猫澤
Public
 

キャットウォークと月



 一度だけ、オレは親友との距離感を見誤ったことがある。

――タイムカプセル?」
「うん! 司くんと類くん、もうすぐフェニックスワンダーランドのキャスト辞めちゃうでしょ? 離れ離れになっちゃうのさみしいから……
「ふむ。いいんじゃないか?」
 オレと類の卒業を間近に控えた二月。赤くかじかむ指先で、えむが鞄から取り出したのはオルゴールの箱だった。
 脚本、演出、照明、大道具。目前に迫る三月の公演は、オレと類の卒業公演も兼ねている。
 最終調整も大詰めの段階で、一抹の寂寥と未来への不安。それ以上に期待が込められた大舞台。全員が全員、気合を入れて準備に取り組んでいた。だからこそ成功しないはずがないと、オレはこの時から既に確信を持っていたのだ。
 随分と長い間この四人で駆け抜けてきた気がしている。
 思い出と。未来の約束が欲しいのだと言うえむの言葉に、頷かない者などこの場にいない。それほど、オレ達はこのステージを、
 ――ワンダーランズ×ショウタイムを愛していた。
 どうしたって後ろ髪をひかれてしまう。小さな子供のように、まだこの四人で観客を笑顔にしたいと願ってしまう。けれどそれは、甘えだ。オレ達はまだ高みを目指せるのだから。手を伸ばさないのは驕りだろう。
 えむがオルゴールの箱を開く。当然、中は空っぽだった。何でもいいのだとえむは言う。入れるものがないなら手紙でもいい。声でもいい。
 オレは「ふむ」と顎に手を当て、隣に立っていた寧々に視線を落とした。
「寧々は何を入れるんだ?」
……ツカサリオンの台本、かな。……まあ、悪くない思い出だし」
「ほう? フフ……はっはっは! なんだお前、ようやく素直にあの脚本の良さを認める気になったか! 可愛い奴め!」
……やっぱ違うのにしようかな……
「何故だ!」
 えむはもう何を入れるか決めているらしく、四色のフェニーマスコットをオルゴールにぎゅうぎゅうと詰め込んでいる。既にマスコットだけでスペースが埋まってしまいそうな勢いだ。
 見切り発車というかなんというか……オレはもっと軽めのものにするか……と周囲を見渡して。ふと、類の姿が目に留まった。
 類は、ぼんやりと空を見上げていた。何か浮かんでいるのかとオレもそれに倣って天を仰いでみるが、雲ひとつない青空がただ広がっているだけだ。
 いや。よく見れば、真昼の月が見える。霞むほど儚く、存在を主張しない月。
 何故か類のようだと思った。類は、ショー以外のことになるとからきしだ。まったく自分を主張しない。まるで傍観者、あるいはモブの一部に成りきっているように。
「類は?」
「ん?」
「タイムカプセル。何を入れるんだ? 早く決めないと入れるスペースがなくなるぞ」
「それは大変だ。でも内緒だよ。そういう司くんは、何を入れるんだい?」
「オレは……
 ざあ、と。木々がざわめき、オレと類の間を風が吹き抜けていく。
 類の、色の違う髪が靡いた。光を反射するターコイズのピアス。出会ったときからずっと、類はそれを大事につけている。
 例えばの話。
 手を伸ばし、その頬に触れたなら。きっと温かいのだろう。
 悪戯っぽく笑う顔も、猫のように輝く瞳も。神代類という男の魅力を語るに欠かせない。もし、もしも類が役者の道を選ぶというのなら、オレはこんな気持ちにならずに済んだのかもしれないと思うのだ。
……類が言わないなら、オレも内緒だ」
「おや。意地悪だなあ」
「どっちがだ!」
 類がくすりと笑う。衒いのないその表情に、不自然に鼓動が跳ねた。
