猫澤
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日射病注意報Ⅱ


★》
――そう。寧々は推薦は受けないことにしたんだね」
「うん。面接、まだ少し苦手だし……
 空飛ぶ汽車を見上げて呟く幼馴染を見つめる。
 夏休みももう半ば。大学の推薦入試を受けるならそろそろかとセカイで声を掛けた僕に、寧々はなんてないことのように首を振った。その表情に、迷いは見受けられない。
「大丈夫。寧々ならいつか克服できるさ」
 ワンダーランズ×ショウタイムとして二年間共に活動してきて、身内の贔屓目を抜きにしても、寧々は随分と度胸がついた。良いお手本が傍にいるからだろうか。
 それはさておき面接のたぐいは、舌から生まれたと言っても過言じゃない僕の得意分野でもある。推薦を受けるなら何か手伝えることもあるかと思ったのだけど……僕が思っているよりもずっと、寧々はちゃんと自分自身の進む道を考えているようだ。
 彼女のことになるとつい過保護になってしまって駄目だな。けれどいくつになっても、僕にとっては昔の小さい寧々のまま、お節介と言われても世話を焼いてしまう。咲希くんのことを過剰に心配する司くんの気持ちもわかるくらいに。
……普通のセカイになっちゃったね」
 ぽつりと寧々が小さくこぼした。
「普通、と言い切るには相変わらず不可思議なところだけどねぇ」
「でもさすがにこっちはもう慣れた。空飛ぶ汽車も、しゃべるぬいぐるみも」
「フフ」
 よく見慣れたワンダーランドの広がるセカイを、二人並んで散策する。
 いつか見た海の光景は、カイトさん達の公演が終わると共に『想いのカケラ』ごと消失していた。どうやら僕達の後で寧々とえむくんもセカイに訪れたそうだけど、そのときに『想いのカケラ』の持ち主であるえむくんが思い出を昇華したからじゃないかとカイトさんは言っていた。
 正直、思い出を昇華する、その言葉の意味はわからなかったけれど。
 僕と司くんにもあのときのえむくんを見せたかったと、寧々が眩しそうに言っていたから。きっとえむくんだけのものだった思い出は別の良い思い出に上塗りされたんじゃないかと思う。
 過去と折り合いをつけて、僕達は少しずつ大人になっていく。
 現に僕はもう、孤独だった頃の僕には戻れない。司くんとえむくん、寧々と築き上げたこの場所が愛おしくて仕方ないんだ。
 ショーテントの前では先に来ていたえむくんが僕達に気づいて大きく手を振っている。気づいた寧々が、隣でくす、と微笑んだ。
「えむは推薦受けるって。類、えむにアドバイスしてあげたら。先輩でしょ」
「残念ながら僕がえむくんに教えることはほとんどないねえ」
 彼女は下手に取り繕うよりも、ありのままの姿を見せる方が素敵だ。
 ぴょんぴょんと元気よく跳ねるえむくんと合流し、僕達はショーテントのカーテンをくぐった。今日はこのままセカイでショーの通しをする予定になっている。
 そういえば、司くんも先にセカイへ来ているはずだけど――。きょろ、と周囲を見渡すと、意外とあっさりその姿を見つけた。彼にしては珍しくステージの隅の方で本読みに夢中になっているようだ。
 何やらぶんぶんと大袈裟に身振りをして、台本に目を向けたまま歩き出し――「あ」と僕達三人が声をあげると同時に、彼はショーテントの骨組みに顔面から突っ込んでいた。
「ちょっ、……司、何してるの?」
「い、いたそう~! 司くん、だいじょーぶっ?」
「む……? おお、寧々、えむ……来ていたのか」
……ほぇ?」
 なんだかどことなく覇気のない司くんに、寧々とえむくん、そして僕も一緒になって顔を見合わせる。
 ぼんやりと、心ここに在らずと形容するのが正しいような。なんだか魂の抜けた司くんを訝しんで、眉を顰めた寧々がそっと僕に耳打ちした。
「ねえ……司、具合でも悪いの?」
「どうだろうね」
 二日前であれば僕の方は発熱して寝込んでいたけれど、司くんは看病が得意と豪語するだけあって一貫して至って普通だった、ように思う。あれから体調を崩した素振りは見えないし、あまり嘘をつけない司くんのことだ。無理をしていたらさすがに一緒に生活している僕が気づく。
 とはいえ。
 ふらふらと当てもなくあっちへ行ったりこっちへ来たりしている司くんを後目に、ふむ、と腕を組む。
 正直客席の角に足をぶつけて蹲る姿は見ていられない。寧々も同じ気持ちなのか、もの言いたげに僕を振り返った。いや、ここで僕を見つめられても。僕だって困るよ。
 彼がこうなった原因に、思い当たる節がありまくるので。
「類」
……はい」
「司に何しでかしたの」
「しでかしたなんて人聞きの悪い……ちょっと……その……手を出しました。すみません」
 やっぱりこれしかないよねぇ。
 下手に誤魔化したところで幼馴染の寧々にはお見通しだろう。それなら潔く降参したほうがいい、と両手を挙げて白状する。
 寧々は。僕が司くんに想いを寄せていることを知っている、数少ない友人のひとりだった。あとは瑞希と、友人ではないけれど東雲くんあたりも気がついているだろうか。えむくんも勘がいいのでなんとなくわかっているかもしれない。
 寧々は小さくため息を零して、ゆっくりと傍らのネネロボに触れた。
「ネネロボ、類にビーム。きっついやつ」
「カシコマリマシタ」
「いやいやちょっと待っておくれ?」
