猫澤
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オーロラインザボックスⅠ


★》
 ――僕は僕の弱さを恋のせいにしたくない。
 十一月。閑散期のフェニックスワンダーランド。平日の夕方は特に客入りが落ち込んで、休演中のワンダーステージには僕達以外誰もいない。まあ、訪れたところで立ち入り禁止にしているので一般客がここに入れるはずもないのだけど。
……ではここのライティングはもう少し派手にする方向で」
「ああ、その方がいい。直前の音響は今より緩急つけられないか?」
「可能ではあると思うけど……着ぐるみくんに相談してみよう」
 今日は久方ぶりに、寧々も混ぜてフルメンバーでの打ち合わせだ。ハロウィンショーの余韻が残る中、ランド内のショーユニットはどこもそわそわし始めていた。かくいう僕らの座長もその中のひとり。
 年明けに開催されるニューイヤーショーコンテスト。優勝賞品は海外研修と称した慰安旅行。そして司くんの夢は世界に名を馳せるショースターとくれば、当然、狙わない理由はない。
(それに……
 目を輝かせた司くんの反応を見たら、そりゃあそっと彼の背中を押したくもなる。僕もえむくんも当然寧々も、心から彼の夢を応援しているのだから。
……
 このところ考えていることがある。どうやらこの世界には二種類の人間がいるようで。
 恋をして、強くなる人と弱くなる人。僕が考えるに、司くんは限りなく前者の人間だった。彼は責任感が強く、また理想をどこまでも追い求めるロマンチストだから。
 一方の僕は。端的に言ってしまえば、エゴイストだ。目的のためなら手段を問わない。神代類とはそういう人間だと後ろ指さされても、それは事実だと頷けた。
 僕が追い求める演出のためなら、ショーのためなら、僕はなんだってする。なんだってしたところで叶わないと知ってから、僕は他人との繋がりを絶った。全てを拒絶した。僕ではない誰かに期待することをやめた。
 そんな人生を歩んできたから、守るものが出来た今、それをどうやって守ればいいのかわからなくなってしまっている。たとえば司くんとショーを天秤にかけたとして、僕は司くんだけに心の比重を割けない。そんな僕を彼は薄情だと笑うだろうか。
 それでも、僕が今一番心を奪われているのは司くんで、それは紛れもない事実で、未来永劫死ぬまで変わらない。故にこそおそろしい。
 いつかこのふたつを、ショーと司くんを天秤にかけなければいけない時が来たとき。僕は一体どんな決断を下すのか。選べるのか、僕に。それを後悔しないか。手離せるのか、司くんを。
 ――いつかあの空へ羽搏く、司くんを?
 澄んだ空に薄い白を馴染ませて、淡青がどこまでも広がっている。口を開けば吐く息が濁り、湿度を纏って霧散した。
 ショーコンテストで披露するショーの演目は割合すぐに決まった。というかすでに骨組みがあった。
 いつぞやに司くんが寄越したとんちきな脚本……もとい、将来設計とやら。あれを僕と司くんの二人で改めて手直したのだ。元がサクセスストーリーだったし、当て書きだったのもあって脚本はすんなり完成した。
 筋書きはこうだ。
 主役は国務を果たす立派な王様。時折おばかで空気の読めない発言をするけれど、民のことを誰よりも愛し、また民もそんな王様を愛している。
 しかし王にはひとつの夢があった。彼は幼い頃に見た旅の一座に心を奪われ、自分もいつか一芸身に着けて、人々を笑顔にしたいと思うようになってしまった。
 ――芸はなんでもよかった。
 ある日はアコーディオンを抱きかかえ、広場でお世辞にも上手と言えない歌を唄い、またある日は個性的なカラーリングの織物を織って兵士達に贈った。
 さらにある日は城の片隅でジャグリングに挑戦し、手を滑らせてたまたま通りかかった大臣の頭にピンがクリーンヒット。大目玉をくらってしまう。
 だけどそのどれもが、民にとっては王様の「お遊び」で「気まぐれ」だった。誰も王様が本気で芸を身に着けようとしているとは考えない。何故なら彼は一国の王。民を統べる王であるからだ。
 そんな折、ひとりの男が王に謁見する。王とは旧知の仲であり、尊い生まれでありながら国一番の変わり者と呼ばれる彼は言った。貴方はこの程度のままごとで満足できるのかと。
 世界はこんなにも広いのに、我が王は鳥かごから何故羽搏かないのかと。
 見事にけしかけられた王様は、国を去り男と共に二人きりで世界を旅をする。
 海の底に眠る街。灼熱の砂漠。雲に隠された巨塔。見たこともない草木が生い茂る熱帯雨林。ロボットが統治する国。マグマが噴き出す火山地帯。
 いろいろな人に出会い、時に助け合い、時に対立しながら、二人は行く先々でいろんなショーをした。
 そして――ここからは司くんが譲らなかったのでそのまま採用しているけれど――彼らは旅の果てで宇宙の真理を知り、なんかよくわからないボス的な存在と戦って世界を股にかける大スターになる。最後はみんなで手を取りハッピーエンドだ。
「しかしどうにも役者が足りないね……ラストシーンは王の言葉に民衆が沸き立つ様子を表現したいのだけど」
「あらかじめ録音したボイスをロボで流すのはどうだ?」
「現実問題、一番実現が可能な案ではある。あとはガヤを流すとか……
「ううむ……他のショーユニットに声を掛けてみるか?」
 司くんは台本をぱらぱらと捲りながらむうと唸ってみせた。駄目元で、と気まずそうに付け足しながら。
 他のショーキャストに協力を仰げるならば万々歳だし、いつかの大型ショーを経てからショーユニット間の垣根もほとんどないけれど、残念ながら望みは薄い。彼らだってコンテストに出場するのだからわざわざ敵に塩を送るような真似はしないだろう。
 むずかしいね、と小さく首を振る。まあここは最悪、司くんの顔の広さを利用して友人達に頼み込むか、あるいはバーチャルシンガーの彼らに協力してもらうか……
 顎に手を当て考え込んでいると、ワンダーステージ入り口の立ち入り禁止の看板が動いた。
 自然、視線がそちらへ向く。見慣れた春の色がふたつ。買い出しに出掛けていたえむくんと寧々(それから着ぐるみくん)がそれぞれ僕達に向かって手を振っている。
「司くーん! 類く――ん!」
「おお、おかえり、えむ。寧々も。良い布は買えたか?」
「はぁ……えむってばあれもこれもって言い出して、結局予算ギリギリなんだけど……
「どれどれ」
 着ぐるみくんが両手いっぱいに抱えていた段ボールを地面に下ろす。司くんと共に中を覗き込むと、なるほどたしかに手あたり次第といったようなカラフルな布がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。
 司くんが身を乗り出して、一枚一枚それらを検分する。赤、白、青、黄色、本当に様々だ。
 僕達のショー衣装は外注することもあれば、知り合いの伝手として瑞希に頼むこともあるけれど、今回は司くんが手ずから作製すると言って聞かなかった。それほどこのショーに思い入れがあるのかと思いきや、夏のショーが僕達任せになってしまったことを密かに気にしていたらしい。