 彼は特別だった。オレには少なからず友人がいたし、クラスメイトとも良好な仲で、後輩にも恵まれている。けれど神代類という男をカテゴライズするには、友人では薄っぺらすぎて、仲間と呼ぶには一線を踏み越えていた。
 だからオレは親友と呼ぶことにしたのだ。神代類を。そう、線引きした。
「もうじきこのステージともお別れか……
「寂しいかい?」
「まあ……なんだかんだで愛着があるからな。だが、オレはこのステージに誓おう。必ずスターになって、またここでステージを披露する!」
……
「そのときはえむと寧々、……そしてお前も一緒だ、類」
……いいね。ワンダーランズ×ショウタイム、再生の時だ」
 再生。類が発したその言葉に、それはいい、とオレは大きく頷いた。この別れは、終わりじゃない。オレ達は終わりを迎えてもまた何度でも踊り、歌い、羽ばたける。行進は続く。オレが先導する限り、それはずっと。
「ねえ、司くん」
「ん?」
「僕は……夢に向かって前進する君を、好ましく思うよ」
「おお……そうか! お前に言われるとなんだか照れくさいな」
 観客用のパイプ椅子から、類がゆっくりと腰を上げる。
 オレは立ち上がった類を見上げた。逆光で、表情を上手く読み取れない。怒っているようにも、泣いているようにも、笑っているようにも見える。
――
 るい、とその名を呼ぼうとして。音にならずに消えていく。
 縋るように、類がオレの手を掴んで。
 影が落ちる。少し屈んだ類に合わせるように、それが自然であるかのように、オレは少しずつ瞼を下ろした。
 唇に何かが触れる。控えめに重なったそれは、音もなく静かに離れていく。オレはようやく、隠していた琥珀に類を映した。
 感情は動かなかった。事実として、類が触れた感触だけがそこに残っている。
……何故キスをした?」
「何故だろうね。君はどうしてだと思う?」
……オレのことが、好きだからか」
「そうかもしれない。司くんにしては鋭いじゃないか――
 類からワンダーステージへと視線を移す。えむと寧々は愉しそうにオルゴールの中身を考えてはしゃいでいる。
 凪いでいた。心のどこかではわかっていたのかもしれない。
 類はオレが好きだ。今日、自惚れは確信と成った。けれど、オレはそれに気づかないふりをしていたかったのだ。
 繋ぎとめようとする手を振り払うことはできない。じわじわと侵食する類の恋心は、広く寛大な気持ちで受け止めよう。だけどそれだけだ。それ以上は望まないし、望ませない。
 スターになるのが昔からの夢だった。大事な人を笑顔にする。それがオレの目標で、生き甲斐で、天馬司という男を形成するアイデンティティだ。
 そこに、類が入る余地などあるはずもなく。
「類。オレは――
 指先を繋ぐ手に力がこもる。直視できなかった。
「司くん。……司。返事は今じゃなくていい。君は、夢を叶える以外のことに目を向ける余裕はないはずだ」
……そうだ。だから、……んむ」
 お前の望みを叶えられない。そう続けようとしたオレの唇を、類の人差し指が止めた。
 触れ合えば、わかってしまう。僅かに震えたその指に。
「僕にも夢を見させてくれないかい。君が夢を叶えたそのときに、隣に立つのは僕がいいんだ」
……
「君がスターになるまででいい。どうか特別な人を作らないと、約束してほしい」
 センチメンタルな気分になってしまうのは、季節のせいか。寒さのせいか。それとも、この期に及んで心動かされてしまったオレのせいか。
「オレは」
「うん」
「スターになるまで、誰のものにもならない」
 言い切ると、類は「うん」と柔らかな声で頷いた。恋に苦しみ、藻掻き、そして報われてしまった男の顔だ。類のこんな顔は初めて見た。オレは類に、こんな顔をさせてしまった。