 僕は司くんじゃないからそんなものを浴びたら普通に倒れる。いや、司くんでも倒れるけど。
 ――二日前、僕は司くんに手を出した。熱で朦朧としていて、自制心が上手くはたらかなかったのもある。けれど彼に触れたかった欲望は依然として僕の中にあるから、結局のところ魔が差した、としか本当に言いようがなかった。
 彼だって本気で僕を拒まないから尚のこといけない。だから僕はいつも彼との距離を見誤る。ひょっとしたらどこまでも許してくれちゃったりするんじゃないかって、思ってしまう。司くんのチョロ……お人よしで扱いやすいところは、僕にとっては大変都合がいいけれど、同時にかなり心配だ。
 たとえば、もし、彼に好きだと言ったのが僕ではない他の誰かだったとしたら――それでも彼は、僕にそうするように触れさせていたのだろうか、とかね。
 散々司くんの優しさを利用しておきながら、ずるいことをしておきながら。彼に触れていいのは僕だけがいい、だなんて。独占欲だけ一人前で困る。
(まあ……しょうがない、か)
 司くんの特別になりたかった。人気者の彼の、その他大勢のひとりに成り下がるのはどうしても我慢できなかった。
 ――恋をすると、世界は輝いてみえるらしい。
 どうしようもなく浮かれるらしい。些細なことで落ち込むらしい。感情の起伏が激しくなって、自分で自分をコントロールできなくなる、……らしい。
 僕は恋をしている。司くんという名の太陽に恋焦がれている。熱に浮かされて、僕という自我はぼろぼろと剥がれ、零れて、ただの子供になってしまうのだ。
 仁王立ちした寧々は腕を組んで、はあ、とまたため息をついて見せた。
 年上なのに世話がやける、だとか、ほんと頼りにならない、だとか、ぼそぼそ悪態をついてるのが聞こえてくる。反論の余地がまったくないので苦笑するばかりだ。
「練習始めるの待っててあげるから、ちゃんと話つけてきて、司と」
「僕としても、話をしたいのは山々なんだけどねえ……
 そう。僕だって司くんに手を出した翌日から、弁解させてはもらえないかと接触を何度も試みたのだが。
「おーい、司くん」
「っ、…………
 僕と目が合うなり、司くんは首まで真っ赤に染め上げて――
「す、すまん! ……ちょっとお手洗いに行ってくる! ……さらばだ!」
「あっ、ちょっと司くん……!」
 こんな調子で、それはもう、脱兎のごとく逃げ出してしまうんだ。
 ね。と寧々を振り返る。こういうわけで、僕はもう二日ほど司くんとまともに会話を交わしていない。
 その間も僕の分のごはんは作ってくれるし、朝も起こしてくれるし、出掛けるときはぼんやりとしながらもなんだかんだ玄関まで見送りに来てくれるから、嫌われてはいないのだろうと前向きに受け止めてはいるけれど。
「うわ……
「ほんと、参ってしまったよ」
「え、類、それ本気で言ってるの……?」
「?」
 首を傾げると、寧々は幾分か増してげっそりしながら肩を落としていた。
 呆れられてしまっただろうか。彼女にとって少しは頼り甲斐のある、いい兄のようなものでいたかったのだけど――恋の前であまりに無力な男だと知られてしまっては、格好もつかないね。
 憂いのため息を零す僕を横目に、寧々が小さく口を開いた。
「どう見たって脈ありでしょ……何で類は気づかないわけ?」
……? 寧々、何か言ったかい?」
「別に。知らない、もう勝手にすれば」
 ああ、そんな殺生な。呟く僕の声は、テントの傍を横切った汽車の汽笛にかき消された。


☆》
(あつい、あつい、あつい――!)
 広大なセカイを駆け抜ける。このところずっと体が熱い。全身が火照って仕方がない。
 最初は類の風邪が移ったか、熱中症にでもなったのかと思ったが、どうやらそうではないらしいと後になって気がついた。
 全部、全部――類に触れられてからだ。確実に、越えてはいけない一線を越えてから、オレの体はおかしくなってしまった。
 類を見ると、それだけで体温が急上昇して眩暈がする。心臓はばくばくとうるさいし、だのにきゅうきゅうと締め付けられて、泣きたくないのに涙が出そうになってしまう。
 ふとした瞬間に類の唇の感触を思い出す。オレに触れる指先の温度を思い出す。オレにだけ、向ける、熱いまなざしが。甘い声が。吐息が。ずっと頭にこびりついて離れないのだ。
 今も類と目が合った瞬間、ぶわっと全身が熱くなって思わずショーテントから逃げ出してしまった。練習開始の時間までまだあるのをいいことに、熱冷ましも兼ねてふらふらとセカイをあてもなく走る。
 ただただ無心で、ひたすらに駆けた。
 道なんてさっぱり覚えていないが、もう何度も訪れた場所だ。空に浮かぶメリーゴーランドも、滑空する汽車も、大きな観覧車も、何度も目にしている。
 がむしゃらに走ってもあれらを目印にすれば迷子になるはずもないし、このセカイには至るところにぬいぐるみ達やバーチャルシンガーの彼らがいるから、一人じゃない。
 ほら、あそこの噴水にも――
……ん?」
 そう思って顔を上げた先。ふと、丘の方で見慣れない光がふよふよと漂っているのが見えて、オレはぴたりと足を止めた。
 よく見ればいつもならそこらじゅうを駆けまわっているぬいぐるみ達も、歌をうたう花達もいない。遊園地の明るいメロディがやけに遠く聞こえる。ただ視線の先で、紫色のオーブが音もなく浮かんでいた。
 なんだ、このちぐはぐな違和感は。
(そもそもこんなもの……このセカイにあったか?)