 司くんのそういう義理固いところ、僕は結構好感がもてるけど……同時に少し寂しくもなる。ショーに私情や甘えを挟むなって、きっと独りだった頃の僕なら思ったに違いないけれど。司くんにはもっと……甘えてほしいって思っている自分がいる。
(もっと僕達を……いいや。僕を頼ってほしいよ、司くん)
 彼の後ろ姿を見つめる。ふと司くんの白い項が目に飛び込んで、僕は人知れず喉を鳴らした。
 司くんを初めて抱いた日から実に二週間が経過している。
 毎日のように司くんの秘所を暴いて、少しずつ、少しずつ溶かしていたあの頃は、僕は仄暗い優越感に浸っていた。僕に触れられている間はどうにもしおらしくて、甘えた声を出すのがかわいくて、愛おしくて。触れる度、キスをする度に、彼への好きが降り積もっていくようだった。
(このところはショーが優先で、家でも全然触れ合えていないけれど……
 考えていたら無性に、あの夜の――シーツの海に溺れる司くんが恋しくなって。密かに「はあ」と熱い吐息を零す。
 司くんは僕の熱い視線には気づかない。彼の鈍感さは時に罪深いとすら思う。
「む。これは……随分と派手だな?」
「本当に。ゴールドの布なんて司しか使わないってのに……
「なんだその言い方は。目立ってカッコいいだろう! 金!」
「はいはい、だから全部アンタが使って。カッコいいカッコいい」
「語尾に(笑)を付けるなああ――!」
 寧々と司くんのいつものやり取りを微笑ましく聞きながら、手近にあったレースの生地を手に取る。まるで花嫁のベールのようなそれを、司くんが纏ったらどんな感じだろう。……なんて、我ながら浮かれている。
 彼の項にうっすらとつけた僕のしるしはもうとっくに消えてしまっていた。
 本音をいえば一刻も早くあの夜の司くんをもう一度味わいたいのだけど――なかなかタイミングが難しいものだ。
……全身金色は、僕としてはロボの光沢感あって好きだけどね。ただそれだと少しコメディが強くなってしまうし、司の役は威厳ある王様だから……白を基調にしつつ、こっちの赤を裏地に使ってみるのはどうかな?」
「ああ、いいんじゃないか? 深みがあって大人っぽい印象になりそうだ」
「そうだろう? 君にもよく似合うよ」
 司くんの体に生地を当てる。中は普段使いのシャツで良いとして、大人っぽさを演出するなら黒のベストを使ってもいいかもしれない。あとは王冠も必要か――。そうなると、僕の衣装は司くんと対で黒を基調にするのがいいかな。
 箱の中を漁ってそれらしい色合いの生地を探す。たしかステージ袖にしまってある小道具箱に青薔薇の装飾があったはずだ。派手過ぎず、だが貴族らしい華やかさを演出するのにぴったりだろう。
……
 ふと視線を感じて振り返る。一緒に生地を見ていた寧々が、何か物言いたそうに僕をちらりと横目で見ていた。僕に対して遠慮のない寧々が言葉を躊躇うなんて珍しい、と瞬けば、観念した寧々はため息を零しながら両手で頬杖をついた。
 冷たい風が僕らの間を吹き抜けて、寧々の薄緑をふわふわと靡かせている。
……ほんと、どうでもいいんだけど。類、いつから司のこと呼び捨てにし始めたの」
「うん……? 呼び捨てにしたつもりはないけれど……
「してたよ、今。えむも聞いてたでしょ」
「うんっ! つかさ、って類くん言ってたよ!」
「む……? 言われてみればたしかにな?」
 なんで当事者のアンタが気づいてないのよ、と寧々が隣にしゃがみこんでいた司くんの脇腹を小突く。一方で、僕は先ほど交わした会話の記憶を手繰り寄せて――ぱふ、と片手で口元を覆った。
 たしかに、無意識に口走っていたかもしれない。
…………しまったな……
「類?」
……あー……、司くん、喉乾かないかい? 一緒に自販機に行こう」
「んん? 構わんが……?」
 少しだけ強引に。司くんの腕を掴んでその場を離れる。寧々の視線が背中に突き刺さったけれど、じわじわと顔に熱が上っていた僕には振り返る勇気はなかった。
……あーあ、やぶ蛇」
「ほよ……?」


 ドラムロールと華やかなトランペットのメロディが左から右へ。
 売店の裏の自販機に硬貨を押し込んで、緑に色付いたボタンに触れる。
 司くんは付き添いの体を崩さず、自販機よりもむしろパレードの方を気にしているようだった。あれもあれで一種のショーだ。フェニックスストリートはランド内から集まったお客さんで人集りができていて、少し離れたこの位置からではパレードの全貌は見えそうにない。
 ふと足元を見ると、日陰と、日向で、明確に線が引かれていた。
 日向に片足出している司くんの腕を引いて、完全に日陰の中に連れ込む。意味なんてない。ないけれど……今だけはこちら側にいてほしい、そんなエゴが少なからずあったように思う。
「先ほどは悪かったね、僕も無意識で……
「? 呼び捨てのことか? オレは別に気にしてないぞ。お前の好きに呼べばいい」
「それもだけど、……そうじゃなくて」
 近づいた折に鼻腔に触れたシャンプーの香り。それは僕とお揃いのもので、身に纏う香りも、僕と司くんを形作る細胞も、流れる栄養さえ、今はどれも同じはずなのに。
 彼と言葉を交わす度、僕と司くんはどうしても同じものにはなれないのだと実感してしまう。
「先に弁明させてほしい。誓って、ショーの話に集中していなかったわけじゃないんだ」
「む……?」
 首を傾げる司くんのお腹に手を当てて、すり、と指の腹で臍の周りを撫でた。
「先日、君を抱いただろう?」
 ここまで、僕の性器が彼の中に入っていたはずだ。そうして、奥を突いて――快楽に身を捩らせる司くんの姿はしっかりと網膜に焼き付けている。
 僕の言葉を暫しかみ砕いていた司くんは、一瞬で顔を赤らめて、僕の胸板を軽く小突いた。
…………お、おまえっ……いきなり何の話だ! というか、ここは人目が……!」
「みんなパレードに夢中で誰も見てやいないさ。それより……すまなかったね。君のなか、気持ちよかったなって思い返していたら、つい口から出てしまって」
 ほら、情事中は君をそう呼んでいたから。
 一度思い出したら悶々としてしまって、思考がそればかりになってしまったことは謝罪しよう。だけどもう、あれから二週間だ。
 僕は初めての恋人が司くんだから、一般的な恋愛は何一つとして知らないけれど。そして一般的な恋人同士がどの程度の頻度で営むのかも知りはしないけど。
 ただ僕自身の個人的な気持ちを率直に告げるなら、……もっと司くんに触れたいと思うし、愛を確かめたい。
………………っ、……
 言葉を失ってしまった司くんを片手で抱き寄せて、その色づいた耳に唇を寄せる。本当は今すぐにでも食んでその感触を確かめたかった。舌を這わせて、息を吹き込んだらどんな反応をするのだろう。ぜんぶ、余さず確認したい。
「司……むぐっ」
 自分でも笑ってしまうくらい、欲に塗れた声が出て。恥ずかしさからだろうか、顔を真っ赤にしながら僕を睨む司くんに、ぱふ、と手のひらで口元を隠されてしまった。
「やはり呼び捨ては禁止だ!」
「そんな……っ、何故だい? さっきは好きに呼んでいいって言ったじゃないか……!」
「嘘泣きやめろ! 知らん! 駄目だ駄目だ! …………そんな理由を聞いたら、オレが練習に集中できなくなってしまうだろう……!」
