猫澤
Public
 

ブルーモーメント


☆》
 ――恋を絶賛模索している。
……『いとしいあなた。あなたさえいるならば私は他に何も望みません』――ふむ。随分熱烈だな?」
 梅雨が明け、いよいよ夏のにおいが近づき始めた時季。大学併設のカフェで優雅にアイスコーヒーを呷っていたオレは、手にした台本を片手にぱちぱちと瞬いた。
 目の前には、同じくアイスコーヒーを前に置いて頭を下げる学友。……いや、学友と呼んでいいものだろうか。専攻こそ違うものの、学部が同じで時折キャンパス内でも顔を合わせるし、共通の友人もいる――とはいえその程度の立ち位置の彼は、そこまでオレと親しいわけではない。
「頼むで天馬くん! この通りや!」
 しかしテーブルに額をつけ、つむじを向ける男を突っぱねる気にはどうにもなれず、むう、とオレは小さく唸った。
 この男の名は虎崎圭(こざきけい)。大学の演劇サークルに春から所属しており、明るい茶髪とバチバチに付けたピアスは派手だが、役者ではなく脚本家としてサークルでは裏方を担っているらしい。
 店内はしっかり空調が整っていたが、長袖を羽織るには些か暑く、着ていたカーディガンは窓際の陽射しに早々に負けて脱ぎ捨ててしまった。アイスコーヒーの入ったグラスもびっしょりと汗をかいている。同じくらい、目の前に座っている男――虎崎の額にも。
 ――正直、かなり困っていた。原因はこの台本にある。
「どおおしても、天馬くんにしか頼めへん役なんや……! ほんま頼むよおお」
「そうは言ってもだな……
 あつい。暑苦しい。台本の主役とヒロインも随分と熱烈なキャラクターだと感じたが、虎崎自身もなかなかに強烈だ。聞けばこの台本は虎崎が高校時代から温めていたものなのだという。
 からりと、アイスコーヒーの氷が音を立てる。
 オレは腕を組み頭を悩ませた。虎崎の要求を飲むのは簡単だ。オレが置かれている状況からしても、現状特に大きな不都合は感じられない。バイトの繁忙期を外したタイミングが良かった。
 むしろこうしてお互い向かい合って無為に時間を過ごす方が余程無駄に思えてしまう。
 今日はこの後フェニックスワンダーランドでワンダーランズ×ショウタイムの活動がある。大学から然程遠くはないが、今頃すでにえむや寧々はステージでオレの到着を待っているかもしれないのだ。
 そう、オレにはワンダーランズ×ショウタイムとしての活動が、立場が、役割がある。
 個人的な話なら一も二もなく快諾するところだが――しかし、あいつらにとってはどうだろう。頷けば、暫くは向こうの練習に参加できなくなることは間違いない。オレの考えなしの行動で万が一にもあいつらに迷惑がかかる可能性があるとなれば話は別だ。
 何もオレは目立つから、それだけの理由で座長を名乗っているわけではない。座長であるからこそ、行動には責任が伴う。
 それに――単純にうちの演出家が、類が、あまりいい顔をするとは思えなかった。
「わざわざ誘ってくれた手前、申し訳ないが……
「て、天馬くうん……
……うぐう、……
 だが、本当に困ってる様子の虎崎を放ってもおけず――しかも眉を下げてしょんぼりとした顔がどこかの誰かさんと重なって見えて――拮抗していたオレの天秤はやがて目の前の男にぐらりと傾いた。
……ええいわかったわかった! わかったからそんな目でオレを見るな! 今回だけだぞ!」
 仕方ない。目の前に顔を曇らせている相手がいるのだ。彼を笑顔にしてやらずにオレの夢――スターになること――を語れるはずもない。
 熟考を重ねた上での結論だ。ちゃんと話せば仲間達も理解してくれるだろう。
 それに本音を言えば、少し、興味もあった。
「ほんまか⁉︎」
 頷いたオレに、虎崎はがばりと顔を上げて表情を明るくさせる。
 よく見ると目尻にうっすらと涙が浮かんでいる。余程切迫した状況だったのだろう。それもそうか、彼らにとっては大舞台が掛かっているのだから。
「この天馬司に全て任せておけ! 必ずや舞台をいいものにすると約束しようではないか! ハーッハッハッハッ!」
 そうだ。オレはスターになる男。
 万人を愛し万人に愛される振る舞いをしてこそ、スターになれるとオレは考えている。
 オレもまた微笑みを深くして、力強く頷き返した。
 初夏に誘われて顔を出した、気の早い蝉しぐれのする――大学一年、六月半ばのことである。


★》
――すまん! 待たせたな!」
「あ! 司くんだ! わんだほーい!」
 司くん。そう呼んだえむくんの声に反応して、作業の手を止めふっと顔を上げる。
 薄暗いステージの舞台袖。空気が肌にすっかり張り付いている。僕は今、次の舞台で活かせるようにと、ネネロボにプロジェクター機能を搭載している真っ最中だった。
 どれだけ集中していたのだろう。夏も間近に迫った今日び、空気のこもった舞台袖は湿気による不快指数が高く、僕の首元にはじわりと汗がにじんでいた。
 手近にあったタオルでそれを拭って苦笑する。
 それほど作業に熱中していたにもかかわらず、司くんの気配がして我に返るなんて。ゲンキンというかなんというか、うん、僕の心は相当彼に絆されているようだね、と俯瞰的に分析する。
 当然といえば当然なのかもしれない。
 ――天馬司くん。彼は僕の想い人なのだから。
「遅い。類はとっくに来てるのに、座長のアンタはどこで道草食ってたわけ?」
「ぐ。実は友人に捕まっていてな……
「友人? 司、大学に友達いたの?」
「いるわ! 普通に!」
 司くんと寧々の微笑ましい掛け合いを耳にしながら、そっと大段幕を除けてステージに足を踏み出す。
 ――眩む世界に目を細めた。
 夕暮れ時の些か和らいだ陽射しと共に、涼しい風が髪の隙間を通り抜けていく。ふらり、彷徨うように視線を客席へ移すと、すぐに目当ての人物は見つかった。
 あまいあまい、カスタードのような色合いの髪。アプリコットジャムを煮詰めた瞳。殊勝で、いつも自信満々な表情。どうしてか、彼の存在を認識する、それだけで僕は空でも飛べてしまいそうなほど浮かれてしまう。
 いや。どうして、なんてしらばっくれるものではないね。
 恋をしているからだ。その一言に尽きる。そしてその想いは日ごと増している。いつか僕の皮膚を破って飛び出してしまうのではないかと、そう危惧してしまうほどに。
「おや。司くん。今日は随分と遅い登場だねぇ」
「主役は遅れて来るものだからな! ……いや、すまん。友人の相談に乗っていたら電車を一本逃してしまった」
 うん、寧々と話しているのを聞いていたよ。……とは言わず、そうかい、と一言だけ返す。ステージを飛び降りて僕もまた輪の中へ入ると、司くんは僕を一瞥するなり眉尻を下げた。
 おや、と瞬く。彼にしては随分と珍しい表情だ。
 予報ではしばらく晴れが続くはずだけれど、もしかしたらまた雨が降るのかもしれない。いや、それとも雪? そうなら少しロマンチックだねえ。夏に降る雪。風情があるじゃないか。
「お前、今何か失礼なことを考えなかったか?」
「フフ……ああ、そんなひどい言いがかりをつけられて僕のか弱い心は張り裂けそうだよ……真夏の雪はさぞ美しいだろうなと考えていただけなのに」
「真夏の雪?」
「こっちの話さ。それで、どうかしたのかい? 話があるんだろう、僕達に」
「ああ、察しが良くて助かる! まあ、座ってくれ。えむと寧々も」
 今日はこのままミーティングに入るつもりらしく、司くんは近くの客席に腰かけた。それに倣って、僕とえむくん、寧々の三人も顔を見合わせる形で席につく。
 僕達ワンダーランズ×ショウタイムに、現在公演中のショーはない。だのに何故集まっているかというと、ひとえに夏に行う次のショーの打ち合わせのためだった。
 公演内容は基本的にメンバー全員が納得するものを、が僕達のポリシーだ。
