猫澤
Public
 

ブレーメンの音楽隊


 吐く息が白い。
 けれど、どこからかともなく人の話し声が聴こえてくるだけで自然と寒さも和らぐのはなぜだろう。声には温度があるということか。
 お気に入りのマフラーに顔の半分を埋めながら、喧騒を頼りに目当ての店の暖簾をくぐる。
 完全個室の居酒屋は飲み屋らしく騒がしかったが、足元をライトが仄かに照らし、壁にかかった絵画も、飾られたバレエの人形も、店内に流れる音楽も。全体的に暖かみのある雰囲気だ。
 えむと寧々が最近気に入っている店と聞いてはいたけれど――たしかにおしゃれでいい感じじゃないか。独り言ちて、カウンターから顔を出す店員に会釈した。
 ひとまず先に来ているであろう彼女達に到着を伝えるため、スマートフォンをコートのポケットから取り出す。
 けれどそれもすぐに意味のないものとなることを悟った。
「おお〜い! 司くん! こっちだよ、こっちこっち!」
……ええい。そんなに声を張り出さんでも聞こえるぞ、えむ!」
 少し離れたところの個室から、ひょこりと顔を出す桜色。その春の木漏れ日のような眩しさに、思わず笑って歩を進める。一応こちらは有名人なのだが――相変わらず声が大きい子だ。
 靴を脱いで間仕切りを越えれば、今度は視界に飛び込む若葉。寧々だ。
 寧々は眺めていたメニュー表から視線を上げて、ひとつも表情を崩さずにオレを捉えた。
「あ。司、来たんだ」
「えむも寧々も久しぶりだな。元気にしていたか?」
「まあ、それなり」
「はいはいはーい! あたしも元気! いっぱい元気だよ!」
「だろうな……
 むしろえむが元気じゃなかったところなんて、この十年でほとんど見たことがない。おなかを空かせてへろへろになっているところなら幾度となく見ているが。
 久しぶりの再会が余程嬉しいのだろう。揺らぐランプの光に照らされながらニコニコと笑っていたえむだったが、不意にほんの少し眉を下げてオレの顔を覗き込んだ。
「司くんは元気じゃない……? お仕事、忙しい?」
「そうだな……だが忙しいのはお互い様だろう。寧々、先日の舞台、素晴らしかった。千秋楽おめでとう!」
「ん……ありがと」
「えむも、鳳財閥でのこと聞いているぞ。えらいじゃないか!」
「えへへ。でも着ぐるみさん達もいてくれるから、お勉強もとーっても楽しいよ!」
 高校卒業後。
 寧々は劇団に入団し、変わらず繊細な歌声を数多のステージホールに響かせている。先の舞台公演は満員御礼。過去のトラウマなど微塵も思わせない堂々とした歌姫の佇まいは、かつての同僚としては喜ばしく、同業者としては悔しい思いをさせられた。
 えむは将来的にフェニックスワンダーランド、および鳳財閥が抱える事業の経営を継ぐつもりらしく、着ぐるみ達とキャストを続けながら勉強中の日々だ。
 そしてオレと類は言わずもがな。役者と演出家、それぞれの道を歩んでいる。
 ――国内最大規模のテーマパーク・フェニックスワンダーランドをかつて賑わせたショーユニット。ワンダーランズ×ショウタイムは、オレ達四人の進路をきっかけに、事実上の解散となった。
 聞くところによると、オレと類が抜けてからもえむと寧々は時折活動を続けてくれていたようだが――しかしそれも、二人だけでは出来ることに限界があったのだ。
 二年という短い期間だったけれど、祖父が遺したワンダーステージを自分達の手で再び輝かせることができた。それだけで十分、かけがえのない思い出だと――最後の公演に幕を下ろしたあの日、えむが涙を浮かべて笑っていたのが忘れられない。
 笑顔の絶えないステージだった。オレの青春だった。