「!」
 ゴト、と片手に持っていたペットボトルの水が地面に落ちる。転がるそれは気にも留めずに、僕は今度こそ両腕で司くんの体を抱き寄せた。
 パレードの音楽が一層大きくなる。僕と……司くんの心臓の音も。
「そうかい。それなら仕方ないね。司くん?」
「まったくだ。……公私は分けろ、馬鹿者」
「フフ、勿論だよ。……ただ……
 ただ。
……そろそろ、あの夜は夢じゃなかったって確証が欲しい、かな?」
「うっ」
「君が嫌じゃなければ……だけど。明日の講義は午後からだし、今夜あたりさ……
 僕なりに勇気を振り絞ったつもりだった。あまりがっついてみっともないと思われたくない。それにようやく心が通じ合ったはずの司くんに、体が目的と思われるのも心外だから、できる限り精一杯配慮はしたつもりだ。
 司くんは大人しく僕の腕に捕まったまま、あーとかうーとかひとしきり唸り声をあげて。
……嫌ではない、が…………その」
「うん」
……、すまん」
 ぽつりと呟く声。無意識だろうか、俯きながら彼は僕の練習着の裾をぎゅっと掴んだ。
 その仕草に、司くんの躊躇と戸惑いを感じ取ってしまう。本心を言えば残念だけれど、独り善がりはもっと嫌で。僕は努めて明るく言葉を続けた。
……いいよ。むしろ君にばかり負担を掛けてしまってすまないね」
「そんなことはない! ……類は悪くない。オレの気持ちの問題だ」
「気持ちの?」
 繰り返すと、まだ赤らむ頬をそのままにして、司くんがこくりとひとつ頷く。
「念の為に聞いておくけど、僕とのセックスが嫌になったとかでは?」
……。ない」
「そう」
 気がつくと。
 パレードの音がもうあんなに遠い。集まっていた人達はより良いポジションで写真を撮ろうとパレードに合わせて移動している。中には一目みて満足したお客さんもいるようだけど、彼らは次のアトラクションに夢中で、日陰者の僕達のことは気にも留めない。
 他人事だ。世界はどこまでも、僕達に。俯く司くんの頭に頬を寄せる。髪の質感。より濃く香るシャンプー。それに混じる、汗のにおい。
 服の裾を掴む彼の手を解いて指を絡め合わせれば、司くんもぎゅっと僕の手を握り返した。
「まあ、急ぐことでもないからね……
……
(気負わせてしまったかな……
 見るからに落ち込んだ様子の司くんを心配する傍らで、明確な拒絶をされなかったことに安堵している自分がいる。保守的な自分に嫌気が差して、だけど強引に踏み込む気にもなれなくて。
 結局僕はぽんぽんと慰めるように司くんの背中を叩くことで、自らの心も慰めている。
「行こうか。寧々達が待ってる」
……ああ」
 なんとなく気まずい空気のまま、ワンダーステージに戻ろうと彼の手を引く。地面に落ちたペットボトルを拾い上げ、起き上がったところで。
 不意に。
 カシャ、と軽快なシャッター音が鳴った気がして、ぱっと顔を上げた。
……?」
「どうかしたのか、類?」
「いや……
 シャッター音なんて。ここフェニックスワンダーランドではよく聞く音だ。
 一時期若者向けにフェニックスワンダーランドを作り替えようとした頃の名残で、園内のアトラクションに限らずそのオブジェクトや提供する料理まで、どれも今時風のフォトジェニックを意識されて作られている。今しがた通り過ぎたパレードも然り。普段なら、耳に留めることもない音のひとつのはずだった。
 ただそれを。……今、僕達に向けられたような気がして。
……気のせい、かな」
 一通り見える範囲で周囲を確かめてみても、怪しい人物は見当たらない。どこか引っかかりを覚えながら、僕達はそのままワンダーステージに向かって踵を返した。


 あのとき深追いしなかったことを、今は少し後悔している。
(どうやら気のせいじゃなかったようだ)
 違和感が確信に変わったのは、大学の帰り道。駅の改札を抜けて雑踏の中を数歩進み始めたときだった。
 僕の歩幅に合わせて足音が続いている。僕が立ち止まるとそれは止み、再び歩き始めるとやはり音が纏わりついた。足音の間隔は短く、歩幅から推測するに女性だろう。ヒールの音がやけに耳につく。あまり履き慣れていないのだろうか。
……尾けられている。一体何のために?)
 サルエルパンツのポケットに手を突っ込んで、小型のカメラ付きドローンをこっそり宙に飛ばす。スマホを見るフリをしてモニターを覗けば、立て看板の裏に隠れる女の姿が確認出来た。
 黒のおさげ髪。陽の反射で瞳が判別出来ないほど分厚いレンズの丸眼鏡。小柄で、身長はえむくんと同じくらいだろうか。
 先日フェニックスワンダーランドで聞いたカメラのシャッター音を思い出して、手元に目を凝らしてみる。しかし予想は外れ、その手にはカメラはおろかスマホさえ握られていなかった。
(盗撮目的ではない……?)
 少し拍子抜けだ。てっきりストーカーかと思っていた。長年一緒にいるうちに、司くんの自意識過剰が移ってしまったかな。
 とはいえ自慢ではないが、ワンダーランズ×ショウタイムの知名度は現在鰻登りの真っ最中で。「フェニックスワンダーランドといえばワンダーステージ」と評されるほどには、僕達の活動はしっかり日の目を浴びている。
 僕自身はあまりそういう流行り廃りには明るくないのだけど……時にはSNSで動画や写真が拡散され、特にメンバーが現役高校生及び大学生ゆえに、若い子を中心に注目を集めているようだ。
 そうすると自然、司くんは勿論のこと、寧々やえむくん、僕、果ては着ぐるみくんにまでファンが少なからず出来るわけで。そのファンとの交流トラブルも、まあ、決してなくはない。そのひとつが盗撮だ。
 普段は僕らにカメラが向けば、目立ちたがりの司くんが率先して緩衝役になってくれている。
 そして寧々にはネネロボが。えむくんには着ぐるみくんが常に傍にいるので、これまで大きな問題は未然に防げていたが――僕自身は無防備だった。男だし、裏方がメインだからと油断していたのもある。……あまり有名になりすぎるのも困りものだ。
 適当に迂回して、適当に撒こう。幸い学生時代のやんちゃが功を奏して、追っ手を振り切るのは得意中の得意だった。
(あ、そうだ。そろそろ洗剤がなくなりそうなんだっけ……
 今朝司くんが洗濯機を回しながら嘆いていたのをふと思い出す。迂回のついでにドラッグストアなりスーパーなり立ち寄れるだろうか。脳内でいくつかルートの候補をあげて、僕は小型のドローンをポケットに戻した。
 小走りで駆け出すと、隠れていた少女はあからさまに動揺した様子で僕を追いかけ始めた。
 細い路地を右に左に。このまま順調に撒けるかと思ったが、しかし僕の目論見は外れることとなる。少女は見た目通り動きが鈍く、僕を見失う焦りからだろうか、路地を曲がる直前で突然声を張り上げたのだ。
「あ、あのっ……神代くん!」
……
 名指しで呼び止められれば、立ち止まらざるをえない。
 警戒しつつ振り返る。おさげの少女は弾んだ息と整えながら、まっすぐ僕を見つめて背筋を伸ばした。
……君は?」
「えっと……同じ大学の……
 同じ大学。てっきり高校生か、中学生くらいかと思っていた。とすると、ひょっとして大学からここまで僕を追ってきたのだろうか。