 神代類は、親友だ。そうでなければ壊れてしまう。オレ達は脆く、未熟で、ある側面から社会不適合者だから。
 その輪からはみ出たとして、互いだけで体を支え合うことは出来ない。強く望んでも。愛していても。
「先の長い話だぞ」
「いいよ。長期戦といこうじゃないか」
……馬鹿なヤツだな」
 時の流れほど残酷なものはないというのに。
 類は過ちを犯した。だからオレも、そうすることにした。
 この男がオレの唇に触れたのは、以来八年、これっきりだ。

 ◇◆◇

 我が家に猫が来て、早くも一週間が経過していた。
 街中はクリスマスやら年末年始の備えやらで賑わっている。飾り付けられたディスプレイ。色とりどりの玩具に、イルミネーション。クリスマスツリー。行き交う人々の、浮足立つ声。
 どこかの店舗から、人気アイドルグループ『MORE MORE JUMP!』がいつだかにリリースしたクリスマスソングが流れている。
 妹の咲希が口ずさむのを聴いていたから、オレも自然と覚えてしまっていた、ラブソング。
「~~♪ ♪ ♪……
 メロディを口ずさむと、通りかかった女子高生がこちらを振り返った。
 ねえあれ、天馬司じゃない? なんて、黄色い声を上げる彼女達に、昔のオレなら「そうとも! オレこそが天馬司! ショーの神に愛されショーを愛する男!」と声を張り上げていたに違いないが。今のオレは一味違うのだ。
 変装用の眼鏡を少しずらして、ぱちんとウインク。口元に人差し指を当てれば、まだ幼い少女達は顔を赤らめて見惚れる。
 完璧だ。完璧すぎるファンサービス。己の才能に自分で恐ろしくなってしまう。彼女達は恋に落ちてしまったかもしれないな。
「と。こうしてる場合じゃなかった。急がねば!」
 人混みを掻きわけスクランブル交差点を駆ける。目的のカフェの前に辿り着くと、いくつになっても愛らしい我が妹――咲希は鼻を赤くしながらオレの到着を待っていた。
 ――ああもう、店の中で待っていろと言ったのに!
「咲希!」
「あ、お兄ちゃん! おそーい!」
「すまん! だが少し遅れると連絡しておいただろう? こんなに体を冷やして……風邪でも引いたらどうするんだ」
「お兄ちゃんてば……アタシもうどこも悪くないんだよ? これくらい平気! それよりも……
 恋の色に染まる淡いクリームの髪がふわりと揺れる。にこり。咲希は春のかんばせを綻ばせて、勢いよくオレの腕の中に飛び込んだ。
 鼻腔を擽る甘い香り。鼓動を、生命の温度を、輪郭を噛みしめる。
「会いたかった! 最近どう? お芝居楽しい?」
「ああ! 咲希のバンドも良い調子じゃないか!」
「えへへ。まさかアタシ達がメジャーデビューするなんて、バンド結成した当時は思わなかったなあ……
 高校時代に妹が幼馴染達と組んだというバンド――『Leo/need』は、長年の努力が叶って昨年メジャーデビューを果たした。体の芯に響くような力強いメロディと、心を揺さぶるキャッチーな歌詞が特徴的なロックバンドだ。
 咲希と並んでカフェの中へ入る。店内はクリスマスで混雑していたが、予め咲希が席を予約してくれていたのでオレ達はすんなりと奥の席へ通された。
 ここ、今人気のカフェなんだよ、ずっと来てみたかったんだあ、と少しだけ間延びした声で咲希は軽やかに笑う。
「一歌達は? 元気なのか?」
「うん! みんな元気だよ。四人でルームシェアするのも楽しいし、毎日幸せ!」
 そうか、と微笑んだ。
 病気で臥せがちだった咲希が快復して、高校でようやく幼馴染と再会したときの――些細なすれ違いで落ち込んでいた咲希を覚えている。
 オレにはオレの、咲希には咲希の人間関係があって、人生がある。悩む咲希を励ますことはしても、互いに干渉しあっていいものではない。そのあたりはきちんと弁えているつもりだ。