 全員が全員ショーに何かしらの思い入れがあるメンバーだから、意見が衝突することもあるし、議論が白熱することもあるし、何なら一日で内容が決まらないことなんてザラだったりする。なので打ち合わせは入念に、余裕をもって行うのが常なのだけど。
 遊園地特有の華やかで明るいメロディ。しかしそれに似つかわしくない、やたらと深刻そうな司くんの表情に、無意識だろうか、隣に座るえむくんと寧々の顔にも緊張が走る。
 司くんはしばし重たく口を閉ざし、やがて意を決したように顔を上げた。
「実は、しばらくショーの練習に参加できなくなるかもしれない」
「おや」「およよ?」「はあ?」
……どういうこと?」
 ――随分と抽象的で、擬音も多く話をまとめるのが苦手な司くんの話を、僕が代わりに要約すると。
 大学でできた友人――の、そのまた友人に大学内で引き留められたかと思えば、とある頼み事をされたらしい。
 僕は司くんとは大学が別なので知る由もなかったけれど、司くんは学内でも「フェニックスワンダーランドのショーキャスト」として名前が通っているようで(大学でも変人と名高い僕とは対照的だ。いや、司くんは高校時代からずっと『そう』だったけど)、演劇サークルに入っているというその友人――の友人――も、司くんのことは以前から注目していたらしい。
 さて、本題はここから。その友人――の友人――の彼が所属している演劇サークルだが、夏にコンテスト形式の公演を控えているにもかかわらず、役者の一人がひどい骨折で出られなくなってしまった。
 都合の悪いことに内輪のみならず外部の客も大勢くる舞台。さらにコンテスト審査員の中にはかの有名な舞台監督もいるときたものだ。上下左右のコネクションが重要なこの界隈で、大学のサークルとはいえゆくゆくはプロを目指している者も多い彼らはそれはそれは大層困ってしまった。
 代役を頼もうにも中途半端な演技をされては困ってしまう。しかし今からオーディションをする余裕はない。そこで白羽の矢が立ったのが、演技経験もあり現在進行形でショーキャストのキャリアを積んでいる司くんというわけだ。
 ひと通り話を聞き終えたあとで、僕はふむ、と顎に手を当てた。
 要するに、司くんがワンダーランズ×ショウタイムとは別のところでショーをする。
 司くんはこれまでも、自分の夢を実現すべくエキストラ等のバイトに積極的に応募している。けれど活動の中心はあくまで僕達とのショーで、練習に穴を開けるなんて余程のこと――たとえば妹の咲希くんが体調を崩したなど――がなければなかった。
 公演は七月初頭。つまりあと半月。半月もの間、僕達は司くんなしで夏のショーの構想を練っていかなければいけないわけだ。
 えむくんはこてんこてんと不思議そうに首を傾げていたけれど、寧々は少しだけ俯いて何か考えこんでいる。将来的には俳優を志す者同士、寧々は僕やえむくんよりも思うところがあるのかもしれない。
「お前達には無用な気苦労をかけてしまうかもしれんが……
 これが台本だ、と手渡されたそれをぱらぱらと捲ってみる。内容は歌ありダンスありのミュージカルのようだ。なるほどたしかに、未経験者を募るには些かハードルが高く、今からではレッスンの日も不足している。
 台本の大まかな流れはこう。
 ぱっとしない青年がとあるきっかけで出会った少女と恋に落ちる。初恋に浮かれる彼らに忍び寄る魔の手。衝突。恋敵の登場。さらに襲い来る身内の不幸――幾重もの困難を乗り越えて、最後は二人手を取り合う。きわめてオーソドックスなラブストーリー。
……結構な役なのかい?」
「ん、ああ……まあそうだな」
「?」
 歯切れの悪い様子の司くんに首を傾げた。彼は昔から、求められれば一も二もなく請け負う性分だ。
 如何せん、天馬司という人物の根底に染み付いた「スター」根性が彼をそうさせるようで、腐ってもかつて名を馳せた変人ワンツーフィニッシュの片割れ。無茶をしでかすときもあるので心配になる。
 ……司くん、本当にどんな演出でも文句は言いつつ受け入れてくれるし。僕としては本当に助かっているんだけど。
 よもや無理強いさせられているのではないかと――いや、司くんに限ってそれはないと思うが、そうなのではないかと勘繰ってしまう。今はもう、彼と四六時中傍にいられるような環境ではないから。
 大学で過ごす司くんを、僕はよく知らない。
 じっと見つめる僕の視線に気づいていないはずもないのに、目が合わないのは何故なのだろうか。僕に言えない何かがあるのか。いや、すべて杞憂だろうか。どうも僕は司くんのことになると考えすぎてしまう節がある。
「引き受けたからにはしっかり役を落とし込みたいんだ。無論、ワンダーランズ×ショウタイムの活動を疎かにするつもりはないからそこは安心してほしい!」
「いいんじゃない?」
「む」
 頷いたのは寧々だった。
 先ほどから何か考えている様子だったから何か物申したいのかと思えば。寧々は表情を変えずに「だって」と続ける。
「サークル活動とはいえ、司にとっては刺激になると思うし……アンタが場数を踏めば踏むほど、わたし達にとっても強みになるでしょ。それに万が一にもあり得ないと思うけど、もし司が舞台監督の目に留まる可能性があるなら……スターになるなら、やらない選択肢はないはず。司はもっと外の世界に触れるべきだと思う」
「ね、寧々……! お前、そんなにもオレのことを考えてくれていたのか!」
「ちょっと、何その顔、暑苦しいからやめてよね……。別に、仲間の夢の応援くらい、するし……。ね、類もいいよね?」
「え」
 半泣きの司くんを押し退けた寧々の、若草色の癖っ毛が風に靡く。急に話を振られた僕はぱちぱちと瞬いて、再び司くんと向き合った。
 オレンジサイダーの澄んだ瞳と目が合う。一切の淀みのないその瞳が、この経験を以ってもしも今後、曇るようなことがあれば。並々ならない後悔を僕はすると思う。
 外の世界は、存外、異端者に厳しい。
 けれどそれが僕のエゴでしかないこともわかっている。所詮シュレディンガーの猫で、寧々の言う通り司くんの成長に繋がる可能性だって大きい。結局のところ僕は、蛹から蝶が羽化する瞬間を一瞬たりとも見逃したくなくて――駄々をこねているに過ぎない。
 彼は、天馬司くんはスターになる男だ。きっとそれは間違いないから。
「そう……だね。寧々の言う通り、司くんにとってはいい経験になるかもしれないね」
 ずっと、ワンダーランズ×ショウタイムとして司くんといくつものショーを共にしてきた。
 だけど司くんの夢は世界一のショースターで。いずれは彼も、僕の目の届かないところでショーをする。少なくともその権利は彼にあって、僕達が口を出せる問題ではない。
 本心をいえば、僕の演出で彼を輝かせてあげたいけど――僕じゃなくても、司くんは輝ける。寧々の言う通り、司くんのためを思うならば僕達はその背中を押してあげるべきだ。
 ――頭では、理解しているんだけどね。
 わざわざこの話を僕達にしてくれたのだって、司くんなりの誠意だ。それでいい、それで十分じゃないか。
 子供じみた感情でそれをふいにするのは、どうしても良心の部分で憚られた。
 良い格好を見せたくて、聞き分けのいい子供のフリをする。大丈夫。別に司くんが遠くにいくわけじゃない。彼はまだここにいる。手を伸ばせば抱き締められる距離にいてくれる。悲嘆する必要なんて、どこにもない。
 僕は口角を持ち上げて目を細めた。
 形ばかりの微笑みになってしまったけれど、一応は司くんを安堵させる完成度になっていたらしい。司くんはほっとしたように息をついて、すまない、と言葉を重ねた。
「では当分レッスンは基礎練中心で頼む。夏のショーについては家でしっかり類と詰めていくし、打ち合わせはこれまで通り行うから安心してくれ!」
「はいはーい! あたしイルカさんのショーがしたいな! こう、ばしゃばしゃ〜、きゅわきゅわ〜! って感じの!」
「ふむ、つまりえむくんはイルカの求愛やバブルリングをイメージしたショーがやりたいんだね?」
