚られる。
 オレは口元についたソースをナプキンで拭いながら、ほら、と人差し指を立ててみせた。
「オレ達が高校を卒業するときに……埋めただろう、タイムカプセル」
「ああ。あったねえ、そんなことも」
 類の笑みが深くなる。懐かしそうに頷く類に、オレは若干言いづらさを覚えつつ。話を続ける。
「どこに埋めたのか心当たりないか?」
……まさか忘れてしまったのかい?」
…………
「忘れたんだねえ」
 ぐぬ。なんだか年々、類のオレの扱いが咲希に似てきたような気がする。
 つい最近にも見たそれとそっくりな呆れ顔で、類はまたグラスに口をつけながら「フフ」と零した。
「セカイだよ」
「セカイ?」
「そういえば大人になってから久しく行ってないね」
……その、セカイってところにか?」
 セカイ。そんな名前の場所、神山にあっただろうか。
 首を傾げる。類はそんなオレを不思議そうにじっと見つめた。さらりと、紫陽花の色をした髪が重力に合わせて揺れる。
「何を言っているんだい? 君もよく行ったじゃないか。学生時代に」
……
……司、頭でも打ったかい?」
「は?」
「それとも何か拾い食いを……?」
「お前、今めちゃくちゃ失礼なこと言っている自覚あるか?」
 いまいち類の話にピンときていないのは確かだが、拾い食いを疑われる筋合いはない。というか拾い食いをするような男に思われているのは大変心外だが⁉︎
 類は金の瞳を翳らせて、口元に指を当てた。
「いやあ、たしかにセカイは不可思議な場所だけど、間違いなく現実だったはずだ。寧々達にも聞いてみるかい? 彼女達も覚えていると思うよ」
 僕達の活動にあの場所は切っても切れない縁があったからね、と類は言う。ワンダーランズ×ショウタイムはあの場所なくして生まれなかったと。
 記憶の食い違い。というよりも、欠落。ここ数日感じていた違和感にようやく輪郭が生まれてくる。オレが忘れているもの。どうしても思い出せないもの。それってこのことなんじゃないか。
 耳の奥で、華やかなパレードの音楽が、半音ずつ下がっていく。
「ほら、高二の頃の文化祭。あの時だって――
「ああ、オレのクラスでロミオをした……
「そうだよ。空き教室を使って練習しただろう? 僕と君と――
「それは覚えているぞ。お前と寧々に演技指導をしてもらったな!」
「いや、演技指導をしたのは僕らじゃなくて■■■さんだろう?」
 ――ノイズが。
 類の声に、不自然にノイズが入る。
 オレが不審そうに眉を寄せるのを見て、類はオレが覚えていないのだと判断したらしい。はあ、とひとつため息をついてやれやれと首を振った。
「これは……重症かもしれないね」
……重症?」
「うーん……まあ十年も昔の話だし、君の脳みそが覚えていられなくても仕方がないけど」
「おい。人の記憶力をさらっとディスるな」
「悲しいねえ。思い出というものはこうして脚色され、色あせていくんだねえ……
「話を聞け!」
 おかしいだろう。どう考えたっておかしい。
 オレはワンダーランズ×ショウタイムを愛している。メンバーである類と、えむと、寧々を愛している。だのに、彼らとの思い出に、華々しい日々に靄が掛かるなんて、いくらなんでも。
 仰々しく嘆く類に思わず声を荒げる。
 仮に単純にオレが忘れてしまっただけなのだとして、オレの記憶力が悪いと思われるのも癪だった。
 類が記憶力お化けなのだ、十年も前のことを鮮明に覚えている人の方が少ないに決まっている。