 でも。選んだ道の先が、咲希が笑顔になれる未来であったことを嬉しく思う。
 幼い頃、咲希に笑顔を咲かせるのはオレの役目だった。だが今は、オレ以外にも咲希を笑わせてくれる人達がいるのだ。
「お兄ちゃんは? たしか今度の舞台、るいさんが演出をするんだよね?」
「あいつがオレの舞台を演出したがるのは今に始まったことじゃないけどな……
「ふふ。相変わらず仲良しだよね、るいさんと」
 ピンクソーダの瞳を伏せて、咲希の指先がタブレットをなぞる。
 自分の分のココアと、オレの分のカフェオレ。それだけでいいのか、と首を傾げれば、今夜は一歌達ともケーキを食べるからいいのだと言う。ケーキの代わりにパフェでも何でも頼めばいいのに。年ごろの娘らしくカロリーを気にしているらしい。
 類との仲は、特に否定も肯定もしなかった。実際仲は良い。でなければ、十年も付き合いが続くはずもない。疎遠になった友人は多いが、変わらず類はオレの親友のままだ。
 ――あの日。ファーストキスを類に奪われたあの時以来、類との関係は平行線を辿っていた。
 十年という月日は長いようで、あっという間で。でも、人の心が移り変わるには十分すぎる時間だ。
 足を組む。いい加減、もう時効だろうと思う。若気の至り。あるいは気の迷いだったと類だってとっくに気づいているはずだ。
 類の孤独を知っている。幼馴染の寧々でも、旧知の仲である暁山にも癒すことのできなかった孤独。たまたま、オレはそれに触れてしまった。同じ熱量で好きなものを語り合う歓びを、類の望む世界を再現する気概を。偶然オレが教えてしまったのだ。
 刷り込みだ。雛が、最初に目にした相手を親と思うように、類はオレに恋をしているのだと勘違いしている。
 届いたカップに口を付ける。――温かいカフェオレが喉から染み渡っていく。
 オレはおそらく、正しい選択をした。スターになるまでオレは誰のものにもならない。あれはオレよりも、むしろ類への猶予であるはずだった。スターになる道のりが長く険しいことは、学生の頃のオレにだってわかっていたのだから。
 だのに、オレはいつまで……後悔しているのだろう。
 友情と恋の違いを知っているだろうか。オレは妹を見て、おのずとその答えに気が付いてしまった。友情は結ぶもの。恋は散るものだ。本当に好きなら。愛しているなら。互いの幸せを望むなら。
 苛烈な恋に溺れるなど、愚か者のすることだろうに。
 オレにはささやかな未練がある。あの日もしも類の気持ちを受け入れていたら、今この場にいたのは咲希ではなく類であったかもしれない。そういうことを夢想しては、冷めた現実に落胆し、これからものうのうと生きていくのだ。
 猫が羨ましい。本心でそう思う。
 カフェの窓際をふと見ると、家族連れがいた。まだ幼い子供がオルゴールで遊んでいる。
 ……そういえば、えむ達はタイムカプセルのことを覚えているのだろうか。もうそろそろ開けてもいい頃合いだと思うのだが。
……ん? いや、それ以前に)
 オレ達は、……オレは、タイムカプセルをどこに埋めたのだったか。
 どうにも先日から記憶に靄が掛かって気持ち悪い。意図的に忘れさせられているような、脳の四隅を何かでしっかり固定されているような、不自然な違和感が過ぎる。
……なあ咲希。覚えているかわからないが……オレが高校を卒業するときに、タイムカプセルの話をしただろう」
「タイムカプセル? んー……うん! 覚えてるよ。みんなの分もまとめてお兄ちゃんが埋めることになったから責任重大だー、みたいなこと言ってたよね?」