 ストーカー、と断定するには物証が足りないか。けれどこうして呼び止めた時点でこの出会いは偶然的なものではない。
 これがそこのデジタルサイネージに映る俳優が出るようなトレンド映画ならあるいは、この出会いも運命的な演出をするのかもしれないが――
「悪いね。この後用事があるから、急いで帰らないといけないんだ」
「お時間はとりません! あの、話を聞いてもらえれば、それで……
……。何かな」
 嘆息を交えながら先を促す。たとえ態度が冷たいと詰られても、中途半端な優しさを見せる方が互いにとって碌なことにならないことを僕はよく知っていた。
 彼女の揺らぐ瞳を見ていると、……ああ、嫌でも思い出す。色気づく中高時代、僕の上辺だけの容姿を見て好意を伝えてきた子達を。
 だから恋だ愛だなんてくだらないと思っていたし、ずっと僕には縁がないとも思っていた。一時の気の迷い、あるいは恋に恋しているだけではないのかと。
 そう、思っていたんだけどな。……司くんに出会うまでは。
「神代くん……今、好きな人とか、……
……いたとして、君に関係あるかい?」
「それは……
 少女は口籠って下を向いた。言葉が途切れて静寂が訪れても、通り過ぎる雑踏は足を止めない。
 すぐ近くの公園では子供達のはしゃぐ声が聞こえてくる。かさかさと枯葉が待って、僕の足の間を通り抜けていく。
 人の数だけ平等に舞台がある。だのにそれらは、時に息苦しい。
……いるよ。好きな人」
「っ……同じ大学の人……ですか?」
「それはノーコメントだ」
……それとも、……バイト先の人?」
「詮索は感心しないね」
「天馬くんですか?」
……
 眉を寄せた。
「何故、彼だと?」
「やっぱりそうなんですね……? あの、噂で」
「噂だって?」
 繰り返すと、少女はたどたどしく頷いた。その拍子に彼女が掛けていた眼鏡がズレる。
 じっと見つめて、ようやく彼女の幼い印象の正体に気がついた。おさげの髪を結わう髪ゴム。よく見ればフェニックスワンダーランドのマスコットキャラクター、フェニーくんがついている。
 少女の頬が朱に染まり、桃色の唇が控えめに開く。ズレた眼鏡を直しながら、少女はゆっくりと言葉を続けた。
「神代くんは同性愛者だ、って……広まってて。だからわたし……
 確認したかったんです。……あなたに、直接。


☆》
 食器についた泡が排水溝の奥へと消えていく。最後の一枚を片付けて、オレはふうと息をついた。
 家事を熟せば気も紛れるかと思ったが、単調作業であるせいか、結局ますます先日の類の言葉について考え込むはめになってしまった。坩堝にはまるとはまさにこのことだ。
 類とはじめての夜を迎えて、早二週間と少し。だというのに今でもあの夜のことを思い出すとオレは形容しがたい感情を覚える。
 この、中を。類の指で暴いて、気持ちいいところを弾かれたらオレはもう駄目だ。おしまいだ。天馬司の形を保っていられなくなるのだ。
 何が駄目って、冷静に考えて、スターにあるまじき声がどうしても押さえられないのが特に堪え難かった。つまるところ羞恥心に殺されてしまいそうなのである。
 類とのセックスは気持ちよかった、と思う。後半は無我夢中でほとんど類にされるがままだったけれど、またしたいという類に頷く気持ちは嘘じゃない。ただ、後になって思い返せば返すほど、前も後ろも見失って善がる自分を冷静に俯瞰出来なくなる。
 鼻から抜けて媚びるような……あの、甘えた声が恥ずかしくてたまらないだけで。
 割り切ってしまえばどうという話でもないのだろうが、この十九年、当たり前のようにオレは普通の男として生きてきたのだ。愛されるより愛したいと思うのは自然なことで、甘やかされるより甘やかす方が性に合っている。
 それでも類が望むならと思う反面で、あの夜を反芻しては、羞恥でどうにかなってしまいそうなのも事実だった。
 類の細く節立つ手指が、オレの肌に触れる。肌のきめをなぞって、優しく口付ける。壊れ物でも扱うかのようで、かと思えば跡がつくほど腰を掴んで打ちつける姿も、どれもこれもが鮮明に記憶に残り過ぎているのだ。
 あの夜を夢で終わらせたくない。いいや、終わらせるつもりなど毛頭ない。毛頭ないが、……怖気づいている。実に情けないことに。
 はあ、と重たいため息を零して、ダイニングテーブルを布巾で拭く。
 リビングに西日が差している。脳裏を過ぎるのは、フェニックスワンダーランドで瞳の奥に熱を浮かべた類の、あの寂しそうな顔だ。
 違うのに。類にあんな顔、させたくはないのに。
(気まずいな……どうしたものか)
 咲希のように。あるいはえむのように、オレが甘え上手だったならば。話はもっと簡単だっただろうに――
 ぼんやりと夕日を眺めて物思いに耽っていると、不意にインターホンが来客を知らせた。
 類のやつ、また通販でも頼んでいたのだろうか。再び嘆息し、ぱたぱたとスリッパを鳴らして玄関を開ける。
「はーい……、む、咲希じゃないか!」
「えへへ、来ちゃった」
 そこに立っていた人物を目にして目を見開く。カスタードにストロベリーを混ぜたみたいな、甘そうなふわふわの髪。今日はいつものツインテールではなく、耳の下で愛らしく三つ編みにしている。上向く長い睫毛。桃色の頬。目に入れても痛くない、我が愛しの妹――咲希。
 突然の来訪に驚きはあるものの、一瞬で気分が浮上した。
 自然と顔が綻んで、咲希を中へと促す。いつでも遊びに来ていいと言ってはいたが、咲希も寧々同様今年は受験生で、会うのはお盆の時期に帰省した際以来だ。
「はいお兄ちゃん、これお土産」
「なんだ、気を遣わなくてもよかったのに」
「いいの! アタシが買いたくて買ってきたんだから!」
 押し付けられた袋の中身は駅前に売っている銘菓だった。咲希が昔から大好きなやつ。
 ふんわりとした生地と中の濃厚なクリームが癖になる味で、それを頬張る咲希があまりに幸せそうな顔をするものだから、オレはいつもおやつにそれが出る度に、自分の分の半分は咲希にあげていた。
 ティーバッグをストックしておいてよかった。ストレートのアップルティーと咲希の土産を一緒にテーブルに並べる。金糸を夕陽の色で溶かした咲希はティーカップの縁にふう、と息を吹きかけて、寒さでまだ赤らむ頬をふんわりと緩ませた。
「お兄ちゃんとるいさんのおうち、来るのは二回目だけど……ふふ、なんだかもうすっかり二人の家って感じ!」
「そうか?」
「うん!」
 実際に住んでいると実感がわかないが……改めてそう言われると、類と関係が変わった今はなんだか照れくさい。
 半年も住めば自ずと互いの私物が増えて、特にリビングはショー関係のDVDやら資料やらが棚いっぱいに積まれている。時折片付けるようにしているが、一度観始めるとオレ達はなし崩しのようにあれもこれもと手を伸ばしてしまうから、一向に片付かないのが難点だった。
 しかしこのリビングなんてまだ綺麗な方だ。類の部屋は驚くほどに足の踏み場がない。
 そんなに片付けをしたくないならオレがしてやろうと一度手を出したことがあったが、「司くん。僕は部屋を散らかしてるわけじゃない。僕のわかるように物を配置しているんだ。勝手に動かされては困るよ」と呆れ顔で諭されてからは掃除機をかけてやる程度に留めている。