「毎度ながら類のそのえむ語翻訳能力はなんなんだ……
「無駄にハイスペックなのが意味わかんない」
「それな」
「フフフ……
 そうしていつも通りの時間が過ぎていく。
 いつも通り。僕達は、二年前の出会いから良い意味で変わっていない。立場も、関係も、互いの夢だってそうだ。
 それからの時間はあっという間だった。いつしか空を覆っていた夕焼けは宵に染められて、華やかなパレードの音楽は遠ざかっていく。
 僕達はえむくんと寧々をそれぞれ見送ってから、肩を並べて帰路についた。
「今日の夕飯、どうする、類?」
 無邪気に笑う君の隣で、まだ、湿った空気が僕の首筋に纏わりついていた。


☆》
「『君がいなくても僕はのうのう生きていけるだろう。だが、君がいなければ僕に生涯幸福が訪れることはない』――
 夜。
 類が風呂に入っているのをいいことに、オレはリビングのソファーを占拠して――寝そべって――静かに息をついた。
 台本を読み込めば読み込むほど、世界観に浸れば浸るほどに――オレは頭を悩ませていた。というのも、登場人物の感情にまったく寄り添えない。早い話共感がまるで出来ないのだ。
 主人公である男と少女の間には随分な年齢の壁がある。当然、身内には反対されるし、世間体もよろしくない。それでも二人は互いの間にある絆を信じて、何に替えても恋を選んでいく。恋の魔力が、人をそうさせる。
 正直、耳が痛い。
 恋に落ちるまで品行方正で周囲の信頼も厚かった主人公は、少女との出会いをきっかけにどんどん恋に溺れてしまう。
 少女と結ばれることが唯一の正解であると言わんばかりに、周囲の言葉には耳を貸さず、一時は孤独になりかける。それがなんだか他人事に思えなくて――いつかの周囲を鑑みず我ばかり貫き通していた自分を見ているようで――胸が詰まる。
 読みかけの台本を胸元に置いて、再び嘆息した。
(明後日の顔合わせまでにはせめて、解釈を固めておきたいものだが……
 考えれば考えるほど、駄目だ。こういった色恋主体の内容はどうも疎い。しまいには眠気がにじり寄ってきて、漏れ出そうになる欠伸をかみ殺した。
 しかしそれも、リビングの照明をじっと見つめているうちにだんだんと抵抗できなくなっていく。次第に意識がとろりと溶け落ち、オレはソファーに深く体を沈ませた。
 夢の狭間で、ふと、同居人のことを思い出していた。
 ――神代類。友達であり、仲間であり、今は家族も同然なオレのルームメイト。でも、類がオレに向ける感情を知ってから……オレはあいつのことが少しわからなくなってしまった。
 好きだと、言われて。オレを想うほどにどうしようもなくなるのだと訴えられて。
 離れて行こうとする類に、咄嗟に口をついていた。思う存分好きでいればいい、オレを惚れさせてみろ。あの発言を撤回する気はないが、もっとマシな言い方があったのではないだろうかと今は思う。
 ルームシェアを始めてもう三か月目だ。
 思えば去年の秋口、オレは類に生活を共にしようと提案することに疑問なんてひとつも抱かなかった。むしろそれが最適解であるとさえ思っていた。
 類がいるとオレの心は華やぐ。ショーの話を心行くまで交わせるし、存外自分のことに無頓着な類のことが心配でもあった。
 その上、互いの苦手もカバーしあえる。互いにとってメリットしかないじゃないか。だからオレはこのルームシェアを類に切り出したのだ。類が一瞬困った顔をしていたのを、気がつかないフリをして。
 今も、この生活に後悔は微塵もしていない。けれど類は――……
 ……雨の音に紛れて、涙を落とした類が、脳裏にこびりついている。
 類は、いつからオレのことが好きだったのだろう。オレが一緒に暮らそうと提案したときには、既に恋心に気づいていたのだろうか。
 だとすれば。一体どんな気持ちで、類はオレの誘いに頷いた?
……わからん。こればっかりは、迷宮入りだ)
 考えても埒があかない。かといって、本人に直接聞くほど無神経にもなれやしない。
 類がオレに向ける感情が理解できない。理解できないから、してやりたい。類のことをきちんと知りたい。そう、オレは類が隠す感情を解き明かしたいのだ。
 無意識のときもあれば、意識的にそうしているときもあるが、類はなかなかどうして自分のことを話そうとはしないから。
 正直――嬉しかったんだと思う、たぶん。オレのことを好きなんだって、類が自分の言葉で、心の柔らかい部分をオレに教えてくれたことが。
「司くーん、お風呂あがったよ……おや」
 閉じた世界で、ぺたぺたとフローリングを素足で踏む音が近づいてくる。類だ。
 その声は耳に届いていたものの、大学にバイトにと存外疲れていたオレは、一度おろした瞼を再び持ち上げるのは億劫に感じてしまい――ソファーに身を預けたまま類の気配を辿った。
 類は、まっすぐにオレのところへきた。目を閉じていても、ふ、とオレの上に影が落ちたのがわかる。きっとオレの顔を覗き込んでいるのだろう。
「うたた寝かい。……あんなことがあったのに、よく無防備でいられるねえ」
 そう零す類の声が、思っていたよりも近い。
 ぎくりとした。吐息が口元に当たった瞬間、体が強張る。
 ひとつ、類の気持ちを知ってから、オレ達の間で明確に変わったことがある。
「司くん。最近ちょっと気が緩んでるんじゃないかい」
 あまいあまい、蜜のような。蕩けた声だ。
 慌ててオレが起きるよりも先に。類が、オレの鼻をつまんだ。呼吸を塞がれて、自然、オレは口を開ける。その開いた隙間に、柔らかいものが触れる。
「んう、……ふが、……
……、」
 ちゅ、ちゅ、とそれはオレの唇に何度も吸い付いてくる。顔を背けて逃れようとすればするほど、影は、類はオレに覆いかぶさって逃げ道を塞ぐようだった。
 戯れに唇を舐めて、もうとっくにオレが起きていることに気づいているだろうに、類はますます深く交わろうと重心を傾ける。
 その間にも鼻はつままれたままなので、だんだんと息が続かなくなって苦しくなってくる。
 ……
 ぐ、いや、マジで苦しいんだが。もしやオレ酸欠で死ぬのでは? 死因、キスによる窒息? おい、冗談じゃないぞ!
 ぽすぽすと類の少し湿ったシャツ――こいつ、また髪を乾かしてこなかったな――を叩いて酸欠を訴えると、唾液で繋がる唇の先、喉の奥で類が笑ったような気がした。
「む、むう――ッ! ぷはっ、オイ、るい……っ」
「ふ、あはは。おはよう、眠り姫。はてさて君を眠らせたのは毒りんごかな? それとも糸車?」
……。普通に起こせよ、王子さ、まッ」
「いたっ……うう……ひどいよ司くん……
 べち。渾身のデコピンが思いのほかクリーンヒットし、類はほんの少し背後に仰け反って額を押さえた。
 その様子に些か鬱憤は晴れたものの。ごし、と濡れた口元を乱暴に袖で拭う。
「そもそも寝込みを襲うんじゃない!」
「普通に声を掛けても起きないじゃないか。君、自分が寝汚い自覚あるかい? なら呼吸を奪うのが手っ取り早いだろう?」
「ぐっ……!」
「それに据え膳食わぬは男の恥ってね。……まあ、狸寝入りしてた司くんに言われたくはないかなあ?」
 フフ、と心底楽しそうに類が笑う。頬に朱を走らせ、和らいだ目尻でやけに眩しそうにオレを見つめて。
 あからさまだ。あからさまに、類はオレへの好意を隠さなくなった。
 とろりと煮詰めた蜂蜜のような眼差しで、うっとりと恍惚を浮かべ、聞いてるこちらがむず痒くなるほどあまったるい声で「司くん」とオレを呼ぶのだ。
「フフ。好きだよ、司くん」
……ええい! 耳元で囁くな! こそばゆいだろう!」
「司くんが僕と付き合ってくれるならやめるよ」
 頬に、瞼に、額に。飽きもせず唇を落としながら、類が囁く。オレと類しかいない部屋で、誰に聞かれるわけもないのに、内緒話するみたいにこそこそと。それがなんともむず痒くて、こそばゆい。