「そのタイムカプセルなんだが……オレがどこに埋めたか知ってるか?」
……えっ? 知らないけど……もしかしてお兄ちゃん、忘れちゃったの⁉︎」
「しー! 声が大きいぞ!」
 近くのテーブルの客の視線が集まる。目立つのは好きだが、こういう目立ち方は良くない。ああほら、オレが天馬司であり、咲希が天馬咲希であることに気づいてしまった客がちらほら見える。
 これではゆっくり話もできないと、オレは咲希の手を引いて席を立った。
 手早く会計を済ませて店を出る。視界の端に映る、白い影。寒いと思ったら雪が降り始めていたのか。吐き出した息が広がって、あっという間に霧散していく。
「ごめんねお兄ちゃん、急がせちゃって」
「いや」
 むしろ丁度よかったかもしれない。オレは鞄から包みを出して、咲希に差し出した。毎年贈り合うクリスマスプレゼント。今年の中身は手袋だ。
「今年もありがとう、お兄ちゃん」
「こっちは一歌達の分だ。帰ったら渡してくれ」
「えっ、おそろい? いいの?」
「引っ越し祝い、まだ渡せてなかっただろう?」
……えへへ。うれしいな」
 はにかむ咲希の頭を撫でて、オレ達は駅へとゆっくり歩き始めた。
「そういえば、タイムカプセルの話だけど――
「ん?」
「さすがに埋めた場所まではわからないけど、あの時のお兄ちゃん、思い詰めた顔してたなあって」
……
 ふわり。吐く息を纏わせて、半歩先を歩きながら咲希は空を見上げた。
 重く沈んだ冷たい空。耐えきれず零れる牡丹雪は、明日、この街を覆うほどに降りしきるだろう。妹の肩を抱いて、なるべくその体が冷えないように引き寄せる。
「そんな顔してたか?」
「卒業が寂しいのかなーって思ったんだけど、そうじゃないみたいだったし、アタシから聞くのも変かなあって思って言わなかったんだけどね」
……
「あ! そうだ! 『絶対に誰にも掘り返されない場所に埋めてくる』って言って、お兄ちゃんが家を出て行ったの、覚えてるよ!」
「絶対に誰にも掘り返されない場所か……
 我ながら難しいことを言う。類あたりに聞けば何かわかるだろうか。どうもあの頃、オレ達はどこか秘密の場所に頻繁に出入りしていたような記憶がうっすらとあるのだ。
 陽気な音楽。大きな観覧車。空を舞う風船。喋るぬいぐるみ――喋るぬいぐるみ?
 何故、今、咲希が昔大事にしていたぬいぐるみを思い浮かべたのだろう。
「お兄ちゃんはタイムカプセルに何入れたの?」
……なんだろうな?」
「それも忘れちゃったの? お兄ちゃんってば……
 咲希の呆れた声が雑踏の中に吸い込まれていく。何か大切なものを、見落としているような。オレは、そう、オレはたしか。
 あのオルゴールに――封じたのだ。
 ――何を?

  ◇◆◇

「ただいま。……類ー? いないのかー?」
 自宅のスマートロックを開錠して。玄関から体を滑り込ませれば、暗い室内がオレを出迎えた。反響する時計の音。人感センサーで動き出す暖房。どうやら類はまだ帰っていないらしい。
「よくもまあこんな日まで外を出歩けるな……
 最近の類はすっかり鳴りを潜めていたが、よくよく思い返せばあいつは一度没頭すると周囲が気にならなくなりがちだった。暑くても寒くても、人がいてもいなくても。たとえ、雨に濡れても――
…………
 一瞬。数日前、マンションの下でずぶ濡れで立ち尽くしていた類の姿を思い出して、ぞくりと震えた。
 オレを認識したその時の、縋るような眼差し。大切な玩具を壊した子供のような。大好きな母においてかれた、迷子のような。突然未来へ来てしまったというのだから、不安は当然と考えるのが妥当だけれど。
 果たして、神代類とはそんな男だっただろうか。
……考えすぎか?)