 ……しかし今思い出しても腹が立つ言い分だな。
「るいさんはまだ大学? 大学生ってやっぱり大変?」
「そうだな……時期によるな。テスト期間や課題が多い日は大変だが、空きコマが多くて暇な日もあるぞ。ありがたくバイトやショーのことに充てさせてもらってるが」
「そうなんだ……
「咲希は志望大学決まったのか?」
「うん。大学っていうか、専門学校なんだけど……
 コト、と両手で握っていたカップをテーブルに置いて、咲希は静かに目を伏せた。
「アタシ、やっぱりいっちゃん達とプロになりたいから……。専門のところでちゃんとした音楽も学びたいなって」
「いいじゃないか。愛する妹の夢だ、オレは応援するぞ!」
……えへへ。ありがとう、お兄ちゃん」
 咲希は今も幼馴染と組むバンド、Leo/needのキーボードとして活動している。SNSを見る限りでは毎日楽しくやっているようで、一時期のわだかまりなんて嘘のようだ。
 最近では街中の電子看板にCDのプロモーションが流れているのを見かけることもある。その度にオレは密かに写真を撮っては、大事にアルバムに保存していた。
「それでね、いっちゃんも同じ専門学校を目指してるんだけど、ほなちゃんは大学進学目指してて、でもしほちゃんは進学しないでバイトしながら音楽するって言ってて……
「ふむ。あいつららしい」
「進路別々になっちゃうから寂しくて……お兄ちゃんみたいに、その……
 紅茶を一口啜って下ろす。言いづらそうに視線を泳がせる咲希をじっと見つめ、相好を崩した。
「四人でルームシェアしたいのか?」
……うん」
 ――なんだか感慨深いな。
 幼い咲希はいつもオレの後ろをついて歩いていて。
 この子が道端で躓いて転ぶ度に、手を差し伸べて涙を拭うのはオレの役目だった。だのに今はどうだ、そんな咲希に進路の相談をされている。咲希が自分で決めて選んだ道を、否定のしようなどない。
 しかし。
「咲希が実家を出るって聞いたら、父さん号泣するかもなぁ……
「うっ……。でもアタシ、ちゃんとこまめに帰省するよ! お父さんとお母さんのことも大好きだもん。それにいっちゃん達もいれば心配じゃないでしょ?」
「そうだな……まずは咲希のその気持ちを、父さん達に伝えてからだな」
 ――咲希には。今はオレ以上に頼れる相手が、仲間がいる。
 寂しくないといえば嘘になるが、オレ自身だってそうやって自立してきたんだ。そのときが咲希にもやってきたというだけのこと。
 だが幸か不幸か、うちの親、特に父は他所のお宅と比べてもかなり子煩悩だった。実家の大きなひな人形や兜には、父のオレ達への愛が惜しみなく込められていて、それがオレ達兄妹にとっては間違いなく誇りで、自慢だったのだ。
「うう〜! 反対されちゃったらどうしよう……。でもみんなと一緒にいたいよ〜!」
……
「みんな一緒がいいの……四人じゃなきゃだめなの!」
 そうだな、とひとつ頷く。はて、オレのときはどうだったか。
 オレがワンダーランズ×ショウタイムで活動していることは当然ながら、そのメンバーの一人が類であることも両親は知っている。なので類とルームシェアをすると切り出したときは、特に文句のひとつもなかったように思う。
 むしろ類に迷惑をかけないようにと釘を刺されたくらいだ。類は遠目で見る分には……まあ、好青年だからな。
 しかし長男のオレはともかくとして、咲希は女の子だ。心配になる親の気持ちもわかる。いや、寂しいという方がより正しいかもしれない。
「だが大丈夫だ! もしものときはオレも父さんを説得する」
「ほんとっ?」
「はっはっは! オレは咲希の兄だからな! これくらい朝飯前だ」
「お兄ちゃん……!」
 過保護な父はおそらく最初こそ反対するだろうが、オレ達兄妹が本気で取り組もうと思っていることは、それがどんな道であろうとも必ず応援してくれる、そんな人だ。
 偏見のない両親をもてて幸福だと思う。たぶん――オレが類と交際していることを打ち明けたとしても、両親は受け入れてくれるだろう。
 そう、だから、大丈夫だ。そう頷いたのは、……ひょっとすると自分自身のためかもしれないが。
「それにしても、類のやつ遅いな……。いつもならもう帰ってる時間なんだが」
「電車遅れちゃってるのかな?」
「かもしれんな。……せっかくだし駅まで迎えに行くか。咲希、もう暗いし今日は泊まっていったらどうだ?」
「いいの? うう〜、ごめんね、急に押しかけて……
「なに、いつでも大歓迎だ! 我が妹よ! だがちゃんと母さん達に連絡は入れておくんだぞ?」
「はぁ〜い」
 スマホを持って廊下に向かう咲希の後ろ姿を見送りながら、少しだけ行儀悪くテーブルに肘をつく。
 正直なところ安堵していた。咲希がいるならば類と不必要に気まずくなることも、あるいは『良い』雰囲気になることもないだろう。
……情けない限りだが)
 咲希がこのタイミングでうちに来てくれて助かった。
 壁に掛けてあるコートをハンガーから外す。外はもう暗くなり始めている。
 リモコンで暖房を消しながら、オレはほんの少しの肌寒さを覚えてコートを羽織った。


 住宅街を抜けると割合すぐに、駅前に続く大通りへと抜ける。
 繁華街なのでここ周辺でも利便性は高いのだが、駅前公園を突っ切った先にまた住宅街があって、オレがよく利用するスーパーや個人医院はそっちに密集していた。
 上手く時間が合えば、そろそろ類が駅に到着する頃だろうか。咲希と二人、肩を並べて足早に青信号の横断歩道を突っ切る。
 夏は青々と木々が生い茂る駅前公園。だが本格的な冬が間近に迫る今日び、枯葉が地面をかさかさと風の吹くまま転がっていく。
「ねえねえお兄ちゃん、せっかくのお泊まりだし、えむちゃんたちも呼べないかな?」
「呼んでもいいがどこで寝るんだ? 咲希はオレの部屋を使うとして――……ん?」
 咲希とたわいもない会話を交わしていると、ふと、どこかから聞き慣れた声が聞こえた気がして立ち止まった。声のする方へ視線を向けて、ちょうど公園を挟んだ向かい側に類の後ろ姿を見つける。
 ――あいつ、こんなところで何してるんだ?
 類、と声を掛けようとして。
 ……一緒にいる少女の姿に、喉元まで出掛かっていた声は一瞬で肺の奥へと沈んでいった。
……、誰だ?)
 ただならない雰囲気を感じて、どく、と心臓が嫌な音を立てる。今まで感じたことのない感情が、シミのように広がって、まるで……喩えるのも悍ましいが、虫に蝕まれているかのような、そんな感覚を覚えた。
 咲希も気がついたようで、ひょこりとオレの後ろから類を見つめる。
「あれ? あれって……るいさん?」
「そうだな……
「隣にいるの、誰だろ。お友達かな?」
……
 お友達。
 いや、……いやいや。類にだってお友達の一人や二人いるだろう。オレにだって大学で新しくできた友人がいる。虎崎もそのうちのひとりだ。むしろ類が大学でひとりで過ごしている方が問題ではないのか。そうだ。ああ、そうだとも。
 だからオレがもやもやする必要なんて微塵も。
……『もやもや』だと?)