 ユニットを解散はしても、仲間の絆が失われたわけではない。今でもオレ達四人はたまに、互いの近況報告がてらこうして集まっては、思い出話に花を咲かせている。
 オレはえむと寧々の二人とは対面する方の席について、そういえば、と顔を上げた。
「類はどうした? 先に三人で飲んでいたのではなかったのか?」
「類なら少し飲み過ぎたって言って店の外で酔いさましてる。会わなかった?」
「そうか。気が付かなかったな。……あ、すみません。カシスオレンジひとつお願いします」
 外が寒すぎて急ぎ足になっていたから、周囲に気を配る余裕がなかったかもしれない。
 ちょうど個室の前を通りがかった店員に声を掛けて、マフラーと変装用に掛けていた眼鏡を外す。
「あ! 噂をすればだよ〜! 類く〜ん!」
「席を外してすまないね二人とも……おや。司も合流していたんだね」
「ああ。お疲れ、類」
「うん、君もお疲れさま」
 声がして振り向けば、鼻を赤くした類がオレを見てにこりと笑った。この寒さの中コートも着ずに外に出ていたのか、こいつは。思わず呆れてしまう。
 類はこの歳になっても相変わらず緩い格好を好んでいるようで、ゆるゆるのセーターの袖から指先だけを出してオレの隣に滑り込んだ。
 昔と違うのは、肩まで伸びた髪を後ろで括っているところくらいだろうか。ああ、暗い中で作業をすることも多いから視力も落ちたのだったか。オレは伊達だが、類はちゃんと度入りの眼鏡を持ち歩いている。
 ――昔からあれほど没頭する前に部屋は明るくしろと注意していたのに、類がオレの話を聞いたことは終ぞなかった。
 テーブルにはアツアツの大きな鍋に、串焼き。サラダは綺麗に三等分。頼んでいたオレの分の酒も届いたところで、類がグラスを掲げる。
「それじゃあ、司も来たことだし……改めて乾杯しようか」
「はーっはっはっは! それでは元座長たるこのオレが乾杯の音頭をとらせてもらおう。ワンダーランズ×ショウタイムの諸君! カンパ――
「わんだほーい!」
「「わんだほーい」」
――ええい! わんだほ――い‼︎」
 そうだった。類に限らず、この場にいる全員がオレの話をよく聞かない連中だった。
 半ば自棄になりながらカチン、とグラスを鳴らして一気に呷る。このやりとりも最早恒例だ。
 類は鍋の中身を取り皿によそいながら、それにしても、と続けた。
「定例会の度に思っているけれど……こうしてワンダーランズ×ショウタイムのみんなで集まると昔を思い出すねえ」
「毎日みんなでショーをやって楽しかったよね〜!」
「うん……楽しかった」
 オレにとってそうであるように、類にとっても、えむと寧々にとっても、あの輝かしい毎日はかけがえのない青春の一ページだ。
 思えばオレ達は始まりの出会いから奇天烈だった。
 フェニックスワンダーランドのキャストに応募したら、えむと出会って、取り壊し寸前でボロボロのワンダーステージに案内されて。
 園内でソロパフォーマンスをする類を気に入って是非演出家にと誘ったら、寧々――というよりも、ネネロボを紹介されたのだ。
 いや、本当に意味がわからん。改めて思い返してもめちゃくちゃだ。
 最初のステージは大失敗に終わるし――ふ、と思わず表情が綻ぶ。
 いつだって目の前のことに必死になって、どたばたと慌ただしく過ごしていた。けれど今となっては、それがオレ達らしかったと思える。それでこそ、ワンダーランズ×ショウタイムであったと。
(そういえば)
 ステージの失敗でオレ達は一度ばらばらになって……それからどうしたのだったか。
 たしか、えむと寧々に己の身勝手を謝罪して、頑なな類を説得するために――皆でショーをした。ひとりの錬金術師と、錬金術師が大好きな一座のショーを。
…………?)