 ――好きだとか。付き合いたいだとか。そういった感情に触れてこなかった人生を、今だけはほんの少し恨めしく思う。
 秋の夜空にぽっかりと浮かぶ月のような、あるいは闇夜に浮かぶ獣の眼差しのような。類の瞳に射抜かれると、どうもオレは駄目になる。
 多くを語らない類の心が透けて見えるような気がして、負けじと見つめ返してみるけれど。それはもう、ほとんど意地だ。
「前にも言ったが、オレは恋がさっぱりわからん! 今とどう変わると言うんだ」
「どうって。うーん……ほら、それらしく抱き締めたりキスしたり……
「抱き締めたりキスしたり?」
「そうとも」
 そうは言うが。
……ん」
「え」
 類の背中に腕を回して密着すると、風呂上がり特有の温かさとシャンプーの香りがオレを包み込んだ。
 おまけにどくんどくんと脈打つ類の心臓が薄地のシャツ越しに伝わってくる。少し体が強張っているようだ。緊張、しているのか。類らしくもなく。
「つ、司くん……
……
 それから。類の顔を見上げて、ほんの少し顎を持ち上げる。
 キスだなんて言っても「ちゅ」なんて可愛らしい音はしなくて、ただぴと、と皮膚が触れるだけの感触が唇に残る。
 抱き締めて、キスをした。だがオレと類の関係はそれでも、友達で仲間でルームメイトで、それ以上も以下もない。
「ほら、今だって抱き締めてキスもしてるぞ。だがどうだ。何も変わらないではないか!」
「ええ……。詭弁だよ。それに、言ったはずだ。触れ合うだけじゃ足りないって」
……
「僕は君を抱きたいって、ああ、たしかに言った。ねえ……こんなかわいいことをして、もしかして僕を試してるのかい?」
 だとすれば君は存外、いじわるだね。
 どこか焦った様子で――少し、早口に――類が僅かに体を離す。見上げたその顔は赤く上気しているように見えて、オレは思わず息を飲んだ。
 あまり見たことのない表情だった。類との付き合いはかれこれ二年になるのに、ここにきて初めて見るばかりの表情だ。お前、そんな顔できたんだな、なんて失礼なことを考えながら――ふと、先ほどまで目を通していた台本を思い出した。
 恋が人を狂わせる。
 いつかの頃、学校の屋上で騒いだり――あるいはセカイで、ワンダーステージで言葉を交わした神代類とは、また違う。オレの知らない類が、そこにいる。
 それは。
――、恋を」
 恋を、したからか。
 渦巻く疑問、僅かな寂しさに混じって、たしかに感じたのは高揚だった。見たこともない斬新な演出を目の当たりにしたときのような、あるいは思いもよらない大逆転劇を見たときのような。素晴らしいショーとの邂逅を喜ぶ瞬間の高ぶりが、心の奥底で燻っている。
 この感情の正体を、オレは知らない。いかんせんオレは、神代類がわからない。
「司くん。僕は君のことがもっと知りたいんだよ」
「む……
「君を奥まで暴きたい。言っている意味がわかるかい?」
……
 視界が藤に包まれて、再び類の唇が落ちてくる。
 頬に触れる髪がくすぐったい。オレは恋を知らないのに、キスの間は鼻で呼吸をするのが以前よりも上手になった。所在をなくしていた手は、今はもう抵抗なく類の体を抱き締める。肺を満たす類のにおいを、この体はすっかり覚えてしまった。
 これって、結構、いけないことなんじゃないかって。そう思うのだが。
……狼に食べられたくなかったら、うたた寝はほどほどにすることだね」
 ぎゅ、と胸のあたりを握りしめる。
 知りたいと思うのは――オレも同じだ。類のことが知りたい。類がその瞳に映す熱の正体を暴いてみたい。だけどそう思えば思うほど、類と心がかけ離れていくような気がしてくる。オレは類に恋をしていないからだ。
 これは小さな懺悔だが。
 あの雨の日。些細な勘違いから酷く取り乱した類を見て、オレはまた間違えたのかと――内心、肝が冷えた。
 類の言うことはたいてい正しくて、そして間違っている。理性的でありながら、時折感情論に振り回されがちなのはいつも決まってオレよりも類の方で、たまたまあのときは宥め方が上手かった。それだけに過ぎなかった。
 引き留めなければ、類はオレから離れて行ってしまう。この箱庭を去ってしまう。
 だが類を引き留めたこと、それは――オレにとって、類にとって、正解だったのだろうか。
 オレはそれを、ずっと考えているのだ。
……風呂、入ってくる」
「いってらっしゃい」
 覆いかぶさる類を押し退けると、あっさり類はオレの上から退いた。とぼとぼと歩くオレの後ろ姿を見つめて、類は今何を思っているのだろう。何を感じているのだろう。
 脱衣所の扉を閉めて、着ていたシャツを脱ぎ捨てる。
 ほどよく筋肉のついた腹に手を当てる。類はオレを暴きたいと言って、ここを撫でた。それはつまり、……オレの腹の内が知りたいということだろうか?
「暴きたい、か……
 それならば、オレだって類を暴きたい。まだどこか予防線を張っている――いいや。張らせてしまっている自分が不甲斐なくて、ただ悔しい。
 だが類の本心を知るにはどうしたって、まずオレが、恋を知る必要があるのだ。
……困ったものだな」
 わからない。何も。こんなにもあいつのことを知りたいと思う、その理由さえ。わからないまま、ため息に溶け落ちていく。


 さて、大学のキャンパス内にはいくつか研究棟が建ち並んでいる。けれどその大半は高校時代オープンキャンパスの一環で覗いたきり、オレには縁もゆかりもないものばかりだった。
「やー、ほんまにおおきになあ天馬くん。めっちゃ助かるわあ、ほんまほんま」
 件のサークル活動拠点地である理工学部なんてさらに縁遠い。煤けた階段を案内されるまま進んだ先の教室で、友人の友人――ええいまどろっこしい、こいつももう友人に認定だ――はにまにまと頬の筋肉をだらしなく緩ませて。オレの姿を頭のてっぺんから足の先までを楽しげに見つめた。
 そんな虎崎の無遠慮な視線は気に留めず、鏡を前にくるりと半回転してみせる。
 清楚な白のシャツに、ハイウエストのタイトスカート。
 セミロングのウィッグは頭の後ろで丁寧に編みこんで、口元に色付きのリップ。
 耳に穴は開いていないので小さな粒のイヤリングを両耳に挟み込んだ。
 いくら姿勢が良くてもヒールを履いてまともに歩ける自信はなく、代わりに足元は黒のパンプスで誤魔化している。
 自分でも驚くほど、鏡の中のオレは完璧に女性だった。
 ――そう。虎崎に頼まれた件の代役とは、ヒロインの恋のライバル役だったのだ。
 本心をいえば主役がよいが、役柄や役割に貴賤はないし、オレはあくまで代役だ。それにこの役は物語の進行上切って離せない重要な立ち回りを要求される。とくれば、役者志望として俄然、挑戦してみたい気にもなる。
 ワンダーランズ×ショウタイムでは類による奇抜な演出を振られることはあれど、逆にいえば類以外の演出で演技をする経験はほとんどない。それにこういった女性役もあまり経験がないから新鮮だ。
 別にオレ自身は少女役でも華麗にこなす自信があるが、うちには可憐な女の子が二人もいる。彼女達を差し置いて目立つのもなんだか違うだろう。
「天馬くんなら絶対似合うと思うとったで!」
「まあ、スターならばどんな衣装も着こなせてこそだが」
 だが、正直後ろめたさもある。寧々が背中を押してくれたように、今回のこの代役はオレにとってたしかに経験のひとつになるだろうが――この姿をあいつらには見せられん。特に類には。
 どの役を演じるのか。家でそれとなく類に聞かれる度に、守秘義務があるだとか適当に濁して切り抜けているが、それもいつまでもつか――
 これでも気を遣っているのだ。
 色恋に疎いオレだってさすがにわかる。好きな相手が自分に黙って他所でこんな、道行く百人中百人が振り返るような魅力的な装いをしていたら誰だって気が気じゃないだろう。
 オレだって類がどこかで知らんヤツに知らん顔見せてたら少しもやもやする――
……んん?)
 ……何故オレがもやもやするんだ?
