kurotera
2025-02-01 08:14:38
2223文字
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The calm that fills the past

ふたいちの日ということでふたいち本から再録。

 それは怒声だった。
 それは、存在しないもので、己の記憶が作り出した怒声だった。
 頬を強く叩く音、泣き叫ぶ子どもの声、呂律の回っていない罵倒、アルコールと煙草の混じった匂い、やめて、ごめんなさい、やめてくださいと許しを請う声と舌打ち。
 腹を蹴られた。蹲って、目が合った途端、何度も蹴られた。今となっては痛かったかどうかは分からない、ただ踏みつけるように足蹴にされ、怒鳴りつけられる。
 ガキが口答えするな。その目はなんだ。クソが。
 
 ――随分前の事だってのに、はっきりと覚えているもんだ――
 
 怒声の向こうから電子音が聞こえてくる。軽快なその音に意識を向けながら、最早存在しない痛みを抱いて、轟一誠はゆっくりと目を瞑り、そして開いた。
 ゆっくりと息を吐く。ずしりとのし掛かっていた重たいものを吐き出すかのように。それにしても気分が優れなかった。仕方がない、胸くその悪い夢を見たのだから。
 頭上に手を伸ばして電子音を垂れ流したままのスマホを探ればそれはすぐに見つかった。しかし目論みが外れ手をすり抜けたらしく枕元に落ちて――
「あだっ」
 どうやら双海の頭に当たったらしい。じたじたと悶え転がっている振動が頭に響いた。
「うるせえ」
「ひどい!」
 情けない声で抗議してくる双海に、くつくつと喉で笑う。
 そのおかげで幾分か気は軽くなったものの、起き上がる気にはなれずにアラームを消した後、軽く寝返りを打った。
……一誠?」
「ンだよ」
「具合悪い?」
…………
 こういう時に限って、双海は目敏い。問いかけを無視して背を向ければ、ごそりと布が擦れる音がした。背後から注がれる視線がむず痒い。
 もうちょい寝かせろ、と目を閉じたものの、意識ははっきりしている。ただ寝床を共にしている背後の男に、これ以上踏み込まれたくないだけだった。
「いっせー」
「触んな、鬱陶しい」
「やだ」
 背に手のひらが這い、甘えたような声が鼓膜を打つ。舌打ちをし、拒否の言葉を返しても、双海はそれをいなして、這わせていた手を一誠の身体に回した。そのまま、身体を寄せれば眠りから醒めたばかりの身体に、熱が伝わる。
「へへ……
 笑う声から、今自分を後ろから抱きしめてきた男がどんな顔をしているのか、なんとなく予想はつく。きっとしまりのない、殴りたくなるような顔をしているのだろう。こうなってはやめろ、と言った所で離れないのは明白だった。
 諦めて、目を瞑る。
 これ以上何かしでかした時に殴ると決めた。双海もそれを察しているらしく、腹に回した手をごそごそと動かした後ようやく目当てらしい一誠の手の甲に指を這わせたきり、何もしてこなかった。
「一誠の手、好きだなあ」
 双海の指が一誠の指を絡め取る。昼間はつけているいくつかの指輪も今は外されて、サイドテーブルの上で鈍く輝いている。しかしそれをはめていた場所には痕がついており、節くれ立った指のラインに、くっきりと凹凸を刻んでいた。そこを愛でるようにすりすりと撫でれば、ぴくりと指先が震える。
 ――お前のほうが、綺麗な指をしているくせにな――
 触れてきた指を好きにさせながら内心で呟く。出会ったばかりの頃、まだ〝子ども〟だった双海の指はすらりとして、自分が持つような傷ひとつなかった。
 花を美しいままに飾るための指だった。
 変わったとすれば、そこにはここ数年でつけた小さな肉刺の跡だ。ぷっくりと硬いそれを話の種に、後輩と双海がおしゃべりをしていた事をふと、思い出した。
 久しぶりに作っちゃった、だとか、絆創膏よりいいモノ教えてあげる、だとか。
 ここに出来てるのってドラムスティックで作ったの? いや、それはちょっと昔の日常生活の名残で、云々。一体何の話かとそちらに視線をやれば、お互いの手を見せ合っていて、その周囲にふわふわとした空気が漂っていた。

 夢を見たせいか色々な事を思い出してしまう。指の感触ひとつ、スウェットに染み付いた煙草の匂いひとつ、諦めずに呼んでくる声、ひとつ。
 すぐ後ろにいる筈の男の、些細な記憶が呼び起こされるごとに、眠りから醒めても頭の中にこびりついていた怒声が薄れていく。
「好きだよ」
 甘ったるく柔らかなこの男の声は一誠の記憶の中で荒れ狂う嵐のような罵倒を消していった。
 今朝だけでなく、幾度も。
…………
 こうなると、一誠はいつも黙ってしまうのが常だった。
 双海の言葉を嫌悪しているというわけでは無い。ただ――
 ただ、分からなかった。
 どういった言葉で、どういった顔で、どういった声で。
 この男の言葉から受け取ったものを返せばいいのか、本当に分からなかった。
 ドラマやCMの収録で、何度も歯の浮くような立ち位置を演じてきたくせに。
 それどころか、この男と何度も身体を重ねているくせに。
 轟一誠は、赤羽根双海の言葉に何も返せていない。そんな自覚があった。
「一誠はさ」
 双海の声が耳のふちを擽る。ぴく、と一誠の身が震えれば、双海の手はきゅ、と一誠の手を握りしめた。
「俺を受け入れてくれるね」
 ぽつ、と呟いた言葉に金色の双眸が軽く見開かれる。何を言ってるんだ、こいつは。と思わずゆるく振り向けば、浅緑の眼差しと、目が合う。
「あ……?」
「えへへ、こっち向いた。おはよ」
 小さな音と共に、柔らかな感触が唇に触れた。