桐子
2025-02-01 11:40:21
2499文字
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美しい傷⑧(父水♀️)




「おとうさん」
泣いている女は、目を閉じていると随分と幼く見えた。目を開けている時は、きりっとした眼差しのせいでもっとずっと大人びて見えたが、彼女は二十歳そこそこで、自分の半分も生きていないような小娘なのだ。
今やっと、彼はそれを実感していた。

側近から「寝こんどるようです」と聞いた時には、ざまあみろと胸のすく思いだった。こちらの逆鱗に触れるようなことをしたのだから、罰が当たっただけだ。
だが、二日経ち、三日経ち、それでもまだ熱が下がらないようだと聞くと、さすがにわずかな良心が疼いた。熱を出したのは明らかに、冷たい雨の中放り出したせいだ。それに薬も食事もろくに与えていないから、治るものも治らないのだろう。
「チッ」
苛立ち紛れに舌打ちをする。だが、このまま見殺しにしてしまえば、龍賀に貸しを作ったことになってしまう。あの女にはまだ利用価値がある。生かしておくべきだろう。一度様子を確かめてから、ねずみにでも看病をさせればいい。
そう考えて、女に与えた離れを訪れた。
部屋に入ると、暗い部屋の中で布団にくるまった女が眠っていた。流しには汚れた食器が重ねられている。ずぼらな女だと眉をひそめた。だが、よくよく彼女の顔を見てみると、熱のせいかひどくやつれている。ろくに食べていないのだろう。赤く火照った頬、額には汗が浮かんでいて、喉からはひゅうひゅうと嫌な音がもれていた。肺炎になりかかっているのかもしれない。額に手を当てると、燃えるように熱かった。

このまま死んでしまえばいい、と彼は思った。
妻はもっと苦しんだ。攫われて薬を打たれ、風呂に沈められそうになったのを必死の思いで逃げてきて、そしてこの腕の中で力尽きた。まだ小さな息子を残して逝くのは、さぞ無念だったに違いない。

男にとっても妻は特別な唯一の存在だった。
男の母親は水商売をしており、父親は最初からいなかった。生まれた時に出生届を出されておらず、学校へも行かせてもらえなかった。幼い頃から母と母の恋人から暴力を受け、成長してからは街の裏側でやくざの使い走りをしていた。そんな孤独に荒んだ自分を見つけて声をかけてくれたのが岩子だった。
『うちへいらっしゃいな。あなたのような人はたくさんいるのよ』
岩子は幽霊組の一人娘で、社会に馴染めない者、社会から弾かれたやくざ者たちを集めて、愛情をこめて接してくれた。
妻に出会って、彼女の優しさに触れ、幸運なことに夫になることができた。妻によく似た息子も生まれ、やっと人間らしい暮らしができるようになった。妻は、地獄のような場所から男を救いあげてくれたのだ。一生かけても返せないほどの恩がある。だからどんなことをしてでも、彼女を守りたかったし、幸せにしてやりたかった。それなのに――――
「ん……
女が身動ぎをしたのを見て、男はハッと我に返った。起こしてしまったのかと思ったが、女は目を閉じたままかすかに「水……」と呟いた。
このまま見捨てるつもりだったが、最期の情けのつもりで、枕元にある湯呑みを手に取った。そして、それを女の唇にあてた。ゆっくりと水を流し込むと、こくり、こくりと喉が鳴る音がした。
まだ欲しそうにしていたので、水を汲んできて飲ませてやった。
「はぁ……
女は生き返ったかのように深く息をついた。口元にこぼれた水を拭いてやり、ついでに額にかかっていた髪を後ろへ撫でつける。目元にくっきりと刻まれた傷と欠けた耳があらわになった。この醜い傷が嫌いだった。まるでアクセサリーのようにあからさまに見せびらかして、同情を買うつもりなのだろう。つくづく計算高い嫌な女だ。
女がうっすらと目を開けた。熱に潤んだ目がぼんやりと男を見た。そして、彼の姿を認めると、――――嬉しそうに微笑んだ。
「おとうさん……
その笑顔があまりに無垢で、男は息を呑んだ。意識が混濁しているからか、相手が誰かもよくわかっていないのかもしれない。驚いている間に手をとられ、頬ずりをされた。
「おとうさん、もうどこにも行かないで」
目じりからつうっと涙がこぼれた。ここへ来て、どんなに酷い言葉をぶつけても、痛めつけても一度も見せなかった涙だった。

初夜で、乱暴に体を暴かれ、ろくに愛撫もされずに処女を散らされた時も、彼女は泣かなかった。時貞は血縁だろうがなんだろうが、美しい女とみれば手を出す畜生のような男だ。きっとこの女も時貞に調教され、手練手管を仕込まれているのだと思っていた。
だから、破瓜の血を見たときに動揺した。恋人でもない男に犯されて処女を失うなど、どんなにおそろしく、屈辱的だろう。敵にかける情けなど持ち合わせていないつもりだったが、さすがに少し悪いと思った。
結婚する前に、水木のことは徹底的に調べさせた。時貞には嫡子、非嫡子問わずたくさんの子どもがいるが、水木の母は、時貞を嫌って駆け落ちし龍賀を捨てていた。中学生の時に両親が亡くなったことがきっかけで龍賀に来たらしい。時貞には随分と反抗的な態度をとっていて、時貞の方も水木にはあまり関心がなかった。だが、今回の婚姻では年頃の女子が水木か、沙代という高校生の少女のどちらかしかいなかったため、水木が選ばれた。

ーーーー本当は分かっていた。
妻を殺したのも、抗争で多くの命を奪ったのも水木ではない。彼女は身寄りを失って龍賀の家に来て、自分の意思ではない結婚をさせられただけの、ごく普通の女だった。
まるで無防備な水木の寝顔を見ていると、男の胸に様々な感情が湧き上がってきた。自分は、まだ若い、どちらかといえば自分より鬼太郎の方に年が近そうなこの娘に、あまりに情がないふるまいをしてきたのではないだろうか。
妻をなくした悲しみを、彼女にぶつけてきた。涙を見せないからといって平気なわけがなかったのだ。亡くした者を悼み、会いたいと泣く姿は、母を亡くして泣いている鬼太郎に重なった。
「水木」
男は初めて彼女の名を呼んだ。
「ーーーーすまんかった」
彼はそう言って、そっと水木の頭を撫でた。そして、そのまま部屋を立ち去った。