 ……果たして本当にそうだろうか。オレは忘れてしまっているだけなのだろうか。人為的なものを感じやしないか。頭を、脳みそを、誰かに無理やり押さえつけられているような。
 黙り込んだオレを見て、類は心配そうにオレの顔を覗き込んだ。
……本当に覚えていないのかい?」
「覚えてないな。……何か不味いか?」
「どうだろう。少し心配、かな。あの場所は君の――
「オレの?」
――――
 まただ。また、ノイズが入って類の声がよく聞こえない。
 店内は落ち着いた雰囲気で、穏やかなクラシックと、ひそひそと話す客の声と、たしかに静まりかえっているはずなのに。
 類がその話をする時だけ、耳鳴りがして脳が類の言葉を拒んでいる。
……まあとにかく、オルゴールの話だ。そのセカイとやらにオレはオルゴールを埋めたんだな?」
「実際に僕もついていったわけじゃないから、確証はないけどね。でも恐らくそうだと思うよ……誰にも掘り返されないところに、君はそれを埋めると言っていたから」
 咲希も同じことを言っていた。誰にも掘り返されないところ。記憶が紐づいているのか、その言葉を聞くと遊園地の明るいメロディを思い出す。
 近場の遊園地といえばやはりフェニックスワンダーランドだが、おそらくタイムカプセルを埋めたのはそこではない。ならば類も「フェニックスワンダーランドだ」と言うだろう。
 それに。類と、えむと、寧々と――毎日のように四人でその場所へ行き来していたような記憶はうっすらとあるのだ。それから、他にも人がいて――オレ達はそこで、数え切れないほどショーをした。
 ……セカイ。
 オルゴール。そう、オルゴールに。オレは。何を、しまったんだっけ。
「近々掘り出しに行ってみるかい? 二人で」
「む。何故二人なんだ。えむと寧々はどうした」
「確認だけして、また埋めようよ。あとで四人でちゃんと掘り返せばいいさ」
「むー……まあ、するとしても今度だな。年が明けたら当分は撮影で忙しくなる」
「ああ、映画の……
 運ばれてきた大きな海老とトリュフ。あとは……鶏のローストらしきもの。類はスプーンでソースを均しながら、「大変だね」と零した。
「僕が思うに、君は少しオーバーワーク気味だと思うんだよね」
「なんだ突然藪から棒に」
「いや。僕としてはね? 全然好都合なんだけど」
「人のオーバーワークが好都合って、……相当趣味悪いぞ……?」
「そうではなくてさ」
 可笑しそうに笑いながら類が顔を上げる。
 昔より大人びた顔つき。だが、年を重ねても類は類だ。猫のように細くなる目元も、弧を描く唇も。昔の面影を残したまま。
「君が納得するまで付き合うつもりではいたけど……やっぱり、早いに越したことはないだろう?」
「前々から思っていたが、お前はすぐ主語が抜けるな」
「おや。ごめんよ。理系の男だからついね」
「文系理系は関係ないだろ……
 呆れるオレを後目に、類は「焦っているのかもしれないねえ」と珍しく弱気な声を出した。
「僕は昔から、欲しいものに欲しいと手を伸ばすのが苦手な子でね」
「ああ」
「友達の玩具とか、ゲームとか。強請ればきっと買ってもらえたんだろうけど、どうせならイチから作ってみようって思っちゃうタイプの子供だったんだ」
「振り切れてるな」
「振り切れてるよねえ」
 なんとなく想像はついた。類は知的好奇心が強くて、未知の存在に出会うとそれを解剖したくなる性分らしい。
 瞳孔を開きながら、ぬいぐるみを引っ掴む類を思い出してフと笑う。
 かわいそうに、あの時ぬいぐるみは大層怯えていたぞ。
 ……ぬいぐるみが?