 オレはふよふよ浮かぶ光にそっと手を伸ばした。好奇心だった。
――うわっ! なんだ、急に辺りが眩しく……⁉︎」
 刹那、目を開けていられないほどの眩しい光が辺り一面に広がる。
 瞼に感じる閃光が収まった頃、恐る恐る目を開けると、そこには先ほどまで目にしていた遊園地の姿はなく――代わりに飛び込んできたのは、生い茂る緑と、小さな遊具。
「ぬあっ……なんだここは……!」
 ジャングルジムに、シーソー。ブランコ。ありふれた公園だ。だが、それらの遊具の全てが宙に浮いている。周囲は鬱蒼と生い茂る木々で覆われ、空は気味が悪いほどのオレンジのグラデーション――夕焼けで埋め尽くされていた。
 明らかに先ほどまでオレがいたセカイとは雰囲気が違う。が、物理法則を無視した光景が広がっているのだ、きっとここもセカイの一種なのだろう。
 前に避暑のつもりでセカイに来たとき、一度だけ、セカイに海が広がっていたことがある。ひょっとするとここも、あの海のような――誰かの『想いのカケラ』で生まれたセカイなのだろうか。
(可能性は高い、が……
 しかし困った。帰り方がさっぱりわからん。
 物はためし、と公園の入り口から正攻法で外に出ようとすると、ゴムのような――いや、これは『割れない』しゃぼん玉だろうか。とかく透明な膜が張っていて外に出られないのだ。
 公園自体はそれほど広くはない。あてずっぽうに手あたり次第、元のセカイに戻る手がかりを探してみようか。万策尽きても問題ない。ここがセカイであるならば、最終手段、スマホの音楽を止めればいいだけのことだ。
 イレギュラーに対して存外冷静に対処できている自分に驚く。このはちゃめちゃなセカイにもすっかり慣れた――というか、どうやらだいぶ毒されてしまっているようだ。
 ひとまずオレは、手近にあったシーソーに触れようとして、
「司く――ん!」
「のおわっ……な、なんだミクか……!」
 背中に大きな衝撃を受けた。振り返るとそこには、青緑の髪を二つに縛って、赤い猫耳を生やしたバーチャルシンガー――ミクの姿。
「司くん、どうしてここにいるの?」
「どうして、とはこっちの台詞だっ! いや、当てもなくセカイを彷徨っていたら、いつの間にかここにいてだな――
 しかしこんな奇妙な場所でも知った顔に出会えたことで、無意識に張り詰めていた緊張の糸が解ける。
 ミクがいるならばやはりここはセカイだろう。問題は、ここがセカイのどこで、どうしたら元の場所に戻れるか、だが。
 ミクにそれを尋ねようとしたところで、ふと耳が妙な音を拾った。
「む……?」
 すん、すん。鼻を啜る音、だろうか。ミクにも聞こえたようで、星屑の散った瞳をぱたぱたと瞬かせている。
「なんだ? 子供の泣く声……? ぬいぐるみか?」
「行ってみようっ、司くん!」
「あ、おい!」
 ミクがオレの手を取り音のする方へ走り出す。
 向かった先にあったのは、大きなドーム型の遊具だった。あの遊具なら知っている。家の近所の公園にもあって、星が好きな咲希や咲希の幼馴染達はよくドームのてっぺんに上って夜空を見上げていた。
 オレも、幼い頃はあそこでショーの練習をしていた。中は子供にとっては少し広いくらいの空洞で、音がよく反響するのだ。
 それに……、大人達から隠れるにはもってこいの場所だった。
 母さんに怒られて泣きじゃくる姿を妹の咲希にだけは見せたくなくて――そういうときは決まってここに日が暮れるまで隠れていたな、そういえば。
 でも結局、父さんも母さんもここがオレの隠れ家だってちゃんと知っていて、空が赤くなる頃に必ず迎えに来てくれていた。
 ひょこ、とドームの中を覗き込む。中は薄暗くてよく見えなかったが――目を凝らせば、いた。すすり泣きの正体。
「あれは……
 子供だ。五歳か六歳くらいの。こちらに背を向けているが、藤色の髪は絹のように細く、ちゃんと食っているのか心配になるほど後ろ姿は華奢だ。
 少年はオレに気がついて、ゆっくりとこちらを振り返った。大きな両目いっぱいに溜め込んだ涙がほろほろと零れ落ちる。
 まんまるのお月様のような瞳は、どこか見覚えがあった。見覚えがある、というか、カラーリング的に、なんか、こう……どことなくうちの同居人を彷彿とさせるのは気のせいか?
「ミク。なんだか小さい類がいるように見えるんだが」
「うん、ちいさい類くんがいるね☆」
……? ……⁉︎」
 ちいさい類くんがいるね⁇
 混乱するオレをよそに、ぽん、とミクが場違いなほど明るく手を叩く。
「あ――! ミクわかっちゃった! ここは類くんの『想いのカケラ』が生んだセカイだよ、きっと♪」
「『想いのカケラ』だと⁉︎ ああ、だが……やはりそうか」
 そう思えば得心がいく。セカイでありながら、セカイではない不思議な場所。あの海のように広くはないが、この閉鎖された公園が類の思い出の場所なのだとしたら。
「ということは……ここは、類の思い出の中?」
「んー、想いにもいろいろあるから、思い出の中とは限らないけど――
 ミクが何やら考えるように顎に人差し指を当てる。
 オレは改めて小さい類を一瞥し、目線が合うようにしゃがみこんだ。
 小さい類は、ほっぺたをこれでもかと赤くして、まるい瞳を潤ませながらオレを見上げた。こんなに涙をためていては、オレの顔なんてまともに見えていないんじゃないだろうか。
「あー、ええと、君」
「っ、う」
 声を掛けると、あからさまにびくりと怯えた表情を見せる。
「どうして泣いているんだ? 悲しいことでもあったのか?」
……おにいさんたち、だれ……?」
 ふむ。至極まともな質問だな。
 ぱた、ぱたと瞬きと共に類の瞳から大粒の涙が零れ落ちる。オレはポケットにしまっていたハンカチを取り出して、ごしごしとその小さい顔を拭った。
「オレは天馬司だ! 天翔けるペガサスと書き天馬! 世界を司ると書き司! よく覚えておけ、将来世界の大スターになる男だ」
「ミクはミクだよー☆」
「スター……おにいさんたちもショーがすきなの?」
「ああ! 大好きだ!」
 力強く頷くと、小さい類もぱあっと表情を明るくさせる。
「ぼ、ぼくも! ぼくもショーがすきなんだ!」
「ほう」
 類はこの頃からショーが好きだったのか。
 たしか、寧々と一緒に家族ぐるみで観に行ったショーで演出に魅せられたと言っていた。類や寧々の人生を変えるような――それほどまでに素晴らしいショーならばオレも見てみたかったと羨ましく思ったのでよく覚えている。
 先ほどまでの涙や不審な眼差しはどこへやら。幼い類はすっかりオレに懐いたようで、にこにこと涙の跡が残る顔で笑いながらショーの話を始めた。
 子供でも類は類だ。その小さい口で語るポップアップの仕組みや、どこかで見聞きしたことのある演出草案の数々にひっそり舌を巻く。それら全てを試せたら、さぞ素晴らしいショーになるだろう。このオレが身をもって実際に体験しているのだから間違いない。
「でも――
 不意に、類の表情が曇った。