 『皆』って、誰だった? 首を傾げる。えむと、寧々と。他にも誰か、いたような気がするのだが。
 十年も経つとどうも記憶が薄れてしまっているようだ。あまり歳はとりたくないものだな、とオレはまたグラスを傾けて、酸味のある液体を喉へ流し込んだ。
「またみんなでショーをやりたいけど……もう無理なのかなあ?」
「不可能ではないよ。気持ちは皆一緒さ。でも今は難しいだろうね……僕はどうにでも都合をつけられるけど、皆はスケジュールが詰まってるだろう?」
「類もそれなりでしょ……
 曰く、ワンダーステージは今もたまにショーステージとして使用されているらしい。新人キャストの顔見せ用としても使われており、えむが当時危惧していた取り壊しの話はすっかり白紙となっていた。
 おそらく都合さえつけばまたこの四人でゲリラパフォーマンスくらいはできそうなものだが……その都合をつけるのが大変なんだよなあ、と肩を落とす。
 特にオレと寧々は、大勢の人が関わる舞台で、それなりに代役のきかない役を任せてもらえている。オレ達のワガママで仕事に穴は開けられない。
 ちら、と隣を見遣る。
 ――一方で、類は。新進気鋭の天才演出家として名を馳せる傍ら、仕事は選びがちという難点があった。だからスケジュールも多少の融通がきく。
 類の持ち前の行動力と頭脳なら、もっと仕事をとることもできるだろうに――こいつは何故かそれをしないのだ。
「前から不思議だったんだが、どうして類は仕事をセーブしているんだ? お前の力量なら引く手数多だろう」
「そうなんだけれどね――なかなか、僕のやりたいことと先方のやりたいことが合致しなくて」
 学生時代にも似たようなことを言っていた気がするな。
 ふむふむと頷きながら串焼きを齧る。口の中に広がる肉汁と共に飲み込んで、「だが、」とオレが口を開こうとすると、それよりも早くえむが身を乗り出した。
「でもでもっ、これまで司くんが出演した舞台もドラマも映画もぜーんぶ類くんが演出を手掛けてるなんてすごいよねえ〜!」
「さすがに全てではないし、手掛けているというほどでもないよ。ちょっとしたお手伝いをさせてもらってはいるけれど」
「ありがたいが、そのおかげで『天馬司のいるところ神代類あり』みたいな空気になっているのがな……。何故高校を卒業してまでお前とワンツーフィニッシュ扱いされねばならんのだ」
「僕は嬉しいよ。共に世界に二人の名を轟かせようじゃないか!」
「いや、ここはショーを愛する者同士、それぞれの場所で存分に活躍させてくれ……
 在学中は散々類とセット扱いされていたが(類と共に校舎を爆破しようとしていたなどと不名誉な噂が流布していたのは未だに根に持っている)、まさか卒業後までセット扱いされることになるとは誰が予想できただろう。
 今でもたまに、同窓会などで言われるほどだ。司と神代、まだ一緒にいるのかよ、と。オレはそれに苦笑を返すほかない。
 それまで黙っていた寧々だったが、カルーアミルクを舐めながら、こてん、と首を傾けた。少し酔いがまわっているのか、眼差しが蕩けている。
「どうでもいいんだけど……なんか司、ちょっと顔色良くなった?」
「ん? 酒飲んだからか?」
「そうじゃなくて……やっぱいい。わたしの気のせい」
 面倒になったらしい寧々がわざとらしく息をついてまたグラスを舐める。オレが腑に落ちない顔をしていると、助け船を出すように類が「僕も思っていたよ」と続けた。
「最近の司はいつ見てもまるでゾンビのようだったからねえ……
「ゾンビ⁉︎ 司くん、ポテトになっちゃうの? くしゃくしゃになっちゃう?」
「ならんわ! だがまあ、忙殺されていたのは違いないな……
 事務所には所属しているものの、基本的に仕事はセルフマネジメントだ。オファーを待っていては先が見えないし、マネージャーが持ってくる仕事だけでは物足りない。
 世界に天馬司の名を広めるには、もっとがむしゃらに世間に顔を出していかないと、とオレは考えている。