「ところで、司? 実は終電を逃してしまったんだけど」
「は?」
「今夜泊まらせてくれないかい?」
……
 食後のデザートであるジェラートを口に含みながらじとりと類を見つめる。
 たしかにもう遅い時間だが、終電には十分間に合う。つまり類お得意の嘘だ。それも一切嘘であることを隠す気がないからタチが悪い。
「タクシー使え。それか実家に帰ればいいだろう」
「ここからだと司の家の方が近いよ」
「だからってオレの家に泊まらなくても」
「別に君の家に泊まるのは初めてじゃないだろう? たしか置きっぱなしにしてる僕の服もあったはずだ。そこまで嫌がることかい?」
「嫌がってるわけではないが……
 たじろぐオレに、類は咎めるような視線を向けた。これは覚えのある居心地の悪さだ。……責められている、ような。そんな気分にさせられる。
 ここ最近の類はどこかおかしい。そう、猫が。過去の類がうちに居着いてからだ――
 ぱくり。ジェラートの最後の一口を口に含んで、オレはスプーンを咥えたままテーブルを見下ろした。
 猫のあいつは、もう三日帰ってきていない。けれど今日は。もしかしたら今日こそは、帰ってくるかもしれない。
 家に帰って、当たり前のようにリビングで寛いで、オレを見て「おかえり」と言ってくれるかもと。……いや。そうであってほしいとオレが勝手に期待しているだけだ。
 今の類を手放す代わりに、過去の類に執着するなんて、自分でも馬鹿げていると思うが。
「ぬぬ……
「それとも僕を自宅に呼べない理由でもあるのかな? やましい事、とか」
「このオレにやましいことなどあるはずないだろう!」
「なら決まりだね」
「お前……
 結局オレは、類に口で勝てたことなんて一度もないのだ。
 悔しさを嘆息に織り交ぜて、「好きにしろ」と吐き捨てた。

  ◇◆◇

……
 コートのポケットの中。スマートフォンにロック開錠の通知が届く。オレはそーっとノブを回して、これまたそーっとその扉を開いた。
 室内は真っ暗だ。人の気配もない。ほっと息をつくオレの後ろで、ほんの少し酩酊した類がひょこりと中を覗き込む。
「おや? 猫は? いないようだけど」
「知らん。……反抗期だ、多分」
「反抗期」
 食事を終えて。酔い覚ましがてらオレ達は歩いて帰路についた。
 時刻は既に零時を過ぎている。お前、明日の予定は大丈夫なのか、と荷物を下ろしながら類を振り返れば、君と同じだよ、と少しだけ間延びした声が返ってきた。
 オレは明日、午後から舞台稽古がある。此度の舞台は類がメインで演出を手掛けているのだから、なるほどたしかに同じ予定になるわけだ。
 ん? となると、もしや明日は一緒に稽古入りするつもりか?
 世間はもう仕事を納めて年末年始の休暇に入る頃。稽古の方も、年内最後のチェックといったような感じで普段のようにがちがちに通すわけじゃない。年の瀬のゆるい顔合わせだ。
 それでもさっさと寝支度を整えて、あまり遅くならないうちに寝た方がいいだろう。類のことは先に風呂場に放り込んで、その間にオレは類が昔忘れていった服や新品の下着などを風呂場の前に置いておいた。
 オレ自身もスーツを脱いでリビングで寛いでいると、風呂からあがった類が髪を濡らしたまま素足でぺたりぺたりとフローリングの床を踏むので呆れてしまった。
 ……十年前の類の方がまだもうちょっと髪を乾かしてきたぞ。
 洗面所のドライヤーを引っ張り出して類の髪にかける。昔と明らかに違うのは、類の髪が肩まで伸びたことくらいだろうか。
 類が髪を伸ばし始めた頃に、理由を問うたことがある。敢えて伸ばしているのだと言っていたか。ただ、あまり伸びすぎても見目が悪いから、ほどほどの長さで整えていると。
 セミロングが気に入っているのか、と聞けば、そうじゃない、ただの願掛けだよ、と類は寂しそうに笑っていた。
 オレの知る類は、野心とは無縁だ。だからその話を聞いたときは驚いて、「お前でも叶えたい事があるんだな」と無神経なことを言った。
 だが本当に、ただ純粋に驚いただけだったのだ。類はなんでも自分で出来てしまうし、やりきるだけの能力のある男だとオレは評価していたから。