 ……雪。あるいは花びらかと思った。ひらりと舞う光の粒が、ひとつ、ふたつと幼い類の体に集まってくる。
 オレが驚いて目を見張っているうちに、粒は類の体を覆い隠して、そして――再び光が霧散したとき、そこに座り込んでいたのは幾分か成長した類だった。
「でも、僕は孤独だから」
 今の類より、少し声が高い。声変わりがまだなのか。とすると、ここにいるのは――中学生の類か。
 髪を無造作に伸ばして、暗い表情をした類は。あまりにも普段オレが目にしている類とかけ離れている。寂しそうで、悲しそうで、でも何もかも諦めたような顔だ。
 出会ったばかりの頃も、時折類はこんな顔をしていた。
「いいんだ。一人でもショーはできる。やりたいことを自由にやれる。だけどずっと、……ずっと、寂しくて」
……
 類は、そう言ってドームの外を見た。
 ぞっとするほどの夕焼けが公園を赤く染めている。類も待っていたのだろうか、昔のオレのように、この場所で。誰かが迎えに来てくれるのを、ひとりで、ずっと。
 オレが類と出会ったのは神山高校に入学してからで。学区が違うから小学校も中学校も別で、そもそも類は二年になるまで別の高校にいた。だから、今更どうしようもない。どうしようもないけれど。
 もっと早く、出会えていたなら。そう思ってしまう。
 オレなら絶対、類を独りにはしなかった。
 幾度もの衝突を経て、類は目の前の希望に縋って鵜呑みにできるほど純粋でいられなくなってしまった。たとえ裏切られても自分の心を守れるように、必ずどこかに予防線を張っている。
 そうやって一線引いて、早々に見限って諦めてしまうのは昔からの類の悪いところだ。けれどそうするしかなかったのだ。失望、したくないから。この世界が、人が、大好きだから。
 ……ああ、でも。
 ――「自分でも、もうどうにもできないんだ。お願いだよ」
……
 春にオレへの想いを打ち明けた類は、そうオレに懇願した。決してオレを諦めようとはしなかった。
 きっと――きっと類は、何度もオレへの想いを、劣情を、捨てようとしたのだろう。それなのに捨てられなかった。それくらい、オレは……天馬司という男は、類の中で存在を大きくしていたということか。
……そう、か)
 腑に落ちていく。
(そうか――
 真っ先に胸に浮かんだのは歓喜だった。そして、目の前の類を強く抱き締めたい衝動に駆られた。
 ぐっと拳を握りしめて笑顔を作る。
「お前は孤独ではないぞ、類」
「え」
「いいや違う。オレがお前を! 孤独になどしてやるものか!」
――
 ぽかんと呆けた類の手を引く。ドームを出ると、やはり不気味な夕焼けが一帯を染め上げていた。けれどどうだろう。こんなちぐはぐなセカイでも、空には星が浮かんでいる。どんなに今日を望んでいたって、夜は訪れ、朝を迎え、明日になる。
 今日あの星を掴めなくても、明日は手が届くかもしれない。
 ドームを駆け上がり、てっぺんで仁王立ちする。すう、と息を吸い込むと、冷たい空気が肺を満たした。
「よく聞け、類。神代類! お前は天才だ。天才演出家だ。このオレに並び立つにこれ以上なくふさわしい!」
「え、ありがとう……?」
「だがしかぁし!」
「う、うるさ……
 思わず耳を塞いだ類を見下ろして口角を上げる。
 神代類。オレの、オレ達の演出家。でもオレは、たとえ類が天才でなくとも、あの日あのときの出会いがなかったとしても、きっとどこかでオレ達は巡り合う運命だったのではないかと思う。
 だってオレはショーが好きで、お前もショーが好きだ!
「お前が何者であったとしても、オレはお前とショーがしたい」
 そうだ。
 たぶん、難しく考える必要なんてなかった。答えはいつだってすぐ傍にあった。
 類が求めるのだ。他でもない、類が、オレに愛を求めている。それならばオレが出す答えはひとつしかない。類が望むものをオレが望まなかったことなんて、未だかつて一度たりともないのだから。
「お前は独りではない。このオレが! ずっと傍にいてやる。お前の望む演出を、どんな無茶ぶりでだって応えてやる! ……だからもう、こんなところでひとりで泣く必要はないぞ」
……いい加減なこと、言わないでよ」
 静かな湖面に浮かぶ月が、揺らぐ。
「お兄さんにはわからないよ。最初はみんなそうだ。面白がって、一緒にショーをやろうって言ってくれる。でもすぐにみんないなくなる。ついていけないって、裏切られるのはもう嫌なんだ!」
 堰を切ったように類が叫ぶ。悲痛で、物寂しくて、悲しい声だった。
 ――救いたい。
 今。はじめて、類の根幹にある孤独に触れた。たぶんオレが思っているよりもずっとそれは根深くて、類の心に深く突き刺さってしまっている。
 オレはゆっくりと類に手を伸ばした。肩に触れ、摩る。
「類」
……お兄さんだって、いなくなるくせに。期待させるようなこと言わないでよ……
「類!」
 は、と息をのむ音がする。
 顔を上げた類と顔を合わせる。頬を伝う涙が美しいと思った。愛おしいと思った。
 ……何よりも。
「オレが。お前の期待に応えなかったことが、一度でもあるか」
 目の前にいる仲間を、友人を、いや……それ以上に大切な人を。
 笑顔にできなければ、オレはスターになる資格などない。
……お前が必要だ、類! そして出来れば――
 出来ればこの先の人生も。隣にいるのはお前がいい。
 ぽた、と。地面に落ちた雫が、じわりと染みていく。光の粒が類の体に集まっていく。
 くしゃくしゃに顔を歪めた類は、光に包まれながら――たしかに、「つかさくん」と呟いて――そして、光と共に跡形もなく消えてしまった。
「なっ……消えた、だと⁉︎」
「想いが昇華されたんだね!」
「昇華……
 ぐにゃりとセカイが曲がる。平衡感覚を失って、僅かにこめかみに痛みが走る。頭を押さえ、再び顔を上げると――そこはもう、いつものワンダーランドだった。
 空をジェットコースターが駆け抜けていく。噴水でぬいぐるみ達がはしゃいでいるのが見えて、思わずオレはほっと息をついた。
 類の想いが生んだあの場所は、少し、息苦しかった。類はずっとあんな閉塞感を抱いて生きてきたのだろうか。
(少しは……
 類の抱える寂しさを癒せただろうか。それを知るすべはない。ないけれど、たとえオレの独りよがりだったとしても、それでもよかった。
 不思議と胸があたたかい。己の胸元に手を当て、ふ、と頬を緩ませる。
「なあミク……。ミクは、恋をしたことがあるか?」
「鯉?」
「いやいや……、古典的なボケをするんじゃない!」
 ミクはオレの半歩前を歩きながら、うーん、と空を見上げて小さく唸った。
「恋かぁ……ミクはしたことないなぁ」
「そうか……
「司くんは恋をしてるの?」
……ああ、そうだな」
 追いかけっこするぬいぐるみ達の幼い姿を横目に頷く。
 オレはずっと恋がわからなかった。類の言うような劣情を抱いたことがそもそもない。何においてもショーが一番で、それは未来永劫変わる事がないと思っていた。