……?」
「あ、そういやこのあとメンバーでメシ行くんやけど、天馬くんもどお?」
「ああ……司でいいぞ! だが食事は……ん?」
 いつもの体のいい断り文句を告げようとしたタイミングで、これまた丁度よくテーブルに放置していたスマートフォンが震えた。
 なんだと思って覗いてみれば、類からメッセージのようだ。
「なになに……『今日遅くなります。夕飯は先に食べていてください』……
「お、噂の同棲してる彼女ちゃん?」
「同棲じゃないし彼女でもない。男の友人だ。何ひとつ合ってないぞ」
「まーまー、細かいことは気にすんなや」
「ぬうう」
 状況が状況なだけに、結構センシティブな話なのだが。
 だが困ってしまった。類がいないのであれば、急いで家に帰る必要もない。
 あまり気乗りしないが、今日くらいは誘いに乗るのもいいだろうか? 大学の課題は計画的に進めているし、ワンダーランズ×ショウタイムの次のショーに関しては、類が主体で企画を進行してくれている。
 何より演劇サークルのメンバーと食事となれば、良い意見交換会になるのではないだろうか。
 良くも悪くも上下左右、コネクションが重要な界隈だ。あと純粋に、誘いを無下にし続けるのも気が引ける……
「ならええやろ。てん……司も行こや、たまにはさ。息抜き息抜き! それにオレ、司といっぺん腹割って話したかったんや。司はオレの憧れやから……
「だが……
「おーい! 今日の合コン、司も来るってさ!」
「ぬあ⁉︎ こらこらこら待て待て! いま合コンって言ったか⁉︎」
 それは聞いてないが⁉︎
 焦るオレをよそに、室内にいた男性陣が嬉しそうに集まってくる。随分と好意的な様子と、どこからか感じる圧に、オレは思わず一歩後ずさった。
「男人数足りなかったんだよなー! 助かるー!」
「待て、オレは行くとは一言も……
「一回だけ! 今日だけでええねん! めっちゃええ感じの女の子もおるし、今日を逃したらおしまいや! な! 人助けと思って!」
「お前は合コンをしないと死ぬ呪いにでもかかっているのか⁉︎」
「天馬盛り上げ上手じゃーん! ね? ね?」
「ぐう」
 多勢に無勢。その上、口々にそうまで言われたら悪い気はしないもので。
……ぐぬう……。今回だけ、だぞ……
 白旗。一瞬遅れて、周囲にわっと歓声が巻き起こった。たったひとり、顔を青くするオレだけを置いて。


★》
 花の金曜日なだけある。週末の駅前はさすがの混雑具合だ。
 今回、イルカのショーをやりたいと言うえむくんの希望を叶えるにあたって、いくつかどうしても必要な機材の部品があった。
 駅をいくつも跨いだ先の、伝手の伝手で訪れた個人営業の電器店。市場にあまり出回らない目当ての部品を無事に買えて、ほくほくと満足するもつかの間。
 店を出るなり、視界に広がる人の往来に瞬き――僕はがっくりと落胆した。
 失念していた。もうすっかり夜とはいえ、ショーをたくさんの人に見てもらえる良いチャンスだったじゃないか。
 こんなことならゲリラパフォーマンスの用意をしておくんだったと肩を落とす。僕としたことが、荷物になるからと自室に置いてきてしまったのが裏目に出るなんて。
(でもそれも、致し方ないね)
 まさかこんなに遠出をするものと思ってはいなかったし。それに、今日は連れもいる。
……ありがとう、瑞希。買い出しに付き合ってくれて」
「どういたしましてー。ま、類にはなんだかんだお世話になってるから、これくらいはね?」
 店から遅れて出てきた瑞希を振り返る。
 赤いリボンに、淡い桃の髪。ウサギのような愛らしさや、庇護欲を感じさせる大きな瞳。
 相変わらず可愛いものが好きで自分を着飾ることに余念がない瑞希だが、隠し事が多いのも変わらずのようだ。
 瑞希は――僕と似た者同士だから。傷つけて、傷つけられて、心がすり減っていく間にすっかりお互い腹の内の探り合いが癖になってしまった。
 僕の一方的な思い込みでなければ、僕と瑞希は屋上の空間を共にする、言ってしまえば仲間のようなもので。
 寧々に対するそれとは違う。いわば同族意識……みたいなものだろうか。心配したりされたり、踏み込むことは良しとしないのに、互いに放ってはおけないんだ。
 屋上のあの空間は、異質だった。世界から切り離された僕達は、異端だった。
 ……でもそれも、過去の話だ。
「類、いま司先輩と一緒に暮らしてるんでしょ? どんなカンジ? 聞かせてよ」
「毎日楽しいよ。ああ見えて司くんは結構家事が上手でね……
「あー、はいはい。惚気はお腹いっぱいでーす」
 そっちが聞いてきたくせに。わざとらしく耳を塞ぐ瑞希を横目に、くす、と笑みを零す。
 司くんの例の助っ人が終わるまで、ワンダーランズ×ショウタイムは次のショーの準備期間となる。その間もワンダーステージやセカイで意見の擦り合わせは随時行っているけれど、寧々とえむくんはまだ高校生で、しかも彼女達は受験生だ。
 そうなると案外全員で時間を合わせるのが難しくなってきて、端的に言えば僕だけが暇を持て余していた。
 紙袋に詰めこんだ部品を持ち直して、ふう、と息をつく。
 今から電車に乗って、帰宅は何時になるだろう。はやく装置の組み立てに取り掛かりたい。あまり、悠長なことを言っている余裕は正直なかった。
 リビングで真剣に台本を読み込む司くんを見ていたら、自然と僕も負けていられないなって気持ちになる。恋心とは別に、司くんに対しては同年代の――似て非なる夢を望む、仲間としての親近感も抱いているからだ。
 司くんが役者として前進しようとしているのに、演出家の僕がふんぞり返っていたんじゃたまらない。
「でもこんな時間まで良かったの? 司先輩、うちで類のこと待ってない?」
「遅くなる連絡はしてあるから問題ないよ。彼も今忙しい身だからね……なるべくショーに関わる煩雑なものは僕の方で済ませておきたいんだ」
「ふーん……優しいね、類」
「まさか。彼の負担になりたくないだけだよ」
 ただ、彼を繋ぎとめるのに必死なだけだ。
 気を抜けば司くんはどんどん先へ向かって走っていってしまう。彼の猪突猛進なところが嫌いなわけはないけれど、振り返らないところは恐ろしい。扱い易い彼の手綱を引いていたつもりでいて、その実いつだって彼の半歩後ろを追い掛ける僕は、その背を見失わないようにするだけで精一杯だ。
 早々足手まといになるつもりはない。それでもいつかは僕の手の届かない果ての宇宙まで、彼はまっすぐ突き進むのだろう。
 ならばせめて彼の羽搏きの手助けを。機械仕掛けの羽と、下心をまじえた酸素ボンベで、彼の輝かしい人生の礎となれたなら。
 そう願ってしまうのは――傲慢、だろうか。
……ん? あれ、あそこにいるの、もしかして司先輩じゃない?」
「え?」
 ふと歩みを止めた瑞希が、道路を挟んだ向こうを指さした。
 薄暗くなりつつある駅前の路地で数人の男女がたむろっている。そのうちの一人は――遠目にもわかる、司くんだ。役者としての潜在意識が染み付いているのか、彼の身振りは大きくよく目立つ。
――二次会行くぞお、二次会ー!」
「いや、オレは二次会は……
「つれへんこと言わんといてや! みんなも司に来てほしいよなあー?」
「ほしーい!」
……くっ、そこまで求められては仕方がない……! 行くぞお前達!」
……フフ」
 大学の友達、だろうか。複数の見知らぬ男女に囲まれて、司くんが右に左にもみくちゃにされている。
 ふ、と思わず口元が緩む。なんだか懐かしい光景だ。
 神山高校に在学している間、彼の周りにはいつも人がいて、顔も広く、友人や後輩との関係も良好だった。僕はそんな彼の姿を遠目に見つめていた。
 将来スターになるという突拍子のない言動も、彼という人となりを知れば知るほど応援したくなる。司くんはたしかに人を惹きつける、天性のスターだ。今はまだ、生まれたばかりの星屑であるとしても。
「彼も相変わらずだねえ。日陰者の僕達とは大違いだ」
「ほんとそれだよねー。まあボクはああいう騒がしいのはちょっと苦手だけど。……ていうか司先輩、なんかへろへろになってない? まさか酔ってる? ってそんなわけないか、未成年だし」
「まさか。でも司くんのことだから、場の空気に酔ってる可能性はあるねぇ」
「あは。司先輩、そういうとこありそー」
 そこに。近くにいた女の子が、何の気無しに司くんの腕に抱きつくのが見えた。
……
 ぴく、と眉を寄せる。
 思わずじっと見つめてしまう。よくよく観察すれば、彼女の視線には少し、下心を感じる。
 ふくよかな、女性特有の柔らかい体つき。きゃらきゃらとした笑い声が道路を挟んだ僕の元まで届いてくる。随分と媚びた声だ。司くんの顔色は変わらないが、あんな風にあからさまに密着されて彼は――どう思っているのだろう。