 僕自身の気持ちだけじゃどうにもならないこともあるよ、と言われて、はっとしたのだ。類だって人間だ。そして社会は類のために出来ているわけじゃない。理不尽だって起こるし、類個人がどうこうしたいと考えてもどうにもならないことはある。そう、例えば――オレのこと、とか。
 ずっとがむしゃらに道を進んできたから、いつからかオレは類を置き去りにしてしまっていた。
 背後をついてくる類を振り返ったことがあっただろうか。類はいつも、どんな顔をしてオレを追いかけてくれていたのだろう。
 指通りのいい紫陽花を梳く。思えば、十年前の類は今よりもずっと屈託のない笑顔を振りまいていた。その笑顔にどれだけ癒されていたことだろう。
……よし。粗方乾いたな。わかってるだろうが、客室に来客用の布団があるから使え。先に寝てていいぞ。オレは風呂に入る」
「前々から思っていたけど、なんで司の家に来客用の布団があるんだい? そんなに頻繁に寝泊まりする来客がいるってことかな」
「たまに両親や咲希が泊まりに来るからな。あと……
「あと?」
「お前用でもある」
……そっか」
 見透かすような、探るような。そんな眼差しが一変して、うれしそうに綻ぶ。
 今の会話のどこにうれしい要素があったのかわからないが、波風立たずに済んだならそれでいい。
 ――猫は今日も帰ってくる気配がない。
 熱いシャワーを頭から浴びて。バスローブを羽織る。リビングはまだ明かりがついていたが、類の姿はなかった。
 寝たのか、と判断して、リビングの照明を消す。そのままの足で寝室のドアを開けると――
 何故かいた。類が。
「いやいやいや。なんでお前は人の寝室で堂々と寛いでいるんだ⁉︎」
「やあ、おかえり司。遅かったね」
「当然だ。オレは毎日のケアは欠かさずしっかりしているからな。風呂にも時間を掛けている――ってそうではなくて!」
 いくら勝手知ったる仲といえど、人のベッドに寝そべって本を読むのはどうなんだ。
 だが今更突っ込む気も起きない。類の行動にいちいち突っ込んでいたら喉が枯れてしまう。学習したのだ、オレは。もう付き合いも長いので。
 ベッドを陣取る類をどけろどけろと壁際に寄せて、オレはベッドの淵に腰を下ろした。
 美しい体は一日にして成らず。日課であるボディークリームを手に馴染ませて脚に塗っていると、類は興味深そうに起き上がってその様子を覗き込んだ。何が面白いんだかさっぱりわからんが、見られて減るものでもないので好きにさせておく。
「そういえば、今日仕事で彰人と冬弥に会ったぞ。覚えてるか?」
「ああ、君を慕ってる後輩くんと、そうでもない後輩くん」
「どちらにも慕われているが?」
「ではそういうことにしておこう」
 含みのある言い方だな……。じろりと肩際の類を流し見て、オレはふん、と鼻を鳴らした。
「まったくはた迷惑な話だが、昔はオレと類……の関係を邪推されていたらしいな」
「あれ、気が付いてなかったんだ。結構噂されてるよ。今もね」
「今も⁉︎」
「そうとも。君はあまりエゴサをしないから知らないかもしれないけど」
「エゴサ……
 あまり耳に馴染まない単語ではあるが、一応は知っている。エゴサーチ。SNSなどで自身の名前を検索し反応を見ることだ。
 たしかにオレはあまりそういったことをしないが――類はよくしているのだろうか。それこそ意外だが。
「ちなみに、僕ははた迷惑と思っていないよ」
 ――ふ、と。
 耳に息が掛かって体が跳ねた。
 背後で衣擦れの音がする。類の手が、ボディークリームを塗ったばかりのオレの太ももに触れて、するりと意味ありげに撫でる。
「な、」
 何をする、と言い掛けて。そこでようやく、いつの間にか類の腕が回って抱きしめられていることに気が付いた。
 肩に類の顎が乗る。心臓が痛いくらいに存在を主張し始める。類、と名前を呼ぶと、鋭い視線と目が合った。類が距離を詰めるので、オレは必然的に仰け反ってしまった。
 近い。近すぎる。このままじゃ触れてしまうんじゃないか。慌ててオレと類の間に手のひらを挟んで阻止する。手に柔い感触。類の唇だ。
「君と本当にそういう関係になっても良いと思ってる。いや、なりたい……かな?」
「ちょっ、ちょっと待て……おわっ」
 一体何がスイッチだったのだろう。
 オレと類を隔てていた手のひらに、類の手のひらが重なる。指を絡めて握られてしまえば、いくら何でも状況がおかしいことにオレだって気づいた。