 でも……違った。
「今こうして昔のあいつに触れて気づいた。オレはこれから先の未来もずっと、類と共にいたい」
 そして。類を笑顔にするのは、オレがいい。
 オレにとって、ショーと類の存在はもう切って離せない。そう思えば、もしかするとオレははじめから類のことが好きだったのかもしれない。
 フェニックスワンダーランドの片隅で、一人ショーをする類を見て。オレはたしかに高ぶりを覚えていたのだから。
「類がオレに向ける感情とこの想いが同じものとは思えないが……だが、思えば単純なことだった。なんせあいつは演出家で、オレはあいつの期待に応える役者だ」
 観覧車の前を通り過ぎればショーテントが見えてくる。テントの前には類と寧々、そしてえむがオレの戻りを待っていた。
 えむが両手を挙げてぴょんぴょんと跳ねている。寧々はネネロボに寄りかかりながら興味なさそうにしているようで――その実、オレのことを心配してくれているんだろう。
 ……類は。
「ミク。類は、オレにとって……同じステージに立ちたい仲間で」
 類との出会いは偶然で、同じ高校に通っていたのもただの奇跡。でもオレは、それを運命と呼びたい。
 たくさん衝突した。意見がぶつかることもあった。怒ったし、怒られた。でもそれ以上に――オレ達はいつも笑顔を求めていた。
 ショーに対して真摯なあいつに、オレが惚れない理由がない。
「肩を並べるのも、背中を預けるのも、あいつがいい。類といると……胸があたたかくなるんだ。類が何を感じて、どう思っているのか……オレはそれがどうしても知りたくて、ずっとそのことばかり考えてしまう」
「司くん……
「あと……緊張も、している。類に熱っぽく見つめられると、もう駄目だ。あいつが望むことをなんでもしてやりたくなる――この心臓すら、明け渡してしまいたくなるほどに」
 はは、と小さく笑う。どうして今まで気づかなかったのだろう。
 ぎゅ、と胸のあたりを握りしめる。
 不意に類の瞳がこちらを向いて、オレの姿を映した。その瞬間、筆舌しがたい高揚が全身を巡る。鼓動が、跳ねる。
「類に好きだと言われる度に舞い上がってしまう。年甲斐もなく飛び跳ねて、スキップでもしてしまいそうになる」
 そして世界が、きらきらと輝きだす。
 刹那、春の息吹が吹き抜けて髪が靡いた。恋の音がする。色鮮やかなバルーンが空を踊るように。花が愛を歌うように。
「最近、類の表情が柔らかくなった気がして……綺麗だ、とも」
 微笑みを浮かべる類に、きゅう、と胸が締め付けられて。噛み締めるようにオレはふにゃりとはにかんだ。
「これを、この気持ちを恋と呼ばないのなら、オレは一生恋ができないな」
……ふふっ」
「ミク?」
 静かにオレの隣で話を聞いていたミクは、可笑しそうに口元に手を当てて笑った。瞳の中の小さな星が、うれしそうに綻んでゆく。
「ミクもね、司くん、類くんのことが特別だーって言ってるように聞こえるよ!」
……
「それって、類くんのことがだーいすきってことだよねっ☆」
「大好き……
 口に出したその言葉は、すとんと、存外あっさりオレの腑に落ちていた。
「ふはっ……ははは! そう、だな」
 類のことが大好きだなんて、そんなこと、とっくの昔からオレは知っていたのに。今更になってこれが恋だと気づくなんて。
 でも、不思議だ。恋を自覚した、それだけでこんなにも気分が晴れやかだ。
「話を聞いてくれてありがとう、ミク。おかげで気持ちを整理できたぞ!」
「ふっふっふ。ミクはいつだって司くんの味方なのだあ!」
 本当に、感謝してもしきれない。オレの本当の想いをこのセカイは、ミク達はいつも思い出させてくれる。あとはほんの少しだけ、オレが勇気を出すだけだ。
 頭上をロケットが飛び抜けていく。きっとあれは、まもなく月に到達するだろう。


 ――さて、ここからが正念場だ。
 リビングの、立てかけてあるキーボードに手を伸ばす。
 昔、まだオレも咲希も幼くて、ピアノの鍵盤が重たく感じていた頃。ピアノ講師の母さんが気楽に音に触れられるようにと父さんに頼んで買ってくれたものだ。思考がまとまらないときはいつもこいつのお世話になっている。
 手慰みにキーボードを弾くと、不思議と頭の中がクリアになる。弾く曲はなんでもよかった。エチュードでも、ショパンでも、アイドルソングでも。パッヘルベルのカノンは学生時代何度も弾いたから指が覚えている。明るいメロディに浸っていると、自然、口元に笑みが浮かんで指が跳ねた。
 浮かれてしまう。どうしようもなく。
 大学の夏休みは長い。お盆のお墓参りも兼ねて実家に一時帰省している間、オレは脳内でひとつのプランを練り上げた。
 まず、類に告白して付き合うのは大前提として。現状この国では同性のパートナーが認められていない。
 パートナーシップ制度を認めている自治体もあるし、世論としても前向きになりつつあるけれど――偏見は十分存在する。そんなことは百も承知だ。
「だが、どんな物語だって最後は笑顔であるべきだろう」
 類と最高のハッピーエンドを迎えるなら尚のこと。
 世界の大スターになる。それは最早オレの中では決定事項である。そしてスターになることである程度の発言力が生まれ、類という同性パートナーがいることをメディアに明かせば多少は世の中の意識も変えられるかもしれない。
 いや、変えてみせようじゃないか。オレがいて、類がいて、不可能だったことなど何一つない。
 目標が出来た。であれば、あとはただまっすぐ突き進むのみだ。
――いい音だね」
「どわああああッ⁉︎ る、るるる類⁉︎ お、おかえり!」
「うん、ただいま」
 最後の一音を奏で息をついた、その瞬間。背後からかけられた声に心臓が飛び出そうになった。
 振り返れば、オレと帰省のタイミングを合わせていた類がリビングの入り口に立っている。たった三日ほど離れていただけなのに、何故だか随分と久しい気がする。
 それくらい、オレの日常に類の存在が浸透しているということだろうか。
「司くんの演奏が聴こえてきたから静かにしていたんだけど……驚かせてしまったね」
「ああ……いや、すまない、少しびっくりしただけなんだ」
 それにちょうど、類のことを考えていたから。
 気が緩むといけない。すぐオレは顔に出てしまうから。やや火照った頬を誤魔化すように手で仰いで、キーボードの電源を落とした。
 コードを巻くついでに類をちらと盗み見る。この帰省の間に髪を切ったのか、随分と後頭部がすっきりしていた。
 オレの視線に気づいたのだろう。類が首を傾げてオレを見つめる。
 垂れ下がった眉。細められた瞳。弧を描く口元。ぐ、と思わず言い淀んでしまう。
 類と目が合った。そんな些細なことで、きゅん、と胸が高鳴っている。
……類」
「ん? なんだい?」
…………。類……
「うん。どうしたの、司くん?」
 目元を和らげて、類が微笑む。あれ――類って、こんな感じだったか?