 胸中に渦巻く感情の正体に覚えがあって、オレは自分の胸に手を当てた。もしや。いや、まさか。……嫉妬しているのか、オレは。
「あ、ひょっとして彼女――、」
「っ咲希」
 咄嗟に咲希の言葉を制して、口を噤む。咲希は大きな瞳を瞬かせて、驚いたようにオレの顔を見上げた。
……彼女では、ないと思う」
「そうなの?」
「ああ……
 先ほどから心臓がちっとも思い通りにならない。不安に思うことなど何一つない。類は、神代類はオレを愛している。それはオレも十二分わかっている。
 なら何故こんなにも……嫌な気持ちになるのだろう。
 女性の頬が赤らんでいる。類の表情はこちらから窺えないが、緊張した面持ちの少女を見るに――告白だろうか。
 ああ、そういえば昔から類は女の子にモテていた。時折フェニックスワンダーランドでの練習に類だけが遅れることがあって、類も野暮用としか言わないからオレは首を傾げるばかりだったが、後に寧々から空気を読めと怒られたものだ。
……
「お兄ちゃん?」
……なんでもない。類は取り込み中のようだし、オレ達で先にスーパーに行こうか」
……
 告白であるにしろ、そうではないにしろ。オレが感情を振り回す理由などないはずなのに。
 ……ひょっとして類もこんな心地だったのだろうか。
 付き合う前、一度だけ類に嫉妬させてしまったことがある。虎崎達に遅くまで合コンに付き合わされ、不本意ながら女性の香りを纏って帰宅した日のことだ。類ははぐらかしていたけれど、嫉妬しているのだろうことは肌でわかった。
 あまり負の感情を表に出さない類が、静かに怒っているのを見て。恋とは面倒な感情なのだとどこか他人事のように思っていた。それがまさか、今頃になってオレにも理解する日がくるとは。
 それほど、オレにとって類の存在が大きくなっているということなのだろうか。
……複雑だ)
 好きだから、愛したい。それだけでは駄目なのか、恋ってやつは。
 潔白を信じていても、心は無性にささくれ立ってしまう。そうだ、今夜は鍋にして野菜をいっぱい買い込んでやろう。それがいい。完全に八つ当たりだ。
 駅前公園を素通りして、少し足早に先を急ぐ。
……ごめんね、お兄ちゃん」
「ん? 何がだ?」
「何って……アタシたぶん、無神経なこと言っちゃったよね」
 咲希は一度類の方を見て、先を歩くオレの手を掴んだ。
 あたたかい体温が指先から伝わってくる。
 幼い頃は、こうしてよく手を繋いだ。昔から咲希の手はオレよりも小さくて、あたたかくて、やわらかくて。
 咲希の笑顔を、命を、守ってやらなきゃと思っていた。
「お兄ちゃん、あのね。アタシ、るいさんと一緒にいるときのお兄ちゃんが大好き」
……咲希?」
「お兄ちゃん、アタシの前ではときどきへんてこだけど、かっこいいお兄ちゃんでいてくれるでしょ? でもるいさんと一緒にいるときのお兄ちゃん、いつも楽しそうだから」
……
「だから妹としてはね、ちょっぴり悔しいの。るいさん、アタシの大切なお兄ちゃんとっちゃったんだもん! ずるいよ、お兄ちゃんはアタシのお兄ちゃんなのに」
「咲希、それは……
「でもね」
 一度言葉を区切って、咲希は再びオレの手を握り直した。
……悔しい気持ち以上に、うれしいんだ。お兄ちゃんにやっと甘えられる人ができたんだーって」
……甘える?」
 うん、と咲希が頷く。
「だから、大丈夫だよ。お兄ちゃん」
……
「大丈夫。るいさんも、お兄ちゃんのこと受け止めてくれるよ」
……甘える、か……
 甘えてもいいのだろうか。類に。伝えてもいいのだろうか。嫉妬を、してしまったと。
 オレは兄で、座長で、先輩で……昔から、周囲に頼られれば頼られるほど気が大きくなった。悪い意味ではない。例えば無敵のスーパーマンにでもなれるかのような、そんな万能感を覚えるのだ。
 だから、甘えられるより甘やかす方が得意だ。オレの手の中にあるものを、大好きな人達に分け与えるのが得意だ。
……類以外は)
 オレが持つもの。才能。努力。価値。自信。誰にあげたっていい。それでオレ自身の煌めきは失われたりしない。
 ただ、類は。類だけは、……オレが、手放したくない。
 およそスターにはふさわしくない感情を抱いてしまっている。類に恋をしなければ、オレは無敵でいられたというのに。類に恋をしたから、オレは弱くなってしまった。
 それでも、……類は受け止めてくれるのだろうか。
……野菜、少しは減らしてやるか」
「お兄ちゃん? 今何か言った?」
……なんでもないぞ! ハッハッハ!」
 ぱちぱちと街灯がひとつふたつ点灯していく。吐き出した吐息は白く溶けて、濃紺の空に還っていくのを、オレは右手の温かさを感じながらじっと見つめていた。


★》
……参ったな)
 誰だって月曜は憂鬱なものだ。
 特にこの週末は咲希くんが僕達の家に遊びに来ていて、流れでえむくんと寧々も呼び、一晩中豪勢な鍋パーティーで大いに盛り上がったし。寧々が持ち込んだ据え置きのゲームでは司くんがいっそ哀れなほど連戦連敗。罰ゲームにえむくんのお兄さんのモノマネをして大いにすべり倒す、それはそれは楽しい週末だった。
 だからというわけでもないが、大学のキャンパスに足を踏み入れてすぐに僕は陰鬱な溜息を零しそうになってしまった。
 ――ほら、あの人だよ、神代類くん。
 ――えー、あたし密かに狙ってたのにぃ。
(『まさかソッチの趣味の人だったなんて』ね)
 内緒話をするならもっと声を落としてくれればいいのに、姦しいことこの上ない。
 先日出会った少女が学内で広まっているらしい僕のウワサをご丁寧にもわざわざ教えに来てくれたが、なまじそれも間違っていなかったようだ。一歩歩けば奇異の目で見られ、ひそひそと隠す気のない邪推を向けられる。
 司くんと一緒にこの大学に通いたいと一時は思っていたものだけど――彼がこの場にいなくて本当によかったと今は思う。結果論に過ぎないが。
 世間は異端者に優しくない。……いや、異端と呼ぶのはよろしくないね。人は自分と大きく異なるものを、なかなか理解し得ない生き物であるというだけのことだ。
 この視線の正体が嫌悪であるならばまだ良かった。嫌う人間にコンタクトをとるような物好きはいない。だけどこれは――
……好奇心)
 今時、誰でも一度は同性愛について耳にしたことがある時代だ。同性愛に限らずとも、セクシャルマイノリティの理解が進む世の中ではある。けれどそれは理解であって、共感ではない。ただの知識、もっといえば識字程度のものかもしれない。
 事実、現実問題として、こうして僕は名前も知らない誰かの話題のタネにされているのだから。
……くん、……類くん』
「ん? ……おや、カイトさんじゃないか」
 ポケットの中のスマホが震えていると思えば、カイトさんが顔を覗かせていた。咄嗟に人目から隠れるようにあまり人の寄り付かない物理学研究棟に忍び込む。
 落ち着かないキャンパス内でも、この研究棟の中だけはいつも物静かで僕は気に入っていた。一階には小さな食堂と売店、それからいくつかの会議室があるくらいで、二階より上は物理研究者の神聖な領域だ。
 僕は階段の裏手に隠れるようにして、スマホの画面を上に向けた。プロジェクターよろしく、ホログラム化されたカイトさんの姿が浮かび上がる。紳士を彷彿とさせる、いつもの濃紺のジャケット姿。けれどその表情は浮かない。
『大丈夫かい? なんだか嫌な気配を感じてしまって、様子を見に来たんだけれど……
「ああ、大丈夫だよ。ああいった視線には慣れてるからねえ」
『類くん……
 実際のところ、本当に慣れていた。恋愛観はともかく、僕自身、凡人とはおよそかけ離れた発想力があると自負している。同時にそれは演出家としての矜持でもあったし、不満や疑念はショーを見て晴らせばいいと開き直ってもいる。
 人の噂も四十五日。どうせそう長続きはしないものだ。変人のレッテルに、『男色家』という新たなレッテルが加わっただけ。
 ……全然、違うんだけどね。
 僕は男だから司くんを好きになったわけじゃない。だが今更それを主張したって、結局司くんと僕が今交際をしているのは事実だ。
 ため息が出てしまう。彼に恋をして、結ばれて、それでも僕はまだ不安を抱えなければならないのか。僕だってまだ信じられないくらいなのに。この胸に抱える重たい恋情を、司くんも同じほど抱えているとは到底思えなくて、だけど僕に体を預けるほどには、パートナーとして彼に信頼されているだろう?