 とはいえ。少々仕事を詰め込みすぎたのが仇となった。自分ではまだ大丈夫と思っていたが、思いのほか疲労が顔に出ていたのだろう。
 特に類とは舞台の稽古や打ち合わせで顔を合わせることが多い。なるほど、先日の稽古で妙に気遣う態度だったのはそのせいか、と今更一人納得する。
「じゃあ今日顔色がいいのは、何か良いことでも?」
 串焼きのネギだけをオレの皿に移しながら、知らん顔で類はオレに微笑みかけた。
 やたらと顔だけは整っているから、不慣れな女性が見たら卒倒してしまいそうな美貌だ。本当に、顔だけはいいのに、と皿の上のネギの山を見下ろす。
(良いこと、か……
 変化というならひとつしかない。
 脳裏に過ぎったその顔と、隣に座る男の顔が重なる。
 しかし――まさか自宅で十年前の類を居候させている、などと言えるはずもなく。オレは逡巡の末、当たり障りのない言葉を選んで舌に乗せた。
……そうだな。猫を飼い始めた」
「猫ちゃん⁉︎ どんなどんな⁉︎ 見てみたーい!」
「いや、猫というか……猫みたいなやつというか……
「何それ。キメラ?」
「本当にそれでキメラだったらどうするんだ寧々は……
 さすがに類本人は何かリアクションがあるかと思ったが。えむや寧々のように目を輝かせるでもなく、「へえ~」とただ頷いている。
 ……なんか反応、薄くないか? オレは少しだけ拍子抜けしながら、皿の上のネギをひと欠片、類の皿に戻した。すごい勢いで返ってきた。このやろう。
 ――過去・現在・未来の因果律に影響のある出来事は起きない。
 過去から来た類が言っていた言葉を反芻する。つまり今ここにこの時代の類が存在しているということは、過去の類はこの先の未来で何の問題もなく過去に戻るのだろう、とオレは解釈している。
 ただ。オレにとっては現在進行形の異常事態イレギュラーでも、ここにいる類にとってはもう十年前の出来事だ。十年も経てば忘れてしまうもの、なのだろうか。可能性はある。なんせオレも十年前の記憶が少し曖昧だし。
 ――あるいは、過去に戻ったはずみでこちらにいた記憶は消滅する、とか。そんな都合のいいことがあるだろうか?
……まあ飼うといっても一時的に預かってるようなものなんだが」
「ふーん。名前は?」
「名前っ⁉︎」
 寧々の問いかけにオレはぎょっとして飛び跳ねた。
 名前。完全に失念していた。ここで馬鹿正直に「類」だと答えてみろ、もれなく親友のことが大好きすぎる人間の出来上がりだ。
「あー……ポチだな。うん。ポチだ!」
「猫ちゃんなのに⁉︎」
「ええいうるさい! 猫のポチがいてもいいだろうが!」
 いや。開き直ったはいいものの、オレも猫の名前にポチはどうかと思う。えむの感性は正しい。当のえむは「猫ちゃんなのにポチちゃん! かわいい!」と大喜びしているが。
 寧々が追加でサラダを頼むと、類はあからさまに嫌そうな顔をした。お前はいい加減その野菜嫌いを克服しろ。と思っても口に出さないのはオレなりの優しさである。
「ペットか……いいな。わたしも飼ってみたい」
「おや。寧々、ちゃんと自分でお世話出来るのかい?」
……出来るし……多分だけど」
 幼馴染ゆえの気安さで類が揶揄すると、寧々はむっと唇を尖らせて視線を逸らした。あまり自信はないらしい。
「寧々ちゃん、寧々ちゃんっ! お世話が大変ならウーパールーパーがおすすめだよっ」
「ウーパールーパー? ……ふっ、何これ、えむみたい」
「そうか? 色しか似てなくないか?」
「案外そうでもないかもしれないよ。ウーパールーパーって、見かけによらず意外と俊敏だからね」
「俊敏なのか。ならえむだな」
「わあい! あたしだー!」
 いや、いいのかお前はそれで。
「でもたしかにウーパールーパーなら餌も数日に一度で良いし、あまり水中環境にも影響されにくいから寧々にはぴったりかもしれないね」
 そうなのか、とグラスを呷って、相好を崩す。
 ついでに体勢も崩せば、ふと隣に座る類と指先同士がぶつかった。ぬるい体温に、知れず息を詰める。
「と。すまん……
「こちらこそ」
……、」
 じ、と類を見つめる。