 年ごろなのだから、アピールの意図を汲めないわけでもないだろうに。ゆらゆら、くねくねと司くんに絡みつくそれが、なんだか酷く不快なものに感じる。
「類? おーい、類ってば。聞こえてる?」
(ああ……
 今すぐあの手を振り払ってしまいたい。僕の一等星を簡単に汚さないでほしい。
 自覚した途端、ぐるぐると腹の底が嫌なもので渦巻いていく。この感覚には覚えがあった。
 ……まただ。また、自分を押さえられなくなる。
 困った顔をしながら、振り払う気配のない司くんも大概だ。どうしてそのままにしておくのだろう。僕にはそれが理解できなかった。
 彼の思わせぶりな態度は、時として残酷だ。
……類、るーいー!」
「! ……なんだい?」
「なんだい? じゃなくて。……ちょっと。ちっちゃい子が怖がっちゃいそうなこわい顔してるよ、自覚ない?」
……こわい顔、か」
 胸を押さえて俯く。体内に渦巻くこの感情の正体は。――嫉妬だ。
「参ったな……
 司くんを好きになって、僕は弱くなった。いいや、昔の自分に戻ったと言った方が正しいかもしれない。体は確実に歳を重ねていくのに、僕の心はどんどん見苦しい駄々をこねる。
 今だって、僕と彼を隔てるこの一本の道路が憎らしい。きっと彼は僕が声を掛ければ振り返る。類、と言って歯を見せて笑うのだろう。
 でも僕は。彼に、気づいてほしかった。いつかフェニックスワンダーランドで、そして神山高校で僕を見つけ出したときのように。
「ていうかやっぱ司先輩、ちょっと困ってる? 助け舟出した方がいいんじゃ……
……いや。司くんは本当に嫌なことはきちんと断れるはずだ。……行こう、瑞希」
「ええー……? まあ、類がいいならいいけど」
 歩き出した僕の背中と、司くんと。交互に見つめて、瑞希は小さく肩を竦めた。
 雑踏と嬌声、ノイズが蔓延する交差点で。
 僕と彼の間は明確に白とグレーで線引きされていた。
……不器用なとこ変わんないね、類も」
 ぽつりと届いた声に苦笑する。随分と呆れの色の濃い声だ。
 でも。それは本当に、僕もそう思うよ。


☆》
「ただいま……
 疲れ切った体を鞭うちながら、ゆっくりと家のドアノブを回す。外はとっぷりと日が暮れ、街灯だけが薄ぼんやりと周囲を照らしている。
 あまり直視したくはないが、マンションの照明に寄る蛾を見上げてうっと何かを飲み込んだ。たぶん、悲鳴とかそういったたぐいのものだ。そそくさと急いでドアを閉め、その場にしゃがみこむ。
 今日は本当に、えらい目にあった。
 サークルの連中に連れていかれたカラオケで、オレは女子達の質問責めにあっていた。このオレの魅力に興味津々なのは、まあいいとして、あんまり年ごろの娘がべたべたと身内でもない男にくっつくのは些かどうかと思う。
 咲希やえむ、寧々がもしも他のどんな馬の骨とも知らんやつにあんな態度をとっていたとしたら説教ものだ。
 世の中の全てがそうとは限らないが、中には不埒なことを考える男だって当然いるのだ。妙な勘違いをされて困るのは彼女達だろうに、危機感というものが足りなすぎる。知らんぞ、どこぞの誰かみたいなのに寝込みを襲われても。
「はっ、そうだ類……はもう寝てるか……。今何時なんだ……げっ、二時半……?」
 ポケットにしまったままのスマホを照らして頭を抱える。
 明日が休みで本当に良かった。休日だろうと翌日一限が入ってなかろうと、オレの生活は常に早寝早起きを徹底している。だがさすがに明日は少し寝坊をしてしまうかもしれない……
 よたよたと力が入らない足で洗面所へと向かう。手を洗うついでに、顔も洗った。鏡に映る土気色の顔が少しはマシになったような気がする。
 ……結局二次会まで付き合わされたが、合コンの良さは終ぞわからなかった。
 あまり考えたくはないが、男も女も下心が透けて見えてしまって、やはりあまり気分のいいものではなかった。
 みんな笑顔なのに、心から笑ってはいない気がするのだ。少なくともオレやワンダーランズ×ショウタイムのショーを目にして、観客が見せる笑顔とは程遠いものに思えた。
 余興と称した王さまゲームで今日会ったばかりの女性にキスしろと言われたときは、さすがのオレもくらっと眩暈がしたくらいだ。
 ちなみにキスはしていない。場がしらけるだろうことはオレにもわかっていたが、ファーストキスもまだなので許せと適当に誤魔化した。まったくの口から出まかせでありつつも、うまく同情は買えたらしい。
 実際は、随分前に……類に奪われているのだが。
 類以外とキスをするのは、どうしても気が進まなかった。誰だって嫌だろう、よく知りもしない相手と唇を合わせるのは。
「ん? ……なら何故類のキスは平気なんだ……?」
 よく知らない相手ではないからだろうか。
 うん、そうかもしれん。たとえば咲希とキスしろと言われたらたぶん平気だ。よく外食で咲希が食べれなくなった飯は代わりにオレが食べてやっていたし(天馬家はお残し厳禁だからな!)、昔は寝付きのよくなかった咲希に両親と一緒におやすみのキスを贈るのがうちの習慣だった。
 そういうものかと思い直して、柔らかい生地のタオルで顔の水気を拭き取り、オレはスマホで足元を照らしながら階段に足を掛けた。
 薄暗く、寝静まった深夜はどこか不気味だ。一段。二段。上る度、自然とオレの足は駆け足になっていく。
 もうじき上り終えようという頃に、ふと、視線の先にぼんやりと白い素足が浮かびあがった。
「ひっ」
 ……悲鳴は飲み込んだが、危うく、ひっくり返って落ちるところだった。
……おかえり。同居人に対して随分な反応だねぇ」
「うおっ、おま、……お、起きてたのか」
「寝付けなくてね」
 壁に頭をつけて寄り掛かったまま、類は腕を組んで佇んでいた。作業をしていたのだろうか、類の部屋から明かりが漏れている。
「君の帰りが遅いから……心配で待ってたんだよ」
「ああ、そうか……すまない。ちゃんと連絡すればよかったな」
「ううん。君にも付き合いがあるからね――こんな日もあることくらい、理解してるさ」
 逆光になったこの位置から類の表情はわからない。けれど類の声はどこか固く緊張していた。
 なんか……機械、みたいだ。いや、類は人間なのだから、機械と喩えるのは間違っている。
 そう、感情を押し殺した、みたいな。オレに何か、隠している――みたいな?
「類……?」
……女の人と、一緒にいたね」
 質問ではなかった。事実その通りだが、実際に見たかのような、確信めいた口ぶりだ。
……
 オレが答えあぐねていると、類は息をついてオレの手を引いた。階段の最後の一段を上りきると、オレの足が縺れるのも気にせず壁に体を押し付けられる。
 見上げたすぐ先に類の顔がある。
 ここにきてようやく、類がどんな顔をしていたのかわかった。困ったみたいに眉を下げて、瞳に薄い膜を張って、少し泣きそうな顔だ。
 るい、と名前を呼ぶと類は目を見開いた。顔の横と、脇腹の横についた類の手はオレに触れようとしない。けれど耳元に触れる吐息が、髪の毛先が、オレの肌の熱を上げる。
「類、くすぐったいんだが……?」
「君から甘いにおいがするんだ。香水だね。移るほどそばにいたのかな――まさか君に限って、不埒なことをした、なんてことはないと思うけど」
 深夜だからだろうか。ぼそぼそと囁く類の声に元気がない。けれどそんなことよりも、言われた内容の方に気が立って、オレはキッと眉を吊り上げた。
「こら、類。いくら気心知れたお前といえども、言っていいことと悪いことがある」
……。失言だった。すまないね。……でも……
 ちょっと今は、配慮する余裕もないかな。
 類の手が頬に触れる。細く、長く、少し骨ばった手だ。触れた指先の温度を頬に感じながら、オレは身じろぎひとつできずにただ目の前の類を見つめていた。
 少し、語弊がある。僅かにでも動いたら触れてしまいそうだったのだ。それほど間近に類の顔がある。息の仕方を忘れそうになる。類の吐息が、熱い。視線が痛い。
「心配なんだよ、君が」
……それは、オレのことが……好きだからか?」
「そうだよ」
 ぐに、と頬を抓られて。
 痛いと抗議しようとしたオレの口を、がぶりと塞がれた。直後、咥内を無遠慮にまさぐられる。ぬるぬるとした柔らかいそれの正体が、類の舌であることにオレが気がつくまでそう時間はかからなかった。
 なんだ、これは。
 歯列をなぞって、舌の表面をさりさりと擦り合わせる。それだけならまだしも、器用に口蓋や舌の裏をなぞられると、どういうわけだかオレの体はどんどん力が抜けていってしまう。舌を吸われたらもう駄目だ。
「んっ……ぷは、るぃ、……んう」
 なんだ、これは!