 がしがしと頭を掻く。まあ。放っておいても、どうせ暗くなればそのうち帰ってくるだろう。なんせあいつは猫なのだし。
 そんなことよりも夕飯の支度だ。
 キッチンには昨夜から仕込んでおいたチキンとシチューがある。帰路の道中買ってきたケーキは冷蔵庫にしまって、オレは流し台のコックを上げた。
 水が流れていく。なめらかに、一切の滞りもなく。
 この家の物は自由に使っていいと類には言っているが、キッチンだけは、オレだけの城だった。
 だからだろうか。類がこの部屋に住み始めてすぐに、居候の礼だと作っていた家事ロボットの数々は、翌日には姿を消していた。
 オレに不評だったからと処分したのか、それともどこか別の場所で保管することにしたのか。実際使う機会もあまりなさそうだったのでいいのだが、ホットサンドメーカーくらいは使ってやっても良かったのに。と今更げんきんなことを思う。
 夕飯は、類が帰ったら温めて一緒に食べるとして。風呂の用意を済ませてしまえば一気に手持ち無沙汰だ。
 一息ついたオレは、ソファーに深く腰掛けて、適当にテレビを映した。
 テレビはどの局もクリスマスにちなんだ映画やバラエティ番組が流れていて、それらを意味もなく眺めているうちに、だんだんと眠たくなってくる。
 暖かい室内に、程よい雑音。
――……
 うとうととオレが舟を漕ぎはじめると、見計ったように手元のスマートフォンから玄関開錠の通知が鳴った。――類だ。
 この家の鍵はマスターキーのほかにオレのスマートフォンとスマートロックの子機しかなく、子機の方は類に預けている。
 リビングの扉が開いたところで、オレはゆっくりと顔を上げた。半分寝ぼけていたから目がしぱしぱだ。子供のようにむずがり目をしばたかせるオレを見て、類がフフ、と笑みを零した。
「司くん。起こしてしまったかい?」
「いや、うたた寝してただけだ。くぁ……
 両腕をあげて欠伸をするオレの頬に、類の手が伸びる。冷たい。冬場のこんな時間まで外をうろついていたのだから当然だ。
 おかえり、と雪で濡れた類の頭を撫でると、類は一瞬またたいて。ふわりと、表情を和らげた。
「今日の散策の収穫は?」
「フフ。実は、元に時代に戻る方法が見つかりそうだよ」
「何! 本当か⁉︎」
 一気に目が覚めた。
 思わずソファーから立ち上がって類を見ると、類は「うん」と目を細める。
「まだ部品の調達に暫く時間がかかりそうなんだけどね。でも、早ければ年末……遅くても新年には帰れそうかな」
「そうか……。良かったじゃないか!」
「ありがとう。司くんのおかげだよ」
「フハハハ。感謝するといい! ……と、言いたいところだが。オレがしたのは衣食住の提供くらいだ。よく頑張ったな、類」
「いやいや十分、助かったよ。やっぱり未来の司くんも司くんだね。頼りになる」
 貸していたオーバーサイズの上着を脱いで、類はそれを丁寧にハンガーラックに掛けた。頼りになる。心中で反芻して、思わずその姿をまじまじと見つめてしまった。
「頼りになっていたのか。お前にとってオレは」
「ん?」
「いや……
……
 類は口先がうまい。オレが乗せられやすいのもあるだろうが、頭の回転が速いからこちらの反論を待たずに簡単に言いくるめてしまう。それでいていつも一歩引いて冷静だし、物事を俯瞰して見ていてくれる。
 頭に血が上りやすいオレを諌めるのはいつだって類で、オレばかり、類を頼っているのではないかと。一方的に支えられているのではないかと。ずっとそう思っていたから。
 例え口先だけの言葉だとしても。少し、……救われてしまった。
――
 蜂蜜色の瞳がじっとオレを見つめる。そのうち二本の腕が伸びて、オレの体をふわりと抱きしめた。
 男の体だ。十も年下の男に抱きしめられて、思うところがないわけでもない。
 猫がじゃれるのとは違う。類は多分、この年頃の時からオレのことが好きだったのだ。やんわりと窘めるつもりで肩を押した。くそ、腹立たしいほどぴくりともしない。野菜食わないくせに。どこからそんな力が出るんだ。
……おい。類」
「アニマルセラピーだよ、司くん。疲れた顔をしていたからね。癒されるだろう?」
「お前はアニマルじゃないだろうが!」
「おや。こんなにかわいい猫ちゃんを差し置いて、つれないねえ、司くんは」