 ずっと隣で一緒に成長してきたから気が付かなかったが。高校時代の類を見た直後だと、その変化を嫌でも意識してしまう。
 不摂生な生活を送っているからか、青白い肌からはどこか儚い印象を受ける。伏し目がちの眼差し。淡く浮かべる笑み。なんというか――、そう、同性のオレが言うのもなんだが、色気があるのだ。
 だから、仕方ない。妙に心がざわついてどきどきしてしまうのも、落ち着かないのも、全部。仕方のないことだ。
 ぐっとグラスの中身を飲み干して、次は何を頼もうかとメニュー表を開く。酒を飲むのは嫌いじゃない。ふわふわしていい気分になるし、カクテルはなんか名前がカッコいいし。
 ジントニックを頼んで鼻歌交じりにメニューを閉じると、類が呆れたようにオレの肩を小突いた。
「司。あんまり飲み過ぎないようにね。君、酔うと結構面倒だから」
 思わずムッとする。
「失礼な。いつの話をしているんだ? このオレがそう何度も失態を犯すわけないだろう!」
「それ、フラグ?」
「フラグじゃない!」
 
  ◇◆◇

 フラグだった。
「にじかいだあー!」とはしゃぐえむ。
「にじかいだー」と続く寧々。
 会計を済ませた類は、完全に出来上がっている二人を見てやれやれと肩を落とした。
「二次会には行かないよ。ほら……二人ともあんまりふらふらしないで。危ないだろう?」
 そこに、「にじかいだー!」とオレ。そう。オレと寧々は完全に酔っぱらっていた。類の物言いたげな視線が突き刺さるが、全く気にもならない。
 ちなみにえむはほぼ素面である。誰よりもはしゃいでいるが、素面である。喋るのに夢中で全然飲んでいなかったらしい。
 オレはといえば、あれから何杯飲んだか最早定かじゃなかった。どうにもこのメンバーで飲むと互いに気心知れているからか、ついつい飲み過ぎてしまうのだ。
 類が「あ、このペースはまずいな」と気付いたときにはもう遅い。
 すっかり酔いの回ったオレと寧々、ついでにえむはふらふらと類の周りを回っていた。傍から見たら質の悪い宗教の儀式だ。酔っ払いの行動に意味などない。ただ楽しいからそうしていた。
 類に首根っこを掴まれて雑にマフラーを巻かれながら、ぐらぐらと頭を揺らして「うー」と唸り声をあげる。おいこら、これは大事な大事な妹からもらったマフラーだぞ。丁寧に扱え、の意である。
「それじゃあ僕は寧々達を送っていくけれど……司。ちゃんとひとりで帰れるかい?」
「とおぜんだっ! そのくらい、よゆーにきまってる! オレだからな! はーっはっはっはっは!」
「心配だなあ……
 程なくして店の前に停まったタクシーに押し込まれながら、オレは小さく呻いた。ぽかぽかする。あったかい……。後部座席に寝そべっていると、自然と睡魔が忍び寄ってきた。
「すみません。彼を神山通りまで。そこからは自分で帰れるね?」
「うむ……むー」
「司。司くん。ほら起きて……はあ。運転手さん、もし彼が起きない時はこの番号に連絡ください。僕が迎えに行くので」
 酔いと眠気でぼんやりする視界で、類がメモ用紙をドライバーに手渡すのを見つめる。類の後ろ髪は、類の動きに合わせてゆらゆらと揺れていて、なんだか猫のしっぽみたいだ、と夢うつつに思った。
 ああ、そうだ。類は猫なんだった。ふへ、と空気が抜けたようにオレが笑うと、それに気が付いた類は少しだけ目尻を赤らめてむっと眉を寄せる。
「いいかい。寄り道せずまっすぐ帰るんだよ。わかったね?」
「わかってる、わかっているともー。ふははは」
……ほんとかなあ……。運転手さん。すみませんがやっぱり彼を下ろしたら――一度連絡を――お手数――
 ……類のやつ、心配性だな……
 類の声が遠のいていく。重たくなる瞼を好きにして、オレはゆっくりと、意識を、手放し、――


 ――気づけばオレは自宅の前にいた。
 縺れる足を器用に動かして、玄関のドアを開ける。見慣れた間取り。ほら見ろ。ちゃんと無事に帰ってこれたじゃないか。道中のことはさっぱり覚えていないけれど。