 こんな愛おしそうな顔をしていただろうか。
 はく、と口を開けて、閉ざした。とくとくと逸る心臓の音が今はこんなにも心地いい。恋をすると世界が変わると聞くが、オレの場合、世界は至っていつも通りで。でも、たしかに何かが大きく変わっていた。
 なんかちょっと……擽ったいな。
 オレは頬を緩ませて、小さくかぶりを振った。
……、なんでもない!」
……? そうかい……?」
 不思議そうに類がオレの顔を覗き込んでいる。
 ……類が好きだ。そう、だからオレは決めたのだ。まずは一歩、こうと決めたら行動は早い方がいい。
 決戦は明日。
 さあ、とびきりのショータイムを始めようじゃないか、神代類!


★》
 司くんの様子がおかしい……
 いや、おかしいというのは語弊がある。普通に生活する分にはいつも通りだし、ショーの練習も普段と変わらない。むしろ、一時は目が合っただけで逃げられていたことを考えると随分ましになったように思える。
 だけど。距離感が以前よりずっと、こう……近くなったような感じがするんだ。
――何故?)
 荒療治というかなんというか、どさくさに紛れて彼の敏感な部分に触れたことで他に対する抵抗が薄れてきているのだろうか。
 それにしたって最近の司くんのスキンシップは心臓に悪い。
 具体的にいうと、風呂上がりにソファーでくつろいでいるとどこからともなく現れた司くんが僕の隣にぴと、と座ったり。次のショーの打ち合わせでショー談義に花を咲かせた後、お手洗いに行こうとすると司くんも後ろからてこてことついてきたり。
 でもそのくせ、唇に触れようとすると避ける。
「司くんがよくわからない……
 未だかつて、こんなにも彼の考えていることがわからないときがあっただろうか。
 自室のデスクでロボのメンテナンスをしながら、ふう、と陰鬱なため息をこぼす。
 僕としては――当然、避けられるよりずっといい。少しは警戒してほしいものだけど、嫌われるのは嫌だ。だけどわかっているのだろうか。僕は彼に欲情しているのだと、結構はっきり伝えてきたつもりなんだけどなあ。
 螺子をいくつかデスクの上に転がしたところで、ふとノックの音が響く。
 顔を上げて「はい」と返事する。僕と司くん、二人だけの箱庭でノックしたのが誰かなんてわかりきっているし、別にノックもしなくていいんだけど。司くんは一応、僕のプライバシーには配慮することにしたらしい。
(まあ、賢明な判断だね)
 また藪蛇をつついて襲われるような真似、司くんだってしたくないはずだ。
 ノブが回され、ドアの隙間から司くんが顔を覗かせた。カチューシャで髪を留め、パジャマ姿な様子を見るに、もう寝るところだったのだろう。
「類、今大丈夫か? 脚本のプロットを読んでほしいのだが」
「ああ、もちろんいいとも」
 僕も時折筆を執ることがあるが、オリジナルショーの脚本は基本的に司くんが書いている。
 離れて暮らしていた頃は学校の休み時間か、もしくは夜にナイトコードで通話しながらショーの全容を詰めていくことがほとんどだったけれど、こうして一緒に暮らしていると互いが起きている限りいつでもショーの相談ができるので便利だし、都合がいい。
 司くんから紙の束を受け取ってぺらりと捲る。
 主人公は一国の姫を夢見る女の子。お相手は変わり者の王子様。勧善懲悪の冒険譚を書くことが多い司くんにしては珍しく、どうやら純愛のラブストーリーのようだった。
「へえ……これは、例の演劇サークルの影響かな?」
「ん? ……ああ、そうだな。それもあるかもしれない」
 手持ち無沙汰な司くんは僕のベッドに腰掛けて、ぶらぶらと足を振っている。
(ふむ……
 王子役は司くんがするとして、姫はやはり寧々だろうか。
 ワンダーランズ×ショウタイムはどちらかといえばコメディに強く、固定ファンなどはそういうものを求めている節もある。ここで恋愛ものとは思い切ったことをするねえ、と揶揄の色を敢えて濃くして笑いかけると、司くんは気にしない様子で「まあ続きを読んでみろ」と先を促した。
……ん? 『一年後同じ劇団に入る二人、共に海外デビュー』?」
「そうだ。そして二人は世界を股にかける有名人となって、地球上の全ての生物から祝福されながら結ばれる!」
「それはまたスケールが壮大な……というか、世界観が変わってないかい?」
 ヒロインはお姫様を夢見ていたのではなかったのだろうか。
 こう言ってはなんだけど、昔から司くんの思考回路は飛躍しがちというか、突拍子のないことが多かった。そこが彼の愉快で面白いところでもあるんだけど――困惑する僕をよそに、司くんはふふんと鼻を鳴らして笑った。
「何を言う。オレの将来設計だぞ」
「え?」
「その顔、どうやらわかってないようだな。ならばきちんと説明してやろう、配役はこうだ、まずオレがヒロインをする!」
「司くんが?」
「ああ。本当は王子をやりたいが、この物語の主人公はオレであって、オレではないからな。それは別のヤツに譲ってやろうと思う。……王子はお前だ、類!」
……ええ?」
 どういうコンセプトだ。
 ひょっとして大学サークルの代役の一件で女装に目覚めた、とか? だとしても、このプロットが司くんの将来設計というのがよくわからない。
「やはりオレの気持ちを語るにはショーしかないと思ってな! どうだ、よく出来ているだろう。夜なべしたんだ」