 一瞬離れて解放されたと思っても、またすぐに塞がれる。類の体を押し退けようとしていた手も、徐々に類の体にしがみつくような形になってしまう。
 しまいには立っていられなくなって、膝ががくりと崩れ落ちた。いつの間にか足の間にあった類の膝に座るような体制で、どうにか腰が抜けるのだけは回避されたけれど。
 類の足が、わざとらしく、前後に動く。
 急所を揉まれて、んく、と喉が引き攣った。類のものと、オレのものと、最早どちらとも区別がつかない唾液が流れ込んでくる。口の端から垂れそうになるのも構わずに、類はオレの唇を貪り続けた。
「待、ふっ、ン」
 ――知らない。
 こんなキスは、知らない。こんな、呼吸さえも奪うようなキス。知るはずもない。そう思うのに。くそ、大変悔しいが――気持ちいいのだ。
 酸欠でくらくらする。視界が涙でぼんやりと滲む。お前、オレと同じ生活をしてるのに、一体どこでこんなキスを覚えてくるんだ。終わったら覚えていろ、と内心で悪態をつく。こんな無体を強いられて、文句のひとつでも言ってやらないと気が済まない。
 ただ。類の体に包まれて、肺いっぱいに類のにおいを吸い込んで、全身で今、類を感じている。その事実に不思議と安堵してしまっている自分がいる。
 ここが、この場所が――オレの居場所であるような気がして。
「はっ、はぁ、……は、む、んうう」
 ずる、ずると。壁伝いにへたりこんだオレに覆いかぶさって、類はまた唇を塞いだ。
 たべられる。
 そう表現するのが、正しいように思える。
 終始されるがままだったオレの舌がようやく解放されて、咥内からずるりと類の舌が出ていく。ずっと口を開けていたから開けたままにするのが癖になっていて、口の中に残った唾液を飲み込むのに苦労した。
 ぺろりと。類も唇を舐める。その様子は先ほどよりも幾分か余裕を取り戻しているように見えた。
……キス、下手だね」
「あ、たりまえだ……っ! なんだ! 何か文句あるのか!」
「いいや、ないよ。ちっともさ」
 類の指がオレの耳たぶに触れる。指の腹で輪郭をなぞるように、上から下へ、下から上へ。その手つきがまたいやらしくて、オレはふるふると情けなく体を震わせた。
「君は僕とのキスだけ知っていればいい。そしてそのまま――僕のことしか考えられなくなってくれたら最高だ」
……随分と熱烈だな……
「どうしてだと思う? 司くん」
 もしかして、類に恋愛ものの脚本を書かせたらものすごいものが生まれるんじゃないだろうか。
 そんなことを考えるほどに、この男の口から甘い言葉がほろりほろりと零れ落ちていく。それを耳で拾う度、オレの心臓は不自然に跳ねて、発熱し、発汗する。
「真っさらな君を僕の色で染め上げる、そんな夢想ばかりしてるんだ」
……っ」
「フフ……いま、びくってしたね。驚いたのかい、それとも……、感じた?」
 ふ、と息が耳の奥へ吹きかけられて、ぞくりと全身がわなないた。
 思わず拳を握りしめる。類が、何を考えているのかわからない。帰りが遅くなって心配かけたのは申し訳ないと思うが――オレだって大変だったんだぞ。
 怒っているのか。オレが……女性と遅くまで一緒にいたから、か?
 類がオレに向ける恋心を、オレは、たぶん、正しく理解していない。
……。風呂で頭を冷やしてくる」
「そうかい。まあ……行動パターンとしては及第点だ。お風呂、沸かしてあるからちゃんと肩までつかるんだよ」
「わかってる!」
 お前はオレのお母さんか!
 ぐるりと踵を返して、上ってきたばかりの階段をずんずんと下りていく。再び洗面所の扉をぴしゃっ! と閉めたところで、気が抜けたのかオレはその場にずるずるとしゃがみこんでしまった。
 まだ、熱が残っている。散々暴れられた感触が口の中に残っているのだ。あまりにも鮮明に思い出せてしまう。
……なんなんだ……
 溢れた戸惑いの声は、当然、類には届かない。じわりと目頭が熱くなる。
 とにもかくにも今はすぐに、この茹だった頭を冷やしたかった。


★》
「はあ……
 司くんの後ろ姿を見送った後、僕は口元に手を当て、静かに息を吐き出した。
 やってしまった。司くんと両想いになれるまでは、触れるだけのキスで我慢しようと思っていたのに――どうしても、欲が勝ってしまった。
 彼の体から知らないにおいがするのが嫌だった。まるで動物のマウンティングだ。何がなんでも今すぐ彼につき纏う香りを上書きしたくて――いいや。たぶん、違うな。
 両想いでなくとも、司くんには特別視されたくて。
 今後また異性や、あるいは同性から好意を向けられたときに僕を思い出せるように、司くんの脳裏の片隅に僕の姿を刻み付けたかった。
……頭を冷やすべきなのは僕の方だね」
 余程慌てていたんだろう。浴室に行ったのに着替えを忘れてしまっている。
 僕は静かに司くんの部屋から彼が愛用している部屋着と下着を取り出して、シャワーの音のする風呂場の前に置いた。ささやかな罪滅ぼしだ。
 あと、タオル一枚で家の中をうろうろされるのは避けたかった。彼ならやりかねない。されたことは今のところないけれど。
 自室に戻って、息をつく。窓を開けるとひやりとした空気が肌を撫ぜた。バルコニーに出て、手摺りに肘をつきながらぼうっと空を見上げる。
 脳裏に浮かぶのは、宵の時分に見たあの光景。大学の友人と思しき男女と親し気に笑う司くんの姿。
 ――本当に嫌なことはきちんと断れるはず。
 あのとき瑞希にはそう言ったけど。
「そう思いたいだけだ、……俺が」
 そうでなければ、悲しくなってしまう。舌を入れるようなキスをしても、司くんは僕を突き放したりはしなかった。いくら酸欠で力が抜けていたとしても、いくらでも自衛のしようはあったはずだ。
 なんて、都合のいい言い訳だろうか、それすらも。
「はあ……本当に、彼のことになると余裕がなくなってしまうね。……かっこわるいことこの上ない」
 こんなにも好きなのに。どうすればこの気持ちが彼に伝わるのか、皆目見当もつかないんだ。
 風が吹いて、僕の髪を靡かせる。
 最近少し、毛先が伸びた。夏に向けてそろそろ切ろうと思っているけれど、時折……自分の髪から、司くんと同じシャンプーの香りが漂うのがうれしくて、すっかり予定を先延ばしにしてしまっている。
 ショーばかりだった僕の世界は、いつの間にか司くんを中心にまわっていた。
 司くんが欲しかった。欲しくてたまらなかった。人間はかくも欲深くて浅ましい。まるで傀儡の滑稽なダンスのようだね、と自嘲する。何もかも思い通りにいかないのだ、全部、司くんに恋をしてから。
 あの日、司くんの力強い瞳に落とされてしまってから。
 ――どれほど夜風に当たっていただろうか。こんこん、と不意にドアをノックする音が背後から聞こえてきて、僕は耳をそばだてた。
……類、寝てしまったか?」
「起きてるよ」
……
……? 入っていいよ、司くん」
……失礼する」
 少しの間があって、控えめにドアが開かれる。バルコニーで風に当たったまま振り返ると、まだ髪を湿らせたままの司くんがどこか思いつめた表情で顔を覗かせた。
「遠慮するなんて君らしくないね」
「さっきの今で、お前のテリトリーに踏み込む図太さはないぞ」
「ああ、なるほど。……なら君は本当に、責任感が強いねぇ」
 フフ、と笑みを零す。
 司くんの髪の毛先から水滴が落ちる。まったく、人にはちゃんと髪を乾かせと言うのに。なんて、彼を責めるつもりはない。
 彼はいつも自身のケアは万全に行っている。万が一にも体調を崩さないように、最大限の努力を常に怠らない。髪だって毎晩しっかり乾かしているのを僕は知っていた。
 そんな彼が、濡らしたままここに来るということは、それほど急いでいたということで。
「どういう意味だ?」
「僕の様子がおかしいのを気に掛けてくれたんだろう?」
 実に司くんらしいじゃないか。
 彼はいつだって兄であり、先輩であり、座長の顔を忘れない。先陣きって誰かを導く、人の前に立つべき男だ。時に人の心に寄り添い、どこまでも相手に尽くすことができる、そんな男だ。
 司くんは答えず、ふい、と視線を逸らして、静かに一歩、僕の部屋に足を踏み入れた。
「相変わらず散らかっているな」
……
 一歩ずつ司くんが僕に近づいてくるのを、ただじっと見つめる。いっそ糾弾し、断罪でもしてくれればいいものを、酷なことに、彼は絶対にそうしないであろうことがわかってしまう。
 バルコニーにつま先を下ろした司くんがようやく顔を上げる。凪いだ、真剣な表情だった。