 ふふん、と鼻を鳴らして、ブーツを脱ごうとその場で足踏みする。脱げない。まあいいか、脱げなくても。だってもうオレの家だし、フローリングの床が気持ちいいし――
 その場に寝っ転がって、ふわふわとした心地のまま微睡みを迎え入れる。
――司くん?」
「んんう……?」
 不意に。天井から「ぱち、」と音がして、オレはゆっくりと瞼を開けた。眩しい。玄関が明るくなっている。
 少し顔を上げれば、さかさまの猫の顔。
「べろべろじゃないか。相当飲んできたね」
「ポチ……ポチじゃないかー! はっはっはー!」
「ポチじゃなくて類だよ。やれやれ……これは随分とご機嫌な王様のお帰りだなぁ」
 類はオレの両脇を抱えて支えながら、ブーツをひとつずつ丁寧に脱がせた。オレがあれだけ藻掻いても全然脱げなかったのに。器用なやつだな、と回らない頭で感心する。猫のくせに。あれ。類って猫なんだっけ? 猫が類? まあどっちでもいいか。どっちも類だ。
「よおしよし、ひとりでおるすばんできてえらいぞお」
「それはどうも。お水を飲んで体内のアルコールを薄めようねえ」
「んん〜、もう飲めんぞオレは……
「ダメだよ司くん。ほら、ちゃんと歩いて。それともお姫様抱っこをご所望かい?」
「あるく」
「そう」
 もそもそと起き上がって、類に手を引かれながらリビングのソファーに倒れ込む。暖房がついた室内はあたたかくて、またうとうとと船を漕ぐオレのコートとマフラーを類が引っぺがした。お前もか。どいつもこいつも、咲希がくれたマフラーを雑に扱いやがって……
 差し出されたグラスの中で透明な液体が揺れていた。散々飲んだ後だったからもう胃の中はたぷたぷだったが、類が飲めと言うから仕方なく飲み干す。
 火照った体が少しだけ内側から冷えていく。
 類はソファーの背もたれに腰かけて、赤らむオレの頬を冷ますように手の甲を添えた。
「今日は誰と飲んできたんだい? 業界の人?」
「いや、えむと〜、寧々と……おまえ……
……おや。羨ましいね。ワンダーランズ×ショウタイムのみんなじゃないか」
 頭上で類がふっと笑った気配がした。ゆるりと視線を上げて、類の顔を覗き込む。
 やっぱり、顔が整っている。オレの次に、まあまあ男前なんじゃないか、一番はオレだがな。
「るいは……? 今日なにしてたんだ」
「いつもと同じさ。帰る手掛かりを探して、街をぶらぶらしていたよ」
「ふ〜〜〜〜ん……
「何か言いたげだねえ」
 不満が顔に出ていたのだろう。類が目を細める。その透き通った視線がどうにも居心地悪くて、オレは振り払うように再びソファーに体を沈めた。
「べつに……そんなにいそいで帰らなくてもいいだろ〜って……思っただけだ……
……
「おまえにおかえりって言われるの、けっこうわるくなさそうだしな……
 そうだ。オレは結構、今の生活を気に入っている。昔の類がいると、なんとなく自分も若返ったような気がして。……もしかしたらまだ選び直せるんじゃないかって、性懲りもなく思ってしまうのだ。
 あの日、選ばなかった方の選択を。もしも――オレが、類を、……類に、手を伸ばしていたら。
「おかえりって言ってほしいのかい?」
「ん……
「おかえり、司くん」
……
 耳元で囁く類の言葉は――深い眠りに落ちたオレには、届かなかった。
 

 すうすうと規則正しい寝息を立てる司くんの姿を見下ろして、僕は静かに嘆息した。
 司くんの体を抱えて寝室へと向かう。独りで寝るには少し大きいベッドに、彼の体をゆっくりとおろして。そのままでは寝苦しいだろうと、首元のシャツのボタンを外して緩めた。
 筋の浮かんだ細い首。変わらず童顔な寝姿に、知れず、心がざわつく。
 月が見守るこの時間だけだ。今だけが、君に干渉できる僅かな猶予。気づいているだろうか、違和感に。思い出せるだろうか、その想いに。
 青白い月光が差す夜の狭間で、その首筋に唇を寄せた。
……すまないね。君の願いを、叶えてあげられなくて」
 おかえりと、僕が君を出迎えることはないだろう。出来ない理由がある。僕がこうして、君の傍にいるのにも。