 僕はたぶん、その信頼を裏切りたくない。
『無理はしなくていいんだよ。君には頼れる仲間がいるのだからね』
……いや。司くん達に迷惑はかけられないよ」
 噂の出所はわからないが、あのとき――フェニックスワンダーランドで僕が司くんに不用意に触れたあの日。耳にしたシャッター音が無関係だったとは思えない。
 鳳家の長男次男に取り次げば、防犯カメラくらいは確認できるだろう。でもそれは同時に、僕と司くんの関係をフェニックスワンダーランド内の周囲にも知られるリスクが付き纏う。
 あるいは、僕達を応援してくれるファンにまで。
(別に、僕が周りにどう思われてもどうでもいい。カイトさんの言う通り、一握り、僕を理解してくれる友人がいてくれれば十分だ。……だけど)
「矛先が彼に向くのは……いただけないな」
 司くんがこれから歩む輝かしい人生の、足枷になるのだけは御免だ。こうして僕一人が矢面に立つならまだしも、司くんまで好奇の目に晒されてはたまったものじゃない。
 ……いや、彼ならそれさえも自らの養分にしてしまえるだろうか。
 裏口の戸に寄り掛かる。掃除の行き届いてない曇った窓からでは、空も薄暗く汚れて見える。はてさて。一体どうこの状況を打破したものか――
「ん?」
……げっ」
「あ、神代先輩」
……おや、これはこれは」
 研究棟の裏通りをぼんやりと眺めていれば、通りの向こうから二人組の男が並んで歩いているのが見えて。僕は陰鬱な気分から一変、目を瞬かせた。なんせその二人組が、よく知る人物だったものだから。
 東雲くんと青柳くん。今や懐かしい神山高校の制服を着た二人は、大学パンフレットらしきものを手に持っている。東雲くんは僕に気づくなりあからさまに顔を顰めて、片手でその顔を覆った。
 東雲くんとは先日も街中で顔を合わせたばかりだというのに。縁があるねえ、と他人事のように呟きながら、カラカラと建て付けの悪い戸を開ける。冬特有の澄み渡った、それでいて乾いた風が吹き抜けて、僕の前髪をさらりと靡かせた。
「やあ、東雲くん、青柳くん」
「あ〜〜クッソ……! タイミングわりぃ……なんでいんだよこんなとこに」
「こら彰人。すみません、先輩……
「フフ。気にしてないよ。二人とも大学見学かい?」
「はい。春から彰人がこの大学に通う予定なので、下見に」
 顔を覗かせるカイトさんに目配せして、スマホをポケットにしまう。
 下見、ということは推薦入試で合格したのだろうか。まずはおめでとう、と拍手を贈る。東雲くんは「ども」と小さく頷いて、またすぐにそっぽを向いてしまった。相変わらず僕は彼に嫌われているようだ。なかなか懐かない野良猫を相手にしているような気分になる。
 一方で青柳くんは、僕が司くんと親しい関係であるからか、僕に対して敵意のようなものは感じない。むしろその逆、その視線からは好意すら感じ取れるほどだ。
「うちに進学するのは東雲くんだけかい? 君は一緒じゃないのかな」
「俺は……
 互いに身の上も語った間柄だ。世間話の体で多少突っ込んだ話を振れば、青柳くんは微かに表情を強張らせて唇を引き結んだ。代わりとばかりに、隣でつんと鼻先を外に向けていた東雲くんが口を開く。
「冬弥は……ウィーンの大学に行く」
「へえ……留学か」
……はい」
 ウィーンの大学と聞くとやはり一芸秀でたイメージがある。たしかに青柳くんのご実家は音楽家の系譜であるけれど、しかし青柳くん自身はクラシックから離れて久しいと聞いている。
「やはり、お父さんの影響で?」
「いえ、父との確執はもうほとんど。……俺が、俺の意思で決めました」
……
「彰人とこの先も音楽をしていくために……外の世界で自分の実力を試してみたいんです。彰人と一緒に、二人の……いえ。四人の夢を叶えたいので」
「外の世界で……
 日本は狭い。
 彼らの夢はチームで最高のイベントを作り上げること。そしてその夢がほぼ実現した今、次に目指すのは日本のトップ、そして世界だ。
 なるほどね、と頷くと、よそ見をしていた東雲くんが真っ直ぐに僕を見つめた。
「センパイ。この学校、交換留学制度ありますよね?」
「あるよ。……厳しい枠だけどね」
「はっ。上等だ。超える壁はでかけりゃでかいほどいい」
「おや。フフ……揃いも揃って野心家だねえ」
 彼も青柳くんの背を追って、ウィーンに行くつもりなのか。
 ふと年始に披露する予定のショーの、司くんと僕で書いたあの脚本を思い出した。登場人物の王様は司くんの当て書きだ。そして彼も、世界を夢見て祖国を旅立つ野心家。
 司くんの背中を見て成長した彼らもどうやら司くんの影響を少なからず受けているみたいで、ふ、と思わず笑みが漏れる。
「立ち話もなんですし、先輩、宜しければ大学を案内していただけませんか」
「もちろんいいとも」
 青柳くんの言葉に二つ返事で頷いて、僕は大学キャンパスの案内ついでに近くのカフェテラスへ向かうことにした。けれど店のドアを開けてすぐに後悔する。
 決して忘れていたつもりではなかったけれど――店内にいた学生の一人が僕を見て、ひそひそと相席していた友人らしき人物に声を掛ける。ひそひそ声はあっという間に連鎖して、再び僕は彼らの注目の的だ。
 ため息。こんなとき司くんなら、とどうしても考えてしまう。僕は彼のように愛嬌を振る舞えないから、ただ立ち尽くして無視するほか、ない。
「あ……?」
 隠す気のない好奇の目。周囲の異変に気づいた東雲くんが怪訝そうに辺りを見渡して、眉間の皺を一層濃くした。
 ――ほら、あそこ。
 ――神代くんカッコいいのに残念。ホモじゃ脈なしじゃん。
(仮に僕が今フリーだったとしても願い下げだけどねぇ……
 悲しいが、言葉の針が心に突き刺さっても、何でもない顔をできる程度には大人になってしまった。相手にするのも馬鹿馬鹿しいだろう、こんなもの。
 気にせず客の少ない外のテラス席まで一直線に歩を進める。適当な椅子に腰掛ければ、僕に倣うようにして青柳くんも席についた。ただ一人、東雲くんだけはカウンター席の学生を睨みつけるようにしていたけれど。
「んだよ、これ……
「君の言う通り、タイミングがよろしくないねぇ。実は僕、大学では針の筵でね」
「針の筵って……
 東雲くんの言葉を遮って、窓際に座る男達の声が耳に届く。
 ――つーか男なら誰でもストライクゾーンなのかねー。
 ――うわ。ちょっとそーゆー目で見られるの、ねえわ。
「はあ?」
 言いたいやつには言わせておけばいい。そのつもりでメニューを開いていた僕は、目の前でガタッと勢いで椅子が倒れるのを見て驚愕した。
 倒れた椅子に目もくれず、ずんずんと鬼気迫る表情で東雲くんが窓から身を乗り出す。噂話に夢中な男の胸ぐらを掴んだかと思うと、彼は力いっぱいにそれを持ち上げた。
「オイ。この人のことなんもわかってねーやつが影でひそひそ言ってんなよ!」
……!」