「全国の本当にかわいい猫ちゃん達にごめんなさいしろ」
 梃子でも動かないつもりか。
 類はどうやら離す気はないらしく、すっぽり腕の中に収まってしまった自分を情けなく思えばいいのか――そのぬるい体温にひどく安心してしまって、こちらも抵抗する気が失せてしまったことを嘆けばいいのか。
 我ながら、未練がましくて笑い話にもならない。
 やれやれと大袈裟にため息をついてみせたのは、虚勢だった。頬にかかる類の髪が擽ったい。一体、こんな状況でどんな顔をすればいいというのだろう。
 オレもあの日、あの時、抱きしめてやればよかったんだろうか。
「ねえ、司くん。これは僕が言うべきことなのか……迷ってたんだけどね」
 顔を上げると、存外近くでその端正な顔がオレを覗き込んでいた。
「司くんって、大局を見据えるあまり目的を忘れるタイプだよねえ」
……貶しているのか?」
「フフフ……
「貶しているんだな!?」
 意味深な笑みだ。意趣返しに類の両頬を抓れば、いひゃい。いひゃいよつかさくん、とだらしない顔で類は訴えた。
「でも実際そうだろう? クリスマスの日まで仕事を詰め込んで、自分の体を切り売りする理由はなんだい?」
「そんなもの、早くスターになりたいからに決まってるだろう」
「スター。スターね……
 類の腕が離れる。隣に深く座り込んで、「おかしなことを言うね」とテレビのリモコンを拾った。
 画面いっぱいにオレの姿が映る。何年か前に放送されたテレビドラマの再放送だ。今はネットドラマが主流になりつつあるとはいえ、その年の最高視聴率を叩き出したモンスターヒットドラマ。
 ……主演は、オレで。演出は類だった。
「君はもう国民的スターじゃないか」
「いいや……、オレはまだまだだ……
「そう言って問題を先送りにして、君はただ現実から目を逸らしてるだけなんじゃないかい」
……!」
 勢いよく振り返れば。金に光る眼差しが、オレの体を貫いていく。
 瞳が揺れた。動揺のあまり凝視するオレを、類はじっと見下ろしている。紫陽花の、髪の一房がさらりと落ちて――オレは少しだけ、逃げ場のないソファーの上で後ずさった。
 類は、薄く笑っていた。
 心の柔いところを鋭いフォークで突き刺された気分だった。喉が緊張でひりつく。構わず覆いかぶさる類の、胸元に手を当てる。
「どうして、思い出せないんだと思う?」
「何を……
「どうして、……忘れてしまったんだと思う?」
 目を見開いて。俯いた。どうして。そんなことはこっちが聞きたい。どうして、お前が。――それを知っているんだ。
「お前……本当に、過去から来た類か……?」
……
 類は答えない。代わりに、唇が弧を描く。
 オレ達は暫く見つめ合っていたが、先に目を逸らしたのは類だった。
……僕が呼んでるよ」
「は?」
 ソファーの下を指さされる。視線を落とせば、いつの間にか床に滑り落ちていたスマートフォンが静かに震えていた。
 ディスプレイには「神代類」の文字。げ、と眉を寄せる。タイミングが悪い――ちら、と類を見て、口を噤む。
「とらないのかい?」
 先ほどまでの不穏な空気は微塵も感じさせない、年相応の無邪気な顔で。類はこてんと小首を傾げた。スマホと、類と、交互に見て。そっとスマホに手を伸ばした。
 ――これ。普通にとって大丈夫なのだろうか。
 念のためホログラム機能はキャンセルして、音声のみで着信をとった。沈黙の後に、息をのむ音がする。
「もしもし。……類?」
『やあ。すまないね、こんな時間に。もしかして寝てたかな』
……いや。どうした? お前が電話なんて珍しいな」
 いつもは用事があってもメールかメッセージで端的に済ませることが多い男だ。それが突然電話を掛けてくるとなると、なんとなく身構えてしまう。
 類は「うん……」と曖昧に頷いて、大したことはないんだけど、と。類にしては珍しく保険のように続けた。
『ちょっと声が聞きたくなってね』
「はあ?」
『ほら、今日はクリスマスだろう?』
 たしかにクリスマスだが。
 遅れて、じわじわとこっちが照れてくる。ちょっと声が聞きたくなってね。じゃない。さすがに、オレのことが大好き過ぎるだろう、それは。
「お前、そういうのは彼女か何かに言う台詞だぞ……
『彼女なんていないよ。君もよく知ってるじゃないか』