……類が、オレに向ける好意が……欲をはらむものだと、理解しているぞ」
「うん」
「オレなりに考えた。先程はきっとお前に不快な思いをさせてしまったのだと」
「わざわざ弁明に来たのかい?」
 そうだ、と司くんは頷いた。
「付き合ってもいないのに?」
「オレはお前には誠実でありたいんだ。まだ明確な答えは出せないが……少なくとも、お前はオレにとって特別だ」
……
「誓って言うが、お前への返答を先延ばしにして、他の女性にうつつを抜かすような真似はしない。……こればかりは信じてほしいと言う他ないがな!」
「信じるよ」
 あっさり頷いた僕に、司くんは瞬いて。ぱっと瞳を輝かせた。
 その目に浮かぶ喜色に僕は内心困ってしまう。そんな顔をするくせに。僕のことが特別だって、言うくせに。キスも、許してくれるのに。心は僕にくれないのだ。
 とんだ生殺しじゃないか。
 それでも僕は、諦めきれない。いつか司くんの心が僕に傾ききるまで、静かに、苛烈に、足掻き続けるのだろう。仕方がない。だってこんな、太陽みたいな人を好きになってしまったのだから。
 蝋で出来た羽を溶かされて地に堕とされても、無様に手を伸ばしてしまう。欲しいと思ってしまう。司くんのいない人生を、僕はもう考えられない。
「好きだよ、司くん」
「はは。……そろそろ耳にたこができそうだ」
「それはいい」
 こつ、と額を合わせる。司くんはそっと視線を落として、すり、と鼻先を寄せた。
 誘われるまま、唇に触れて。そっと離れる。星を閉じ込めた瞳が、不思議そうに僕を見上げた。
「謝らなきゃいけないのは僕の方なのに」
……?」
「こっちの話さ。今日のところは、君の顔を立てようじゃないか」
 湿った髪を梳く。夏が近づいているとはいえ、深夜は肌寒い。寝る前の薄着で夜風に当たり続けるのもよくないと、僕は司くんの肩をそっと押した。
「湯冷めするよ。それにもう夜が明けてしまう。そろそろ休んだ方がいいんじゃないかな」
「む、だが、まだ話は――
「また明日聞くよ。おやすみ、司くん。よい夢を」
 一方的に言葉を切れば、司くんは物言いたげにしながら――ハムスターのように頬を膨らませながら――つん、とそっぽを向いた。
……おやすみっ」
 足早に立ち去る司くんの後ろ姿を見て頬が緩む。そんなかわいい顔をして。ときどき僕は、君がわざと僕を誑かしているんじゃないかとすら思うよ。
 カラカラと窓を閉める。鍵を掛けてカーテンを閉める途中で、ふと明るみ始めた空を見上げた。
……あ、ブルーモーメント」
 夜がひとり静かに溶けていく。それは粛然としたありふれた死だった。


☆》
 七月になった。
 大学最寄りの劇場、観劇ホール。その控室で、オレは鏡を見つめながら自らメイクを直していた。
 本来ならイベントスタッフにメイクアーティストがいるのだが、今回は他の大学の演劇サークルメンバーも大勢集まっている大規模なイベントだ。
 今も控室の中はてんやわんやで、少しのメイク直しのために少ない人手を煩わせるのは憚れたし、幸いオレは……というかワンダーランズ×ショウタイムの面々はそれぞれ自分でメイクができる。それならば自分でやった方が早い。
 それにしても、公演日まで本当にあっという間だった。
 合間合間に類と夏の公演の構想を練ったり、脚本の大筋を考えたりと『本業』の打ち合わせにも参加していたが、後半はほとんどこちらの手伝いに掛かり切りになってしまった。
 こういうとき、類とルームシェアを始めて正解だったなと思う。日常の、例えば食事をしているときや、就寝前のギリギリまで議論を交わせるのは実に都合がいい。
「この公演が終わったらワンダーランズ×ショウタイムの方に早いところ復帰せねば。えむのやつ、寂しいのかこのところ毎日連絡を寄越してくるし……フハハ、やはりあいつらはオレがいないと駄目だな!」
 寧々からは一切連絡がないけど。でもオレにはわかるぞ。たまに手が空いてワンダーステージに顔を出すと、えむも寧々も、類も。ほっとした顔をみせていたから。
 あいつらには随分と心配を掛けてしまった。座長として不甲斐なさもあるが、その分は夏のステージでしっかり挽回すればいい。そう思えば、この寄り道にも付加価値を感じられた。
――あ、ヤベ! 飲み物人数分足りひんかもしれへん」
「む? ならばオレが下の自販機で買ってこよう!」
 隣で差し入れの数を数えていた虎崎にそう声を掛けると、彼は人好きのする顔でぱっと表情を明るくさせた。
「ええんか?」
「ああ! この中じゃ代役のオレが一番手持ち無沙汰だからな」
「助かるわ~! おおきにな!」
 もう衣装に着替えてしまっているが、自販機に行って戻るくらい数分で済む。開演まで時間もあるし、早い話暇だったのでむしろちょうどいい。
 経費の入ったカードを片手に階段を下りていく。目当ての自販機はすぐに見つかって、オレは上機嫌でカードを翳した。
「しかし……恋にもいろいろあるな」
 がこんがこんと落ちていくお茶を拾い上げながらふと呟く。
 オレが演じる役はヒロインの恋敵という設定で衣装も女性のそれだが、生物学的な性別は男だ。なのでオレも歌は地声で歌っているし、劇中でそれを明かされるシーンもある。
 彼女自身は元からトランスジェンダーの自覚があったというわけではないようで、主人公に恋に落ちたことをきっかけに彼女の人生は変わった。そして彼女なりに努力して、性を自認し、この美しい容姿を手に入れたのだ。
 かの心を射止めることは叶わなかったが、恋を通して、彼女の心はひとつの成長を遂げる。彼女は物語の第二の主役ともいえよう。
 その強さは。
(ちょっとだけ、類に似てるかもしれない)
 春先に話したとき、あいつはずっとオレのことが好きだったかのような口ぶりだった。いつから、とは聞いていないが、少なくとも神山高校に在学している頃からその恋心を秘めていたのではないだろうか。
 ……すさまじい男だな、神代類は。
 あんなにも――愛情を含んだ眼差しを受けて、平気でいられた自分も大概だ。そこはまあ仕方ないと言わせてほしい。なんせオレはスターになる男なので、熱烈な視線を受けることはままある。モテる男のつらいところだ。
 あるいは。類自身でも、恋を認めたくなかったのだろうか。類にも少なからず葛藤があったに違いない。
 しかしだとすれば。これは恋だという決定打を、一体類はどこで感じたのだろう。
 類の告白を受けてから、オレなりにずっと考えてはいる。だが類を見ても、フィクションみたいにキラキラ輝いて見えたり、胸がときめいたりはしない。フィクションを参考にするのが間違いなのだろうか。それとも恋に正解はないのだろうか。
……まったくわからん。……だが!」
 理解したい。いや、理解してみせる。どうしてそう思うのか、それは自分でもわからないが。だが、類を蔑ろにはしたくないのだ、どうしても。
 ワガママ……だろうか。
 共通の趣味を持った初めての友人だからかもしれない。恋ではなく、執着や愛着のようなものなのかもしれない。それでもオレは、この感情と、それから類としっかり折り合いを付けたかった。
 たとえどう物語が転ぼうと、オレも類も納得してハッピーエンドだと頷ける、そんな結末を望んでいるのだから。
 ……がこん、と最後のお茶が落ちてくる。それに手を伸ばした、そのときだった。
――…………くん?」
 聞き慣れた声にぱっと顔を上げて、瞠目した。
「は……、な、なななっ、類⁉︎」
 金の瞳をまるくして、類が立っている。思わず声に出てしまい、はっとして口元を押さえた。今自分がどんな格好をしているのか、すっかり頭から抜け落ちてしまっていた。せめて声を出さなければ誤魔化せたかもしれないのに!
 というか。なんで類が劇場にいるんだ。類はおろか、ワンダーランズ×ショウタイムの誰にも公演の日取りは教えてない。だが、ああ、七月頭の大学生公演。演劇コンテスト。それだけでもかなり候補は絞られてきてしまうのではないか。
「その姿……
 類の視線が頭のてっぺんからつま先まで舐めるように上下する。
 たら、と背中に冷たい汗が流れ落ちた。嫌な予感がする。こんな心地は久しぶりだ。そう、例えば類が無茶苦茶な舞台装置を作って、その試行実験に無理やり付き合わされたときのような――
 ……血の気が引く音が聞こえた気がした。
 にこ、と類が微笑む。それはもう、面白い玩具を見つけたと言わんばかりに、目を爛と輝かせて。
「どういうことか説明してもらおうかな?」