 店内ではお静かに、と慌てた様子で店員が駆け寄る。
 不自然に空気が吐き出される音がして、僕は驚いて口を開いたまま、相席している青柳くんへと視線を向けた。
 ……笑っている。
 暴走する東雲くんを止める素振りもなく、ただ静かに、彼のしたいようにさせるのが最善であるかと言いたげな表情で。
 店員の注意を受けて戻ってきた東雲くんは、それはもう不貞腐れていた。不機嫌そうに青柳くんの隣に腰掛ける。
「初対面では人当たりのいい彰人がまさかキレるなんてな」
「あ――クソ……!」
「だが。彰人は悪くない」
 ひそひそ声は止まない。青柳くんは一瞥し、振り払うように首を左右に緩く振った。
「神代先輩は、男なら誰彼構わず好きになるわけではないです。あの人だから……司先輩だから好きになったのだと、俺は思います」
「青柳くん……。ありがとう。でもいいんだ。それでも僕が彼と付き合ってるのは本当のことだからね」
「良くねえよ」
 反響する、凛とした声。
 思わず顔を上げて、目を見開いた。僕を見つめる彼が、東雲くんが。どうしてか、司くんと重なって見えたものだから。
「アンタが良くても、アンタを選んだ司センパイが良くねえだろうが!」
……!」
「神代先輩。彰人の言う通りです。司先輩は情の深いお方ですが、決して本意でない選択はされない真っ直ぐな方です」
「青柳くん……
「あなたが司先輩を好きになったように、司先輩も神代先輩を好きになったから、今お二人はお付き合いされているのでしょう。そしてそれは……他人にとやかく言われる筋合いのないことです。胸を張っていいことです……!」
――
 ……ずっと後ろめたかった。
 司くんはスターになる人だ。周囲を惹きつけ、笑顔にしてしまう才能の持ち主。それに司くん自身が、スターになることに貪欲な努力家だ。
 そんな彼を、僕の一方的な感情で縛り付けてしまうことに罪悪感を抱いていた。
 僕も大概、ショーに対しては本気だ。だけど、僕は。司くんのように、世界を夢見てはいない。そんな夢はとうに捨ててしまった。どうせ僕の言葉に、世界なんて大それたものが耳を貸すはずないのだから。
 でも彼は違うだろう。司くんは。どんなに滑稽で、どんなに荒唐無稽であったとしても、誰もが司くんの言葉に耳を傾ける。彼ならばと期待を寄せる。夢をみせてくれるんじゃないかと、世界中が注目するんだ。
 だから鳥籠の鍵はいつだって開いている。本当なら、彼はもっと自由に羽搏けるはずで。僕が引き留めなくても、彼は、いつか、世界に。
――本当にそう、だったのだろうか)
 司くんの笑顔が好きだ。
 とりわけこの頃は、僕に甘い顔を見せる。恋に溶け、向けられた愛情のこもった眼差しに、僕が気づかないはずもない。
 だってずっと好きだった。ずっと見ていたんだ、誰よりも。きっと世界中の誰を差し置いたって、僕が一番、彼に手を伸ばしていた。はずだった。のに。
 僕は一体司くんの何を見ていたんだろう。
(司くんを好きだと言いながら……司くんの言葉をどこかで疑っていた)
 物語のように恋は結ばれてハッピーエンド、とはいかない。いつだって不安で仕方がない。いつか司くんが僕の傍から離れてしまう日がくるんじゃないかと怯えている。……ああ、本当に情けない。まさか年下の彼らに気づかされるなんて。
 離れていくなら、会いにいけばいいじゃないか。
 彼がスターになるというのなら。僕は、僕達の未来のために一歩踏み出すべきじゃないのか。子供のように不貞腐れて、暗くて狭い世界に閉じこもったって未来は変わらない。
 変えたい。だって、だって彼は。言っていたじゃないか。
 ――……お前が必要だ、類! そして出来れば――
 出来ればこの先の人生も、隣にいるのはお前がいい。――って。
(変だな。……こんなやりとり、したことないはずなのに)
 だけど不思議と、はっきりとイメージできる。差し伸べられる司くんの手。眩いオレンジの光の中、それはたしかにあたたかくて、やさしくて、涙が溢れるほど愛情に満ち足りていた。
 司くんの隣に並び立つ。それを司くんも望んでいる。なら、僕がすべきことはひとつしかない。
 僕達はどんな逆境だって乗り越えてきたんだ。今更、越えられない壁なんて、ない。
「ふ……フフフ……ああ、君には敵わないね、青柳くん」
 運ばれてきたラテの香りが優しく燻っている。カップに手を伸ばして、僕は一口それを呷った。……ほのかにはちみつが混ざる甘い味。
 いつかの土砂降りの日。司くんが男を家にあげたと知って僕はひどくショックを受けたけれど、それが青柳くんだったと聞いたその瞬間、どこかで腑に落ちていた。素直で思慮深い彼は僕が一生かけても知ることのできない司くんを知っている。
「だから『あの日』……司くんが君を選んでしまったとしたなら、それは仕方のないことだと思ったんだ」
「あの日……? 何の話ですか?」
「でも。もう、彼の隣は誰にも渡したくない。そうとも……僕は欲深い人間だからね」
 いつかに怯えるのはもうやめよう。他の誰にどう思われても。僕がそうしたい。司くんという大輪を咲かせるのは僕がいい。そのための努力ならなんだってしてみせる。
「僕に出来ることは限られている。だから、ショーをしようじゃないか。僕が唯一認めた対話を。恋をして弱くなり、愛を以て強さを得た男の物語を!」
 勢いのまま立ち上がる。ポケットにしまっていたスマホを取り出し、昂る気持ちのまま僕はひとつのアプリを起動した。
 高校を卒業して大学生になった今も、僕は僕のしたいことをしている。アイディアが浮かぶとそればかりになってしまうのは幼い頃からの悪癖だ。
 ――ぽちっとな♪
 指先一つで遠隔だろうと信号が送れるのだから今はいい時代だね。
 僕の合図に合わせて、各所に隠しておいたドローンやロボットが一斉に飛び出す。花火で、爆竹で、クラッカーで。薄暗い感情は全て吹き飛ばそう。軽快なメロディ。煌めくエフェクト。世界はこうも簡単に、あっという間にひとつの舞台へ姿を変えられる。
「は? 嘘だろオイ……!」
「フフッ……当然、君達にもショーに協力してもらうよ。青柳くん、東雲くん?」
「はああ⁉︎」
 どよめくオーディエンスを振り返って手を差し出す。彼らは歌えるし、踊れる。僕がこれからするショーのキャストにぴったりだ。
 東雲くん達は顔を見合わせて。片や頬を緩め、片やめんどくさそうにブレザーを脱ぎ捨てた。
「クソッ……オレの協力は高くつきますよ!」
「へえ、どのくらい?」
「ざっと見積もって……オレの交換留学を全面サポート、でどうっすか」
「いいね、乗ったよ」
「っしゃ」
 どこからか、季節外れの花びらが舞う。春の雷鳴、吹き荒ぶ嵐。
 転んでもただでは起きるものか。
 これはかの青年に芽生えた小さく壮大な恋の話。長い旅路の前日譚。タイムリミットはそうだね、……警備員が止めにくるまで、かな!
……さあ、ショーの時間だ!」