「いや、まあ……そうなんだが……
 だからって男友達に言うか? 普通。……いや、類に普通を期待する方が間違ってるのかもしれないが。それにしたって距離感がガバガバだ。
 ――ふと、何気なく。
 本当に何気なく、オレは後ろのソファーを振り返って。目を見開いた。
 いない。
 いないのだ。そこに座っていたはずの、類が。
……は?」
 今。たった今まで、そこに座って会話を交わしていたはずなのに。思わずソファーに手を当てる。温度が、ない。
 急に悪寒が走って、オレは早足に類が普段使う客室を覗いた。いない。寝室。いない。玄関――
――いない」
 バルコニーにも、だ。
「どこに行ったんだ、あいつ……
……誰かと一緒にいるのかい?』
「え? ……あ、ああ。猫がな! 猫が、……いたんだが」
『ああ、猫のポチくん……
 心臓がどくどくと鳴っている。ふらりと力なくよろめいて、再びリビングの中心で立ち尽くす。
 そもそもだ。何故、おかしいと思わなかったのだろう。類が。あの、作業にすぐ没頭して夢中になって部屋の片づけを一切しない類がだぞ。人の家とはいえ宛がわれた客室をこんなに綺麗に使うだろうか。
 押し入れには畳まれた布団。使われた形跡はない。そこではたと気づく。
 オレは。
 ――この一週間で、類が眠るところを見たことがあったか。
……類、すまないがまた後で掛け直してもいいか?」
『嫌だよって言ったら?』
「お前……こんなところで一人っ子のマイペースワガママっぷり発揮するんじゃない!」
『フフ。それはドがつくほどの偏見だねえ』
 知れずと声に焦りが乗ってしまうのを、類はどう思っただろう。
 昔よりいくらか低く落ち着いた声が、スピーカー越しにオレの鼓膜を震わせる。
『いや。少し確認したいだけさ。昔……僕とした約束を覚えているかい?』
……心当たりが多すぎてまったくわからん。どの話だ?」
『スターになるまで、君は誰のものにもならないって言った話だよ』
……
 どうして今。お前までその話を蒸し返すんだ。
 顔を顰める。思考が、歪む。何か。何か大切なことを、オレは忘れているんじゃないか。類は、猫は、何と言っていた?
 ――「どうして、……忘れてしまったんだと思う?」
 どうしてだと。こっちが聞きたい。……お前は何を知ってるんだ?
……覚えてる」
『そう。ならいいよ。……おやすみ、司。週末のデート楽しみにしてるね』
「ええいやかましい! デートじゃない! おやすみ!」
 甘ったるい声で囁かないでほしい。混乱してしまう。オレは勢いよく通話を切ってソファーにスマートフォンを投げつけた。
「くそ……いくつであろうと類は類ということか……
 どれだけ人の心を掻き乱せば気が済むというのだろう。わけがわからない。忽然と音もなく姿を消した類も、今になって思い出したみたいに親友の距離感を超えてこようとする類もだ!
 ソファーの背に背中を預けてその場にしゃがみこむ。冷えた温度が背中越しに伝わってくる。
 ひょっとしてオレは、夢でも見ているのか。だとするのなら、一体どこからが夢で、どこからが現実だった?
 おもむろに。顔を上げて、窓を見る。外はまだ雪が降っている。きっと明日、この街は一面白に覆われるだろう。
 デートだとか言っても、類の言葉にきっとそこまでの他意はない。そうだ。オレと、類は、親友で。これからもそれは変わらない。変えない、と言い聞かせる。
 例え何を忘れていようとも――とうの昔に心は決めているのに――類はまだオレのことを好きなんじゃないだろうかと、期待して。それに少し、安堵してしまっている自分が尚のこと悔しい。人の好意の上に胡坐をかいて何様のつもりだ。
 仕事があれば。
 仕事をしていれば、忘れていられた。大局を見据えて目的を忘れる――それはたしかに、類の言う通りだ。オレは今、おそらく、未練を断ち切るためにスターを目指している。
 では、オレがスターになったら? そのあとは……
……頭が痛い)
 沈黙するスマートフォンを拾い上げれば、ディスプレイが白く光った。
 投げた拍子に誤作動を起こしたのか、音楽アプリが開かれている。
 オレは、そのまま画面を閉じようとして――
……ん? 『Untitled』……?」
 ふと、手を止めた。