「いや、……え? どういうことだい?」
「む、まだわからないのか?」
 疑問を浮かべる僕を二対の琥珀の瞳が映す。
 ゆっくりと立ち上がって、司くんは一歩、また一歩と僕の前まで大股で近づいた。司くんの口が空気を吸い込む。何か言いたげに唇を動かしては、口の端を引き締めて言葉を飲み込んだ。
「司くん……?」
……はは。柄にもなく緊張するものだな、こういうのは……
 困ったように眉を下げて。司くんらしくなく、彼は不器用に笑ってみせた。
 体温の高い手のひらが僕の手を掬う。指の一本一本を確かめるようになぞる指先は、どこか壊れ物を扱うかのような慎重さを伴っていた。まるでそれを――僕の手を愛おしんでいるみたいだ。
 司くんに触れるのは――実に、あの茹だった夜ぶりだった。
「このところ、妙な態度をとっていて悪かった。だがおかげでオレはようやく自分自身と折り合いをつけられた」
……。勇気を出して、聞こうか。僕のことが嫌になったかい?」
「まさか」
 かぶりを振る。少なからず安堵しながら、司くんの言葉を待つ。
「むしろ、その逆だ」
 ぎゃく。
 呟いた僕に頷いて、司くんはそっと僕の頭を抱え込んだ。
 鼻腔から肺いっぱいに司くんのにおいが広がる。風呂上がりだからだろうか、飾り気のない香りに混じって微かにソープの香りがする。
 空調の利いた少し肌寒いこの部屋では、その体温が心地よくて、でも無性に落ち着かない気分にさせられて。僕はただただ、戸惑っていた。
 司くんの。心臓の音が聞こえる。
「気持ちを――整理したかったんだ」
「うん」
「お前への気持ちを、有耶無耶にしたくはなかったからな」
……うん」
 ずっと君は、そう言っていたね。
 僕がそっと司くんの背に腕を回すと、想定していなかったわけでもないだろうに、司くんはびくっと大きく体を震わせた。
 顔を上げる。ぱち、と交差した視線。瞳が、揺れる。
……こういうこと、されると……期待してしまうんだけど、いいのかい、司くん」
……
「君も僕を求めてくれているんだって……思ってしまうよ」
――、思えばいいだろう」
 そう言い切った司くんはリンゴのように真っ赤になっていて、つられて僕まで顔が熱くなってしまう。
 もしかして僕は今、都合のいい夢を見ているんじゃないだろうか。
 実は作業の合間に寝落ちしてしまって、だからこんな、司くんがまるで僕に好意を抱いているみたいな。そんな夢を見ているのだと言われた方がまだ納得できるくらいで――
 僕は思わず手を伸ばして司くんの頬を抓った。
「ぬあ⁉︎ なにをすゆ!」
「あれ、夢じゃない……?」
「夢なわけがあるか――!」
 ぐい、とシャツの胸倉を掴んで引き寄せられる。
 あ、と思う間に司くんの唇との距離がゼロになって、がち、と前歯が当たって。眉を顰めた。痛い。夢じゃない。こんな痛さで気がつきたくなかったけど。
 それに、今度こそ本当に彼はリンゴになってしまったようだった。司くんだって痛かっただろうに、それどころじゃないのかそっぽを向いてぷるぷると小動物のように震えている。
 痛みの中に残る、唇の柔い感触。どくどくと、全身が熱くなっていく。
「ふ、フン。してもいい、ぞ。……期待……
「っ、ばか」
「へぶぁっ!」
 ――つい。
 僕の中の理性的な部分が崩落した。
 心の大部分が司くんへの気持ちで溢れてしまって、決壊した。衝動のまま司くんをベッドに押し倒して、その上にのしかかる。男二人分の体重を受けて、スプリングがぎし、と音を立てる。
「お、お前ぇ……! いきなり押し倒すやつがあるか!」
 鼻を真っ赤にした司くんが喚いて、その度にぎしぎしとベッドが軋んだけれど、それに構っている余裕など皆無だった。
 所詮僕はまだ子供だ。欲しいものがすぐ目の前にあって、君にそれをあげるなんて言われてしまったら、諸手を挙げてはしゃいでしまう。欲張ってしまう。自惚れてしまう。俺のものなんだって、離したくなくなってしまう。
「おい、聞いているのか、類……
「今のは完全に、司くんが悪いよ」
 頬を撫でる。
 きめの細かい滑らかな肌だ。司くんも僕の意図に気づいて、ぴたりと抵抗をやめた。
 逃げるなら。逃げようとするなら――僕が泣いて縋っても、跳ねのけるくらいしてほしいのに。司くんの瞳が熱を灯していたから。潜んだ欲を滲ませて、僕を求めていたから。
 躊躇いがちに唇に触れる。もう何度もこの口を塞いできたのに、今日はいっとう、甘さをはらんでいる。
 唇を舌先で舐めると、わかりやすく司くんが反応した。
「ん、む……
 口を開けて。
 僕の合図は正しく司くんに伝わったらしい。その口腔の、奥底に忍ぶそこへ舌を伸ばす。
 深く交わるキスはまだ二度目だ。けれど司くんはたどたどしく僕の舌を迎えて、自ら恐る恐る絡ませた。
 互いの唾液が絡み合う。受け入れられている。司くんが、僕を受け入れている。
 ああ、本当に都合のいい夢なのだろうか。縋るように司くんの両頬を撫でつけて、舌先に吸い付けば、司くんは喉奥をきゅうと締めて小さく喘いだ。
 ぬるりと舌を引っ込める。どちらのものとも判別つかない透明な糸がとろりと垂れて、司くんの唇を汚した。
「は、すき……好きだよ、司くん」
「ん、ふは、……ああ、よく知っている……
 僕の首裏を掴んで引き寄せて、今度は司くんから、僕の唇に触れた。