 目にかかる前髪を指先で除けて、僕は俯いた。僕はどうなってもいい。でも、君には幸せになってほしいから。
 君はその想いに、自分で気付かなくちゃいけない。
「おやすみ、司くん」
 寝室のドアが閉まる。薄闇に包まれた室内で、スマートフォンのディスプレイだけが、白く光っていた。

  ◇◆◇

 頭が痛い。
 目覚めは最悪だった。枕元で存在を主張するアラームを緩慢な動きで止めて、腹の底から息を吐き出す。
 カーテンの隙間から差し込む朝日。オレは眩しさに顔を顰め、まだ惰眠を貪っていたい感情をどうにか抑え込んで――ようやく起き上がることに成功した。
(類……はもう出掛けたのか)
 朝の支度がてら類が寝泊まりしている客室を覗いてみるが、いつ見てもきちんと片付いている。
 余程早く元の時代に帰りたいのか、それとも時間の許す限りこの時代を満喫したいのか――ふらふらと出歩いて夜に帰ってくるあたり、自由気ままで本当に猫のようだ。
 それにしてもだ。昨日飲み過ぎてしまったことは、この主張の激しい頭痛でわかるが。自宅に帰るまでの記憶がすっぽり抜け落ちている。
 ワンダーランズ×ショウタイムで――というより、類と飲むと気が緩んでしまうのを、いい加減直さねばと思うのに。知らず知らずのうちに頼り癖がついてしまっているのかもしれない。類は昔から頼れる仲間だったから、というのは、言い訳になってしまうだろうか。
 はじめて飲酒したときも盛大にやらかして、まあ当時もやはり類がいるから大丈夫だろうと思ってガンガン飲んだら、翌日類の家で吊るされていた。天井からロープでぐるぐる巻きにされて。ぶらんぶらんと左右に揺れていた。
 正直今でも何があってそうなったのか全く覚えていないのだが、類が言うにはあまりに暴れまわるから吊るしたらしい。あの時の類、ちょっと怒ってたな……。反省はしているが、でも酔っ払いを天井から吊るす類も大概どうかしていると思う。
 糊のきいたシャツを着こなして、姿見の前でポーズをとる。うん。多少顔に疲れが見えるが、この程度なら問題ない。今日もカッコいいぞ、オレ!
 モーニングコーヒーを飲み干して、気合を入れ直す。今日も今日とて予定が詰まっているのだ。まだ頭は痛むが、二日酔い程度で立ち止まるつもりは更々ない。
「ウッ……
 ……でも、後で二日酔いの薬は飲んでおこう……
 

「おはようございます!」
「天馬さん、おはようございます。今日もよろしくお願いします」
「よろしくお願いします!」
 稽古場の関係者全員に挨拶をするさなか、ふと見知った顔と目が合って、オレは少しだけ笑顔を引きつらせた。
 さすがに、昨日の今日では顔を合わせるのが気まずい。
……神代も、今日はよろしく!」
「おや。天馬くんは今朝も元気だねえ。ところで今回君のシーンの演出の件で少し変更したい点があるのだけど、稽古が始まるまで少し向こうで話さないかい?」
「もちろんだ!」
 と、建前上言ったはいいものの、かなり気が重い。にこにこと類は笑っているが、なんというか……目が笑っていないのだ。
 類の後を追って稽古場の柱の影へと移動する。やはり今日も類はパーカーにシャツと緩い格好で、柱に体を預けながらふてぶてしく腕を組んだ。
「さて。僕が何を言いたいか……君ならもちろん、わかるよね?」
「飲み過ぎてすまない……
「フフ。二日酔いは大丈夫かい? だから言っただろう、程々にって」
「ぬうう……勘弁してくれ〜……朝から説教は聞きたくない……
 自業自得と頭でわかっていても心が類の言葉を拒否してしまう。
 ゆるゆるとオレが頭を振ると、類は呆れたように肩を竦めてオレの額を小突いた。あう。
「なら常にスターたる振る舞いを心掛けることだね」
「やけに刺々しいな……昨日のこと、怒ってるのか?」
「さあ、どうだろう?」
 怒ってるじゃないか……
 稽古場にはどんどん関係者が流れ込んでいる。若手の子達はオレと類に挨拶したいのか、ちらちらとこちらを窺っているようだった。それに類も気づいているだろうに、素知らぬ顔で類は掛けていた眼鏡を外して、レンズを拭い始める。