 類から距離を取ろうとして仰け反るあまり、バランスを崩してベッドの上に倒れ込んで。
 影が覆いかぶさる。見上げなくてもわかる。
 類が、オレに覆いかぶさっているのだ。
「フフ。君はときどきびっくりするくらい迂闊だね」
 それでもオレは往生際が悪くて、この期に及んでも類から逃げようと顔を背けた。
 首筋に類の呼気が当たる。熱い吐息だ。
「おい、類……近いぞ。何の冗談だ? 酔ってるのか?」
「冗談に見えるのかい? それとも、冗談ってことにしたいのかな」
「は、」
 視線だけ類に向ける。類は、この十年で一度も見たことがない顔をしていた。冷たい視線だった。それでいて熱に浮かされているような――相反した表情に、喉元まで出かけた制止の声が引っ込んでしまう。
 何よりも。類が泣きそうだと、オレは思ってしまった。
「猫を飼ってるっていうの、嘘だろう?」
――
 驚きに瞬くオレを責めるでもなく、類は自嘲気味に口角を上げてリビングの方を振り返る。
「飼ってると言う割に猫のグッズが何もないし、猫の毛ひとつ落ちてない」
「何を――いや、誰をこの部屋に連れ込んでるんだい?」
 オレは。類に、口で勝てたためしがない。
 どうも人の感情の機微に疎い部分があるようだ。なんせオレは今になってようやく初めて、類の言葉の真意を掴んだのだから。
 疑っている。類は、オレを。そして咎めている。それは罪なのではないのかと。
……怒ってるのか……?」
「怒ってる? どうして?」
「顔がこわいぞ、お前」
……そうかもしれない。でも、誰だって約束を反故にされたら怒るだろう?」
 反故。口の中で繰り返すと、それは自然と腑に落ちた。
「僕はきちんと約束を守ってきたのに。ひどいじゃないか」
 類の手が。いよいよバスローブの中に侵入して、オレは目を剥いた。
「ひっ⁉︎ おおおお前! どこ触ってるんだ!」
 素肌を直に触れられる感触にぞわりと肌が粟立つ。類を押し退けようと肩を押すがびくともしない。
 くそ、偏食でほっそい体をしているくせに。どこからそんな力が出てくるんだ。タッパの差か。そういえば猫のあいつもそうだった。
 臍のあたりをぐっと押されればもう駄目だった。びく、と得体の知れない感覚がオレの体を駆け巡って、類を押し退けるどころかシャツに皺ができるほど掴んでしまう。
 くすぐったいとも違う。痛いとも違う。あまり――認めたくない感覚が。そろりそろりと下から上へ、上っていく。
 友人同士の遊びの域を超えている。類はじっと、やはり探るみたいな眼差しでオレを見下ろしていた。
「まて、……ま、マジで洒落にならんぞ!」
「洒落にするつもりはないからね」
 いよいよ心臓のあたりまで類の手が伸びて、オレは類から顔を背けた。暴かれている。この速すぎる脈動を手のひらで感じて、類は何を思っているのだろう。
 認めたくなかった。肌を滑る類の手が、――気持ちいいなんて。
「う、」
「その顔を……俺じゃない誰かにも見せているのかい」
「~~類! さっきからなんなんだ、……いいや! 最近ずっとだ! お前、変だぞ⁉︎」
 手近にあった枕を引っ掴んで類に押し付ける。その拍子に類の手が離れたので、オレはすぐに開けたバスローブを合わせて類から距離を取った。
「僕が変だと言うなら、君のせいだよ。僕は君のことになるとどうも歯止めがきかないらしいから」
「誰が言ったんだそんなこと」
……寧々」
「寧々……
 約束を反故にした、と類は言った。オレが類と個人的に交わした約束なんてひとつしかない。類は勘違いしているのだ。猫と称して、オレが誰か特別な相手を作っているのではないかと。
 特別な相手も何も、猫の正体は過去のお前だ、なんて言えるはずもなく。挙句、その猫は急に行方を眩ませて現在どこにいるかもわかりません、とも言えるはずもなく。何を言っても今の類には言い訳にしか聞こえないだろう。八方ふさがりだ。
「類、本当に違うぞ。勘違いだ。オレはお前を裏切っていない」
……僕の好意を無かったことにしようとすること自体が、裏切りではないのかな」
 ――ぎくりとした。
「そ、れは……そうかもしれないが」
「否定しないのが、素直な君らしいねえ」
 枕を床の下に落とした類が、再びオレに手を伸ばす。
 頬に触れる。指先は首筋を辿って、頸動脈のあたりを軽く押さえた。