 柔らかいそれを啄むように、何度も何度も食む。そのうち唾液だけじゃ足りなくて、呼吸さえも溶けて混ざり合ってしまったように感じて。僕の心はひどい多幸感に苛まれた。
 司くんとキスしている。
 君の酸素を僕が奪って、僕の酸素は君が取り込んで。二人で一緒に溶け合うような、こんなキスははじめてだった。
 想いを通わせる、それだけで。こんなにもあたたかい気持ちになれるものなのか。
「司くんは? おしえてくれないかい、君の気持ち……
「オレ、も……
「うん」
……類が、好きだ」
…………、」
 感極まって司くんの体を強く抱き締める。どくどくと全身の血が巡って、滾って、おかしくなってしまいそうだった。
 だって――ずっと叶わないと思っていた。
 恋を自覚したあの日、僕は司くんへの恋心よりも、司くんの隣でショーをする道を選んだ。
 何度もこの恋を諦めようとした。幾度も、幾度も、気持ちを押し殺した。でも想いは捨てきれないどころか、膨れ上がる一方で……きっと僕は一生気持ちを隠したまま、後ろめたさを感じたまま君に笑いかけるのだろうと思っていたんだ。
 いつか、司くんに好きな人が出来て、その人と結ばれて。僕が君の晴れ舞台を演出する、その日までは。僕だけが彼の特別でいたかった。
 彼の最初の人になれれば、それでよかった。
 それなのに。
「信じがたいな……夢みたいだ」
「夢じゃな、……んっ」
 司くんの言葉を遮ってまた口付ける。
「んん――!」
 呼吸さえも奪って、より深く、ずっと奥まで。
 一体どのくらいそうしていただろうか。突然司くんの手が力なく僕の胸を押した。抵抗せず唇を離すと、互いの口元はすっかり唾液でべちゃべちゃになっていて。司くんは大袈裟なほど肩で息をしながら、ごち、と僕に頭突きした。
「こ、この……! キス、しすぎだっ!」
「ッ……うれしくて、つい……もっと触れたいくらいだよ」
「そんなにがっつかんでも逃げたりはしないぞ! ……、類。スターに二言はない。オレは何があってもお前から離れて行ったりはしないと約束する」
――何があっても?」
「無論だ!」
 指先が――いや。こころが、震える。
「そも、お前がいないとオレの将来設計は成り立たんからな! 二十代のうちにマイホームも建てる予定だからお前もしっかり頼むぞ」
「いやいや……それはさすがに先を見通しすぎじゃないかい?」
「馬鹿を言うな」
 彼の手が僕の手に重なる。僕はそろりと指を絡めて、きつく結び合わせた。
 僕も大概一途で頑固だけれど、司くんもそうだ。きっともう司くんの中では将来のビジョンは確立していて、ショースターになるのは勿論、その隣に僕が立っているのも決定事項なのだろう。
 花弁が花ひらくように司くんがはにかむ。僕がいっとう好きな、君の笑顔。
「犬か猫を飼うのもいいな。オレは犬派なんだが……猫も悪くない」
「そうだねぇ」
「若いうちは海外に飛ぶことも多いだろうが、……老後は二人でゆっくり過ごそう」
「本当に、気が早いな、司くんは……
 そんなの、何十年も先の話だ。互いの夢を一通り叶えて、僕達がしわくちゃのおじいちゃんになった頃の話だ。それでも君は――司くんは、僕と共にいる人生を歩むと言うのか。
 想像して。
 ぽろ、と。気が緩んだ目尻から、雫が零れ落ちた。
……
 一滴落ちるともう駄目だ。如何せん僕はこれまであまり泣かない人生を送ってきたので。演技で涙を零すことはできるけれど、情緒が乱れて零した涙の止め方を知らないんだ。
 司くんは自身の顔が僕の涙で濡れることも厭わずに、ふ、と微笑んで僕の後ろ髪を優しく撫でた。
 こういうとき、無性に彼と僕の間の人間性の違いを感じて悔しくなる。
「お前は意外と泣き虫だな」
「君の前で涙を見せるのはまだ二度目だろう?」
「いいや三度目だな!」
……?」
 いいや二度目のはずだ、と僕は眉を寄せたけれど、司くんがあまりにも自信満々にはっきり返すものだから。もうそれでもいいかと思い直す。
 せっかく結ばれたのに、くだらない口論をするのは勿体ない。
「司くん。本当に、いいのかい」
 静かに問うと、まるい瞳が僕を見上げた。
「何がだ?」
「両思いということになるよ、僕達」
「む。そう……だな?」
「なら僕達は今日から恋人同士だ」
……なんだ、不服か?」
「それこそ、まさか! ……よろしくお願いするよ、僕の司くん」
 司くんの肩口に顔を埋める。司くんは少しだけ迷いながら、空いている手を彷徨わせて。ゆっくりと僕の背中を撫でた。
「こちらこそだ。……オレの類」
 幼児をあやすような手つき。また小さな劣等感が生まれては消えていく。きっと司くんに他意はない。あるのはただ、僕へ向けた愛情だけ。
……。ああ……
 こんな幸せがあっていいのだろうか。
 ふわふわと、宙を漂うシャボン玉にでもなった気分だった。
 彼の胸元に耳を寄せる。とくとくと鼓動が伝わってくる。その心臓が僕のものになっただなんて、まだ到底信じられない。これから先の未来、今日以上の幸せが訪れる日がくるだろうか。ほんの少しこわくもあったし、でもそれ以上に期待している。
 彼とならこの先の未来もきっと、笑顔でいられる自信があったから。
……でもさっきの脚本プロットは書き直してね」
「なぬぅっ⁉︎ 何故だ⁉︎ 渾身の出来ばえだろうが!」
「そりゃあ勿論――

 僕と司くんの恋物語は、これから二人で書いていきたいからさ。