「君は覚えていないだろうけど、あの後大変だったんだよ。寧々達を無事に家まで送り届けたと思ったら、君を乗せたタクシーの運転手からちょうど連絡が入ってね」
「ああ」
「君が蹲って動かないというから、僕も急いで駆けつけて、君のマンションまで引き摺って――ああ、寒空の下、大の男を担いで歩くのは大変だったなあ」
「ぐっ……それは、その……すまなかった」
 仰々しい、演技がかった類に冷や汗が流れる。最近は演出家の仕事ばかりしているから忘れられがちだが、類も役者の腕はいい方なのだ。
 類の、ちくちくとした即興劇は続く。
「まあ、僕と君の仲だし、今更あれくらい迷惑とも思わないけど……?」
「だー! わかった! 何が望みだ! 聞いてやる!」
「おや。僕はまだ何も言ってないのに。さすがだなあ」
 まったくさすがと思ってない顔だ。しかし実際に迷惑をかけた手前、文句は言えない。これは……久々にヤバめの演出をつけられてしまうかもしれない……
 学生の頃は若気の至りで手あたり次第、類のアイディアが浮かぶ次第に様々な演出を試みていたが、こいつのつける演出は奇抜で、多少――かなり――しばしば常識の範疇を超えてくる。水中脱出ショー然り。空中ブランコ然り。ポップアップで空高く打ち上げられた回数はもう両手では数えられないほどだ。
 だがオレは類の考える演出には全て応えてきた男。ええいままよ、と類の言葉を待つ。そんなオレの覚悟を感じ取ったのか、類はそこではじめてフ、と表情を緩めた。
「そんなに固くならなくても、大それた要求をするつもりはないよ。今度二人で食事でもどうかな?」
 食事? きょとんと瞬く。
「それは構わんが、二人でか?」
「勿論君の奢りでね」
「ぬあっ……うぐ、まあいいだろう……。いつ予定空いてるんだ」
「それはむしろこっちの台詞だよ。司はいつ空いてるんだい?」
「オレか? オレは――
 スマートフォンを取り出して先のスケジュールをホログラムで映し出す。しばらくは舞台稽古が中心で、年が明けたら映画の撮影ロケで少々遠方へ飛ばなくてはならない。国内ではあるからロケ中も行き来は可能だが――
 類もホログラムを覗き込むようにして屈みながら、ふと、オレの首筋に視線を向けた。
「むー、月曜……は撮影があるしな……
……。ところで、……昨日、解散した後にだれかと会ったかい?」
「は? 馬鹿を言うな。会えるような状態だったと思うか? オレが」
……そうだよね」
 頷くものの、類は神妙な様子だ。
……? オレの首になんかついてるか?」
「うん……虫が」
「むっ……むむむむむむ虫⁉︎ なっ、うっ、類……ッどこだ! と、とってくれ……!」
……
 類の指先がオレの首筋に触れる。急所に触れられる危険信号でくすぐったさを覚えるが、どんな小さな虫だったとしても、虫という生物が己の体にくっついている、その事実の方が耐えがたい。
 そのままじっと類のパーカーの裾を掴んで震えていると、類は事もなげにぱっぱっと払って「とれたよ」と微笑んだ。
「助かった……。ん、ああ、週末の夜なら問題なさそうだぞ」
……
「類?」
「ん? ああ、すまない。週末だね。承知したよ」
 言うなり、類はひらひらと手を振って踵を返した。
 やけにあっさりしているというか、なんというか。本当に用件はそれだけだったのか、とほっと息をつく。良かった、妙な演出をつけられなくて。類のつける演出は安全とわかっていても、心臓に悪いのだ。
 類が離れたと知って、離れたところで様子を見ていた若手達がぞろぞろとオレの周りに集まってくる。
 ひとりひとりに挨拶を返しつつ、もう一度類の方を盗み見れば。なんとなく心ここに在らずな気がしたが、今はもうすっかり切り替えて、舞台監督と演出の件で話し込んでいた。
……変な類だな」
 いや、訂正。類は元々変なヤツだったな。
 その後、首筋の赤い『虫刺され』にオレが気付いたのは――稽古が終わった後だった。勿論、悲鳴を上げた。