「逃げないのかい。触れてしまうよ。そうすれば僕と君は一線を超える。もう親友なんて言葉では誤魔化せなくなるね」
 そう言って、類はオレの退路を塞ぐ。正直、今すぐにでも類を突き飛ばしてしまいたい気持ちはあった。けれど。
 オレは、結局今も十年前から変わってない。この男を、神代類を突き離せないまま。手を離してやることも、繋いでやることもできずに、ただ類の好意の上に胡坐をかいて座っている。
 オレの自分勝手で無神経な判断が、類の人生を狂わせたというのなら。それはたしかに罪だ。
――触れればいい。それでお前が満足するなら」
……
「キスでもセックスでも、好きにしろ。だがオレは……オレは」
 類の輪郭が滲む。ああ、どうして。どうしてうまくいかないんだ。
 パズルのピースがいつまでもひとつだけ抜けたまま。オレ達は完成されずにいる。どろどろに溶けて、いつか羽化する時を永遠に待つだけの蛹みたいだ。
「どうしてお前は、選りに選ってオレにしてしまったんだ……
「司?」
「オレは、お前と親友でいたい。いつか幸せになるお前を祝福したいんだ。なんでそれをわかってくれない」
……それはあまりにも身勝手な話だからだよ」
 ごち、と。オレの言葉を咎めるみたいに、類が額を強く合わせた。
 ほの明るい月光。薄く差した頬の赤。今なら酔いのせいにできる。オレも類もワインで酔って、正気じゃなかったのだと。……きっと類はそれを許してはくれないだろうけど。
「僕の幸せを他人に定義される謂れはないよ。それがたとえ君だとしても」
「オレは、」
「君が思っているほど、僕は聖人じゃない」
…………いや、オレもお前が聖人だとは微塵も思っていないが……
 雰囲気的に水を差すのはどうかと思ったが、言わずにはいられなかった。どちらかといえば悪魔だろう、お前は。びっくりしてちょっと涙が引っ込んだ。
「だが、……オレはお前を心から尊敬しているぞ」
……そうだろうね。うん。知っていたよ」
 元々。オレが類をワンダーランズ×ショウタイムにスカウトしたのだ。
 初めて出会った日の感動を覚えている。オレを演出するならばこの男しかいないと。きっとこの男ならオレと一緒に素晴らしいショーを作り上げてくれるはずだと。
 果たして。類は変わらず、オレに最高の演出をつけてくれている。過去も今も、おそらくこれから先の未来でも。
 胸に押し寄せるのは、罪悪感だ。オレは酷く傲慢な感情で類を繋ぎとめているのだ。
「君だって、……なくせにね」
「ん?」
 よく聞き取れなくて聞き返せば、類は曖昧な表情でゆるく首を振った。ぬるい体温がオレの頬を掠めていく。
……いいよ。もう寝よう」
「いや、なんでこの流れでお前まで一緒に寝ようとするんだ。客室にいけ。それかソファーで寝ろ」
「ひどいなあ、客人をソファーで寝かせるのかい?」
「ぐっ、ならオレがソファーに行く!」
 類の体を押し退けて起き上がろうとすると、類はオレの手を掴んでまたベッドにオレを押し倒した。大人の男ふたり分の重さを受け止めて、ベッドが大きく上下に弾む。
「一緒に寝よう。頷くまで離さないよ」
 耳元から脳まで届く甘ったるい声。
 類の甘える声に弱かった。「お願いだよ」とでかい図体してるくせに上目遣いで言われたら、オレはいつも諾以外の返事を選べなくなってしまう。
「だー! わかった寝てやる! 寝てやるからはーなーせー!」
 ただし寝るだけだぞ! と念を押せば、類は頷いて、オレごとその身を掛布団で包み込んだ。
「お前は本当に昔から頑固者だな……!」
「君だって頑固だ。だからお互い様だよ」
 そうだろうか。そうかもしれない。
 オレ達はまだ、十年前のあの日に囚われたままなのだから。
「類」
「うん?」
 時の流れは残酷で、人の心は移り行くものだ。だけど。
 咲希は今も幼馴染達と楽しく毎日を謳歌している。
 彰人と冬弥も、変わらず相棒のままだ。
 えむと寧々も変わらない。
 オレと類だって。
「男二人で添い寝は、やはりおかしくないか?」
「おかしくないよ。僕は君が好きなんだから」
 背後に感じる類の体温。さらりと髪を撫でる手。オレは類から顔を隠すように、ベッドのシーツを握りしめた。
 捨て切れない何かが、再び芽生えようとしている。
 
 ひょっとすると猫は、もう帰らないのかもしれない。